おじさんと数局戦ったところで勝敗が偏り、定跡どおり私が角を引いて、対局が再開された。
その何局目かで、事件が起きた。
その将棋は、序盤早々おじさんに悪手が出て、早くも私の必勝形となった。しかしその後、私の楽観とおじさんの追い上げで、あれだけ良かった将棋を逆転されてしまったのだ。私はかなり、アツくなっていた。
ところがおじさんも寄せをグズり、将棋は一手違いの終盤戦となった。
私がおじさんの玉に必至を掛けると、おじさんの王手ラッシュが始まった。私は丁寧に応接し、玉を1四まで逃げのびる。
もうおじさんの持駒は歩だけで、後続はない。▲1五歩打は、打ち歩詰めだ。
よし、何とか猛追を凌いだ…と、勝利を確信した、そのときだった。
何とおじさんは、▲1五歩と打ってきたのである。
「お、おじさんこれ、打ち歩詰めですよ!」
私は興奮して叫ぶ。ところがおじさんの次の言葉は、私を慄然とさせるものだった。
「端の歩はいいんだ!」
何ィ!? バカな! 何を言いだすんだ!?
「そ、そんなルールはありませんよ! 打ち歩詰めはどの筋も禁止です!!」
私は再び叫ぶ。しかしおじさんも負けてはいなかった。
「いやいいんだ、端の歩は詰みなんだ!!」
私の主張に耳を貸さず、おじさんは妙な理屈を持ち出して、自分の勝利を主張してきたのだ。
端の打ち歩詰めは有効――。
ローカルルールならそんな決まりもあるかもしれない。しかし当たり前のことだが、打ち歩詰めはどの筋も禁止である。「待った」ならいくらでも許すが、勝手なルール変更は許せない。ましてや自分が勝ちの将棋を、はい負けましたと頭を下げるわけにはいかない。
いやこの将棋が、序盤から私の敗勢で、打ち歩詰め以外でもこちらが負けだったなら、私も穏便に済ませていただろう。
しかし本局は、一手違いの終盤である。しかも必勝の将棋が二転三転し、私も相当頭に血が上っていた。冷静さを失っていたのだ。おじさんだって、似たような心理状態だったと思う。
しばらく同じやりとりをしたが、埒が明かない。いままで、おじさんのマナーはひどかった。私もこれまで冷静に対処はしていたが、本当は心のどこかに、不満を溜めこんでいたのかもしれない。いよいよ逆上した私は、言ってはいけない言葉を、おじさんに吐いた。
「何だよ!! こっちはただでさえ角落ちで指してやってるのに!!」
私はそう叫んで立ち上がると、呆然としている奥さんの脇を抜け、マンションを飛び出した。言ってしまった! 言ってしまった! しかし、吐いた言葉はいまさら訂正できない。私は帰宅の道すがら、早くも後悔の念に苛まれたが、もう遅かった。
帰宅後、この一件を家族に話すと、たかが将棋のことで…と呆れられた。
以後、おじさんから将棋の誘いはさすがになくなり、結果的にあの一局が、おじさんとの最後の将棋になってしまったのだった。
それから数ヶ月が経ち、私は高校2年生になった。おじさんとの後味の悪い別れ方は、しこりとして常に私の頭に残っていた。しかし意地でも私から謝るわけにはいかない。暴言を吐いたことは悪かったが、打ち歩詰めの件は、こちらに非はないのだ。
しかし落ち着かない私は、翌年の正月、おじさんに年賀状を出した。
年頭の挨拶のあと、高校では将棋部の部長として頑張っています、と当たり障りのないことを書いた。
すると、しばらくして、おじさんから返事が来た。その豪放な性格からは想像もつかない、綺麗な字だった。あるいは、奥さんの代筆だったかもしれない。
年賀状には、型どおりの挨拶が書かれていた。だがそれだけで、私は十分満足だった。これで私は、自分自身の心に、ひとつの整理をつけたのだった。
