森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

薔薇とスノウさん

2021-10-30 21:10:13 | 家族スナップ

薔薇と雑文と日記。

薔薇は、24日の午前中に訪れた「横浜イングリッシュガーデン」の薔薇です。

☆       ☆

今日、病院に持病の定期検診に行きました。

その数字を見て、「やっばい~!!!」となりました。

これは人の心配している場合じゃないぞー。

と、一瞬思ったかも知れませんが、「何を言っているのだ、私。」となりました。

 

なぜなら妹のスノウさんは、「白秋の時を、いかに生きるか。」などと、なんだか何かに酔っているかのようにクダクダ言っている余裕もなく、玄い(くろい)冬の魔女にその肩をつかまれ、見えない世界に引きずり込まれようとしているのですよ。

私が心配しないわけないじゃない。

心配しか出来ないんだから。

 

10月24日にスノウさんに会いに行ってから、どうも気持ちが沈みがちです。

星子さんが言いました。

「姉妹が多くて、いつも楽しそうでいいなと思っていたけれど、多いという事は、それだけ悲しい事も多いのね。」

確かにそうだなと、私はしみじみと思いました。

光の分だけ影があるようなもの。

こんな風に気持ちが重くなるのも、楽しかったことがいっぱいあったからなんだ。

じゃ、いいや。

この重さを受け入れるよ、私。

 

ある時はスノウさんは言うー。

「何年も、私はずっとこんな。もう嫌なの。もうちゃんと生きるんだ、私。」

そうだよ。楽しい事、今できる事を探して、今を生きようよ。と、私たちは言う。

だけどもう、彼女には体力も気力もなくてー。

でもスノウさん、ずっとじゃなかったんだよ。

 

私たちが行った時、スノウさんのリクエストで彼女の夫さんが、駅前でスペアリブを買ってきてくれていました。食欲が全くないスノウさんもそれは美味しく食べる事が出来ました。

そのスペアリブが出てくる記事があります。→自由が丘散策日記

あの時は楽しかったな。

 

またある時は、彼女は言います。家に行った時も言いました。

「もう生きていたくない。もう死にたいの。」

 

と、この話の続きは、また明日。

 

こんな話ばっかりなの ?

はい。

これは24日の日に妹のスノウさんの所を訪れた時の日記だからです。

 

私たちは親バカならぬ、姉妹バカ。

スノウさんは、このページの薔薇のように、華やかで美人の自慢の妹なんです。

そんな事を堂々と言う私は・・・ネッ、言ったじゃない。姉妹バカって。

そう言えば、今日くろ豆の検診にも行ったのです。

先生が、「可愛らしい猫ちゃんが来ましたね。」と言いましたが、私は迷わず、微笑みながら

「はい、そうなんです。」と答えていました。

これも飼い主バカって事ですか ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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なぜその夢を見たのか・・。

2021-06-06 00:35:31 | 家族スナップ

ちょっと気持ちも軽い土曜日の夜です。

なぜなら4日の金曜日に妹のスノウさんが退院してきたからです。

そう、スノウさんは5月24日から入院していたのです。

 

21日のラインでの姉妹集会の時にスノウさんは言いました。

「何か膀胱炎になっちゃってさ、病院に行きたくないから市販の薬を買ってきて飲んだら楽になった。」と。

スノウさんは7年前から乳癌・肺がん・脳腫瘍・脳腫瘍の再発・何処かの内臓の癌と闘病中で、今は歩く体力がありません。行きたくないと言うのも分かるような気がします。楽になったのなら良いのかなと、深く考えずにそう思ってしまったのかも知れません。

だけど彼女の目下の懸案は、あまりおしっこが出ないという事だったのです。

漠然と、おしっこがあまりでないのに膀胱炎が治るものなのかしらと思いました。この病気は女性なら経験がある方は多いのではないかと思うのですが、抗生剤も飲みますが、水分もたくさん飲み菌を体外に押し流す必要があるのです。

そもそもおしっこが出ないから膀胱炎になってしまったのではないのかしら。

妹は、病院に行っている時に、この大事な事を医師に伝えているのかしら?

その時、なぜか今は行かなくても、妹は週が明けたら病院に行くのだと思い込んでいました。

 

ところが土曜日の深夜に夢を見ました。

深夜族の私ですが、その日はまたいつも通りに真夜中の2時近くに寝ました。

あっと言う間に深い眠りについて夢を見ました。

実家の親と姉妹で、ワシャワシャと旅行に行っている夢でした。姉妹との旅行にワシャワシャと言うのはまさにピッタリな擬音語かと思います。詳しい内容など覚えてもおらず、部屋でワシャワシャっている夢。

その後、私はホテルのロビーにやって来てフロントで、何かの申し込みの書類を書こうとしていました。ふと振り向くと、背後にスノウさんが車いすに乗っていました。彼女はやけに眩しく光っていました。

「お姉ちゃん、あのね、私、またーーーーー。」

「新しい癌がーーーーーーー。」

ええっ !?

