私は手前の大テーブルをあてがわれた。昨年、一昨年と同じだが、今年は壁際ではなく、通路側だった。
右を見れば何かに興じている女性がいる。やがて子供と父親が戻り、家族連れであることが判明した。
壁際には、女性2人が遅れてきて座った。奥さんが、店内のトイレは連続して水を流すと流れないから、バスセンターのトイレを使うよう、促した。
店内を見回すと相変わらず女性が多いが、あちこち空きがある。定員は32人だが、とてもその人数に達していない。あんでるせんは常に満席だから、入場を制限しているのだろう。お客はもちろん全員マスク着用で、話しているときも小声だ。
私はビーフカレー(840円)とブレンドコーヒー(550円)を頼む。私はさっきから千円札と10円玉を所望しているが、この飲食の支払いでおつりを貰えば懸案事項は解決する。だが私は、ここの代金はピッタリ払うことにしている。よって私は、どこかで壱万円札を崩さねばならない。
いつもはこの待ち時間、年賀状記載用に1年間の我が10大ニュースを選定するのだが、今年はその気力が湧かない。もっともほとんどニートだったので、選定のしようがないのだが。
ビーフカレーはいつもの味だった。ルーはレトルト風でごはんもやや緩め、とびきり美味いわけではないが、これがあんでるせんの味である。ひたすら懐かしい。
食後のコーヒーを飲む。香りがあるようなないような、不思議な味である。まあ飲食よりマスターのマジックが主だから味は二の次だが、かつてこの味に不満を漏らした人がいた。当ブログの読者なら、全員知っている人である。
私は店を出て、駅前に走った。今宵の宿は長崎駅か浦上駅付近にする予定だ。すなわちJRで1310円である。駅の券売機で事前に購入しておけば、あらゆる紙幣と硬貨が入手できる。
ところが券売機は、五千円札と壱万円札が使用不可だった。窓口で両替を頼もうとしたら、午後3時まで駅員が不在だった。なんてことだ……。
試しに川棚バスセンターにも入ったが、ここも窓口が閉まっている。あぁ、空港でバス切符を購入しなかったことが、こんなに悪手になるとは思わなかった。
あんでるせんに戻り、壱万円札でおつりをもらえばいいと割り切る。だけど迷惑だろうなと思う。
いよいよ会計になった。私は相当迷ったが、いまある硬貨で払うことにした。1,390円なので、500円玉2枚と100円玉2枚、50円玉4枚を差し出した。しかし奇妙な組み合わせに奥さんは戸惑い、おつりの10円をもらうのにだいぶ時間がかかった。
しかしなんてことだ。おカネの種類を増やすどころか、500円玉までなくなってしまった。500円玉もよく使われるアイテムなのに、私は何をやっているのだろう。このあたり、マスターの見えない力が働いているようにも思える。
私はとりあえず、壱万円札、五千円札、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉をジーパンのポケットに入れた。
ここでマジック観覧の配置決めである。私は今年、前から3列目、すなわち椅子の上になった。22回目にして初めての場所である。
ザッと見渡すと未成年の男子も何人かいる。家族や夫婦、カップル、女友だちの組み合わせがほとんどで、一人旅の男性は私のみだった。男女比はちょうど、1:2だった。
14時39分、マスターが登場した。マスターもマスクを着用していた。服はいつもの黒のトレーナーではなく、柄物のセーターだった。これは意外に珍しい。
マスターが右手にお化けのような指をはめて脅かすと、さっそくマジックに入った。まずは女性陣から指環を所望する。するとカウンター左の女性が、サッとそれを出した。彼女が初来店か否かは知らぬが、情報を仕入れてきているらしい。すでに3つ出たがマスターがまだ所望し、結局4つになった。いままでは3つだったので、これは最多である。
これをマスターが小さな木箱に入れ、ライターであぶる。やがて音がしなくなると、それがキーホルダーにくくりつけられた中や、マスターのネックレス等から出てきた。みなは早速驚くが、これで驚いていては、これから身が持たない。
マスターが壱万円札と千円札を所望する。私は壱万円札を出せるが、この位置からではカウンターに放れない。おカネの差し出し一つとっても、マスターに近いほうが圧倒的に有利なのだ。ただ、矛盾するが、私も22回目の参戦だから、そこまで積極的におカネは出さない。誰も出さなかったら、おずおずと出したい感じだ。
「このお札を立てますよ。5本の指の中で、どれを使いましょうか」
マスターがカウンターの女性に聞く。女性は「薬指」と答え、マスターは「薬指……厳しいですよね」と苦笑する。そしてマスターは壱万円札を薬指の上で、ナナメに立てた。これはマジックかどうか疑わしいが、実はできそうでできない。
続いては千円札を折り曲げ、宙に浮かせた。これはさすがに歓声が起きた。
「ハウス!」
マスターが叫ぶと千円札が肩口に止まる。そしてマスターが体をズラすと、千円札はそこに留まっていた。さらに絶叫が渦巻く。私はその様子を見て、ゲラゲラ笑う。観戦も回数を重ねてくると、ヒトの反応で笑える余裕が生まれるのだ。
