先日、日経新聞のコラムCOMEMOを読んでいたら、「ごもっとも!」というコラムがあった。
拙ブログでも何度もリンクを貼らせていただいている、大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムだった。
COMEMO:なぜ企業の力がよわまっていくのか
池永さんが書かれている通り「市場の現場」を無視して、市場戦略(=マーケティング戦略)などたてられるはずもないのだが、何故か日本ではそれができてしまう。
出来てしまう背景にあるのは「データ」だ。
もう一つあるのは、過去の自信だろうか?
昭和から平成に変わろうとしている頃、日本はバブル経済の崩壊が静かに始まりつつあった。
そして本格的に平成という時代が活動をし始めた頃、崩壊しつつあったバブル経済が、ガラガラと音を立てて崩れていったのだ。
その後続く低迷期に起きたことの一つが「iPhone」の登場のような気がしている。
ご存じの方も多いと思うのだが、AppleのiPhoneが登場した時日本のメーカーの幹部たちは一応にして「このような技術は、当社も持っている」という趣旨の言葉だった。
問題は「社内にある技術」ではなく、社会の変化、生活者の意識の変化(=市場変化)をとらえることができずにいた、ということなのだ。
しかし、多くの日本のメーカーの幹部たちは、市場の変化などには目を向けることなく、技術的なことばかりに注目し、「当社でも作れる技術」と言ってしまったことなのだ。
そもそもマーケティングの一番の目的は何か?ということに対して、コトラー(だったと思う)などは明快に「社会や生活者の問題を見つけ、解決すること」と言っている。
社会や生活者の問題は、データに反映されているのか?と言えば、決してそうではない。
企業の多くが実施する調査の多くは「満足度」などを測る調査だ。
それは「顧客満足度を測る」という点では有効だと思うのだが、「顧客満足度を測る=顧客の不満点を見つける」という発想に、結びついていないのが現状なのではないだろうか?
何より、市場が動いている現場に行かずに、市場の動向が分かったつもりでつくられた戦略など、現実には戦略と言えるほどの内容は無いはずなのだ。
それが池永さんが書かれている、「実感を伴わない、迫力が無い戦略(=マーケティング戦略)」ということに、なるのではないだろうか?
もう一つ池永さんが指摘しているのが、「どこでも使える」マネージメントツールやフォーマットだ。
拙ブログでも何度も指摘させていただいているが、何故か日本の企業はマーケティングに「How to」を求めてくる。
「他社で成功した企画であれば、失敗するリスクは少ないだろう」そのためのノウハウの提供を期待しているのだ。
しかし、そのような過去の成功例を真似したところで、生活者には新しいワクワクや感動を与えることなどできない。
にもかかわらず、それを期待しコンサルティング会社などに要求してしまう。
コンサルティング会社にとって、これほどうまみのある仕事は無いだろう。
何といってもクライアントとなっている企業は、自ら「マーケティングとは何か?」ということを、考えることを止めてしまっているのだ。
COMEMOにも、「マーケティング」という言葉を数多く見ることができる。
もちろん、そのようなコラムも拝読させていただくのだが、耳障りの良い「〇〇マーケティング」と称しながら、マーケティングの本質とはなにか?ということを感じられないモノもある。
今だに「マーケティング」そのものが、「ビジネスの鵺」のような「正体不明」な印象を与えるのは、私たちマーケターの責任でもあるとは思うが、企業(起業)側もまた、「儲けるノウハウ=マーケティング」だという思い込みがあるように思えてならないのだ。