森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

卒寿のお祝い

2023-06-08 11:00:13 | 家族スナップ

6月7日は母の誕生日。

90歳になりました。

その誕生日会を6月3日の土曜日に横浜の実家にて行いました。

 

19名の集合は、賑やかで楽しかったです。

 

昨日の夜、これを書き始めて、ふと毎年の「母の誕生日」の事を思い出し、自分の過去記事を読み直してしまいました。そして深夜になってしまい、書くのを諦めて就寝し、また朝になってから書き始めました。

ずっと続けているブログは、本当に役に立ちます。だけど時々、続いているがゆえにめちゃくちゃ切なくなる時もあるのでした。

 

 

母の誕生日会(2015年82歳)

てまり寿司にエビフライ。みんなちょっと頑張りました。エビフライはなにげにスノウさんのリクエストだったと思います。てんこ盛りの量を揚げたのは私だけれど^^

なんでかこの年から、母の誕生日会をすることになりました。父がいた時、母は父のあばらを1本貰って人生を生きていたような人だったと感じています。私たちの思考も、そんな風になってしまっていたように思うのです。父の誕生日のお祝いイベントをしても、いつもその時に母も一緒。今思うと大きな間違いだったかもしれないけれど、みんなの生活を思えばそれはそれで正解だったと思います。(でも誕生日のお祝いは、ちゃんとその時に別に渡していました。)

 

ああ、笑ったねっ♪(2016年83歳)

お店を予約して行いました。みんなでずっと笑っていました。

 

まったく無理をしない「四万温泉旅行記」その4(2017年84歳)

私の節目のお祝い旅行だったのに、2月が6月までずれたせいで、いつの間にか「母の誕生日会」になってしまいました。この四万温泉に行きたいと言ってきたのはお姉ちゃんだし、旅館の予約からバスのリサーチと切符の手配、母のプレゼントの買い物(姉と)・・・・頑張りました、私 !

いや、頑張るのは良いのだけれど(好きなことですし)、やっぱりこれは私の誕生日会だったのでは・・・・と今でも首をかしげたくなるようなまたはニヤニヤとしたくなるような微妙な気持ちになります。

 

何に涙するか分からない。(2018年85歳)

2018年は意外と家族イベントが多くて(東京のスーパー銭湯に行ったり、一族で旅行に行ったりなど)、母の誕生日には集まりませんでした。みんなのラインでのお祝いコメントで涙する母。

 

2019年はスノウさんは再び病気だったこともあるけれど、ちょうどその時、私のトルコ旅行と重なって「誕生日会」はなかったのでした。

2020年はコロナのせいで、やっぱり集まりませんでした。

だけど8月の終わりにみんなで集まり焼肉パーティをしました。この時スノウさんの事ばかりが記憶に残っていましたが、すでに母はかなりスッとぼけた人になっていました。耳が良く聞こえてなかったからもあると思います。この頃、持っている補聴器を真面目にしていなくて、よく姉が怒っていました。

それでも母は普通の人に感じていました。一緒に食事に行ったり散歩に行ったりと楽しかったです。

 

「痛くない所を探すのが大変なの。」&紫陽花の季節(2021年88歳)

やはり集まれず。米寿だっていうのに。でもスノウさんの体力、コロナ。仕方がない事でした。それでもラインがあって良かったです。

この頃、姉の口から「ボケてきた」という言葉が出るようになりました。

確か、この年に病院に認知症テストを受けに行ったのではないかと思います。

それでもラインを読んで涙した母、返事の動画の母は、普通の可愛らしい老人に見えました。

 

母の誕生日会☆2022(2022年89歳)

2022年は、スノウさんのお葬式のあった年でした。

母は認知症。お葬式の時、母が少しボケていて良かったと、私は思ってしまいました。そうでなければ、子を先に失う悲しみに耐えられるわけがありません。

上の記事の中で、

>そう、老人性の認知症になってしまったのです。でもまだ入り口。普通の会話は大丈夫です。

と書きました。

 

今でも普通の会話は出来ます。だけど、視界から消えると、その人が来たことを忘れたり、または帰ってしまうと、その日はもう誰も来なかったことになってしまいます。

 

今年、「誕生日会」を開いても、すぐに忘れてしまうかもしれません。最短で皆が帰った夜には。

だけど私たちは、みんなが集まった時間が3時間ならその3時間の楽しさのために頑張ろうと思いました。

 

私たちだって、昨日が楽しくて今日が楽しくて明日が楽しかったら、毎日が楽しいとなって、「なんて楽しかった人生だったのだろう」と思えるんじゃないかと思います。

その間隔が短くなるだけ。

忘れてしまったら、その理屈は当てはまらないことのようですが、それでもその楽しい一瞬のために頑張りたいと思ったのでした。

記憶は消えても、楽しかったと言う想いは消えないかもしれないからです。

 

集まったら、最初にみんなで記念写真を撮りました。お料理も入れて^^

 

 お行儀よく座っているのは、この後ろにもずらりで、18人の人間が並んでいるからです。

今回もなんでだかお買い物係は私で、高島屋で夏用のシャツを買ってきました。

横浜人なので、あの薔薇の包み紙は需要かなと思いました。でも無反応だった。

ちょっとそこは、読み間違えました。

 

余計な話ですが、高島屋での買い物の時、パッと見た服が素敵で、「ああ、これ素敵。おいくらですか ?」

「3万5千円です。」

クラッときました。

そう言えば、デパートで服を買うのも久しぶりで、2011年、今では幻の時代ですが、10キロやせた私は、いそいそとスカートを買いに高島屋へ。2枚買って、5万5千円払ったような気がします。で、最近は大きな声で友達に「しまむらって楽しいよねぇ。」とか言ってる生活なので、シャツ一枚の異世界金額にクラっと来ても仕方がないことですよね。

でもそこでコソコソとしないのが私らしいかも。

「あーー、恥ずかしい~。侮っちゃったわ、高島屋。」と言ったら、

「ご予算は。」と聞いてくれたので

「その半分よ。もう少し買い求めやすいお店、このフロアにあるかしら。」と聞いたら、

その場所までわざわざ案内していただけました。そしてそのお店の店員さんに、それまでした会話も含めて(袖とか色とか)紹介してくれたので、あっという間に良い買い物が出来ました。

