約束どおり、次の日曜日、私はおじさんに呼ばれた。言うまでもないが、NHK杯将棋トーナメント戦を観たあとのお誘いである。
前回はしくじったが、今回は私も負け越すわけにはいかない。私も弱いなりに考え、棒銀のほうは比較的早く、対処法を見出していた。
△8四銀から△7五歩▲同歩△同銀▲7六歩に、△8六歩から8筋を破られてしまうわけで、それなら予め8筋に備えておけばいい。
そこで私は、四間飛車から向かい飛車に作戦を変更した。これなら前述の△8六歩にも、堂々と▲同歩と取れる。繰り返すが、△7五歩に▲7八飛と回る指し方を習得するのは、後のことになる。
素朴な▲8八飛作戦に窮したおじさんだったが、今度は△9五歩から攻めてきた。しかしそれはこちらの思うツボで、私は堂々と▲同歩と取る。以下△同香▲同香△同銀に、私は澄ました顔で▲同角と取ってしまう。と、おじさんが慌てて待ったをしたのが可笑しかった。
父が嫌悪していた「待った」が出たわけだが、私はそれほど憤りを感じなかった。待ったが終盤の一手違いという局面ならともかく、大抵が単純な見落としだったし、仮に終盤だったとしても、おじさんが待ったをしたときにはすでに筋に入っていて、1手や2手のプレイバックでは、到底形勢を覆すことはできなかったからだ。
むしろおじさんの待ったが出ると、一本取ったようで愉快だった。
ついでに書けば、おじさんが常に持駒を握っている件も、盤面と自分の持駒を見れば必然的におじさんの持駒も分かるわけで、とくに不便は感じなかった。
さらに言葉遣いのひどさも、おじさんのべらんめえ口調がしわがれ声で増幅されて下品に聞こえるだけで、これも痛痒を感じなかった。
この日は指し分けの程度の成績だったと記憶する。
こうして日曜日の午後になると、おじさんに将棋を呼ばれる生活が定着した。
昼過ぎから夕方まで、将棋、将棋、将棋。お互い早指しだから、何局も指す。感想戦も一切しないので、負けを悔しがる暇もなく、すぐに次の対局を始めるという按配である。それを奥さんが黙って見ている、という構図だった。まったく時間が経つのを忘れるほどで、そのくらいおじさんとの将棋は、楽しかった。
とはいえ日曜日になっても、こちらからは畏れ多くて将棋のお願いはできないので、おじさんからの電話を待つばかり。しかしおじさんだって毎週自宅に居るわけではないから、私も待ちぼうけを食わされるときがある。
だが私が不在のときに、もしおじさんからお誘いの電話が来たらと考えると、外出することもできなかった。いまやおじさんとの将棋が、生活の柱になっていたのだった。
ところでこの頃、私の棋力は上がったのか。
先が見えているお年寄りと、伸び盛りの中学生では、同じ将棋を指していても、吸収する力が違う。
若き日の大山十五世名人が、升田幸三実力制第四代名人の強烈な攻めを受け続け、受けの力を蓄積していったように、私もおじさんの攻めを受けることで、いつしか手厚い将棋を体得していった。
手こずっていた原始中飛車にも、定跡の受けには誘導せず、金銀を手厚く盛り上げ、おじさんの攻めをいなした。
おじさんは指し間違いが多いのが玉に瑕だったが、実戦で鍛えた賜物か、終盤は妙な力があり、一通りの寄せ形は体が覚えている感があった。ただ攻め将棋だけに、逆に攻められると案外受けが脆かった。高齢からか読み抜けも多く、また私のほうも終盤には自信があったので、序中盤で劣勢でも、最終盤で私がうっちゃる、という展開が多かった。逆襲喰らっちゃった逆襲喰らっちゃった、が、おじさんの常套句になっていた。
棒銀の△7五歩には、飛車で7筋を受けるということも学習したので、それなら最初から7筋に飛車を振ればいいと、三間飛車や石田流も採用してみた。
そうしたらこれが図に当たって、連投したら14連勝したこともあった。私の棋力と勝率は、確実に上向きを続けていたのである。
ある日の対局のことだった。私の▲7六歩、おじさんの△3四歩に、私がうっかり▲7八銀と上がってしまい、△8八角成と角をタダで取られたことがあった。
一言「角がタダだ」と言ってくれればいいのに、おじさんはそんな甘いことは言わない。何で勝っても勝ちは勝ち。貴重な1勝として、マッチ棒を獲得できるからだ。
よしそれなら、と私も指し継ぐ。
ところが将棋というものは恐ろしい。このどうしようもない将棋が、おじさんの楽観と私の猛追で、何と私が勝ってしまったのである。
「信じられん…」
投了後、おじさんが呆然とつぶやいた。
そしてこの一局が、どうやらターニングポイントとなったようである。
この次の日曜日におじさんと指し、はじめの数局を私が全勝したときのことだった。
「おめえ、ためしに角を落としてみるか」
と、おじさんが提案してきたのだ。「あまりこう負けが込んできちゃ、指してても面白くねえや」
