一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

真部一男九段との思い出

2011-11-24 00:04:17 | 将棋ペンクラブ
日付変わってきょう11月24日は、真部一男先生の命日である。2日前にも書いたが、私に将棋の師匠があるとすれば、それは真部先生である。植山悦行七段ではない。真部先生には、高校時代に文化祭にお越しいただき、指導対局を受けていた。それで勝手に、私の師匠とさせていただいている。譬えがわるくて恐縮だが、まあ、パブロフの犬みたいなものである。
ちなみにココロの兄弟子は植山七段、女性のココロの師匠は藤田麻衣子さん、姉弟子は松尾香織女流初段、となっている。
真部先生は2007年に亡くなられたが、先生はその前年に「升田将棋の世界」で、「将棋ペンクラブ大賞」を受賞された。だが私が同賞の贈呈式に出席し始めたのは、2008年から。師匠の晴れの席にも、私は「四ッ谷が嫌い」という理由で、出席しなかったのだ。まったく、バカな弟子だった。
そんな私は「将棋ペン倶楽部」2008年春号に、真部先生の追悼文を寄せた。きょうはこれを掲載し、あらためて真部先生を忍ぼうと思う。


「真部一男九段との思い出」

その写真に写っている学ラン姿の私はさすがに若い。近くには女子将棋部員もいて、女子高生に免疫のない私は緊張の極みというところなのだが、そんな私は澄ました顔をしている。
そして最前列中央には……
      ×   ×
真部一男先生に初めてお会いしたのは今から27年前の昭和56年11月、私が高校1年生の時で、わが高校の文化祭においてだった。当時我が将棋部は、文化祭のときにプロ棋士をお呼びしており、真部先生が指導に来てくださっていた。
それまで私がプロ棋士を拝見したことといえば、東京・将棋会館で何名かの棋士を遠くから目にした程度。それがいきなり人気棋士との指導対局というのだから、まさに夢心地であった。
午後になり、真部先生がゆったりと入室された。雑誌やテレビで拝見していたとおり、端正な顔立ちと涼しげな眼は、さすがに「棋界のプリンス」と称されるだけのことはあると思った。
真部先生と部員が挨拶を交わし、いよいよ指導対局の時間となった。1年生の私は末席に座り、真部先生がいらっしゃるのを静かに待つ。
ようやく私の前に先生がいらっしゃり、「お願いします」と一礼して対局開始。先生が左手で銀を持ち、華麗な手つきで、カチッと△6二銀と指した。一連の所作を拝見し、先生が歌舞伎役者のように見えた。
プロ棋士のオーラを間近で感じた私は、上手なら誰でも指すこの手を見て、その緊張が最高潮に達してしまった。
▲7六歩△5四歩。しかし思考停止に陥った私は、ここで早くも「敗着」を指してしまう。
▲5六歩――。
その瞬間、私は心の中で「あっ」と叫んだ。初心者講座になるが、ここは定跡では▲4六歩と教えており、それ以外の指し手は下手が芳しくない。
本譜は△5三銀に▲4六歩と慌て気味に指したが、証文を出し遅れた。当然△4四歩とガッチリ受けられ、下手の▲4五歩を防がれてしまった。これはすでに下手が難局である。
こうして、かねてから楽しみにしていた真部先生との初対局は、開始からわずか7手で、事実上終わってしまったのだった。
翌57年は、わが校の近くにある女子高校将棋部との交流を、真部先生がセッティングしてくださったのが印象に残っている。例年は記念写真の類は撮らないのだが、この年ばかりは先生を囲んで、記念写真を撮った。
肝心の指導対局は、たしか飛車香落ちで対局をお願いしたはずなのだが、全く記憶にない。よほど女子部員のほうに気を取られていたのだろう。いや後述する3年生時の将棋と混同しているのかもしれないが、ここでは先に進むことにする。
その翌年の58年は、真部先生の人生でも、思い出深い年だったと思われる。
