昨日起きた、京都アニメーションの放火事件。
時間を追うごとに、亡くなられた方が増えていくのをニュースで見ながら、何故これほどまでに凄惨な事件をおこしたのか?という、疑問が常にあった。
犯人の男は、「(自分の書いた)小説を盗まれた」と事件直後話していたようだが、果たして小説を書いていたのだろうか?という、疑問を感じている。
自分が書いた小説を、無許可で京都アニメーションが映像化した、ということだろうか?
小説というのは、作家本人のの手を離れ作品として文芸誌などに掲載されることで、初めて多くの人が読むコトができる。
最近は、ブログなどの形態でネット上に発表する人もいるが、いずれにしても何らかのカタチで、作家本人以外の人の眼に触れてこそ小説となるのでは?
自分の思いの中にあるだけでは、小説でも書き物でもない、ただの想像物だ。
想像物を、京都アニメーションにより作品化した、という論は「逆恨み」にもならない。
犯人の被害者妄想の果てに企てた、身勝手な犯罪だ。
この事件により、数多くのアニメーターさんが亡くなられてしまった。
映画やテレビなどで、アニメを見ない私にとって「京都アニメーション」という企業は、まったく知らなかった。
今回の事件で、日本国内のアニメファンだけではなく、世界各国のアニメファン、在日大使館までもが様々なSNSなどを通して弔意を表している。
それだけではなく、京都アニメーションを助けようとクラウドファンディングまで立ち上がった。
犯人の残虐非道な行為とは別に、京都アニメーションが世界に向け発表し続けてきた作品の素晴らしさを、世界が再評価したという印象すら受ける。
何より、京都アニメーションという企業の沿革が、いわゆる下請けからスタートし、今では元請けとして作品をつくっていたという点は、これからのアニメーション制作において、影響力のあるビジネスモデルとなっていたのでは?という気がしている。
逆に言えば、元請けとなったからこそ、多くの優秀なアニメーターを抱え、右に出る者はいないのでは?と言われるほどの質の高い作品をつくり続けることができたのではないだろうか?
これまでも、アニメーションの制作現場は、過酷で労働賃金が安いと言われてきた。
その理由の一つが、アニメーション制作の下請け、孫請けのような構造的な問題がある、という指摘だった。
そのような構造的問題を無くすことで、質の高い作品をつくり続けてくることができた、とすれば下請けや孫請けではないアニメーション業界全体が、一つの大きなチームとなった分担と協業による作品づくりを目指す必要があるのでは?と、思うのだ。
作品の評価のうちアニメーターさんたちの力が大きいとも考えらるので、アニメーターさんたちの経済的安定をまず目指す必要があると思うのだ。
これはアニメーションの世界だけに限ったコトではないと思うのだが、日本では長い間「現場の頑張り」を頼ってきた部分が大きいと感じている。
しかし、その「現場の頑張り」にも限度があり、疲弊した環境の中では成長することも実力を発揮することもできない。
「現場の頑張り」に対して、世界的評価にふさわしい職場環境と経済的安定を提供することこそが、日本のソフトパワーを維持する方法だと思う。
上述したように、京都アニメーションはその一つのモデルケースだったのでは?という気がしたのだ。
犯人に対しての怒りや憤りよりも、今はだたこの事件に巻き込まれ志半ばで命を失ってしまったアニメーターさん一人ひとり、重篤な状況が続いている方々に、祈りを捧げ復帰されることを願うばかりだ。