私は今はデブで、あまり何を着ても似合わないと思うのですが、実は服を買うのが好きなんです。でも時にはぐっと我慢して、少々お金をためて自分のために、デパートで服を買うのも良いよねと思ったりもしました(昔の様に)

 

で、話を「誕生日会」に戻しますね。

「今日は、お母さんの誕生日のためにみんなが集まったのよ。」

「私は89歳よね。」

「ううん。(面倒くさいので)今日からお母さんは90歳よ。」と言いました。

「あと4日あるけれどね、今日から90歳ね、分かったわ。」という母。

母の誕生日は本当は7日なのです。「あらっ、何 !? 分かってるじゃん。」と驚く私。

ちょっと忘れてしまいましたが、似たような会話が又ありまして

「なんかボケてないんじゃないの。」と独り言のように私が言うと、隣に座って居た叔父さんが

「誰なの、ボケたって言ったの。失礼しちゃうわよ、まったく。」と母の真似をしてふざけて言いました。

 

たまにしか会うこともない夫も

「今日のお母さんは、本当に普通に見えたし元気で良かったね。」と後から私に言いました。

 

でもその日、気になった私は、夜お姉ちゃんに電話をしました。

母は、やっぱり最初は「誰も来なかった。」言ったのだそうです。

だけど「東京からも千葉からも皆来たじゃない。」と姉がもう一度言うと、じっと何か考えているようなそぶりを見せた後、

「あー来た来た。東京からも千葉からもみんな来たねぇ。」と楽しそうに笑ったと言いました。

 

やっぱり可視化って大事なことだなと思いました。

写真とか、プレゼントとか。

 

いつまで覚えているかは分からないことですが、卒寿のお祝いはサクセスだったと思いました。

 

 

 

 

 


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3月4日は、誕生日でした。 

2023-03-05 23:57:02 | 家族スナップ

こまめに書く日記。

3月3日、4日、5日の日記。

 

実はここのところずっと小口のお出掛けが毎日毎日あって、疲れが蓄積していました。

だけど3月3日は横浜の実家に出掛ける事に。

私がバタバタとしていたら、だいたい猫さまたちも怪しんで、少々落ち着かなくなるんです。

だから朝は十分にベランダに出してあげます。

でも彼はやっぱり疑っていたような・・・

だけどそんな猫さまに後ろ髪を引かれながらも出掛けました。

 こんな大荷物でどこに行くんだって !

実家ですが・・・・(笑)

今回の私のミッションは、翌日の妹の1周忌のために集まった人のためのお茶菓子の買い出しと、おじさん用のお土産を買っていくことだったのです。

もちろん横浜で買って行けば、大荷物にもならず選択肢も増えると言うものですが、ちょっと場所的にも内容的にも迷ったら嫌だなと思って、選択肢一択でしかないのですが、事前に地元で買っていく事にしたんです。でもお土産用のカステラは、横浜で買う事にしていたので、高島屋の地下に降りて、やっぱり買っておいて良かったと思いました。人の数とお店の数と疲れ蓄積で本当に歩くのが辛く感じましたから。。自分用のお弁当を買うのにも迷ってしまったり・・・

 

2月の退院後、なんだかんだとお出掛け続きでしたが、今回のように電車を乗り継いでの移動は久しぶりで、辿り着くまでにヨロヨロになってしまいました。

実家に辿り着いて

「病み上がりだったので辛かったわ。」と言ったら、義兄が

「病み上がりって誰が ?」ですって。

ちとムカッとした(笑)

でもなんか私、いつだって元気溌剌っていうイメージがあるんですよね。入院中でも、いつだって顔色とか良くて、何で入院してるのってそんな雰囲気が漂ってたもん(^_^;)

だけど私、家に向かう夜道で、横浜駅から電話をすると、いつも途中まで迎えに来ていてくれた母の姿や姉の姿を、記憶の中の風景の中で探している自分が居て、本当は寂しかったんです。

 

 

翌日はこんな感じで並べました。お寺に行く前に、出来る準備はして行ったのです。準備と言っても振り分けただけですが。

さらに増えて

でも一番受けたのは、お墓からの帰り道にラッタさんがスーパーで買い求めたポテトチップの大袋だったような・・・・

 

法要&墓参りの時の写真はブログには載せられませんが、なんとなく静かでそれでいてホンワカするような、良い時間だったと思います。

今年の今頃は、皆いろいろと手術などの予定が入り、本当はお墓で解散と言う話も出ていたのですが、実家にてお茶ぐらいはみんなで頂きたいという話になり、そしてやっぱり簡単に夕食なども頂こうという事になったのです。

墓参りが終わった時、私は言いました。

「あの皆さん。今日はスノウさんの誕生日なんですよ。」と。

 

実家にて、みんなでワイワイとお茶などを頂いて、ちょっと早い夕食を頂きましたが、親族で集まるのも久しぶりで、まるで誕生日会のような楽しい会になりました。

いつも賑やかだったスノウさん。しんみりと思い出話を語られるより、みんなで楽しく笑い合った方が嬉しかったと思います。

知らない間に、彼女は誰かの隣に座っていて

「ビール、こっちにも回して。」とか言っていたかも^^

 

そう言えば、お墓参りの時、父だけの時はお墓にお酒が供えられることはなかったのに、今ではいつもビールもお供えされるようになったのですよね。

あまりにも急きょだったので、何処かで予約をしてのお料理ではなかったのですが、予約時間を気にして移動の時間にやきもきしなくて良かったと、姉などは言っていました。

手作り1周忌、そんな言葉が脳裏に浮かびました。

 

その翌日、つまり今日、私はまたもラッタさんと横浜で待ち合わせをして、ランチ&お茶をしてから帰りました。

 

(一部です。)