「皆さんマスクをしていますが、目だけ見えていれば、誰だか分かりますよ」
私も口を隠しているが、ノッポ、度の強いメガネ、薄くなった頭頂部と、特徴がありすぎる。たぶんバレているだろう。
今度はESPカードである。「○、□、△、川、+」の5種類が5セットある。マスターの分、カウンターの分と、それぞれ5種類のカードが配られる。カウンターの5人が順番に任意のカードを出すのだが、それをマスターが当てる、というものだ。
マスターが先に1枚目を出す。もちろんカードは伏せてある。カウンターの右の女性が1枚出した。マスターが2枚目を出す。右から2番目の女性がカードを出した。
だがマスターの様子がおかしい。「うむ……。ちょっと変えさせていただきます。天の声が2枚目を変えろと言っている」。いつもはマスターがつねに先に出していたが、これでは後出しになる。もちろんこれでも当てればすごいが、出し直しは初めてのケースで、極めて異例だった。
結局ESPカードは、5枚とも双方同じだった。
続いてカード(トランプ)である。ここでのカードマジックがまた華麗だったが、数作拝見して気が付いたのは、「新作」が多かったこと。マスターはかねてから「毎年微妙に出し物を変えている」と言っているが、割合としては少なかった。それだけに、私の驚きも多い。
そしてその間にたびたびマスターは、手に消毒液をつけていた。いつもはお客の脳天にピリッと「気」を注入してくれるのだが、それもナシ。この辺の配慮は徹底していた。
さて今年の客の華は、カウンター右3人の女性だ。特等席で間近に見ているから反応も凄まじい。彼女らは喫茶代以上の見返りを得ることだろう。
ただ、右の女性の2人がちょっと私語を交わしたとき、マスターはやんわりと注意した。マスターはこのあたり厳格で、私たちには驚くことと笑うこと意外許さないところがある。マスターの段取りが齟齬をきたしてしまうのだろう。
「皆さんこれは余興ですからネ。皆様は喫茶店のお客様。あくまでコーヒーを飲んだついでにマジックを楽しんでるんですからね。だからこの店もここまで続いたんでしょうね。これを有料にしていたら、とっくにツブレてましたね」
その言葉は私も共感できる。当ブログも私がまったくの趣味で書いているが、このブログで小遣い稼ぎをしようと思ったら、書くことが義務になり、長くは続かなかったと思う。
かなり長めのカードマジックがいったん終わったあと、マスターが新たに千円札を所望した。しかしみんな手許に用意していないのか、明らかに空白の時間が生じた。
(つづく)
右を見れば何かに興じている女性がいる。やがて子供と父親が戻り、家族連れであることが判明した。
壁際には、女性2人が遅れてきて座った。奥さんが、店内のトイレは連続して水を流すと流れないから、バスセンターのトイレを使うよう、促した。
店内を見回すと相変わらず女性が多いが、あちこち空きがある。定員は32人だが、とてもその人数に達していない。あんでるせんは常に満席だから、入場を制限しているのだろう。お客はもちろん全員マスク着用で、話しているときも小声だ。
私はビーフカレー(840円)とブレンドコーヒー(550円)を頼む。私はさっきから千円札と10円玉を所望しているが、この飲食の支払いでおつりを貰えば懸案事項は解決する。だが私は、ここの代金はピッタリ払うことにしている。よって私は、どこかで壱万円札を崩さねばならない。
いつもはこの待ち時間、年賀状記載用に1年間の我が10大ニュースを選定するのだが、今年はその気力が湧かない。もっともほとんどニートだったので、選定のしようがないのだが。
ビーフカレーはいつもの味だった。ルーはレトルト風でごはんもやや緩め、とびきり美味いわけではないが、これがあんでるせんの味である。ひたすら懐かしい。
食後のコーヒーを飲む。香りがあるようなないような、不思議な味である。まあ飲食よりマスターのマジックが主だから味は二の次だが、かつてこの味に不満を漏らした人がいた。当ブログの読者なら、全員知っている人である。
私は店を出て、駅前に走った。今宵の宿は長崎駅か浦上駅付近にする予定だ。すなわちJRで1310円である。駅の券売機で事前に購入しておけば、あらゆる紙幣と硬貨が入手できる。
ところが券売機は、五千円札と壱万円札が使用不可だった。窓口で両替を頼もうとしたら、午後3時まで駅員が不在だった。なんてことだ……。
試しに川棚バスセンターにも入ったが、ここも窓口が閉まっている。あぁ、空港でバス切符を購入しなかったことが、こんなに悪手になるとは思わなかった。
あんでるせんに戻り、壱万円札でおつりをもらえばいいと割り切る。だけど迷惑だろうなと思う。
いよいよ会計になった。私は相当迷ったが、いまある硬貨で払うことにした。1,390円なので、500円玉2枚と100円玉2枚、50円玉4枚を差し出した。しかし奇妙な組み合わせに奥さんは戸惑い、おつりの10円をもらうのにだいぶ時間がかかった。