「ちょっと待って、今ちゃんと聞くから。」と私は言い、スノウさんの車いすに置いてある腕に腕を重ねてました。

「私、何のために生きてるんだかわからなくなっーーーーーーーー。」

言葉の語尾がすべて消えていき、何を言っているのかよく分かりません。

これって、夢だけど夢じゃないアレだわ。

そう夢の中で思う私。

夢は自分の脳が見せる映像で、会話は実は自分が作り出しているものだと思います。会話が聞き取れない事も、あまりない事ですし内容が分からない事もあまりない事だと思うのです。なんたってセリフは自分自身が作り出しているようなものですから。

それでも私は言いました。

「スノウさん、それは違うよ。生きているだけでいいんだから。それだけでみんなの為なんだよ。生きて。お願いだから。」

そして私はスノウさんをそっと抱き寄せたのでした。

 

そこでパチリと目が覚めた私は、ムクリと起きて時計を見ました。眠ってからたった40分しかたっていませんでした。

私は怖くなってしまいブルブルと震え、その後眠れなくなってしまいました。

だけど朝になったからと言って、何か変な連絡が来てるわけでもなかったので、ホッとはしては居たのですが、それでも凄く気になって、翌日の月曜日に電話しました。

やはり歩けないから病院にはいっていないとスノウさんは言いました。

「熱とか出ていないんだよね ?」と聞くと、

「ううん、出ちゃった。38度超えちゃったかな。」

スノウさん !

病気になれちゃってると言う感じがしてしまいました。

「あのさ、膀胱炎では熱は出ないんだよ !!

もう、それは別の病気だよ。癌じゃない人もなる病気だよ。高熱が出るよ。今そんな高熱になったら体力的に耐えられるの。今から、病院に電話して!!旦那と娘に頼みなさいよ。 電話、一旦切るから、どうしたのか報告してね。頼むよ、すぐにやってね。」

と言うような内容の事を、もっと長くクドクドとガミガミと言いました。

 

ところでその後、ちっとも報告の電話がかかって来ません。

それで姉の蝶子さんに「煩いと思われても嫌なので、お姉ちゃん、電話してくれない ?」と頼みました。

 

姉が電話すると、

「今、救急車の中なんだ。あっ、今病院着いた。」と言うお返事だったのです。

 

ああ、良かったと思いました。

そしてそのまま入院しました。

その日の夜は、「ありがとう」のスタンプが来て、何やら訳の分からない言葉が送られてきましたが、意味も分からず、たぶん熱でぼんやりしていたのでしょう。その後数日は何も音沙汰もなくて、その間は本当にドキドキしていました。27日あたりからようやく普通の会話が出来るようになってきました。

それまでは、ずっとぐっすりと寝込んでいたようです。

 

彼女が明るく能天気な事を言ってくると、私の心は本当に軽くなって幸せな気持ちになるのでした。

 

25日の私と一番下の妹の名都さんとの会話。

「花ちゃんが電話してくれて良かったな。私やお姉ちゃんだったら、嫌がってる人に病院に電話させることは出来なかったと思うから。」と、彼女は言ってくれました。

「いや、あの夢を見なかったら、私も電話しなかったよ。どうしたって何か意味があるって思うよね。」

「明日、お父さんの命日だから、戻って来ているのかな。夢で教えてくれたのかな。」と名都さん。

 

ああ、確かに、そうかも知れないと私は思いました。

そう言えば、あのワシャワシャとしていた旅行の夢の中で、宿の一室のシーンの片隅に父もいたような気さえするのです。

 

何も確信のない話です。それでも私は父に感謝し、思わず涙が出そうになったのでした。

 

 

 

 

 

 


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若気の至り40周年

2021-05-21 02:20:48 | 家族スナップ

星野源さん、新垣結衣さん、ご婚約おめでとうございます。

(結婚が決まったと言うので、「婚約」で良いのかしら。)

嬉しいお知らせに、心も明るくなりますね♪

 

ところで、これは我が家のお話です。つい先日、私は夫殿に言いました。

「16日は結婚記念日だ。なんと40年だ。」

私は女の家で育ったものだから、意外とプチイベントみたいなのは好きなんです。だけど、彼は気持ちが悪いほどそういうのがダメな人。気持ちが悪いと言う所に、ちょっと私の深層の感情が滲み出たかしら (笑)

いろいろと合わない。

なぜこのような人と結婚なんかしちゃったんだろうかと、時々思い出したようにグチグチ思いながらも40年が過ぎたのだと思います。案の定、この時も

「何か遠い昔にそんな事もあったなぁ。」と彼。

「うん、そうね。その前に4年も付き合ってるんだから、44年の腐れ縁よね。」と私。

だいたい結婚なんか、たいがいほとんど、若気の至りってなもんじゃないの ?

 

17日の食卓で。

最近、私はチジミを作るのが好きで、一つ目のメニューはそれに決まっていたのだけれど、もう一品は八宝菜にしたんです。とにかく我が家は時短が大切で、いつもは八宝菜はためらわずに「Cook Do」を使います。だけどその日は違うものを使ったのです。いわゆる白菜があれば出来ますよってなやつです。でもそういうのは好きじゃなくて、そこにいろいろと足したのですが、量が多くなってしまったので、味が薄くなるかと中華ダシをほんのちょっと足したんです。

するとですね、夫殿。私が巷で少し前まで話題になっていた「うっせいわ」と言う歌を歌いたくなるくらい煩かったんです。

「いつもの味じゃない。」とか「うちはCook Doで問題ないんだ。変える必要はないだろ。」とか「なんか変だ。」とか。

「じゃあ、食べなきゃいいじゃん。」と言うと、

「いや、まずいとは言ってない。美味しくないと言ってるんだ。ナッ、ルート?」

と、そこにルート君まで巻き込んで・・・しかも彼も

「うん、いつもの味じゃないな。なんかね、あとにクスリ臭さが残るんだよ。なんだっけなこの味・・・。」

ああ、ちょっとだけ足した中華ダシの味じゃないかなと、私は思いました。だけど

「ほらっ、俺だけ言ってるんじゃないんだから、本当に美味しくはないんだ。」と夫。

なんか💢ーっとくるじゃん!!