プライドの高いおじさんには屈辱の言葉だったに違いないが、意地を張って中学生の若造に負け続けることは、それ以上に屈辱的なことだったのだ。
むろん私に拒否する理由はない。こうして、おじさんとの初対局のときには夢にも思わなかった、私の駒落ちが実現したのだった。
平手から角落ちの手合いはハンデが大きそうに思えたが、指してみると意外にいい勝負になった。おじさんが棒銀で来ても、目標となる角がいないので、攻めが空振りに終わるのだ。
また、地位が人を作るというが、上手を持つと将棋が強くなった気がして、ゆったりと局面を見ることができた。中原誠名人になった気分で手つきを真似したりすると、不思議といい手が浮かぶのだった。
そしてこの後おじさんと将棋を指すときは、はじめの数局を平手、以後は私が角を引くというスタイルが定着したのだった。
早いもので、おじさんとの初対局から、1年余りが経過した。対戦成績は、私が角を引いても、勝ち越しをキープしていた。
ところがこの時期、ある問題が静かに進行していた。このとき私は中学3年生。当然高校受験を控えていたが、日曜になるたび私が将棋を指しに行くので、母がヤキモキし始めたのだ。そろそろ受験勉強に専念しなさい、というわけである。
だが私は学校の成績は悪くなかったし、平日には学習塾にも通っていた。日曜日ぐらいは羽を伸ばしたかったのだ。本当は休みの日こそ受験勉強をしなければならないのだが、私の考えは当時から、ちょっと異質なところがあった。
とはいうものの、親の意向には逆らえない。そこで両親との話し合いをした結果、私が高校に合格するまで、おじさんとの将棋は中断することにした。後日父がその旨をおじさんに告げに行くと、おじさんも了解してくれたようである。
これはコトが丸く収まってよかったが、私が受験勉強に励んでいる間、おじさんに新たな好敵手ができて、私がお払い箱になったらどうしよう――。そんなことを、当時は本気で心配した。
翌年春、私は運よく志望校に合格した。この間は父が代理で将棋を指しに行ったこともあったが、おじさんには幸い新たな好敵手も定着しなかったようで、私は晴れて再び、おじさんと将棋を指せる運びとなった。
ところが…。
そんな矢先の、ある日曜日のことだった。例によっておじさんに電話で呼ばれ、私はマンションに出掛けた。この日が結果的に、マンションを訪れる最後の日になろうとは、このときは夢にも思わなかった。
(つづく)
前回はしくじったが、今回は私も負け越すわけにはいかない。私も弱いなりに考え、棒銀のほうは比較的早く、対処法を見出していた。
△8四銀から△7五歩▲同歩△同銀▲7六歩に、△8六歩から8筋を破られてしまうわけで、それなら予め8筋に備えておけばいい。
そこで私は、四間飛車から向かい飛車に作戦を変更した。これなら前述の△8六歩にも、堂々と▲同歩と取れる。繰り返すが、△7五歩に▲7八飛と回る指し方を習得するのは、後のことになる。
素朴な▲8八飛作戦に窮したおじさんだったが、今度は△9五歩から攻めてきた。しかしそれはこちらの思うツボで、私は堂々と▲同歩と取る。以下△同香▲同香△同銀に、私は澄ました顔で▲同角と取ってしまう。と、おじさんが慌てて待ったをしたのが可笑しかった。
父が嫌悪していた「待った」が出たわけだが、私はそれほど憤りを感じなかった。待ったが終盤の一手違いという局面ならともかく、大抵が単純な見落としだったし、仮に終盤だったとしても、おじさんが待ったをしたときにはすでに筋に入っていて、1手や2手のプレイバックでは、到底形勢を覆すことはできなかったからだ。
むしろおじさんの待ったが出ると、一本取ったようで愉快だった。
ついでに書けば、おじさんが常に持駒を握っている件も、盤面と自分の持駒を見れば必然的におじさんの持駒も分かるわけで、とくに不便は感じなかった。
さらに言葉遣いのひどさも、おじさんのべらんめえ口調がしわがれ声で増幅されて下品に聞こえるだけで、これも痛痒を感じなかった。
この日は指し分けの程度の成績だったと記憶する。
こうして日曜日の午後になると、おじさんに将棋を呼ばれる生活が定着した。
昼過ぎから夕方まで、将棋、将棋、将棋。お互い早指しだから、何局も指す。感想戦も一切しないので、負けを悔しがる暇もなく、すぐに次の対局を始めるという按配である。それを奥さんが黙って見ている、という構図だった。まったく時間が経つのを忘れるほどで、そのくらいおじさんとの将棋は、楽しかった。
とはいえ日曜日になっても、こちらからは畏れ多くて将棋のお願いはできないので、おじさんからの電話を待つばかり。しかしおじさんだって毎週自宅に居るわけではないから、私も待ちぼうけを食わされるときがある。
