本書は、この4月に邦訳本が出たビートルズ本の一つ。原作は、2006年となっているから、マイケルジャクソンが亡くなる前に書かれた本。ビートルズを、楽曲の著作権という切り口から描いた、ドキュメンタリーというか、悲劇というか、経済書というか、とにかくユニークな本だ。
私が、翻訳者だったら”ビートルズソングズ漂流記”と名付けただろう。ノーザンソングズが、ビートルズの楽曲の著作権を所有した出版社名だと知らない人もいるかもしれないからだ。
著者のブラウン氏は、元々音楽ジャーナリストだったが、その後EMIでも働いたことがあり、業界通であることは間違いない。もちろん、古い話は、いろいろ調べたのだろうが。今まで、知らなかった業界用語が沢山出てくるところも面白い。
元々この著作権ビジネスというのは、ビートルズが出たころは、まだ確立されたものではなかったようだ。レノン&マッカートニーは、間違いなく今世紀最大の作曲家だと思うが、その著作権は、合法的だが、本人たちの意思とは関係なく漂流し、結局マイケルジャクソンの手元に渡ることになった。
マイケルが亡くなってからの話は、書いてないからわからないが、あまりニュースを見た記憶もないので、まだそのままご遺族の手にあるのだろう。ちなみに、著作権は、その作者の死後70年間保護されるのだそうだ。
そういえば、小室氏の話の時もこの著作権が話題になったっけ。著作権を彼は、有していなかった。本書と全く同じストーリーだ。
本書によれば、いわゆる印税は、その著作権を有する出版社が半分、作曲者が半分ぐらいもらうのが、最初は、普通なのだそうだ。
曲を売りだそうとする時、やはり出版社が力がないとなかなか世にでない。ビートルズは、ディックジェームスを最初の出版社に選んだ(厳密に言えばその前にもう一社あったが、力が弱く鳴かず飛ばずだった)。ディックジェームズの名は、ごく初期のレコードにその名を見ることができる。
そして、ディックとともに、ノーザンソングズ社を設立し、その後ビートルズの楽曲のほとんどの著作権は、ノーザンソングズ社に帰属することになった。たった二人の、かつまだ、ヒット曲数曲のアーティストのために、会社設立すること自体、すでに型破りだったという。
海外での著作権は、サブ・パブリッシング契約が別途結ばれるそうだが、ビートルズぐらいのアーティストになると、その契約関係は、複雑怪奇だったろう。実際は、本書の翻訳監修者は、東芝EMIの方で、日本だけでも、とんでもない金額だったという。
ちなみに、アメリカの出版社は、マンハッタン28丁目付近に多く、その地域は、ティンパンアレイと呼ばれたそうだ。ティンパンアレイは、ピアノの耳障りな音が、ブリキ鍋を叩いているような音であることから、名付けられたそうだ。やっと、ティンパンアレイの語源がわかった。
ノーザンソングズに、二人は、出資していたが、取締役にはなっておらず、コントロールできる立場にはなかった。その中で、イギリズの超累進課税を避けるため、所得を売買所得に変えるため、ノーザンソングズ自体を売りに出すという話になる。二人は、その判断に関わっていないし、その重要性も理解していなかった。
そして、ノーザンソングズは、ATVという会社に売られ、さらにその親会社だったACCが買収され、ジョンレノンが亡くなり、事態は収拾がつかなくなる。
そこにオーストラリアのコート氏という投資家が、買収に名乗りを上げ成功。ただ、コート氏は、金目当ての投資家であり、会社をずたずたにしてしまう。
ところがコート氏は、他の事業に行き詰まり、ノーザン・ソングズを売ることを決意。
ポールにも話は行ったというが、自分の作った曲の使用権を買い戻すのに莫大な資金を支払うことに、納得がいかず断念。そこに登場したのが、マイケルジャクソン。
皮肉にも著作権ビジネスの重要性をマイケルに教えたのは、当時蜜月の仲だったポールという。しかし、マイケルがビートルズの楽曲の著作権を買うというのは、想定外だった。その後、マイケルとポールの仲は、険悪になる。
