熱心な読者から、私が過去に「将棋ペン倶楽部」に投稿した作品を読みたい、との要望があった。こうした印刷物は本来転載禁止なのだろうが、ではバックナンバーが入手できるかというと、最近のものはともかく、数年前の発行物を入手することは、不可能に近い。
そこで今回は、湯川博士統括幹事の意向を無視して、2003年春号に掲載された拙稿「運命の端歩」を、3回に分けて掲載することにする。
「運命の端歩」は、「将棋ペン倶楽部」2回目の掲載作品。私が将棋エッセイ集を自費出版するとしたら、巻頭に掲載したいくらいの好きな作品である。本のタイトルにしてもいい。
改めて読み返してみると、文章は荒々しいが、いまは喪った若々しさが随所に見られ、とても懐かしい気持ちになった。本文は加筆・訂正を施したので、当時よりは読みやすくなっているはずである。では、どうぞ。
「運命の端歩」
あれは私が黒縁から銀縁のメガネに替えたころだから、中学2年の夏だったと思う。
当時ウチの近所のマンションに、10年ほど前に亡くなった祖父の、姉夫婦が住んでいた。当然ウチとの付き合いも深く、奥さんはよく、家に遊びに来ていた。
旦那さんは、かつて区議会の議長も務めたほどの人物で、近所ではちょっとばかり名の知られた存在だった。家にある名刺を見たことがあるが、たいそうな肩書がいくつも並び、圧倒されたことを憶えている。
おふたりとも80歳近い高齢だったがいたって元気で、生年月日がわずか2日違いのおふたりが、揃って100歳を迎えることを、私は信じて疑わなかった。
そしてこの旦那さん――おじさんが無類の将棋好きで、父をときどき自宅に招いては、将棋を指していた。
いっぽうの私はというと、駅前の将棋センターに通って腕を磨いてはいたが、300円という席料は中学生の身分では大きく、月に2度も顔を出せればいいほうだった。
むろん「将棋は文化」なので、父が一緒に行くときは私の席料も負担してくれたが、所詮これは遊びである。小遣いの少ない弟のことを考えると、私ばかりが優遇されるわけにもいかなかった。
父はおじさんとの将棋も続けていたが、帰宅すると父は決まって、おじさんのマナーが悪いとこぼした。曰く、立派な駒台があるにもかかわらず持ち駒を握る、平気で待ったを繰り返す、形勢が悪くなってくると暴言を吐く…など、聞くとたしかに、ホメられた言動ではなかった。
父はじっくり考えるタイプなので、早指しのおじさんは、いつもイライラしていたようだ。
「じゃあボクが代わってもいいよ」
父はあまり私と将棋を指したがらなかったので、おカネがかからず将棋を指せる手段を求めていた私は、ある日父にそう切り出した。
父は驚いたふうだったが、おじさんを持て余していた父には渡りに船の申し出だったらしく、私の希望は、簡単に受け容れられた。
ある日の日曜日、いつものように電話で呼び出された父は、私を伴い、おじさんのマンションに出向いた。
入室すると挨拶もそこそこに、父が私を後ろに控えて一局指し始める。
おじさんは、頭はすっかり禿げて、短い白髪がポツポツ生えている程度。腫れぼったい目をしていて唇が分厚く、頬がたっぷりとたるんでいた。耳が遠いこともあって声がやたら大きく、棋士のイメージでいうと、最晩年の角田三男八段、という感じだった。
使用している将棋盤は、六寸は優にあり木目も美しく、桐箱の裏には木村義雄十四世名人の揮毫がしたためてあった。駒台は四本脚で飴色の光沢を放っており、盤と合わせて、相当な名品であることが見てとれた。
もちろん駒のほうも銘の入った掘り駒で、そこら辺では買えない逸品だったのは、いうまでもない。
その将棋が終わると父が、
「実はせがれも将棋が好きでして、今後はせがれを鍛えてやってもらえませんか」
