1年前の今日、安倍元総理が銃弾に倒れた。
この出来事は、様々な衝撃を社会に与えた。
一つは、銃が身近ではない日本において、「銃撃」によって命を落とされた、ということ。
もう一つは、動機が「母親が新興宗教にのめり込み、家族離散だけではなく経済的にも苦しい生活を強いられていたこと、などがあった。
特に、「政治と宗教」という問題が、この事件直後から問われるようになった。
ご存じの通り、個人における宗教の自由は憲法によって認められ、守られるようになっている。
だが、行き過ぎた宗教信仰によって、家族離散や経済的不利益を子どもに与える、ということは一種の「ネグレクト」である、というのが一般的な社会の認識なのだと思う。
にもかかわらず、宗教に心酔し自分で判断する力を失っている親の元で育つ子ども達というのは、親自身が「ネグレクトの加害者である」という意識は無く、子どももまた「ネグレクトを受けている被害者である」という認識はないのでは?という気がしている。
その後、「宗教二世」と呼ばれる若い人たちが「宗教に心酔した親によるネグレクト」を告発するようになり、安倍元首相の犯人の母親が信じている宗教以外にも、同じような「ネグレクト」を受けている人たちが数多くいる、ということを知るきっかけとなった。
「宗教による家族の問題」は、既に「宗教をめぐる社会の問題」へと発展している、ということでもある。
しかし、それよりも大きな問題となったのは「政治と宗教」だった。
日本では「政教分離」という考えが基本だ。
一番わかりやすい例を挙げると、昭和天皇が崩御され「大喪の礼」と呼ばれる葬儀が行われる際、一番問題となったのがこの「政教分離」の問題だった。
皇室が行う行事は、宗教的要素があるため国が行事として行うべきではない、ということになったのだ。
その為、皇室が行う行事は黒い幕を引くことで、「政教分離」の考えを表した、と言われている。
そこまで厳密な「政教分離」の考えの元で、昭和天皇の大喪の礼は行われたのだ。
にもかかわらず、政治団体と特定の宗教が結びついている政党は以前から問題視される方も多かったが、今回の事件のように時の政権の中心となっている与党にすり寄り、集票を約束するコトで、政治と結びついていた宗教があることが、明らかになったのだ。
そして、政治家側は「選挙目的」で宗教団体を利用していた、ということが分かってきた。
今のように「浮動票」と呼ばれる、特定の政治団体を支援しない人達が増え、投票率もダダ下がりの状況においては、「票読み」ができる支援団体の力が不可欠なのだ。
その「票読み」ができる、という理由で政治家自身が様々な宗教にすり寄っていた、ということが判明した、ということは、「何となくわかっていたけど、やはりな~」という感想と「政教分離の考えはどうしたのか?与党として恥ずかしくないのか?」という声にも、なっていった。
安倍元総理が亡くなられてから1年が経っても、これらの問題は全く解決するような気配はない。
何故なら、岸田総理にその気があるとは思えないからだ。
逆に岸田総理が行ったコトは、「国葬」を無理やり行うことで、安倍元総理の英雄化を図っただけのような気がしている。
岸田総理自身が、無理やり「国葬」を行った理由は、安倍元総理を英雄化するコトで、その後継者が自分であるというPRをしたかったのでは?と、感じている。
最近では、安倍元総理の実績を過大評価するような本の出版が、増えているような気がしている。
在位が長ければ、政治家として素晴らしいわけではない。
にもかかわらず、「最長在位の総理」として持ち上げる社会的雰囲気に、嫌なモノを感じているのは、私だけだろうか?
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