マイケルは、コート氏の異常な金欲に翻弄されるが、結局買収に成功。その時の付帯条件が、コート氏のために、オーストラリアのパースでコンサートを開くことと、ペニーレーンの楽曲の著作権のみ、コート氏に残すことだったという。コート氏の娘の名前だ。尋常ではない。
その後、CBSレコードとの合併(ソニーATV)、ノーザンソングズの消滅等いろいろあるのだが、この著作権は、金のなる木であり続けた。
80年代のCD化、コンプリートビートルズ(ドキュメンタリー映画)、90年代のアンソロジープロジェクト、ビートルズ1。とにかく、ビートルズの楽曲が使われる度にチャリンチャリンとお金が入るのだから。
ポールの、自分の書いた曲を歌うのに、許諾を得なければならないなんて、というのが、正直な感情だろうが、合法的な契約と、数々の訴訟の結果が、今の状態につながっているというのも、厳然とした事実である。
ちゃんとしたアドバイザーを最初からつけておけばなどと、今では言えるけど、駆け出しのロックンローラーにそれを求めるのは酷というものだ。
ビートルズを、ビジネスの面から、知りたい人にはお勧めだが、相当マニアック。
この本も、この5月に出たばかり。山の辺の道を探索した直後に出た。
著者の大平さんは、大平元首相の次男とのこと。経歴を見ると、大会社を務め上げ、今は、大平正芳記念財団等を運営されている。その中で、この大著を著わした。
書きぶりは、穏やかながら、完全に昨日紹介した本を論破しようとしている。大平さんは、邪馬台国、畿内説をとり、今回の歴博の発見は、その考えをサポートする内容だった。
ただ、諸説を丁寧に紹介しているので、議論が、混沌としている様子は、よく伝わってくる。
大平さんの考えは、古事記を初めとした、諸資料に記載された内容を、何らかの根拠があるものだということを基本にしている。実在したと考えられる最初の天皇である10代崇神天皇の前後の天皇についても、その存在については、肯定的だ。証拠がないから、実在しないという論法には、徹底的に反論している。
つまり、邪馬台国は、ヤマト国と呼ぶべきで、記紀造作論により抹殺された古代の歴史を、今回の発見を機に、徹底的に再検討すべきだと述べているのだ。
その通りだと思うし、その方が、ロマンティックでもあると思う。
大平さんは、お父さんは、壮絶な最期だったが、その分も含めて、人生を謳歌されているように、本書を読んで感じだ次第。
今日は、長いタイトルだが、凄い長い本の題名そのままだ。著者は、安本美典(びてん)さん。古代史研究家で、よく名前を見る方なので、その道では、有名な方だと思う。
その権威?が、この題名。相当、気合が入っている、というか、感情がこもっている。
2009年9月に出た本だが、山の辺の道で、いろいろな古墳を見た後の本年4月に読んだ。
中を読んでまたびっくり。大御所とも言える安本さんが、かなり感情的に、昨年突然、歴博により発表された、箸墓付近で発掘された結果に基づき、邪馬台国が大和にあったことを断定するような発表内容に噛みついているのだ。
邪馬台国は、北九州説と畿内説を中心に、どこにあったか特定できていないのだが、その論争は、江戸時代から、延々と続いている。安本さんは、北九州説をとられているのだが、この発表(歴博による)の独善的な内容に、我慢がならないようなのだ。
確かに、我々素人は、あの報道で、邪馬台国畿内が圧倒的に有利になったと思った。その一番の根拠は、炭素14による年代測定値だ。ところが、これは、相当(百年以上単位で)、誤差があるものなのだそうだ。知らなかった。しかも古く測定される方向に。
その他、発掘された土器の形状や、銅鏡のデザイン等、すべての材料が、北九州説を支持するという。箸墓付近の発掘物は、発表されたほど古いものではないのだという。
北九州の古い地名と、大和地方の地名に多くの類似点がみられるのだという。これが、大和王朝東遷説の材料の一つになっている。いろんな研究が積み重ねられている。