しかしなんてことだ。おカネの種類を増やすどころか、500円玉までなくなってしまった。500円玉もよく使われるアイテムなのに、私は何をやっているのだろう。このあたり、マスターの見えない力が働いているようにも思える。
私はとりあえず、壱万円札、五千円札、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉をジーパンのポケットに入れた。
ここでマジック観覧の配置決めである。私は今年、前から3列目、すなわち椅子の上になった。22回目にして初めての場所である。
ザッと見渡すと未成年の男子も何人かいる。家族や夫婦、カップル、女友だちの組み合わせがほとんどで、一人旅の男性は私のみだった。男女比はちょうど、1:2だった。
14時39分、マスターが登場した。マスターもマスクを着用していた。服はいつもの黒のトレーナーではなく、柄物のセーターだった。これは意外に珍しい。
マスターが右手にお化けのような指をはめて脅かすと、さっそくマジックに入った。まずは女性陣から指環を所望する。するとカウンター左の女性が、サッとそれを出した。彼女が初来店か否かは知らぬが、情報を仕入れてきているらしい。すでに3つ出たがマスターがまだ所望し、結局4つになった。いままでは3つだったので、これは最多である。
これをマスターが小さな木箱に入れ、ライターであぶる。やがて音がしなくなると、それがキーホルダーにくくりつけられた中や、マスターのネックレス等から出てきた。みなは早速驚くが、これで驚いていては、これから身が持たない。
マスターが壱万円札と千円札を所望する。私は壱万円札を出せるが、この位置からではカウンターに放れない。おカネの差し出し一つとっても、マスターに近いほうが圧倒的に有利なのだ。ただ、矛盾するが、私も22回目の参戦だから、そこまで積極的におカネは出さない。誰も出さなかったら、おずおずと出したい感じだ。
「このお札を立てますよ。5本の指の中で、どれを使いましょうか」
マスターがカウンターの女性に聞く。女性は「薬指」と答え、マスターは「薬指……厳しいですよね」と苦笑する。そしてマスターは壱万円札を薬指の上で、ナナメに立てた。これはマジックかどうか疑わしいが、実はできそうでできない。
続いては千円札を折り曲げ、宙に浮かせた。これはさすがに歓声が起きた。
「ハウス!」
マスターが叫ぶと千円札が肩口に止まる。そしてマスターが体をズラすと、千円札はそこに留まっていた。さらに絶叫が渦巻く。私はその様子を見て、ゲラゲラ笑う。観戦も回数を重ねてくると、ヒトの反応で笑える余裕が生まれるのだ。
「皆さんマスクをしていますが、目だけ見えていれば、誰だか分かりますよ」
私も口を隠しているが、ノッポ、度の強いメガネ、薄くなった頭頂部と、特徴がありすぎる。たぶんバレているだろう。
今度はESPカードである。「○、□、△、川、+」の5種類が5セットある。マスターの分、カウンターの分と、それぞれ5種類のカードが配られる。カウンターの5人が順番に任意のカードを出すのだが、それをマスターが当てる、というものだ。
マスターが先に1枚目を出す。もちろんカードは伏せてある。カウンターの右の女性が1枚出した。マスターが2枚目を出す。右から2番目の女性がカードを出した。
だがマスターの様子がおかしい。「うむ……。ちょっと変えさせていただきます。天の声が2枚目を変えろと言っている」。いつもはマスターがつねに先に出していたが、これでは後出しになる。もちろんこれでも当てればすごいが、出し直しは初めてのケースで、極めて異例だった。
結局ESPカードは、5枚とも双方同じだった。
続いてカード(トランプ)である。ここでのカードマジックがまた華麗だったが、数作拝見して気が付いたのは、「新作」が多かったこと。マスターはかねてから「毎年微妙に出し物を変えている」と言っているが、割合としては少なかった。それだけに、私の驚きも多い。
そしてその間にたびたびマスターは、手に消毒液をつけていた。いつもはお客の脳天にピリッと「気」を注入してくれるのだが、それもナシ。この辺の配慮は徹底していた。
さて今年の客の華は、カウンター右3人の女性だ。特等席で間近に見ているから反応も凄まじい。彼女らは喫茶代以上の見返りを得ることだろう。
ただ、右の女性の2人がちょっと私語を交わしたとき、マスターはやんわりと注意した。マスターはこのあたり厳格で、私たちには驚くことと笑うこと意外許さないところがある。マスターの段取りが齟齬をきたしてしまうのだろう。
「皆さんこれは余興ですからネ。皆様は喫茶店のお客様。あくまでコーヒーを飲んだついでにマジックを楽しんでるんですからね。だからこの店もここまで続いたんでしょうね。これを有料にしていたら、とっくにツブレてましたね」
その言葉は私も共感できる。当ブログも私がまったくの趣味で書いているが、このブログで小遣い稼ぎをしようと思ったら、書くことが義務になり、長くは続かなかったと思う。
かなり長めのカードマジックがいったん終わったあと、マスターが新たに千円札を所望した。しかしみんな手許に用意していないのか、明らかに空白の時間が生じた。
(つづく)