とおじさんに言った。
おじさんはびっくりしたふうだったが、まあおじさんとしては、将棋を指せれば相手は誰でもいいわけで、父の申し出は即、快諾された。
やがて父が御役御免と退室し、いよいよおじさんと私の勝負が始まった。
父の長考にケチをつけるだけあって、さすがにおじさんは早指しだった。もっとも早指しだったら、私も負けてはいない。私も数秒でポンポン指した。
「おめえはオヤジと違って早指しでいいや。おめえのォ、オヤジさんはァ、考える時間がァ、長くていけねえや」
将棋が終わると、おじさんが、べらんめえ調のカン高い声で言った。
この記念すべき第1局の勝敗は忘れたが、おじさんは思っていたより強い、と感じた記憶があるので、恐らく私が負けたのだろう。
早指し戦なので、もちろんまだまだ指す。勝ったほうの傍らにマッチ棒を置き、負けたほうは次局で先番に回る。マッチ棒の数イコール勝数というわけだ。
こうして私たちは、どんどん将棋を指していった。
おじさんの将棋は単純明快で、戦法は原始中飛車と原始棒銀、このふたつだけだった。
昭和41年に池田書店から発行された大山康晴名人著「将棋の受け方」には、これらの戦法の撃破指南が真っ先に書かれていたから、当時はこれらがよく指されていたのだろう。
しかしいまから20年前の昭和50年代では、すでにアマ棋客の戦法は洗練されており、このような奇襲戦法の使い手はいなかった。
ところがおじさんは、かくのごとくである。しかも原始中飛車か原始棒銀のどちらかならまだしも、両方得意にしている人がいることに、私は強い関心を持った。
さらにこの二大奇襲戦法、最初はナメてかかっていたのだが、意外に奥が深い。原始中飛車の撃退法は勉強済だったが、やはり実戦は生き物だ。銀交換後の△5七銀の打ち込みに、私はヒラリと▲6七金右とかわし、△6八銀成~△5七銀には▲5八歩と打ち、△6八銀成▲同玉と進めて、ここまでは本に書いてあるとおり、私が指し易くはなる。
ところがそこからおじさんの左桂がポンポン跳ねてきたり、端に角を覗かれたり、右銀が応援にきたりと、なかなかおじさんの攻めが振りほどけないのだ。
原始棒銀も然りで、私は四間飛車を愛用していたが、△8四銀から△7五歩の攻めが、分かっていても受けられなかった。
まあそれも当然で、当時の私は、「攻められた筋に飛車を回す」という基本的な受けを知らず、飛車をずうっと6筋に据えて戦っていたから、攻め潰されても仕方がなかった。
当時の私の棋力は、所詮その程度だったのである。
それに考えてみれば、いくら奇襲戦法とはいえ、おじさんも目立った悪手を指しているわけでもなく、そう簡単に優劣が決まるものでもなかったのだ。
そして私は、奇妙な感慨に捉われてもいた。
将棋は子供からお年寄りまで、ハンデなしで戦いができる稀有な競技である。おじさんも、戦前から将棋を指していたはずだ。
そしてその将棋もいまのように、居玉のまま中飛車や棒銀で、バンバン攻める将棋だったに違いない。
その将棋が半世紀の時を越え、60歳以上も年下の私を相手に、再現されている――。
まるでおじさんがタイムマシンに乗って、現代にやって来た感覚に陥り、私は何か、不思議な気持ちになった。
結局この日は夕方まで20局近く戦って、私の4割程度の勝率だったと記憶する。当時父の棋力が1級か初段、私がそれよりやや強い程度だったから、おじさんの棋力も、初段は十分にあったことになる。
だが私は、お年寄り相手なら勝ち越しぐらいは当然と考えていたから、この成績は正直言って不満だった。でも、とても楽しい時間を過ごすことができた。
帰り際、
「おめえはなかなか強えや。初段、初段の力はあるな」