「君たち煩いよ!! もう卵かけごはんか何か食べて、チャッチャと食事を終わらせて食卓を離れなさいよ。」

と切れると、

「いや、俺は食う。」とルート君。

「だからまずいとは言ってないだろ。美味しくないと言ってるだけだから、食べるよ。」と夫。

やっぱりこやつは、しつこい !!

「あっ、そうだ、ルート君。こんなこと言ってるけれど、私たち40年も夫婦をやってます。(一応)仲が悪いって言うわけじゃないのよ。」

と、急に私は言いました。ルート君も、もうおっさんの入口の人。だから教育的にと言うのは当てはまらないかも知れませんが、やっぱり一応子供の前で、このような会話もないものだと思ってフォローすると、

「知ってるよ。オレだって30年も見続けてきたわけだから。本当に仲が悪かったら口もきかないだろう。」と彼は言いました。

「へー。ふーん。」と私。この「へー。」「ふーん。」の間に頭の中で言葉が二つほどすっ飛び、いきなり私は夫殿に言いました。

「じゃあ、もうこれからはあまり口を利かない事にしよう。」

流石に、言葉がスッとんで微妙に話題が変わる事には、慣れているらしいー。

普通に会話が続きます。

「お前にそんな事が出来るわけがないだろう。」などと言うので

「それはあなたじゃないの?」言い返す。

「いや、お前だ。人が風呂掃除に行こうとすると、きっとこの先ドラマはこうなるああなるとか、犯人は誰かとか語りだすじゃないか。」

別に聞かなきゃ良いじゃんねぇ。

「いや、あなたこそ、人がトイレに行ってドアノブに手をかけてると言うのに、ずっと話の続きが背中の方から聞こえてくるってどういう事 ?」

 

と、その時ルート君。

「この煩さの中、食事が終了しました。」

 

実は我が家、別にルート君が言うような理由じゃないけれど、食事中にはあまりお喋りはしない食卓なんです。

なんだかみんなパクパクほとんど無言で食べてます。

それに、上に書いたことでは、ちょっと夫殿に申し訳ないので、ひとつだけ彼の良い所を言うと、食事が美味しかった時、ほとんど必ず「旨かった~!」と言って席を立つんです。

これ、私はとっても大事な事だと思っているんです。逆に「ごちそうさま」だけ言ってサッサと席を立つとき、まずくはないが美味しくはなかったという事なんだなと、私は思います。

ちゃんとそう思っているのに、言葉に出されると、グーで殴りたくなりますよね^^

 

この記事、食事係が女性であるような前提になっているかのようですが、別にそうではありません。私は6人家族の女が5人と言う家に育ち、高校も女子高でした。ゆえに男女平等意識がとっても高いんです。

今私は1週間に数時間しか働いてないので、家事全般は私の仕事だと思っているだけです。

だから

「あなたが完全定年になって家に居るようになったら、お食事係は当番制にしましょうね。」などと、私は言います。

どうもそれが嫌なようで

「俺は死ぬまで働く。いや働けたらだけどさ。」と夫は言います。

「うん。働いてくださいね、私の為に。」と何気に憎たらしい事を言う私。

仕方がないですね。このような私と結婚してしまったのは、彼の若気の至りってなものですから。

 

と言うわけで、「若気の至り40周年」は無事に通過しました♪

 

 

 

 

 

 

 

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猫好きな彼女

2021-04-26 16:01:06 | 家族スナップ

4月19日、一番下の妹の名都さんに渡したいものがあったので、越谷レイクタウンで会う事にしました。名都さんと私はともに千葉県人で、会おうと思えば一番近い所に住んでいるのですが、それでも彼女に直接会うのは昨年の9月以来になってしまいました。

お昼近くにあったので、とりあえずは腹ごしらえ。

 

年が離れている妹と言えども、この年齢になってくるとあまり関係もなく、お話も弾みました。主に近況報告。

最近はお片付けの方に頭が行っているので、どんなにショッピングモールに「バーゲン」と言う文字が踊っていても、これといって欲しいものもなく、猫のガチヤを一回回して、出たのが下の黒猫のミニポーチ。

そしてここに来ると、なんとなくやりたくなるマッサージチェア。

要するに、見かけはオバサン中身は昔少女がハシャイで遊んでいたわけですね。

 

そして名都さんが、レイクタウンのレイクの場所をよく知らないと言うので、その後は水辺でボーっとしようと言う計画。

なんとなく癒される風景だなと思いました。それにまたもどこかに行った気分になれる風景だなとも思えました。

はしゃいで写真を撮る二人。

イェーイ !!

汚-っい!! 私の靴 !!

でもレイクタウンはメチャクチャ歩くから、ボロ靴でも歩きなれた靴じゃないと、後からキツクなるからこれで良いんだ。

 

じゃあ、お茶を飲んで帰りましょう。

水辺でボーっとすると言う計画は、やっぱりおしゃべりしていたので挫折しました(^_^;)

だけど運ばれてきたクリームあんみつのクリームを口に入れた途端に、至福の甘さが口に広がって来て、思わず二人はそれぞれの自分の世界に入って、しばし無言でした。

 

昨年の9月から今と言う会えなかった時間の間に、我が家では猫のももちゃんが猫の楽園に逝ってしまった事が大きな出来事でした。

「でもまだその辺で、お姉ちゃんの傍にいるんじゃない ?」と名都さんが言うので、

「うん。実はある時までももちゃんは傍にいたよ。その気配がいつもしていたの。それが、ある時からまったくももちゃんの気配を感じなくなったのよ。ももちゃんはちゃんと夢に出て来てお別れを言いに来てくれたんだ。夢の中でももちゃんは言ったの。

