父が言う 朝鮮朝顔と。我輩もずっとそう思っていた。しかし、それは全くもって違った花であった。
羽衣縷紅草が本当の名前である。それは父が亡くなってから判ったことである。
これも曜白朝顔と同じ運命をたどったのである。種がいっぱい残っているので今年も撒いてみたがどれ一つとして芽を出してくれなかった。これも終ってしまった。
これが父の朝顔であり、我輩の朝顔でもある。もうなくなってしまったがな。
父が言う 朝鮮朝顔と。我輩もずっとそう思っていた。しかし、それは全くもって違った花であった。
羽衣縷紅草が本当の名前である。それは父が亡くなってから判ったことである。
これも曜白朝顔と同じ運命をたどったのである。種がいっぱい残っているので今年も撒いてみたがどれ一つとして芽を出してくれなかった。これも終ってしまった。
これが父の朝顔であり、我輩の朝顔でもある。もうなくなってしまったがな。
曜白朝顔である。これは11年前の写真だ。父が亡くなって二年後、実家で種を見つけてからのことであった。
我輩が望む朝顔である。ところがこれから五年後には奇形が出来、種も少なくなって、遂には花を付けなくなってしまった。それはそうだろう、ずっと同じ物ばかりだからな。
これが父の朝顔であり、我輩の朝顔でもある。もうなくなってしまったがな。
雀のお宿
以前住んでいたところで雀に餌を与えていたのだが、こっちに移ってきて・・雀の姿を見ないもんだからどうしたもんかと思っていたのだが、最近その姿を見ることが出来たし、前庭にも来るようになった。それで米を少し撒いてみる事にしたら、催促してくるんだ。その割には我輩の顔を見るとすぐ逃げだしてしまう。少しは愛嬌振りまけよな。
写真が悪いのは網戸越しに写しているからである。そこはご容赦願う。
早朝 自宅 4:00出発 小倉東 4:35 菊水着 6:15
若宮古墳(母とも来たぞ)・江田穴観音古墳・岩原古墳群(下原古墳・寒原古墳・双子塚古墳)
横山古墳・堤古墳・芹ヶ迫古墳・早馬古墳・慈恩寺経塚古墳・木柑子二ツ塚古墳・頂塚古墳・平原塚古墳・朱塚古墳
津袋大塚古墳・御霊塚古墳・五社宮古墳・小町塚古墳・茶臼塚古墳・亀塚古墳・方保田古墳石室・端山古墳・弁慶ヶ穴古墳・御霊塚古墳・毘沙門塚古墳・馬塚古墳・臼塚古墳
旅館到着 16:06 朝日屋旅館 時間に余裕があったので山鹿散歩と決め込んだ。八千代座・野田商店(酒の土産を購入)
以上 第一日目である。
翌日 旅館 7:40出発
永安寺西古墳・永安寺東古墳・大坊古墳・立願寺小塚古墳・大塚古墳・経塚古墳・小塚古墳・経塚西古墳
熊本県北古墳探訪は以上である。これから大分県日田へ移動である。 日田着 11:56
穴観音古墳・三郎丸古墳 此処そこをうろうろして 自宅着 14:55
以上 第二日目である。これによって熊本県北古墳探訪は終了である。しかし、予定通りいかなかった。2基見逃してしまった。お恥ずかしい。
断っておかねばならないが、ここに記した時系列ではアップされていないので・・賢明なる読者諸氏ならば既にご存知であろうが、ご容赦願う。
最近は朝っぱらからチュンチュン鳴いている。早く飯をくれと催促に来るようになった。しかも一羽二羽ではない十四羽もいた。餌をもらうのが当たり前の様に五月蠅くせっつくのである。遠目から様子を見張っているのでたまらない。
来たと見るや否やあっという間にこの状況である。お前らが楽して飯にありつけるのは俺のお蔭だろうが。ちったあ感謝の態度位見せろよ。雀の涙くらい流して感謝してもいいんじゃないか。近づけばすぐ逃げるなんざ失礼だとは思わないのか。
今やっている餌が無くなったら次を考えなければならんな。そうだそうだ、水浴びを用意しなければならんな。
今年の第一号
人差し指の先よりも小さい花が咲いたぞ。逆に葉っぱが我輩の手よりも大きいのには驚きだ。花の方に力を入れてくれたら有難いのだがな・・・
慈恩寺経塚古墳(熊本県)
車で入って行くことはまず出来ないと言っておこう。我輩はその手前にある神社境内の隅っこに止めさせてもらって(誰にも断ったわけではないが・・神様にはちゃんと断りを言わせてもらったがな)歩いて行った。地元の方には迷惑をかけることは出来ないからな。案内はあるのだが先ず見落とすだろうな。さて、説明文を読んで頂ければ有難いが・・少し・・大型の円墳で径は50mを超す。竪穴式石室を持つようで墳頂には舟形石棺が打ち捨てられてるように置かれてある。説明によると前方後円墳が導入される以前とあるから在地的埋葬施設であったろう。ここで見られるような石棺は近隣の古墳でも見ることが出来るからである。近くには筍が生えていた。大きくなりすぎていたので持って帰らなかったがな。
当該ブログの記事は令和2年(2020)7月7日から17日までである。
等々力渓谷散歩(東京の長男に依頼)
等々力渓谷は横穴墓が三基ある・・そのうち一基だけが保存され、残りの二基は標識だけが建てられている。それと御岳山古墳と野毛大塚古墳が近在しており、両古墳にも行ってもらった。野毛大塚古墳は明治初期の江戸を写した写真があるのだが、その背景に写っているのである。気になっていたのではあるが長男が行ってくれたのには感謝である。
当該ブログの記事は7月11日から17日までである。