シャコはこのお店で二回目。あまり普通の回転寿司では頂けないのではと思います。

「昨日は、従兄弟たちと話が弾んでいたね。楽しかった?」

と私が訊くと

「うん、そうだね。」とラッタさん。

法事に「楽しい」はないと思うのですが、たぶんみんな楽しかったと思います。

やっぱりあれは誕生日会だったんだなと、私は思いました。

 

 

トップ画像は、街路樹で1本だけ咲いていた桜。

下の画像は、マンションの姫入金花。

 

 


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ワタシマケマシタワ

2023-01-23 10:55:59 | 家族スナップ

トップ画像は、お友達からのプレゼントで「大寒のたまご」。

2023年の大寒は1月20日で、この日に生まれた卵を頂くと「金運や健康運を呼び込む」のだそうです。

2個ずつリッチに使って、さっそくオムライスを作りました。とっても美味しかったです。

ありがとう、お友達。

説明を読むと「昔から言い伝えられ・・」と書かれていましたが、私は初めて知りました。

新しい事に、まだまだ出会える人生の旅。

無知なるがゆえに、またそれも楽しと言う所ですね。

 

ところで昨日は、姑と我が家の家族で一緒にランチでした。

なんでも家で眠っていたテレホンカードとクオカードを売ったら、万単位の臨時収入があったのですって。クオカードは、そのまま使った方がお得ですが、姑なんかにはどこで使ったらいいのか分からなくて分かり辛いカードなんです。元々は頂いたものだったので、売って使いやすい現金に換えてスッキリしたみたいです。

そして漁夫の利の私たち(笑)

でもきっと最近では、私たちの方が外でのお食事のときに出しているので、悪いなと思っていたんだと思います。それに「悪いな」もあるけれど、親っていくつになっても、自分の方が守るべきものでありたいと思うものではないかしら。だからお食事代とかも、本当はいつも昔のように出したいって思っているんだと思うんです。本当にいつも出してくれようとするのですが、息子を先に亡くしてまたも一人暮らしの年金生活になってしまった義母には、こちらの方が親切にしたいような気持ちに私はなってしまうのです。

でも今回は、最初に臨時収入の話を聞いていたので、遠慮なくという所です。

 

お店は混んでいて30分ぐらい待ちましたが、待った甲斐があったと思える美味しさでした。

 

「先週何をしていたの ? 何回も電話したのよ。」と私。

先週も、本当はお食事に誘おうかなと思っていたのです。

「あらっ?  家に居なかったかしら。」

「いなかったわ。お花の講習会に行ったのかと思ったわ。」と言うと、

「ああ、そうだった。行きは近所の人にお礼を払って連れて行ってもらって、帰りは商店街をゆっくり歩いて電車に乗って、こちらの駅からタクシーで帰って来たのよ。結構ひとりで行けるなぁって思ったの。」

「あの商店街、けっこうな距離あるじゃない。凄いね。歩けたなんて。」

「昨日は××さんが来て(長男さんの友達)、なんだか分からないけれどお肉を持ってきてくれたの。」

その長男さんのお友達は、昔から義母夫婦をお兄さん関係なく訪ねてくる人で、早くに自分の両親を亡くしていたその人にとっては、姑は仮の母のような人なんだと思います。

「お肉を食べて、いつまでも元気でいてねと言う意味だと思うわ。」と私。

「そうかもね(笑)

先週は、○○さんが来て(たぶん近い親戚:私は興味ないので詳しく知らない。)、『もう故郷の思い出話や噂話が出来るのは、ここしかない。』と言って、3時間もぺちゃくちゃしゃべって帰っていったの。」

「確かに、だんだんそうなるよね。じゃあ、やっぱり長生きしなくちゃね。」となり、何か私の方からも話題を振ろうかと思いましたが、何一つ思い浮かびません。

「ずっと家にいたからか、何も話すことがないわ。」と情けない事を言う私。

「そうなるよね。」とあっさりと姑。

 

家に帰ってから、先週、そんなに家にばかりいたかしら。居ないから一気にお片付けが出来なかったんじゃないのかなと思い、自分の生活を振り返ってみました。

確かに20日の日は楽しい昔の友人たちとの同窓会ランチ。ドライブも含めて、本当に楽しかったんです。でもこの話を姑に話す気分じゃなかったし・・・・あとは・・・ ?

図書館の本を返すついでに市役所出張所と本屋と銀行に行ったり、歯医者に行ったり、整形外科に行ったり・・・・・・・。

先週は月曜日から金曜日までずっと夕方からはお仕事も入っていました。

確かに家には居ませんでした。

でも姑に話す話題、やっぱり無かったなぁと思いました。

しかも「歯医者に行ったり整形外科に行ったり」って、あー、もう、それだけで、なんか彼女に負けているような気になってきました。

 

次男である義兄の病気が発覚した昨年の3月から、ずっと心は重かったと思うのですが、亡くなった後、義母は呟くように「また、お花をやろうかしら。」と夫に言ったというのです。

私はそれだけで、この人は本当に強い人で、それだけで尊敬しちゃうなと思えたのです。

勝てないなぁ、いろいろ。

 

だけど家に帰る道すがら、夫が言いました。

「走る車に、ずっと手を振って見送ってた。ばあちゃん、楽しかったんだなぁ。良かったな。」と。

 

そうですよね。

勝った、負けたと騒ぐじゃないよ~ですね。

でもやっぱそれでも言ってしまいます。「勝てそうにない。」って。

だって姑はもうすぐ97歳なのですよ。

私、そこまで生きられる自信ないですもん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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謎の携帯メール事件

2022-11-05 12:02:37 | 家族スナップ

母は悲しい事に、認知症になってしまいました。

まだまだ入口。

そう思いたいからそう思ってきましたが、どうも最近加速度が増しているようです。

だけど母の現在の状態は、今は深く語らない事にします。

それは、3日の日に起きた「謎の携帯メール事件」について語りたいからです。

 

3日の日は祝日でしたが、普通に夕方のバイトはありました。それでそこに行く前に、スマホをバッグに入れようとして、ふと開いてみると、着信とメールが来ていたことが分かりました。

誰からかと履歴を見ると、何と母からでした。

「えっ?  なんで ?」

と私は思いました。

認知症という事もあるけれど母は耳も悪く、補聴器をつけていても、かなり電話は負担に感じるようで、分かっているので、こちらからも掛けないし母からの電話もまったくありません。その携帯は、二階に住む姉の呼び出しなどに便利に使っているのだと思っていました。(あとで電話で確認したら、今はそれにも使っていないらしい…。)

「間違えてしまったのかしら。」

と、思いつつ、今度はメールを開いてみると、やはりこちらも母からでした。

「えっー !?」

と、私は吃驚しました。

電話は、私の電話ナンバーを簡単に登録してある番号(1番2番3番みたいな)を間違えて押すという事はあるかもしれません。

だけどメールは、メール画面を開いたり打ったりしなくてはいけない訳だし、間違えてとは言えないんじゃないの ?