『ママちゃん、』・・・・・・・・・・あれっ?」

ふと見ると名都さんがポロポロ泣いていました。

「えっ ? これから話すんだよ、泣くところを。まだ、『ママちゃん』しか言ってないじゃんか。」

「だって、『ママちゃん、』なんて言うんだもん。それだけで泣ける。」

 

名都さん、大好き。

また近いうちに会おうね。絶対に会おうね。

因みにこの話の続きは、「ももちゃんからの伝言」で。

 

※ その記事をリンクさせるのに、また読み直し、またも声をあげて泣いてしまいました。

夢を見たからと言って気持ちなど切り替えられるわけもなく、10年共に暮らした者との別れは、そんなに簡単な事ではないんだと私は思います。

 


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赤レンガ倉庫で朝食を

2021-03-29 00:43:09 | 家族スナップ

私が横浜の実家に行きたいと思う理由には、姉妹で集まる以外にも母に会う、また横浜で暮らすラッタさんに会うと言うのも含まれているのです。

だから妹のスノウさんの具合が悪くて、姉妹が集まると言う予定が無くなっても、27日か28日には横浜には行く予定でいました。

するとルート君も一緒に行ってくれると言うので、28日に彼の車で日帰りで行ってきました。

母の家では、これと言って何をするでもなく、昼食を頂いて、お茶を頂きながらお喋りをし、そして母と一緒に写真を撮る事が出来れば良いなと、そんな予定で行こうと思いました。

でもその前に、息子君たちとはどこかでモーニングなどを頂こうかなと思っていました。

前日には、頭の中ではコメダで良いかなと思い、駐車場の場所などをチェックしておいたのですが、ラッタさんの家について、そこでラッタさんの猫と遊びつつ、ついつい

「赤レンガ倉庫に行ってモーニングを食べよう。」と言ってしまいました。

と言うのも、いつだったか、やはり三人で横浜のホテルの朝食ビュッフェを頂いた後、赤レンガ倉庫に行こうとしたら、駐車場がいっぱいで全く入れなかった事を思い出したのです。そして最初からそっちに行ったら入れるのではないかと思いついたからなんです。

予想通りで駐車場はガラガラでした。

だけど予想外だったのは、お店に入るまでが長蛇の列だったことです。

(恐るべし ! 横浜 !)

だけど、赤レンガ倉庫では今、『FLOWER GARDEN』と言うイベントをやっていて、花たちがとっても綺麗でした。

 

  

billsにて

ラッタさんもルート君も、全く赤レンガ倉庫自体には興味もなかったからか、ここでは本当に朝食を頂いただけになってしまいました。

しかも並んでいたので、恐ろしい事に、この後での昼食との間があまり空かないと言う事になりそうでした。

するとラッタさんが言いました。

「寿司は別腹」と。

お店を出ると、天気予報通り雨がパラついていました。なので車に乗り込んで母の家に向かったのです。

 

本音を言えば、もうちょっと何処かを回りたいような気がしていたので、ちょっと残念だったかもしれません。だけどそれが正解だったように思います。

なぜなら母が、私たちが来ることを首を長くして待っていたからなんです。

時には私たちが来ないかと、外に出て様子を見ていたそうです。

お昼ー。

その後は予定通り、お喋りと写真撮影会。お正月の時より、綺麗に(私が)撮れていたので満足でした(^_^;)

皆、明日・・・いや、もう今日でしたが仕事だし、天気ももっと悪くなると言っていたので、早々に帰る事にしました。

本当に行って帰って来ただけというような感じでしたが、

「それなりに楽しかったですか?」と聞くと、二人は「はい」と言ったので、「まっ、良いか。」と思いました。

 

母がお土産に、買っておいてくれた喜多方ラーメンをくれたので、夜はそのラーメンにしました。

もちろん、体重計にはしばらく乗りません。

 

 

 

 

 

 


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恋しゅうて 名残りの夏の 花火かな

2020-09-17 10:31:18 | 家族スナップ

何気なく通り過ぎてきてしまった時間の中に、とても美しかったと思える風景があったと後から思える時がある。

あの夏の日の花火の夜のような。

 

☆           ☆

8月29日の土曜日、実家にて姉妹で集まる事にしました。

ただ姉妹で会うだけの事なのに、なんだか長い道のりがあったように思います。

それが2020年なのです !

2月15日に姉夫婦が妹のスノウさんを東京に車で迎えに行って、実家で皆が集まったのが最後です。

(スノウさんは1月に脳腫瘍の手術を受けたばかりだったので)

(その時の記録画像→2月の飾りはお雛様)

2月はコロナに対しては「気を付けなくちゃね。」と言いながら、まだ対岸の火事のような気持ちだったかもしれません。

実家に帰るのにマスク二枚重ねで行ったり、谷中散策にアルコール除菌ウエットティッシュを持参しながらも、行くと言う事に躊躇がありませんでしたから。

その後、4月に自由が丘で会おうと言う約束が、小池さんの会見とその後の緊急事態宣言で果たされず、それが解除された後に再び約束した7月19日も、東京での爆発的な感染拡大でやはり延期になりました。

もう自由が丘で会う事はしばらくは無理だなと感じ、再び義兄に迎えに行ってもらって横浜の実家で会う事が実現したのです。

スノウさんは言いました。

「指折り数えて、楽しみにしていたわ。」と。

 

ほんの少し前のお盆の頃、おかみが言う事には「GO  TO」は良いけれど「帰省」はダメみたいな、何ら説得力のない事を言っていたような気もしますが、訳が分からないので、きっと気のせいだったのだと思います。