と、おじさんが言った。「来週もまたやろう――」
ともあれ私はこの日、おじさんの新しい対局相手に、合格したようであった。
(つづく)
そこで今回は、湯川博士統括幹事の意向を無視して、2003年春号に掲載された拙稿「運命の端歩」を、3回に分けて掲載することにする。
「運命の端歩」は、「将棋ペン倶楽部」2回目の掲載作品。私が将棋エッセイ集を自費出版するとしたら、巻頭に掲載したいくらいの好きな作品である。本のタイトルにしてもいい。
改めて読み返してみると、文章は荒々しいが、いまは喪った若々しさが随所に見られ、とても懐かしい気持ちになった。本文は加筆・訂正を施したので、当時よりは読みやすくなっているはずである。では、どうぞ。
「運命の端歩」
あれは私が黒縁から銀縁のメガネに替えたころだから、中学2年の夏だったと思う。
当時ウチの近所のマンションに、10年ほど前に亡くなった祖父の、姉夫婦が住んでいた。当然ウチとの付き合いも深く、奥さんはよく、家に遊びに来ていた。
旦那さんは、かつて区議会の議長も務めたほどの人物で、近所ではちょっとばかり名の知られた存在だった。家にある名刺を見たことがあるが、たいそうな肩書がいくつも並び、圧倒されたことを憶えている。
おふたりとも80歳近い高齢だったがいたって元気で、生年月日がわずか2日違いのおふたりが、揃って100歳を迎えることを、私は信じて疑わなかった。
そしてこの旦那さん――おじさんが無類の将棋好きで、父をときどき自宅に招いては、将棋を指していた。
いっぽうの私はというと、駅前の将棋センターに通って腕を磨いてはいたが、300円という席料は中学生の身分では大きく、月に2度も顔を出せればいいほうだった。
むろん「将棋は文化」なので、父が一緒に行くときは私の席料も負担してくれたが、所詮これは遊びである。小遣いの少ない弟のことを考えると、私ばかりが優遇されるわけにもいかなかった。
父はおじさんとの将棋も続けていたが、帰宅すると父は決まって、おじさんのマナーが悪いとこぼした。曰く、立派な駒台があるにもかかわらず持ち駒を握る、平気で待ったを繰り返す、形勢が悪くなってくると暴言を吐く…など、聞くとたしかに、ホメられた言動ではなかった。
父はじっくり考えるタイプなので、早指しのおじさんは、いつもイライラしていたようだ。
「じゃあボクが代わってもいいよ」
父はあまり私と将棋を指したがらなかったので、おカネがかからず将棋を指せる手段を求めていた私は、ある日父にそう切り出した。
父は驚いたふうだったが、おじさんを持て余していた父には渡りに船の申し出だったらしく、私の希望は、簡単に受け容れられた。
ある日の日曜日、いつものように電話で呼び出された父は、私を伴い、おじさんのマンションに出向いた。
入室すると挨拶もそこそこに、父が私を後ろに控えて一局指し始める。
おじさんは、頭はすっかり禿げて、短い白髪がポツポツ生えている程度。腫れぼったい目をしていて唇が分厚く、頬がたっぷりとたるんでいた。耳が遠いこともあって声がやたら大きく、棋士のイメージでいうと、最晩年の角田三男八段、という感じだった。
使用している将棋盤は、六寸は優にあり木目も美しく、桐箱の裏には木村義雄十四世名人の揮毫がしたためてあった。駒台は四本脚で飴色の光沢を放っており、盤と合わせて、相当な名品であることが見てとれた。
もちろん駒のほうも銘の入った掘り駒で、そこら辺では買えない逸品だったのは、いうまでもない。
その将棋が終わると父が、
「実はせがれも将棋が好きでして、今後はせがれを鍛えてやってもらえませんか」
とおじさんに言った。
おじさんはびっくりしたふうだったが、まあおじさんとしては、将棋を指せれば相手は誰でもいいわけで、父の申し出は即、快諾された。
