平家の中でも影が薄かったようだ。しかも難しく考えてしまい思いつめるタイプであったようである。
「平家物語」の中でも取りざたされていないのが珍しいと言っていいのかもしれない。
ただしかし、入水の場面における清経の覚悟というものが短い文章にも拘らず閑かに伝わってくるから不思議である。
清経は自分よりも若くして戦場に散った公達、或いはその戦場で自らの命を絶った公達がいたことを当然ながら十分に知っていたであろう。
「青葉の笛(小枝の笛)」でご存知の敦盛は15歳である。しかし、清経は1183年4月4日享年21であった。
一番悲壮なのは 清経の死から僅か二年後の安徳天皇である。7歳か8歳で崩御されているのだからな。
平家滅亡のその後の伝説は日本各地にあるのは嬉しいのではないかな。惨めに死に逝く者達の哀れさを日本人が大事にしていたということであろうか。我輩の住居地にも安徳天皇稜が存在する。天寿を全うしたようである。
住宅地の端に位置する。道路によって削られている。7世紀中頃の円墳で、古墳時代の終焉が近づいている頃になる。
ご存知の戸山原古墳の形とは相当に異なるのがお判りだろう。
はっきりと古墳と判るのだが、案内が何処にも無い。古墳の後(石室開口部を前としているので)から近づいているが、別に案内板は無くても構わない。ここは車では無理だ。路上駐車になってしまう。
この時季、道端に咲く花はどうも彩が少なくていけないな
清楚な感じが冬の厳しさを必死になって耐えている様に見えるのだが、晴天の下ではなく降雪の下のほうが似合う。