それから1、2ヶ月経ったころだった。私が高校から帰ってくると、机の上に、湿布薬のビニール袋が置いてあった。中を開けると、1969年の黒革の手帳と、米長邦雄棋王の将棋の本が2冊入っていた。
手帳を開くと、週刊誌に掲載されていた大山十五世名人の詰将棋が貼られていた。肩書が永世王将や十段だったので、昭和48年から49年にかけての発表であろう。数えてみると、計35題あった。
そして米長棋王の著書は、「角換わり」と「振り飛車」の、「必勝定跡集」だった。
祖母に聞くと、珍しくおじさんが訪れ、これを置いていったのだという。だがスクラップによるお手製の詰将棋本は、本人の愛着も強いはずで、こんな貴重品を貰っていいものかどうか、私も戸惑った。
しかしおじさんは、私から年賀状を貰って、とても喜んでいたと人伝に聞いた。これらは、その御礼の意味もこめられていたのかもしれない。私は、ありがたく頂戴した。
昭和61年10月、私の祖母が闘病の末、死去した。おじさんには葬儀委員長をお願いした。
おじさんがウチに来るのは久しぶりだった。そして私とは、あの一局以来の再会となった。おじさんが弔辞を読み、葬式が終わり一段落すると、おじさんは私を見つけて、将棋やってるか、と言った。
私が、はいと答えると、ウン、ウン、とおじさんは言った。
その目は、あのときのことは水に流そうや、と語っているように思えた。そしてこれがおじさんとの、最後の対面になった。
その数年後、おじさん夫婦は静かにマンションを引き払い、田舎に居を戻した。
平成4年4月16日、おじさんが亡くなった。92歳だった。その5年後の平成9年2月、奥さんも97歳の天寿を全うした。
夫婦そろっての100歳は叶わなかったが、おふたりとも大往生だったと思う。
今でも考えるときがある。
あの最後の将棋、おじさんは本当に打ち歩詰めのルールを知らずに、歩を打ったのだろうか。
あの瞬間、早指しのおじさんが少し考えた。そして躊躇しながら、私の玉頭に歩を打ったように見えたのだ。
序盤早々必敗の将棋になったのを、必死の勝負手で盛り返し、最後は勝ちまであった。この将棋を再び負けにするのは納得できん――。
そう諦めきれなかったおじさんが、禁じ手を承知であえて歩を打ったことは、十分考えられることだった。
だがそのおじさんも亡くなり、その真相も、永遠の謎になってしまった。
おじさんが愛用していた、木村十四世名人揮毫の六寸盤は、今どこにあるのだろう。私が譲り受ける資格は十分にあったと思うのだが、全然声は掛からなかった。
最初は平手から始め、最後は私の角落ちまでいった将棋だが、おじさんの私への棋力認定は、最後まで「初段の力はあるな!」だった。
結果的におじさんの形見になってしまった、大山十五世名人の詰将棋集と米長永世棋聖の著書は、当時の湿布薬の袋に入ったまま、今も私の机の、抽斗の中にある。
その何局目かで、事件が起きた。
その将棋は、序盤早々おじさんに悪手が出て、早くも私の必勝形となった。しかしその後、私の楽観とおじさんの追い上げで、あれだけ良かった将棋を逆転されてしまったのだ。私はかなり、アツくなっていた。
ところがおじさんも寄せをグズり、将棋は一手違いの終盤戦となった。
私がおじさんの玉に必至を掛けると、おじさんの王手ラッシュが始まった。私は丁寧に応接し、玉を1四まで逃げのびる。
もうおじさんの持駒は歩だけで、後続はない。▲1五歩打は、打ち歩詰めだ。
よし、何とか猛追を凌いだ…と、勝利を確信した、そのときだった。
何とおじさんは、▲1五歩と打ってきたのである。
「お、おじさんこれ、打ち歩詰めですよ!」
私は興奮して叫ぶ。ところがおじさんの次の言葉は、私を慄然とさせるものだった。
「端の歩はいいんだ!」
何ィ!? バカな! 何を言いだすんだ!?