やがて父が御役御免と退室し、いよいよおじさんと私の勝負が始まった。
父の長考にケチをつけるだけあって、さすがにおじさんは早指しだった。もっとも早指しだったら、私も負けてはいない。私も数秒でポンポン指した。
「おめえはオヤジと違って早指しでいいや。おめえのォ、オヤジさんはァ、考える時間がァ、長くていけねえや」
将棋が終わると、おじさんが、べらんめえ調のカン高い声で言った。
この記念すべき第1局の勝敗は忘れたが、おじさんは思っていたより強い、と感じた記憶があるので、恐らく私が負けたのだろう。
早指し戦なので、もちろんまだまだ指す。勝ったほうの傍らにマッチ棒を置き、負けたほうは次局で先番に回る。マッチ棒の数イコール勝数というわけだ。
こうして私たちは、どんどん将棋を指していった。
おじさんの将棋は単純明快で、戦法は原始中飛車と原始棒銀、このふたつだけだった。
昭和41年に池田書店から発行された大山康晴名人著「将棋の受け方」には、これらの戦法の撃破指南が真っ先に書かれていたから、当時はこれらがよく指されていたのだろう。
しかしいまから20年前の昭和50年代では、すでにアマ棋客の戦法は洗練されており、このような奇襲戦法の使い手はいなかった。
ところがおじさんは、かくのごとくである。しかも原始中飛車か原始棒銀のどちらかならまだしも、両方得意にしている人がいることに、私は強い関心を持った。
さらにこの二大奇襲戦法、最初はナメてかかっていたのだが、意外に奥が深い。原始中飛車の撃退法は勉強済だったが、やはり実戦は生き物だ。銀交換後の△5七銀の打ち込みに、私はヒラリと▲6七金右とかわし、△6八銀成~△5七銀には▲5八歩と打ち、△6八銀成▲同玉と進めて、ここまでは本に書いてあるとおり、私が指し易くはなる。
ところがそこからおじさんの左桂がポンポン跳ねてきたり、端に角を覗かれたり、右銀が応援にきたりと、なかなかおじさんの攻めが振りほどけないのだ。
原始棒銀も然りで、私は四間飛車を愛用していたが、△8四銀から△7五歩の攻めが、分かっていても受けられなかった。
まあそれも当然で、当時の私は、「攻められた筋に飛車を回す」という基本的な受けを知らず、飛車をずうっと6筋に据えて戦っていたから、攻め潰されても仕方がなかった。
当時の私の棋力は、所詮その程度だったのである。
それに考えてみれば、いくら奇襲戦法とはいえ、おじさんも目立った悪手を指しているわけでもなく、そう簡単に優劣が決まるものでもなかったのだ。
そして私は、奇妙な感慨に捉われてもいた。
将棋は子供からお年寄りまで、ハンデなしで戦いができる稀有な競技である。おじさんも、戦前から将棋を指していたはずだ。
そしてその将棋もいまのように、居玉のまま中飛車や棒銀で、バンバン攻める将棋だったに違いない。
その将棋が半世紀の時を越え、60歳以上も年下の私を相手に、再現されている――。
まるでおじさんがタイムマシンに乗って、現代にやって来た感覚に陥り、私は何か、不思議な気持ちになった。
結局この日は夕方まで20局近く戦って、私の4割程度の勝率だったと記憶する。当時父の棋力が1級か初段、私がそれよりやや強い程度だったから、おじさんの棋力も、初段は十分にあったことになる。
だが私は、お年寄り相手なら勝ち越しぐらいは当然と考えていたから、この成績は正直言って不満だった。でも、とても楽しい時間を過ごすことができた。
帰り際、
「おめえはなかなか強えや。初段、初段の力はあるな」
と、おじさんが言った。「来週もまたやろう――」
ともあれ私はこの日、おじさんの新しい対局相手に、合格したようであった。
(つづく)