とは言いつつも、このような事で油断とスキを見せたくないと、たぶん姉妹の中で一番思っていたのは私だったかもしれません。

なんたって4人姉妹の我が家はちょっと集まっても「密」を作り出してしまう人数になってしまうので、いろいろと気を使いました。

先に着いたスノウさんの娘ちゃんに消毒係になってもらいました。家に着いた者を玄関外で待ち構えて、体の前も後ろも除菌スプレーを吹きかけて消毒してもらうのです。

それから真っすぐに洗面所に行って、用意された使い捨てコップでうがいをし、洗った手もペーパータオルで拭いて、初めてお食事する部屋に入れると言うシステムにしました。

姉と暮らしていると言えども、基本は二世帯住宅なので、ひとり暮らしの母の家は、訪れるたびにいつも不備な部分を感じていました。手が荒れるからと使用してない薬用せっけんとか、ゴミ箱が必要な場所に置いていないとか、いつもならたまにしか訪れないので、嫌だなと感じていた事も黙っていました。だけど今回はそうはいかないと思ったので、やって欲しい事をあらかじめ姉と打ち合わせをして頼んでおきました。

姉はその時骨折中だったのに、完璧にそれを準備していてくれたので、気持ちよく嬉しく思いました。

 

今回の集まりには、叔父夫婦もやって来ました。何もこんな時にと思われても、今この時でなくてはダメかもしれないと言う「時」と言うのがあって、行きたいと言う申し出を断る事は出来ず、むしろ歓迎いたしました。

 

メニューは焼肉。

自由が丘で集まろうとしていた時の焼き肉企画が捨てきれずに、それに決まったのですが、骨折中の姉は肉の買い物に行けず、結局私と一番下の名都さんが横浜駅で待ち合わせをして、高島屋でお肉を調達していく係になりました。お肉を15分で買って実家に向かおうと思っていましたが、それが凄い甘い考えで、切って貰ったりなどして、1時間はかかってしまいました。(一人じゃなくて良かったです。)

叔父さんが古いアルバムを持ってきてくれたので、子供時代の話で盛り上がり楽しい賑やかなひと時を持つことが出来ました。

楽しい時間でした。

叔母さんは顔色も良く溌剌としていて美しくも感じました。だけど彼女はこの夏手術をし、どこと場所は忘れてしまいましたが、(ちょっとあまり聞かない場所の)癌だったのです。

「今日はこんなに元気に見えるけれど、明日はこの反動で起き上がれるか分からないんだ。」と叔父さんは小さな声で言いました。また、

「ねえちゃんは(母の事)、僕にとっては母のような人なんだ。ずっと会いたかったけれど、こんな時代になっちゃったので我慢していたんだけれど、やっと会えて良かった・・・・。」とも言い、私は嬉しく思いました。

二人は母を「姉ちゃん」「姉さん」と呼び掛けてたくさんお話をして言ってくれました。やっぱり身内は嬉しい存在だなとしみじみと思いました。

 

叔父夫婦とラッタさんが帰った後、噂のコンビニに(「横浜でお散歩」横浜で夜のお散歩」)

花火を買いに行きました。花火を買うと言うのは最初から入っていた計画です。でも行ってみたら、残っていたのは二袋だけで危ない所でした。

そして夕食後は、昼間は密回避で避難のために出掛けていた姪たちが戻って来たので、皆で花火をし、その後甥が一人帰っていきました。お泊り組だけになった後、皆でさっさと入浴タイムを取り、その後はシートパックのパックパーティをしながら、ホラー映画を見ました。顔にシートパックをつけて、「見るのはホラーがイイよね。」と振り向いた名都さんの顔の方がシートが崩れて張れていて、それがよっぽどホラーに見えて、もう私は大笑いwwwww

「笑いものにされた !!」と名都さんが怒っていましたが、鏡を見ないで皆貼ったので、それなりの個性が滲み出て、皆でポーズを取って写真を撮りました。後から見たら、最近それに嵌っていた私は、ぴたっと綺麗に張れていて、なんだか一番面白みに欠けていました。

世の中何が良いのか悪いのか、それは状況によると言う事がたくさんありますね。

一応、私が企画したことは、皆上手くいったように感じて、嬉しく思うのと同様にホッとしたのでした。

 

☆       ☆   

叔父さんがいた時には、一番大きい声ではしゃいでいたスノウさんは、もう花火の時には立ち上がれませんでした。その間ずっとソファで横たわっていました。

姉の姪ちゃんは喜んでいましたが、私は、本当は4人でやりたかったのです。あの遠い夏の日のように。

たった10歩も歩けなくて、花火を見る事が出来なかったスノウさんは寂しそうでした。

それで私は思い出を語ります。

「ずっと昔、まだ子供たちが居なかった頃だったかしら。公園でみんなで花火をしたじゃない。最後の線香花火の時、なんとはなしに4人で円陣になって、思わず『せんこう~花火が欲しいです~♪』と歌いだしたら、皆も合わせて歌いだし、なにげにハーモニーなんか入れちゃって、最後に線香花火がポトリと落ちて、ああ、夏が終わったねとみんなで頷きあったよね。だけどその時、うちの旦那と君の旦那が『なんだ、この人たちは。』『さあ』と言っていたのよね。」と言いながら、二人でちょっとだけフフフと笑い合いました。

 

私はきっと今年の夏も、みんなでこの歌を歌いたかったのかもしれません。

いつだって未来は輝いて見えていたあの頃のように。

 

 

 

 

せんこう花火 吉田拓郎

 

 

 

 

 