 

しかもそのメール

『😀(^-^)(^-^)(^-^)😀😀😀😀😀U^ェ^UU^ェ^U 』なのですよ。

 

― ワンコの絵文字って、スキル高いじゃん。いや、何かを押せば出てくる決まりの形かも知れなくても、こんな風に打ってこ無いよ~!? ―

 

私は「どうなってるの ?」と首を傾げつつ、姉に電話しました。

すると姉が言った言葉に私は吃驚です。

「お母さんに電話出来るわけがないよ。だって倒れ込んでからずっと寝てるんだから。」

「えっ?ちょっと待って。今、なんて言ったの ?

『倒れ込んで』って言ったよね。」

「そうなんだ。本当はさっき電話しようかと思ったんだけれど、落ち着いたから、やっぱりイイヤとなったわけ。」

そう言って姉はいきさつを話してくれました。

 

ディサービスから帰ってきた母の顔色は真っ青で、その後調子が悪く食事もしないで横になったらしいのですが、母の認知の最初の現れは、「強迫観念」と言うもので、(別にお医者さんが言ったわけではありませんが)、時間になると家の周りをぐるぐる回って、火の元の点検をしないと、心が安らかにならないのです。

一回起きて来て、それをやったらしいのですが、姉が戻って来た母に話しかけても、目がうつろに閉じかけていて、「もう早く寝ましょう。」とお布団に入れて、今は寝ているという事だったのです。

電話はこの時に間違えて、私の「2番」と言う所を押してしまったのかも知れません。

だけどメールは ?

 

姉に母からのメールをコピーして、見てもらいました。

夫にも。

誰も首を傾げるばかりです。

 

姉は言いました。

「大丈夫よ。たぶん、ディサービスの帰りの車がいつもと違う車だったから、酔ったんじゃないかと思うのよ。だけど気になって、何度も見に行ってるから。」

それでも私は言いました。

「でもお姉ちゃん、朝になって、お母さん、冷たくなってたらどうしよう・・・・。
だって、これって虫の知らせみたいじゃん・・・・・!」

 

そうなんですよね。これ、母からの着信履歴とメールが入ってなければ、私はその日は姉には電話しないで、母の不調も知るわけもない事だったのですから。

結論から言うと、母は翌朝復活しました。

だけど、とある事が分かりました。

その時の電話で、ふとある事に気がついて

「もしかしたら、お母さん、履く下着の数、足りなくなってるかもしれないよ。」という事を話題にしていたのです。

先日家に帰った時にも、やはりある事に気がついて(泊まっている部屋が近いので)、それで姉が紙パンツなど準備してあったのですが、さっそくそれが役に立ってしまいました。

しかし繰り返しがメチャクチャ増えてきましたが、一応普通の会話が成り立ちプライドの高い母に、夜中のトイレ対策として、如何に紙パンツを勧めるかという難しいミッションが、この時すんなりとクリア出来、姉もホッと胸を撫で下ろす事が出来たのです。

 

メールの謎は謎のまま。

先日夢を見ました。

庭仕事から戻ってきた父に、普通に私は笑いながら会話をし、「お茶、飲む ?」と聞いている夢です。

「うん、飲むよ。」と父が言い、

「私も。」とスノウさんが言いました。

「OK~。」

登場人物は、父と私とスノウさん。

ひえ~~~・・・・。くわばらくわばら。

だけど

「お茶っ葉、どこにあるの ?
お茶碗、どこよ。
おかあさーん、おかあさーん。」と呼ぶ私。

いやぁ、お母さん、来なくて良かったですよね。

 

ふと考えてみると、今度私が横浜に行くのは、11月11日から13日。

11月13日は父の誕生日で、いつもその前後に私たちは墓参りをし、スーパー銭湯に入ったり、みんなでお食事をして楽しく過ごす「家族の日」だったのでした。その「家族の日」と言うのが決まっていった経緯は、→「私たちの「家族の日」でした。」

まあ、「家族の日」と言う言葉を使っているのは、私のみで、たぶん他のみんなは、単純に「お父さんの誕生日」と思っていると思います。昨年は、11月14日にスノウさんの家に行き、4人姉妹揃って会う事が出来ました。

ふと、あのメールは父が打ったのかと思いました。

「忘れているだろう。」と言うメールだったかな。

それとも

「もうパンツが無いぞ。」のメールだったかな。

「お母さんをよろしく。」のメールだったかな。

 

 

 

 


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実家の片付け その2

2022-07-11 23:33:23 | 家族スナップ

たぶん毎月と言うわけにはいかないと思いますが、実家に帰ったら、一日はお片付けを手伝おうかなと思っています。

「実家の片付け その1」は、実は記事はなくて「6月の暮らし☆2022」の中の「その他の日記」の欄に書きました。

6月は10年近く手つかずだった父の洋服ダンスの中の服を捨てました。

 

その時、私はふとある事を思い出し姉に言いました。

「お姉ちゃん、ジャケットなんかを捨てる時は、ポケットの中を見た方が良いよ。」と。その中の服はすべてが洗ってあるわけではなかったのです。父の最後の日々に着ていた服が何枚もありました。

