日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

デジタルとフィルム

2006-02-28 21:59:16 | アラカルト
昨日のエントリーにコメントを下さったTOMOZOさん、ありがとうございました。
まだまだ心の整理はできませんが、元気に笑顔で仕事をすることが、母への何よりの供養だと思っています。

母の葬儀は、世間一般的に多いであろう葬儀社に、お願いをすることとなった。
派手な葬儀をするつもりは一切なかったのだが、葬儀社の言うがまま、その時になって「エ!」となる場面もあった。
ひとつが、「故人を偲ぶVTR」である。
そのVTR作成のために、バタバタしている最中、家中のアルバムを引っ張り出す騒ぎとなった。
元々写真嫌いだったため、写真そのものが極端に少ない。
それでも、写真を見ながら思い出話をしながらの作業となった。
写真を選び出しながら、長兄が「こんな写真は、今では無理だろうな~」とポツリといった。
その写真は、町内の敬老会で行ったハイキングのもの。
父の後ろを追うように歩く、母の姿だった。
なんとも微笑ましく、自然で50年余りの時間を一緒に過ごした老夫婦の姿。
おそらく、ご一緒した誰かが、両親に内緒で撮ったスナップ写真なのだろう。
カメラを意識することもなく、決めポーズもない歩く姿だ。

個人情報保護の観点などから「肖像権」ということが、盛んに言われるようになってきた。
その背景のひとつには、「写真を撮る」ということがとても、身近で簡単なコトへと変化したことも、関係あるのではないだろうか?
今では、修学旅行などに行っても、スナップ写真を撮ることができない、と聞く。
その為、撮る写真の多くは「決めポーズをとった」モノとなってしまうらしい。
デジタルカメラだけではなく、携帯電話でも写真が撮れる時代なのだから「肖像権」は、大切な問題ではある。
しかし、その瞬間でなくては撮ることができない人の表情までも、奪ってしまっているような気がしたのだ。

それだけではない。
フィルムであれば、現像をして見なくてはどのように撮影できたのか分からない。
出来上がった写真を見て、「上手く撮れた!」、「失敗作だ~」という思いをしながらも、シャッターを切った瞬間のことを思い出すことができるのではないだろうか?
デジタルカメラは、その場で失敗ショットを取り消すことができ、一定以上の写真が撮れる。
しかし、その手軽さゆえにシャッターを切る瞬間の「思い」が軽くなっていると言うことはないだろうか?
そして、デジタルで記録された映像は、総てプリントされることなく消去されることも多くあるような気がする。
「見るつもりで録画しておいた、テレビドラマを見ることがない」のと同じだ。

デジタルカメラは、写真をとても身近なモノにした。
でもフィルムには「その瞬間の思い出」という「記憶」が、一緒にプリントされている。
そんな気がしている。