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横浜で朝散歩・街散歩

2020-07-15 12:07:42 | 家族スナップ

私は「過去」の囚われ人。

「過去」に囚われた者は、記憶の中の街を頼りに現在の街を彷徨うと言う症状に侵される。「過去」の街並みは、たいがいは頼りにしている自身の記憶の中にしかなく、しょうもない気持ちを引きずりながらおろおろと彷徨うのだ。だが彷徨っているうちに、様変わりした街並みの中に時代に取り残された建物が紛れていることがある。

「ああ」と言いながら、彷徨う症状が改善されるかと思えば、ただ胸がキリキリと痛むか、さもなくば切り裂かれるような切なさを感じ、その症状はさらに悪化するのだった。

今と言う瞬間が、未来にずっとは続かない儚い刹那である事に気が付かず、何も大事にしてこなかった時間が悔やまれる。

あの時の友達、あの時見た風景、一緒に笑った想い出も、すべて過ぎて行った時間が魅せる幻か。

あの時の友達、あの時見た風景、一緒に笑った想い出も、すべて人生と言う旅の中のすれ違う人々、過ぎて行った風景、すれ違った人と交わした挨拶に過ぎなかったのかもしれない。

もう言葉を交わす友も居ない街。

もう私には、故郷は意味が無い。

もう故郷と言えるのは、母の家ばかり。

 

※        ※        ※

ほとんど家族の話をしていませんが、前の記事の続きなので「カテゴリー」の「家族スナップ」に入れました。←自分用のメモ。

・「横浜で夜のお散歩」の続きです。

コロナ禍の今、図らずも自分の住んでいる街再発見をしてきましたが、横浜の実家の生活していた周辺の探訪をしたいと言うのは前から思っていた事で、これも細々と実践していました。でも前回意識して歩いたのは2017年でした。

故郷の道を歩く

久しぶりの横浜だったので、またも故郷の道を歩いてみました。今回は一人ではなく姉と一緒でした。そして今回のルートは、私が子供の時は、そこまでは行ってはいけないちょっと遠い場所でした。

小学生の頃は、門限はもちろんあったし行って良い場所の枠と言うのも何気にありましたよね。

そしてそれが徐々に広がっていき、いつの間にかどうでも良くなっていくってものじゃなかったですか。

行動範囲が広がって来た中学高校の頃は、もうこちらの方には何の興味もなく、「故郷」と言ってもまったく新しい場所でした。

 

散歩と言えども、チョーミニミニ旅みたいなものでした。

橋の上から見た風景。橋の下は川ではありません。

緩い坂道を歩いて行くと、その脇道はみんなこんな感じです。

海と丘の横浜。狭い世界の(ある意味の)地平線が見られる横浜。

そしてたどり着いたのが、トップ画像にある「常盤公園」なのでした。

大木の緑に癒されました。整備され綺麗に清掃された道ゆえに、わが町の里山のような公園にはならないのですね。

ここはここで、素敵な散歩道でした。

 

この公園の緑の中で、私と姉は大好きな叔父さんに電話をしました。今叔母さんは病気で入院中。でもコロナのせいでお見舞いにも行けません。電話をすると、とっても喜んでくれて、そして叔母さんは明日退院することが分かりました。

何でも食べられるそうなので、それを聞いて午後からの行動のミッションを思いつきました。

 

公園に飾ってあった七夕飾り。昨晩の大雨にも負けていませんでした。

喉が渇いたので、自販機で飲み物を買いました。何でコーラを選んだのかと言えば、ワタクシ、ミーハーですから、こう言う絵柄を拒否できませんの、ホホホ。

そして今は蝶の季節。

本当は青と緑・・・・。黒と青と緑 ?

とにかく、とっても綺麗な蝶を何度も見たのですが、そやつ、落ち着きがなくて、もう無理~、と写真を撮るのは諦めたのでした。

 

上の蝶の名前すら、自信はありませんが、一応「ヒョウモンチョウ」ではないかと思われます。写真を撮る事が出来なかった青と緑の蝶は何かとも検索してみたら・・・・・・・、チョウの標本ってお高いのですねえ。珍しい蝶だと破格値だし、そうでもないような蝶でも4000円から・・・・・って、思わず欲得の塊になりそうになりましたが、冷静に考えてみたら1000歩ぐらい譲って、蝶捕獲に燃える事が出来ても、その後標本なんて怖くて作れるわけがなかったのでした。

写真、ガンバロー !!

帰り道は、また違う道。

さっき通った、「峰之橋」が見えますね。

帰り道ではかつては友の家だったところ、通った道などを懐かしく切なく思いながら帰途に着きました。

そして午後からは姉と一緒に横浜駅に「横浜タワー」が完成したと言うので、帰りがてら行ってみました。とうとう横浜はこれにて完成かしら。長々と工事中が続き、「サグラダファミリア」みたいだと言われていたのに。

まだどこか工事しているのかしら ?

あまり上手く撮れませんでしたが、間近で鉄っちゃんが出来ますよ。

屋上庭園で撮った花。変わった花が多いなと思いました。

 

 

アイス屋さんで買ったのはソーダでしたが、美味しかったです。

「グレビレア」だと思います。

 

そして楽しかった2日間の横浜滞在を終えて帰りました。

 

横浜から叔母さんにお見舞いを送りました。上の画像の水ようかん。自分でも買って食べてみました。

やっぱり夏は、ゼリーとか水ようかんが美味しいですね。

因みに11日は15999歩。

12日は16029歩。

つまり二日でアバウト32000歩を歩いたわけで、月曜日はクタクタでした。

なのに、なぜ体重が増えている ?