2月、先生はテレビの「早指し将棋選手権戦」で決勝に進出された。しかしその相手は大豪・米長邦雄棋王。当時の決勝戦は3番勝負で、いかな真部先生といえども、棋王相手に3番指して2勝は難しいと私は見ていた。
しかしそれは杞憂だった。真部先生は後手番の第1局に快勝すると、勢いに乗って続く第2局も制し、見事棋戦初優勝を遂げられたのだった。
湯川博士著「振り飛車党列伝」(毎日コミュニケーションズ刊)によれば、真部先生の成績が良かったのは、「昭和50年から63年ぐらいまで」だったという。これを「全盛期」という言葉に置き換えれば、昭和57~58年はまさにその真只中。文化祭で真部先生の華麗な将棋を目にしていながら、先生の敗退を危惧するとは、我ながら浅薄だったと言うよりない。
私は真部先生に祝福のハガキを出した。文面はありきたりのものだったが、宛名は寄席文字風の凝った書体にした。するとその数日後、先生から思いもよらず返事が来たのでびっくりした。
流麗な文字で返礼がしたためてあり大いに感激したのだが、よく考えてみれば、稽古先の生徒からハガキが来れば、返事を出さないわけにはいくまい。私は却って先生に余計な気を遣わせてしまったと後悔した。
4月、私は最上級生になり、ついに最後の文化祭がきた。当然真部先生とも、これが最後の対局となる。
先生には飛車を落としていただくつもりだった。しかし定跡どおりに指しても私が負かされるに違いない。
私は秘策を練った。ちょうど前年の「将棋マガジン」9月号~12月号で「若手四段対若手四段の駒落ち戦」という集中連載があり、11月号の飛車落ち編では、上手の室岡克彦四段に対して下手の加瀬純一四段が、▲9五歩からの端攻めで上手を圧倒していた。私はこの将棋を参考に、対局を進めることにした。
指導日の当日、昼過ぎに真部先生が来校され、最後の指導対局が始まった。
私は早々と▲7五歩と位を取り▲7六銀型を作る。さらに何食わぬ顔で2歩を手持ちにし、端攻めの準備を整えた。頃はよし。私は自信を持って▲9五歩と指した。
その瞬間、真部先生が「ウッ」と声にならない声を上げたような気がした。恐らくご自身の読みにない手だったのだろう。
私は連打の歩で香をつり上げ、▲9四銀と香を取る。私の読みではこの数手後に飛車が8六へ回り、上手もそれを防ぐ術はなく、飛車成りが実現して下手必勝、というものだった。
その後も局面は読み筋どおり進み、いよいよ私は▲8六飛と回る。
ところが先生は、いつもより高い音で、平然と△8四香と打ってきた。
△8四香!? なぜ香がある!? 私は心の中で叫んだ。
私はまた重大な誤りを犯していた。実はその直前に手順前後があり、得した香を上手に渡してしまっていたのだ。
半ば呆然としたまま私が手を止めてしまったので、先生が「応手をよく考えなさい」とばかり、隣の将棋へ移ってゆく。
たちまち私の頭の中に渦巻く後悔の念。密かに温めていた構想が、たった1回の手順前後で瓦解してしまったのだ。私は落胆を抑え切れなかった。
いやこれがもし3面指し程度だったら、落胆しているヒマはなかったかもしれない。しかし対局者は10人近くおり、意外と長い考慮時間があったのが、私の中で微妙な影響をおよぼすことになった。
一言で言えば、冷静になってしまったのだ。しかしそれは、無に返って次の手を考える、という意味ではなかった。むろんこれが先生と最後の対局だから、もっと指し続けたい。しかしこの局面は下手優勢の局面から、もうヨリが戻っている。以下のジリ貧負けは時間の問題で、このまま未練がましく指し手を続けることは、私には堪え難かったのだ。
せめて最後の将棋ぐらい、綺麗な投了図を残したい……私は心の整理をつけた。
真部先生が戻ってくる。私は背筋を伸ばし、「負けました」と一礼した。
この「応手」には、さすがの真部先生も意表を突かれたようだった。すぐに感想戦が始まった。