父は黒い革ジャンが好きでした。だけど何枚も似たような奴があって、思わず父らしいなと笑ってしまいました。

父は貰ったお釣りなどをお財布に入れないで、ポケットに入れっぱなしにする事も多かったのです。

子供の頃、母がそれを時々チェックしていたのを見ていたんです。母も私の前でまったく悪びれず、「お父さんはね、こんな所にお金をね・・・」と言う感じ。

ある日、母のいない時に集金の人が来て、対応していた父に「端数の小銭はないですか。」と言ったんです。

あまり小銭を持ち歩かない父だったので、お財布の中を見ながら「ないなあ・・」とか言っていたので、

「あっ、もしかしたら、あるかもよ。」と私は洋服ダンスの中の父の背広のポケットから、その端数のお金をみつけ父に渡しました。

集金の人が帰った後で、

「どうしてそこにお金があるの知ってたの?」と父が聞くので

「お母さんが教えてくれたの。使っていいお金だって。」

「なんて事を !! 悪いやつらだ。」と父。

その後、父が何を言ったのかまでは覚えていませんが、あまり嫌な思いをしなかったので、怒ってなかったのだと思います。

我が家でも、1円5円10円が溜まってしまうと、男たちはみな私に寄付をしたがりますので、そんな感じだったのかも知れませんね。

 

そして今、父のジャケットからはお金は出てきたのでしょうか。

それが出て来たんです。

100円だったかしら。それにも満たない68円だったかな ?

「少なくて残念だったね。最後はずっと家にいたから、小銭をポケットに入れる機会も無かったものね。」と私は笑いながら言いました。

でも・・・・、

でもですね、私はこれを書いていて、急に切ないような、胸がキューンとなるような気持ちになりました。

洋服ダンスの中で、父の日常がずっと眠っていたのかと思えて。

 

そして7月の実家の片づけは、母の部屋にある整理ダンスの整理です。勢いがついて押し入れダンスやベッド下の整理などをしました。

資源ごみになる服の処分はゴミ袋二袋でしたが、バッグやベルト、その他もろもろで他に七袋ぐらい捨てました。

なんだか母の部屋が軽くなったように感じました。

母はある時から、「掃除」の意味を忘れてしまったのかと思うくらい、お掃除をする事をしなくなりました。もちろん掃除機掛けなどはしますが、箪笥の上などは何年掃除していないのだろうと言うくらい埃を被っていました。

埃を取ってスッキリした父の作品です。

そうか。下の白い部分は粘土でやればいいんだなとか思う私。

私が箱庭のようなものを作りたくなってしまうのは、父の血の影響からかしら。

因みに私の作ったもので一番最近の物は、2020年のコレ→

 

頑張った証拠の画像は ↓

 

 

引き出しなんかを整理していると、26歳か27歳くらいの父が母に出した手紙が出てきたりしました。私がまだこの世に存在していなかった昔です。

その頃父は失業し、母は山梨の父の実家に身を寄せていました。父は生活を立て直すために、ひとり横浜に残り奮戦していたのでしょう。

母は舅がしていた水晶研磨の仕事を手伝っていたと思います。

綺麗な文字で、仕事はゆっくり覚えれば良いからとか、肩身が狭くならないように食費を送るとか、何も持っていないと心細いと思うから母の小遣いの分も入れておいたとか書いてありました。

手紙には母が「一人で読むこと」と但し書きがついていました。

その但し書きのせいで、途中で読むのを止めたのではありません。母の小遣いもという所で、泣いてしまって読めなくなってしまったのです。

父は若くしてちゃんと大人の素敵な男だったなと、身贔屓な私は思いました。

66年、大事にしまわれていた手紙、もちろん大切に引き出しにしまいました。

(でもいつか読んでしまうと思う、私^^)

 

押し入れダンスの中から、博多人形が新聞紙に包まれて2個出てきました。

昔これは、箪笥の上に飾られていました。たぶんですが、これが仕舞われたのは、2011年の3月11日以降だったのではないかと思いました。博多人形は母が好きで、部屋にも2個飾ってありましたが・・・・・

 やっぱりさぁ、この人形たちは4個一緒に飾られた方が良いよね。

絶対に良いよね。

 

脈絡なく出てくる花の画像は、6月に行った「イングリッシュガーデン」の花たちです。

 


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母の誕生日会☆2022

2022-06-26 22:47:33 | 家族スナップ

6月に実家に帰ったのは、4日5日6日でした。そしたらやっぱり7日の母の誕生日の事を意識するでしょう。

というわけで、6月5日の日曜日は「母の誕生日会」を開くことにしました。

母の誕生日会は82歳の時からしばらく続けていましたが、何らかの事情や、父の七回忌、コロナ禍などがあり、久しぶりに開くことが出来ました。

だけど昔のように、大量のエビフライを作ったり手毬寿司を作ったりすることもなく、お寿司を取って終りです。(何となくみんな疲れちゃってて・・・(^_^;))

 

昔は自転車で15分くらいの所に住んでいたラッタさん。今は電車に乗って1時間はかかってしまうので、誘っても来ないかなと思っていたら来てくれました。しかも差し入れを持ってきてくれました。

「まあ、なんて気が利く子供かしら。」って、完全なる親バカのワタクシ。と言ってもラッタさん、もう若いおじさんですが(涙)

 

この「誕生日会」、何をしたでもなく、最後に集合写真を撮ろうねって言ったのにそれも忘れて、だけど何となくホンワカしていて楽しかったです。

集まれた、ただそれだけでも良かったのかも。

そう言えば、今年一年生になった又姪ちゃんが、運動会で踊ったダンスを披露してくれました。二人の少女は今、ドラクエにはまっていて、だから私は言っておいたのです。

「ラッタおじさんが来たら、きっと『ドラクエ』の話が出来るよ。分からない事があったら教えてもらったらいいよ。」と。

それで彼女たちは、彼とお話が出来る事を楽しみにしていたみたい。

頼られて、ラッタさんもまんざらじゃなかったみたいで楽しそうでした。

でもそれに触発されて、私に孫が出来る事は・・・・・やっぱり無いようで(ノД`)・゜・。

 