謎です !!

 

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横浜で夜のお散歩

2020-07-14 00:14:34 | 家族スナップ

・「横浜でお散歩」の続きです。

母とのお散歩を終えて部屋でのんびりとしていた所に、姉が早々と夜家事を終わらせて二階から降りてきました。

「じゃあ、行こうか。」と言われて、少々の迷いが生じました。昼間も横浜駅周辺をけっこう歩きましたし、夕方も母と歩いて来て、既に8千から9千歩は歩いていたからです。すると姉が、

「行こうと思っている所はちょっと歩くから、何なら新しく出来たセブンイレブンまでの往復コースでも良いよ。」と言ったのです。

私は思わず、「どんだけそのコースが好きなのよ~ !!」と笑ってしまいました。

そして

「私、平気だから、その行きたかった所に行こう。」と出掛ける事にしました。

※        ※

少し時間は遡ります。

ラッタさんと別れた後、実家の最寄り駅に着いた私は姉に電話を入れました。迎えに行くとラインに入っていたからです。

「大丈夫だよ~」と言ったとたんに雨がザーッと降って来たので、来てもらう事にしました。そしてまた電話を切った途端に、風も強く吹いて傘が差せなくなり、帽子も後ろに10メートル飛んでしまい道行く人に拾ってもらうと言う羽目に陥ったのです。そんなわけで迎えに来てもらえるなんてラッキーと思いました。

だけど木の下で雨をしのいで立っていたら、風も雨も止んでしまいなんとなくバツの悪い感じになってしまいました。

車の中でなんで迎えに来ることになったかの経緯を姉と義兄が語っていましたが、迎えに行くより歩いてきちゃった方が早いと義兄が言った時に、母が「あの子は太ってちゃんと歩けないに違いないわ。迎えに行ってあげて。」と言ったそうなのです。

それを聞いて思わず「なんじゃ、それは。」と言ってしまいました。

確かに、父が亡くなった8年も前に、私は一時半端ないような膝の痛みに歩けない時期があった事はありました。またコロナ自粛中の最初の頃、快適引き籠り生活をしていたら(おうち大好き人間なので)、なんだかまともに歩けないようなヨチヨチ歩きになりつつあったのも確か。だから今こそ気を付けて体は動かした方が良いと思っています。

しかし母に一言だってそんな事を訴えた事はなかったのに、何で「ちゃんと歩けない。」なんて言ったのでしょう。でもこれは容易に推理が出来ます。口から出まかせを言ったのですよ。だってその方が、私が楽だからです。母はありがたいね。言い方はともかく(^_^;)

 

だけど私は義兄に言いました。

「私は体型の割には、意外と歩けるわよ。」と。

「じゃあ、渡辺直美と一緒だね。」

「あの人凄いものね。」「跳ねちゃうものね。」と言う会話がありまして・・・・・・。

 

※       ※      ※

さて、着いたところは横浜ビジネスパーク内にある、水のホールが中心なベリーニの丘です。

トップ画像がそれです。ここに来たのは2回目ですが、夜に来たのは初めてでした。この場所はいろいろなドラマや映画のロケに使われています。

 

向こう側に見えるのは、ある時は観客席、ある時は舞台になる所だと思います。私と姉は、しばしの間そこに腰かけてお喋りをして時を過ごしました。

夜風がとっても気持ち良かったです。

 

 

帰る道でスタバを発見。

なんで新しいセブンイレブンに浮かれるのか分かりません。歩きの範疇にスタバがあると言うのに。

 

このようなものを飲みながら、楽しくおしゃべりをしながら帰りました。たくさん歩いたので足を心配してくれた姉に、

「私やっぱり、このぐらいは全然平気だな。」と言いましたが、ふと・・・・・

「だからと言って、渡辺直美と同じって、それはやっぱり違うんじゃないの。なぜ彼は彼女の名前を出したってわけ。やっぱり、それはないよね !!!」と、沸々と怒りのような感情が・・・・・(^_^;)

もちろん渡辺さんは化粧も上手だしダンスもキレキレ。お芝居も出来るしいろいろと素晴らしいのですよ。分かっています。

でもやっぱしね・・・・!

と言うより、聞いた言葉が脳に到達し怒りに変わるまで、いったい何時間を要したと言うのだと首を傾げた所で、次回に続きます。

 

翌朝もお散歩に行きました。

因みにその日に買ったお紅茶。

 

そしてその日の夜の神奈川は、雨と雷の音に包まれてしまいました。

 

 

 

 

 

 


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横浜でお散歩

2020-07-13 01:46:58 | 家族スナップ

横浜の実家に帰ったのは2月が最後。

7月11日12日に行ってまいりました。かれこれ4か月ぶりの実家帰りでした。

父と母が老いて来たころから、1か月に一度は帰ろうと、意外と長々と実行してきたことでしたが、このコロナの世界侵略で頓挫せざるを得ませんでした。

最近は母に会う事ばかりでなく、横浜で暮らしているラッタさんと会う事も目的の一つになっていました。

大人になった彼には会わなくてもさほど寂しいとは思いませんが、近頃のワタクシは「過去」と言う亡霊に囚われつつあり、可愛らしかった子供たちに会いたくてたまりません。もちろん今が憎たらしいと言うわけでは全くありませんが、幼き子供たちとの再会など出来るわけもない事で、それでも今の彼らに会っていると、私の会いたかった子供たちと会っているような気持ちにもなれるのです。

こんな風に書くと、「ああ、この人子離れが出来ていないんだな。」などと思う人もいるかもしれませんが、それはまったく違います。たぶん多くの方には「分かる、それ。」と共鳴していただける事だと思いますが、分からない方にはそのままスルーして頂きたい心のひだの部分なのです。