それにしても、この論争。さらなる発見がないと結論は出ないのだろうが、少なくとも発見された物に対する研究についての議論は、オープンに、正々堂々とやって、それなりの結論を出して行って欲しいものだと思う。そうしないと、いつまで経っても進展しない。
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4月の島根探訪を終えて、本屋に行ったら、この本が平積みになっていた。あまりのタイミングにびっくり。梅原猛さんの書きおろし。古代出雲王朝について論じている。
驚いたのは、それだけではない。梅原さんは、本書のために出雲を訪れており、その時の訪問場所が、ほとんど私の訪問場所とかぶっていて、写真まで載っている。
この本を読んでから行ったら、完全カバーも可能だったぐらい。
梅原さんにとっても、近時の出雲での諸発見は、想定外のものだったようだ。
梅原さんの本は、中学時代に結構読んだ。”水底の歌”とか、”隠された十字架”とか、”黄泉の王”とか。歴史書というより、推理小説の趣だった。
本書によると、梅原さんは、当時、出雲王朝の存在を否定していたそうだ”神々の流れ攅竄(るざん)”。確かに、出雲王朝は、古事記にふわっと描かれ、日本書紀には、触れられていない謎の王朝だ。出雲国風土記の内容ともかなり異なる。大和王朝の権威付けのためにでっち上げられたとされてもおかしくない。津田左右吉の思想の流れを汲む考えだ。
しかし、これだけ、いろんなものが見つかると、相当の権力が、出雲(または、出雲を中心とした日本海)に存在したと認めざるをえなくなり、懺悔の旅?に出たという訳。
それにしても、同じものを見ても、そこから得られるものは、桁が違う。年季が違うといってしまえばそれまでだが。面白味も百倍。
さらに話は進み、古事記を著わした稗田阿礼は、藤原不比等ではないかと論じている。二人は、年齢的にほぼ一致し、古事記は、神々(当時の豪族代表の重臣)の評価をし、結局藤原氏がNO1という結論になっていることからの主張だ。
竹取物語においても、かぐや姫から、いろんな宝を持参するよう言われた五人の登場人物は、当時の実在の重臣に当てはめられるのだという。そして、その中で生き残るのは、藤原不比等のことと考えられる”くらもちの皇子”だ。
やはり、梅原氏の著作は、歴史書というよりは、推理小説に近いような気がした。だから、面白い。物的証拠がなければ、後は、どう推理しようと勝手だ。わからないのだから、あとは、推理するしかない。
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今日もゴルフだった。暑かったけど、風もほどほどに吹いて、富士山もよく見えた。まだわずかに雪が残っている。
家に帰ったら、所さんが、熱中症予防の番組に出ていた。もちろん、救急車で運ばれる前の録画とは思うが、それほど突然症状が表れるものなのだろう(もしくは、テレビの情報は、所詮その程度のものということ?)。大事にならなくてよかった。すぐ救急車を呼んだのがよかったのだろう。
私も注意しなくっちゃ。ゴルフの途中に唐黷ナもしたら、しゃれにならない。
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「ブラック・スワン」は、かなり前に読んだ本だ。書かれたのもかなり前。リーマンショックの前だ。このリーマンショックの前に書かれたということが、この本のヴァリューを大きく上げた。
作者のナシームさんは、元デリバティブトレーダーで、今は、不確実性科学の研究者のようだ。
「ブラック・スワン」というのは、変わった本名だが、白い白鳥が当たり前と考えられている時に、たった一羽の黒い白鳥が見つかっただけで、すべてがひっくりかえってしまうところから名づけられた。