だが私が不在のときに、もしおじさんからお誘いの電話が来たらと考えると、外出することもできなかった。いまやおじさんとの将棋が、生活の柱になっていたのだった。
ところでこの頃、私の棋力は上がったのか。
先が見えているお年寄りと、伸び盛りの中学生では、同じ将棋を指していても、吸収する力が違う。
若き日の大山十五世名人が、升田幸三実力制第四代名人の強烈な攻めを受け続け、受けの力を蓄積していったように、私もおじさんの攻めを受けることで、いつしか手厚い将棋を体得していった。
手こずっていた原始中飛車にも、定跡の受けには誘導せず、金銀を手厚く盛り上げ、おじさんの攻めをいなした。
おじさんは指し間違いが多いのが玉に瑕だったが、実戦で鍛えた賜物か、終盤は妙な力があり、一通りの寄せ形は体が覚えている感があった。ただ攻め将棋だけに、逆に攻められると案外受けが脆かった。高齢からか読み抜けも多く、また私のほうも終盤には自信があったので、序中盤で劣勢でも、最終盤で私がうっちゃる、という展開が多かった。逆襲喰らっちゃった逆襲喰らっちゃった、が、おじさんの常套句になっていた。
棒銀の△7五歩には、飛車で7筋を受けるということも学習したので、それなら最初から7筋に飛車を振ればいいと、三間飛車や石田流も採用してみた。
そうしたらこれが図に当たって、連投したら14連勝したこともあった。私の棋力と勝率は、確実に上向きを続けていたのである。
ある日の対局のことだった。私の▲7六歩、おじさんの△3四歩に、私がうっかり▲7八銀と上がってしまい、△8八角成と角をタダで取られたことがあった。
一言「角がタダだ」と言ってくれればいいのに、おじさんはそんな甘いことは言わない。何で勝っても勝ちは勝ち。貴重な1勝として、マッチ棒を獲得できるからだ。
よしそれなら、と私も指し継ぐ。
ところが将棋というものは恐ろしい。このどうしようもない将棋が、おじさんの楽観と私の猛追で、何と私が勝ってしまったのである。
「信じられん…」
投了後、おじさんが呆然とつぶやいた。
そしてこの一局が、どうやらターニングポイントとなったようである。
この次の日曜日におじさんと指し、はじめの数局を私が全勝したときのことだった。
「おめえ、ためしに角を落としてみるか」
と、おじさんが提案してきたのだ。「あまりこう負けが込んできちゃ、指してても面白くねえや」
プライドの高いおじさんには屈辱の言葉だったに違いないが、意地を張って中学生の若造に負け続けることは、それ以上に屈辱的なことだったのだ。
むろん私に拒否する理由はない。こうして、おじさんとの初対局のときには夢にも思わなかった、私の駒落ちが実現したのだった。
平手から角落ちの手合いはハンデが大きそうに思えたが、指してみると意外にいい勝負になった。おじさんが棒銀で来ても、目標となる角がいないので、攻めが空振りに終わるのだ。
また、地位が人を作るというが、上手を持つと将棋が強くなった気がして、ゆったりと局面を見ることができた。中原誠名人になった気分で手つきを真似したりすると、不思議といい手が浮かぶのだった。
そしてこの後おじさんと将棋を指すときは、はじめの数局を平手、以後は私が角を引くというスタイルが定着したのだった。
早いもので、おじさんとの初対局から、1年余りが経過した。対戦成績は、私が角を引いても、勝ち越しをキープしていた。
ところがこの時期、ある問題が静かに進行していた。このとき私は中学3年生。当然高校受験を控えていたが、日曜になるたび私が将棋を指しに行くので、母がヤキモキし始めたのだ。そろそろ受験勉強に専念しなさい、というわけである。
だが私は学校の成績は悪くなかったし、平日には学習塾にも通っていた。日曜日ぐらいは羽を伸ばしたかったのだ。本当は休みの日こそ受験勉強をしなければならないのだが、私の考えは当時から、ちょっと異質なところがあった。
とはいうものの、親の意向には逆らえない。そこで両親との話し合いをした結果、私が高校に合格するまで、おじさんとの将棋は中断することにした。後日父がその旨をおじさんに告げに行くと、おじさんも了解してくれたようである。
これはコトが丸く収まってよかったが、私が受験勉強に励んでいる間、おじさんに新たな好敵手ができて、私がお払い箱になったらどうしよう――。そんなことを、当時は本気で心配した。
翌年春、私は運よく志望校に合格した。この間は父が代理で将棋を指しに行ったこともあったが、おじさんには幸い新たな好敵手も定着しなかったようで、私は晴れて再び、おじさんと将棋を指せる運びとなった。
ところが…。
そんな矢先の、ある日曜日のことだった。例によっておじさんに電話で呼ばれ、私はマンションに出掛けた。この日が結果的に、マンションを訪れる最後の日になろうとは、このときは夢にも思わなかった。
(つづく)