母は悲しい事に去年の母とはちょっとだけ違います。

そう、老人性の認知症になってしまったのです。でもまだ入り口。普通の会話は大丈夫です。

行き始めたデイサービスの報告を聞いて悲しくなりました。

認知の人の話を鵜呑みにするわけではありませんが、聞いた限りでは、母にとってはまったく楽しい場所には感じませんでした。

ちょっとだけモヤモヤしました。今はデイサービスでも出来ない事がいっぱいあるのかも知れません。でも週に二日だけ、変化を求めて行くことを了解した母の為に、少しでも面白い事があるといいなと思いました。

 

誕生日には、長い間姉妹四人でお金でプレゼントにしてきました。好きなものをそれで買って貰う方が良いからです。

でも今年は、そのデイサービスに行く時のおハンカチを、前日に行った「横浜イングリッシュガーデン」で調達してきました。

思った通り、母はそれも喜んでくれました。

 

姉が

「花ちゃんは、また毎月来るって。」と言うと、

「6月はいつ来るの?」と母が聞いたそうです。

「6月はこの前来たでしょう。」と姉が又言うと

「そうだったっけ。」と母。

行っても、何もしてあげられないけれど、「毎月来る。」という言葉で喜んでくれるだけでも、私は嬉しく思いました。

 

ここまでの画像は「横浜イングリッシュガーデン」のものですが、下の薔薇は実家の薔薇です。

 

以下は、4日から6日のお昼までのお食事日記です。

4日の日の夜に名都さんと母と三人で頂いた中華。

  最近、ノンアルにはまってます。アルコール、本当にダメになってしまって、でも時々、あの味が良いなと思ってしまうから。

 

5日の朝食。

 前に来た時までは、母が作ってくれた朝食。母の為に良さそうなものだけで作った朝食だったのに、4時起きの母はとっくに何か食べちゃっていたんですって。

 

「お誕生日会」のお食事。

ラッタさんのお土産。もっと全体の写真を撮れば良かったな。

 

その日の夜は、ラッタさんと二人でお食事に行きました。

 

鱧のてんぷらが美味しかったです。

6日の日のお昼。義兄と姉と、また中華。でも姉のおごりで何の文句もありません♪

 

餃子と春巻きの誘惑に勝てない私。

 

とにかく、結論から言えば、実家に帰った後は、絶対に体重計には乗ってはいけないって事ですね。

これ、毎回言ってます(^_^;)

 

帰りに横浜構内で見つけたお店です。いつからこんなお洒落な駅になったんだろうー。

  

 


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自由が丘に行きました7

2022-01-05 17:12:24 | 家族スナップ

この「自由が丘に行きました」と言うタイトルを使うのは、もう7回目です。

自由が丘駅周辺のお店や風景も載せていますが、基本的には私たち姉妹3人とスノウさんとの記録です。と言いましても、やっぱりついでながら、やはりお店情報の記録でもあり、お出掛けの記録であることも確かな事です。

 

2021年の終わりから、病院ではなく彼女の家に行くようになって、自由が丘駅での待ち合わせが無くなってしまいました。

またコロナのせいで、2回ほど自由が丘で会うと言う約束が流れてしまったのも、その一因でした。

それでこれの前の「自由が丘に行きました。その6」からはちょうど2年が空いてしまったのでした。

(もちろん彼女と私たちの物語は、このタイトルの物ばかりではありませんが。)

今回も同じく彼女の家に行ったわけですが、本当は自由が丘から行っても近いらしいので、集合場所を変えたのです。

昨年の10月24日に久しぶりに行った時は、一緒にテーブルでお食事が出来たけれど、次に行った時は、もう一緒には無理でした。

そしてその次に行った時は、滞在時間も短くしようという事で、お食事などは先に外ですましてから行くことにしたのです。

 

今回行ったのは、前にスノウさんと名都さんとで行った事のある「状元楼」で、以前は2019年の3月20日に来ました。

→「自由が丘に行きました。その3」

(やっぱりブログは便利ですね。)

 

 

上の麺は、ふかひれスープでもあって美味しかったです。

メンマが付いてます。そしていつも写真を撮り忘れる杏仁豆腐。

なんか高栄養のバランスが悪いような気がしてしまったのですが(お野菜とかね)、そこは置いておいて、「美味しかった !」と「お腹がいっぱい !」で満足しました。

自由が丘は駅前に、こんな趣深い路地などがあるので、そんな不思議空間が何とも言えないようで好きです。

自由が丘から歩いて彼女に家に行こうと思いましたが、ちょっと初めての場所でもあるのでタクシーを使って行きました。

 

スノウさんの家に行った帰りには、いつもお茶などを頂いて帰るのが常です。

だけどまたこのお茶を飲むお店を見つけるのが大変なんですよね。今回は上島珈琲で頂きました。とっても美味しい珈琲でした。

 

なんとお店のお向かいの道路の所に、こんな自販機が置いてありました。

 

便利ではあるけれど、どなたさまが買うのでしょう。

周りには居酒屋さんなども多いので、「あっ、だしが切れた。今日お客が予想外多かったからな。あそこで買ってこようっと。」となるのでしょうか。

 

今回のお見舞いメンバーにはラッタさんも入っていました。スノウさんがまだ独身で家にいた頃、ルート君の出産の為に私は実家に帰りました。彼女はラッタさんをとても可愛がってくれたのですよ。

朝、彼からのメールで「ゼリーとか寒天は食べられるのか。」と来たので、何か気を利かせて来るのかなと思っていました。

思った通りの「青果堂」からお土産を買って来ていました。そんな程度の事で、ちょっと嬉しかったのは私だったかも。

 

だからスノウさんに言いました。

「ラッタ君がね、お土産にゼリーを買って来たから、一口でも二口でも食べてあげてね。」と。すると

「うん、10口食べるよ。」とスノウさんは、即答。

 

そしてまた

「もう帰るんで、何か私たちに連絡事項とかある ?」と聞くと、

「うん、ある。」と。そして

「私は、元気、大丈夫だから。」と言ったのでした。

 