この本のテーマに当てはめれば、①異常であること(過去の経験から普通に考えられる範囲の外側にあること)②とても大きな衝撃があること③異常であるのに、一度起こったら、適当な説明をでっちあげたり、予測が可能だったことにしてしまうことをいう。
いわゆる先物・オプション取引は、将来の予測に基づいて価格が決められ、取引がなされる。これは、偉いノーベル学者が考えた確率論に基づいた精緻な理論、計算に基づいてプライシングされているはずだった。いわゆるベルカーブだ。そして、ベルカーブのはじっこの方が起こる可能性は、極めて低いとされ、実際の取引には、結果的には、ゼロと扱われ、段々無視されるようになってきた。
ナシームさんは、歴史に接すると人間の頭には、三つの症状が出るという。不透明の三つ子と呼んでいるが。
①わかったという幻想。世界は、実感するよりずっと複雑(あるいはランダム)なのに、みんな何が起こっているか自分にはわかっていると思い込んでいる。
②振り返った時の歪み。私たちは、バックミラーを見るみたいにして、後付けでものごとを解釈する(歴史は、人が経験する現実よりも、歴史の本で読んだ方がわかりやすい)。
③実際に起こったことに関する情報を過大評価する。権威と学識ある人は不自由になる。とくにものごとの分類を始めたりすると、つまり「プラトン化」すると、それに縛られてしまう。
やや哲学的な表現にも見えるが、思わず肯いてしまう方が多いと思う。
ホリエモンの言う”想定外”のことは、我々考えるより、そして数学者が考えた確率論からはじき出された確立よりも、ずっと高い確率で起こっている。
リーマンショックなどが、まさにその典型なのだ。
ナシームさんは、カジノ経営の例をあげている。
カジノなどは、まさに精緻な確立論の世界で、必ず、最終的には、胴元が勝つようになっていると思っていたが、実際発生したリスクは以下のようなものだったという。
①売り物のショーの出演者が虎に襲われ怪我をして、一億ドル以上の損を出した。
②建設業者が、建設中に怪我をして、慰謝料が少なかったことに腹を立て、ホテル爆破を図った。
③ギャンブラーの儲けが一定以上になるとホテルは、税務署に報告書を出す必要があるが、予測不能な従業員の怠慢で、数年間報告がなされず、税法違反で莫大な罰金を払った。
④カジノのオーナーの娘が誘拐され、オーナーが身代金を確保するため、カジノの金を違法に、持ち出した。
何か「オーシャンズ13」を思い出すが、これらのリスクが、一生懸命考えたリスクよりもずっと大きかったのだ。
ナシームさんは、自分のそういった限界を頭に入れつつ、計画を立てるべきだという。どんなに精緻に見えても、予測は、予測。限界があるのだ。
そこで、ナシームさんは、バーベル戦略を勧める。黒い白鳥のせいで、自分が予測の誤りに左右されるのはがわかっており、かつ、ほとんどの「リスク測度」には、欠陥があると認めるなら、とるべき戦略は、可能な限り超保守的かつ超積極的になることであり、ちょっと積極的だったり、ちょっと保守的だったりする戦略ではないというのだ。
中ぐらいのリスクは、本当に中ぐらいのリスクかわからないので、絶対安全と思われるものと、最もハイリスクのものに、例えば、9:1ぐらいで投資するというのである。
例えば、株式トレードでいえば、過去50年間の株式トレードの収益の半分は、動きの極端だった10日間!で占められており、この10日間の動きは、いわゆる異常値として取り扱われる動きのあった日だという。まさに、リーマンショックを思い起こさせる。
本は、段々哲学的になってくる。
ナシームさんは、人生を大きく変えるアドバイスをもらったという。
「電車なんかで走るなよ」
電車を捕まえようと走ったりするのをやめて、私は、優雅で美しい所作の本当の価値を知った。自分の時間や自分の予定、そして自分の人生を自分でお思いのままにするということだ。電車と逃して残念なのは捕まえようと急いだときだけだ!
他にも、なるほどという話がたくさん盛り込まれている。
本書は、結構私の仕事の仕方や、生き方の影響を与えた本である。