「ウン…うまく指されたけどね…ここでこう指せば飛車が成れたよね」
「そうです! それ読んでたんですが、つい手順前後してしまって…」
「そうだったね。でも投了の局面からでも、こう指せばまだ君のほうが優勢じゃないかな?」
先生が艶のあるバスで私を持ち上げてくださる。しかし私も譲らず、自説を述べる。
「でも△3二玉と上がられると上手の玉が捕まらないですし…」
最後はどちらが上手だか分からないようなセリフを残して、真部先生との3年間の指導対局は、これで終わった。
全対局が終了後、真部先生に御礼を述べるべく、部員が整列する。と、先生が私を指し、「彼は何という名前かな?」と、誰にともなく問うた。
私は名字を名乗る。当然みんなは真部先生の次の句を待ったが、先生は「ウン…」とつぶやき、微笑まれるだけだった。それにつられて、教室内に微苦笑が起こった。
あの時先生は何をおっしゃりたかったのだろう。端攻めの構想を改めて褒めたかった、とは思えない。対局者の好手を公の場でいちいち褒めていたらキリがない。では私のあまりにも早い投了に、「こういう対局では終盤まで指し手を進めるべきだよ」と嗜めたかったのだろうか。いや逆に、私の早い投了の中に、先生ご自身が持つ将棋観や投了の美学を見出したのだろうか。
ともあれひとつの小さな謎が残ったまま私と真部先生との3年間は幕を閉じ、同時にこの日が、先生との最後の対面となった。
この3年後、私がバイトをしていた会社に、真部先生と小学生の時同窓だったというパートの奥様がいた。しかしその事実を知ったのは、私がバイトを辞めた後のこと。もし事前に知っていたら、先生のいろいろなエピソードが聞けたのにと、残念に思ったものだった。
いっぽう真部先生は昭和63年、ついに一流棋士の証明となるA級八段に昇進される。
時に先生36歳。「棋界のプリンス」と称されてから15年近くが経っていた。長かった足踏みに、嬉しい反面、複雑な思いもあったに違いない。
そして平成に入ってからは、「将棋世界」に連載された「将棋論考」が、同誌での白眉となった。
棋士の有名無名を問わず、将棋界を代表する名局から知られざる熱局までを取り上げ、簡にして要を得た解説を付す。さらにその冒頭に記されるエッセイがまた、抜群に面白かった。
登場棋士への畏敬の念が篭った名文や、棋界への提言など読み応え十分だったが、ご自身の何気ないエピソードに抱腹絶倒の逸話が多く、好きだった。
それはバナナに滑って転んだ、という類の直截的な表現ではなく、なんでもないAという事象とBという事象を組み合わせて笑いを誘うという手法で、またそれを「棋界のプリンス」が記しているというギャップが、その面白さを増幅させていた。
私は高校時の指導対局に続き、今度は先生の格調高い文章で勉強させていただくことになった。
その後私は「将棋ペン倶楽部」に何本か投稿したが、真部先生にとって最終号となってしまった「会報48号」に、先生のことを記した拙稿が掲載されたのも、何かのお導きだったのかと思う。
会員である先生は目を通されたはずだが、私の棋力ならぬ文章力は、どう評価されていたのだろう。
さらに言えば25年前、文化祭での指導対局の後、先生が私に名前を訊かれた真意は何だったのか?
「それを数十年後に教えてください」
真部一男九段を偲ぶ会で、先生の遺影を前にそう問いかけて合掌すると、涙があふれてきて、止まらなかった。
      ×   ×
……そして最前列中央には、真部先生がさわやかな表情で鎮座されている。このころは心身ともに健康、公私も充実し、わが世の春を謳歌していたと思われる。
真部先生の澄んだ瞳はらんらんと輝き、そこにはA級八段に昇進し、やがてタイトルを獲得せん、という力が篭っていた。
(了)
コメント (2)
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