いつも彼女の夫さんが

「遠くからわざわざありがとう。」と言ってくれるけれど、家から2時間かかっても、そのスノウさんの一言があったから、私たちの足取りも軽く、そして1月4日はとっても良い日になったと思いました。


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やっと会えたのは・・

2021-12-15 00:57:44 | 家族スナップ

コロナの感染者数が少し落ち着いて、もちろん油断はダメですが、それでも動くなら今だとずっと我慢していたスノウさんの家に行き始めたわけですが、やっと会えたのは、妹とばかりではありませんでした。

横浜で暮らすラッタさんとも、ずっと会えませんでした。

もちろん昨年の8月以来会えなかったスノウさんほどではありませんでしたが、コロナ前は一か月に一度は会っていたのです。それが3月以来で、会うのは今年は3回目でした。

11月14日、スノウさんの所から帰って来る時に、横浜駅で待ち合わせをしました。

 

なにげにツリーコレクション。順番的に行ったら、こちらが先ですがアップ順に言ったら2個目ですね。

横浜スカイビルのツリーです。

 

で、あるならば、そごう前のツリーも載せておきましょう。3個目とカウントしても良いでしょうか。

 

ラッタさんと待ち合わせをして、スカイビルの中華屋さんに行きました。

よだれ鳥と

餃子。

餃子は美味しかったです。

私は呑み助ではないんで、いろいろと無知。加えて感覚が飲む人と同じにようには行かないかもです。

ウーロン茶でもお通しを持って来られて、まあ、お通しは席料って言いますから仕方がないにしても、毎度思うんです。高いなって。

ウーロン茶でお通し・・・・拘ってしまうけれど、お通し文化、止めたらいいのになって思います。

まあ、これはお酒を飲まない人の考えです。

 

「次に行こうと思うから、ここではこれだけでいいよ。」とラッタさん。

「次は俺が出すから。」

えー !!

良いのに~ !

(実は嬉しい。)

 

次に行ったのは立ち飲み居酒屋。

(わぁ、こんな所に入った事ない!! ワクワク)

そんな年老いたあられちゃんのような気持ちを隠して、二件目のお店に行きました。

 

久しぶりに飲みましたが、ジョッキの上から5センチばかりが減っただけになってしまいました。

お食事は、皆美味しくて満足度が高かったです。

だけど微かに飲んだだけなのに、私はどこかに座って休憩したいような気持ちになってしまいました。

で、公園のような所でしばし座っていましたが、同じように階段の縁に座っている若い人たちや、街を行く人たちを眺め、夜の街の風景を楽しめて、なんだか幸せな気持ちになってきました。

そして「お茶でも飲んで帰ろうかな。」という事になりました。

 

考えてみたら、この記事を書くまでの間が空き過ぎてるからっていうのもあるけれど、一体何を話したのかすっかりと忘れてしまいました。

空高くに月、

電灯の電球の上に鳩が止まっていました。

ラッタさんと別れる時、私は短く

「じゃ。」と言って足早に改札に向かいます。

寂しさが胸に届いてしまう前に。

 

翌日は、小さな助手さんの手を借りて、義兄が作っている薔薇の花の写真を撮りました。

もう終わりの薔薇たちでしたが、フリルのような薔薇はまだまだ綺麗に見えました。

 

下のは「野毛坂ヤミ市タンメン」

ちょっと変わったのがあると、食べたくなってしまうのですよね。

秋の風景

そして・・・・

君たちはいつも元気だね。

 

実家に帰れたのもラッタさんに会えたのも、11月のその日が、今年最後になりました。

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私たちの「家族の日」でした。

2021-11-13 23:41:48 | 家族スナップ

今日が父の誕生日であることを、決して忘れていたわけではありませんでした。

むしろ逆に、今年はその事をことあるごとに思い出していました。

 

毎年、父の誕生日もしくはその辺りに皆で集まって墓参りに行き、そして近くの街中温泉(スーパー銭湯)で、皆で寛いだり笑いあったりして楽しいひと時を送ってきました。父がそういう墓参りを望んでいたからです。

 

ー来たついでに、みんなで遊んでお帰り。- と、父は言っていたのでした。

けれど昨年は叶いませんでした。

コロナのせいです。

 

だけど今年もそれは叶いません。

コロナのせいばかりではありません。

この一年で、母は思った以上に老いてしまいバスに乗れません。

そしてスノウさんは、家の中でもトイレに行くのも大変らしいのです。

人は変わり、生きていく川の流れは留まる事はありません。

 

だけど明日は、先日は自身の検査前日だったために行く事が出来なかった名都さんと一緒に、また姉の蝶子さんとスノウさんの所に行きます。

明日という日を決めたのは、それはたまたまで、その時は誰も父の墓参りイベントの事を思い出していた者はいませんでした。

 

それでも後になって、11月13日の事を思い出すようになると、

「ああ、毎年楽しかったナぁ。」 そう思いながらしょんぼりと嘆いていたのです。

 

そんな折、またもgoo様から昨年の記事のお知らせが来ました。

 

 
雲の上の父上様へ
父上様今日はお父さんの誕生日ですね。名都さんが言っていましたが、命を繋いでいたらなんと91歳だそうですよ。残念ながら、お父さんは83歳で今生ではカウントすることを止めて......
 

 

その記事を読んで、昨年は名都さんからのラインで忘れていたそれを思い出したことを知りました。

そう言えば皆、今日は何も言ってなかったなと思い、今年は私がラインに入れました。

みんな、覚えていたけれど忘れていました。

父の誕生日は覚えていたけれど、それが今日だったり、みんなに声を掛けるという事を忘れていたと言う意味です。

だけど父が亡くなって8年経つと、ずっと覚えていると言うのも難しいのかもしれません。

 

・・・・・そう思って、何やらしみじみと今までの事を思い出していたのですが、

「あっ、そうか。」と私は大事な事を思い出したのです。

これは父が亡くなってからの、毎年習慣化した家族の「お墓参り&お風呂」イベントではなかったんだという事です。

 

2014年、私にいろいろなささやかな事が重なって、どう考えても父からのメッセージのように感じて、11月13日を、我が家の「家族の日」にしようと決めたのでした。

決めた私が忘れているくらいですから、他の姉妹も、きっと「お墓参り&お風呂の日」になっていたと思うのです。

でもそうじゃなかった !!