「そ、そんなルールはありませんよ! 打ち歩詰めはどの筋も禁止です!!」
私は再び叫ぶ。しかしおじさんも負けてはいなかった。
「いやいいんだ、端の歩は詰みなんだ!!」
私の主張に耳を貸さず、おじさんは妙な理屈を持ち出して、自分の勝利を主張してきたのだ。
端の打ち歩詰めは有効――。
ローカルルールならそんな決まりもあるかもしれない。しかし当たり前のことだが、打ち歩詰めはどの筋も禁止である。「待った」ならいくらでも許すが、勝手なルール変更は許せない。ましてや自分が勝ちの将棋を、はい負けましたと頭を下げるわけにはいかない。
いやこの将棋が、序盤から私の敗勢で、打ち歩詰め以外でもこちらが負けだったなら、私も穏便に済ませていただろう。
しかし本局は、一手違いの終盤である。しかも必勝の将棋が二転三転し、私も相当頭に血が上っていた。冷静さを失っていたのだ。おじさんだって、似たような心理状態だったと思う。
しばらく同じやりとりをしたが、埒が明かない。いままで、おじさんのマナーはひどかった。私もこれまで冷静に対処はしていたが、本当は心のどこかに、不満を溜めこんでいたのかもしれない。いよいよ逆上した私は、言ってはいけない言葉を、おじさんに吐いた。
「何だよ!! こっちはただでさえ角落ちで指してやってるのに!!」
私はそう叫んで立ち上がると、呆然としている奥さんの脇を抜け、マンションを飛び出した。言ってしまった! 言ってしまった! しかし、吐いた言葉はいまさら訂正できない。私は帰宅の道すがら、早くも後悔の念に苛まれたが、もう遅かった。
帰宅後、この一件を家族に話すと、たかが将棋のことで…と呆れられた。
以後、おじさんから将棋の誘いはさすがになくなり、結果的にあの一局が、おじさんとの最後の将棋になってしまったのだった。
それから数ヶ月が経ち、私は高校2年生になった。おじさんとの後味の悪い別れ方は、しこりとして常に私の頭に残っていた。しかし意地でも私から謝るわけにはいかない。暴言を吐いたことは悪かったが、打ち歩詰めの件は、こちらに非はないのだ。
しかし落ち着かない私は、翌年の正月、おじさんに年賀状を出した。
年頭の挨拶のあと、高校では将棋部の部長として頑張っています、と当たり障りのないことを書いた。
すると、しばらくして、おじさんから返事が来た。その豪放な性格からは想像もつかない、綺麗な字だった。あるいは、奥さんの代筆だったかもしれない。
年賀状には、型どおりの挨拶が書かれていた。だがそれだけで、私は十分満足だった。これで私は、自分自身の心に、ひとつの整理をつけたのだった。
それから1、2ヶ月経ったころだった。私が高校から帰ってくると、机の上に、湿布薬のビニール袋が置いてあった。中を開けると、1969年の黒革の手帳と、米長邦雄棋王の将棋の本が2冊入っていた。
手帳を開くと、週刊誌に掲載されていた大山十五世名人の詰将棋が貼られていた。肩書が永世王将や十段だったので、昭和48年から49年にかけての発表であろう。数えてみると、計35題あった。
そして米長棋王の著書は、「角換わり」と「振り飛車」の、「必勝定跡集」だった。
祖母に聞くと、珍しくおじさんが訪れ、これを置いていったのだという。だがスクラップによるお手製の詰将棋本は、本人の愛着も強いはずで、こんな貴重品を貰っていいものかどうか、私も戸惑った。
しかしおじさんは、私から年賀状を貰って、とても喜んでいたと人伝に聞いた。これらは、その御礼の意味もこめられていたのかもしれない。私は、ありがたく頂戴した。
昭和61年10月、私の祖母が闘病の末、死去した。おじさんには葬儀委員長をお願いした。
おじさんがウチに来るのは久しぶりだった。そして私とは、あの一局以来の再会となった。おじさんが弔辞を読み、葬式が終わり一段落すると、おじさんは私を見つけて、将棋やってるか、と言った。
私が、はいと答えると、ウン、ウン、とおじさんは言った。
その目は、あのときのことは水に流そうや、と語っているように思えた。そしてこれがおじさんとの、最後の対面になった。
その数年後、おじさん夫婦は静かにマンションを引き払い、田舎に居を戻した。
平成4年4月16日、おじさんが亡くなった。92歳だった。その5年後の平成9年2月、奥さんも97歳の天寿を全うした。
夫婦そろっての100歳は叶わなかったが、おふたりとも大往生だったと思う。
今でも考えるときがある。
あの最後の将棋、おじさんは本当に打ち歩詰めのルールを知らずに、歩を打ったのだろうか。
あの瞬間、早指しのおじさんが少し考えた。そして躊躇しながら、私の玉頭に歩を打ったように見えたのだ。
序盤早々必敗の将棋になったのを、必死の勝負手で盛り返し、最後は勝ちまであった。この将棋を再び負けにするのは納得できん――。
そう諦めきれなかったおじさんが、禁じ手を承知であえて歩を打ったことは、十分考えられることだった。
だがそのおじさんも亡くなり、その真相も、永遠の謎になってしまった。
おじさんが愛用していた、木村十四世名人揮毫の六寸盤は、今どこにあるのだろう。私が譲り受ける資格は十分にあったと思うのだが、全然声は掛からなかった。
最初は平手から始め、最後は私の角落ちまでいった将棋だが、おじさんの私への棋力認定は、最後まで「初段の力はあるな!」だった。
結果的におじさんの形見になってしまった、大山十五世名人の詰将棋集と米長永世棋聖の著書は、当時の湿布薬の袋に入ったまま、今も私の机の、抽斗の中にある。