 

だったら、14日の日にスノウさんに会いに姉妹で行くことは正しい事で、何一つ嘆くことはなかったのでした。

この日になったのは、本当にたまたまだったのかしら ?

今となっては不思議な気がしないでもない、私なのでした。

 

「お父さん!!

お父さんの最後の願い『姉妹でずっと仲良く。』を、ちゃんとみんなで実践していますよ。

あのね、私昨日、初めてコンビニで写真のプリントアウトしてみたんです。やってみたらすごく簡単でした。百均でだけれど、それを入れるフレームも買って来たんです。明日、みんなにあげようかと思っているんですよ。

喜んでくれるといいな。

だってみんなすごく良い顔をしていて、そしてみんなキラキラしているんですよ。

私たちは、ちょっと、良い姉妹だと思っても良いよね。」

                   ☆

 

「家族の日」を決めた、そのいきさつが書かれた記事は、下にリンクしましたが、一番下の記事がまとめになっていると思います。(まぁ、ご興味はないと思いますが(^_^;))

・「十月桜ですよ。」

・「「赤羽、気をつけて。」その2」

・「十月桜と共に」

 

 

 

 

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それはたぶん失敗しないから。

2021-11-03 23:48:49 | 家族スナップ

横浜の「イングリッシュガーデン」の薔薇と共に、10月24日のスノウさんの家に訪れた時の日記などを書いてきましたが、いつまでも引きずってないで、終わらせようと思います。

今回は薔薇の花の画像は少なめです。

 

10月24日の日記。

「薔薇とスノウさん」

の続きで、その中の

>『またある時は、彼女は言います。家に行った時も言いました。

「もう生きていたくない。もう死にたいの。」』

の続きで、文は、花の画像の下からです。

 

 

 

 

昨年の最後にみんなで会って、やっと会えた24日の日までに、スノウさんにどんなことがあったのか、あまりにいろいろあり過ぎて、ずっと応援してきたのに、パッとは答えられません。

それでもいつでも強気で明るかったスノウさん。

だけど彼女は会った途端に泣きました。

「最近涙もろくって。もうみんなには感謝しかないんだけれど、それでも涙が出てくるの。」

私は思わず席を立ち、彼女の肩を抱いてハグをしました。

―ああ、私はずっとずっとこれをしたかったんだわ。

そう思いました。

あの夢の中でしたようにー。

 

そして彼女は言ったのです。

「もう生きていたくないの。死にたいっていつも思ってる。」と。

本当は、やっぱり抱き合って姉妹でオイオイと泣き、そんな事を言わないでとか言えばいいのではないかと思うのです。

でも私たち姉妹には、いや、私にはそれが出来ないのです。

 

私は顔色一つ変えずに言いました。

「大丈夫よ。死にたい死にたいって、そんなに念じていなくてもいつか死ぬから。」

「スノウさんも私も、蝶子さんもみんないつか死ぬ。いつか死ぬのに、そんなに念じたり考えたりなんかして、無駄じゃん。ただでさえ体がだるいってのに、そんな面倒くさいこと、今する事ないよ。」

「そうよ。」と蝶子さん。

「死ぬのに、今まで失敗した人は居ないっていうから、心配する必要もない事よ。」

そこでまた私。

「そうねぇ。失敗したって言ったら、『ポーの一族』の皆様ぐらいなんじゃないかしら。」

などと言って、笑い合いました。

 

それから辞世の句についてもお喋りしました。

「私さ、光源氏のモデルになったと言われている、在原業平が好きで、その人の辞世の句がまた凄くいいのよ。『ついにゆく・・』えーと、え~と、ちゃんと言えそうもないけどさ、つまり、『それ、知ってたけど、今か~』ってやつ。」

ちゃんと言うと

『つひにゆく道とは かねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを』

「なんかね、その句を思うと、ちょっと怖くなくなるなって、知った時にそう思ったんだ。」

辞世の句を詠むのは、もしかしたら死の恐怖への緩和という目的があったのではないかと、私は思っているのです。

病気でヨロヨロのスノウさんとの会話が、こんな会話。

でもこれ、姉妹の笑いながらの楽しいお喋りの会話で、実はその辞世の句と同じような効果があったような気がしました。もちろん相手とその状況に依る事です。

 

その日のスノウさんは2時間も起きていたので、帰る時にベッドまで一緒に行きました。

そして帰る時に、私は本当に思っている事を、彼女のひんやりとしたほっぺやおでこをペタペタと触りながら言いました。

「あなたがいなくなったら、本当に寂しいよ。寂しくて寂しくて、毎日泣いちゃうよ。だからね、私たちの為に生きてね。お願いだから生きてね。」

 

スノウさんは、

「今日は久しぶりに凄く楽しかった。」と言ってくれました。

 

だけど帰りの電車の中で、私は不意に泣きそうになりました。

「電車の中なのに涙がこぼれそうになった。」とラインに書き込みました。

「会えて嬉しかった。」と書き添えて。

すると一番下の妹の名都さんから「吃驚したよ。何か悲惨だったのかと思っちゃったから。うれし泣きだったんだね。」とお返事がきました。

だけど家に帰るころ、名都さんにまたお返事しました。

「悲しかったから」と。

 

☆     ☆     ☆

本文中にある「あの夢」と言うのは、「なぜその夢を見たのか・・。」

と言う記事に書いた夢の事です。

最初は体調が悪いのに、膀胱炎だからと侮って病院に行こうとしなかったスノウさんに警告を送るために見た夢だと思っていました。

だけどその時の検査で、また新たな腫瘍が見つかって、その月に又も手術をする事になったのでした。

「なんだか正夢になってしまった。」と嘆く私に友人が、たまたまの偶然と言いましたが、この記事を書くのに、またその記事を読み直してみて、私は吃驚しました。

まったくの同じ。

胸が、胸が痛いです。

 

 

 

 

 

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