 

会うのにランチにするか夕食にするかと考えていましたが、考えているうちにコロナの感染者数の数値が怪しくなってしまいました。夕食と言うと、どうしても横浜駅周辺の繁華街になる事が多いので、それは嫌だなと思いました。それで家を早く出て、一緒にランチを取る事にしたのです。

 

スカイビルから見下ろした風景です。

 

 

この場所は、晴れていれば富士山だって見る事が出来るのです。

スカイビル29階にある「北海道」には二回目。前に来た時の記事に富士山がばっちり映っている画像があります。

「横浜は富士山の近所。」

そしてお食事です。

この後は一緒に紅茶を買いに行ったり、珈琲タイムを持ったりしました。

 

久しぶりだったので、お土産を横浜のダイヤモンド地下街で調達しました。そこでラッタさんとは解散し、私は母と姉の家へと向かったのでした。

今回買い求めたのは「元町喜久屋」のババロアです。いつもならラムボールにするところですが、子供もいるので、今回はこちらにしたのです。

 

夕食後、後で散歩に行こうと思っていると私が母に言うと、「ふーん」とつまらなそうに返事をしました。

この夕食後の散歩には、姉と行く予定でしたが、私が「後で散歩に行かない ?」と姉に言うと、心無いような声で「うーん。」と言ったのです。夜は夜で忙しいに違いありません。それで、あまり乗り気ではないように私には感じたのです。

母のつまらなそうな「ふーん」と言う声を聞いて、「お母さん、今お散歩に行こうか。」と誘うと、

「行っちゃおうか。」とニコニコとしました。

それで母と公園1周でもして来ようかと、お散歩に出たのです。

すると母が

「新しいお店が出来たのよ。まだあまり買い物はしていないのだけれど、時々利用するようになったの。」と言いました。

「行ってみよう。」と言うので、どんなお店が出来たのかと行ってみました。

なんとそこは・・・・・・・・!?

「セブンイレブン」だったのですよ。

信号を渡ってそのお店に行こうとするので、

「いやいやいや、もう何のお店か分かったから良いや。」と引き留めてしまいました。

歩きながら、私は複雑な気持ちがしてしまいました。

車がビュンビュンと走る国道16号線を見て育ち、それなりに都会だと思って暮らしていた横浜。それなのにコンビニが新しく出来たら、そこに連れて行こうとするなんて、どんだけ生活弱者なんだろうかと思ってしまったのです。確かに一番近くて便利だったスーパーは改装に入り数年お休みになってしまったのです。後は老人が歩いて行くには、ちょっと距離がある所ばかりで、仕方がないからか、近頃母は生協に入ったのです。

だけど数分歩いて、私はやっと自分の失敗に気が付きました。母は、私とそこに行き、私が「お母さん、ジュースを買って。お母さん、アイスを買って。」と言ったら買ってくれようとしていたのだなと。まるで私が小さな子供のように。

 

その後私たちは公園の花などを見て帰りました。

「短い時間でも、けっこう汗が噴き出て来たわ。」と母が言うので

「帰ったらお風呂に入ってすぐ寝たらいいね。今日はぐっすりね。」と言いました。すると、母は

「悪いけど、毎日ぐっすりよ。」と。

「それは良い事ね。」と言い、母は帰って、いつも通り早い時間に床に就いたのでした。

 

部屋でのんびりとしていたら、姉が二階から降りて来て、「じゃあ、行こうか。」と言いました。

「えっ?行くの?」となったところで次回につづきます。

 


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自由が丘に行きました。その6

2020-01-09 14:25:48 | 家族スナップ

2019年12月12日に、俳優の梅宮辰夫さんが亡くなりました。

「やすらぎの刻」で主人公の父親役(幽霊で)として出ていたので驚きました。確かに痩せたとは思っていました。でもまだまだ元気で活躍するのかと、なんとなく思っていたからです。だけどこれを別のちょっと嫌な言い方をすると、あまり彼に興味を持っていなかったとも言えるんかもしれません。

それなのに彼が亡くなって、その生きざまを知ると、私は彼の闘病の生活に心打たれ大いに励まされたのでした。30年で6度の癌と闘ってとどこかで読みましたが、もっと違う所で詳しく読み直してみると、最初の癌告知は36歳の時だったというのです。

でも彼は活躍しながら81歳まで生きたのですよね。

梅宮さんは、自分の愛する家族のため、そしてご自身のために一生懸命生きられたのだと思います。だけどその病気に負けなかったその生きざまに、見も知らない私が励まされているのです。

16日の日に妹の病気を知って、正直メチャクチャ落ち込みました。だけど知らず知らずのうちに私は彼の事を考えていたのでした。

 

なんでもない毎日を送っているような私たちでも、知らないうちに誰かを助けていたり、誰かの考えるヒントになっていたり、誰かを励ましていたりするのかも知れません。

そしてもしかしたら、この私たち姉妹のエピソードも、見えない誰かの力にならないとは限らない事だと、私はそう信じているのです。

自由が丘に行きました。その5」の続きです。

 

※   ※

1月3日に母も連れて、また自由が丘の病院に行きました。

母は見た目は若いのですが、耳がどんどん聞こえなくなってしまって、話がかなりのトンチンカンですし、「もう」「もう」と牛の鳴くように「私は老人」というアピールをするので、どんどん年寄りくさくなっていって、嘆かわしく思っています。

どうせ鳴くのなら「まだまだ」と鳴いた方が良いに違いありませんよ。

そんな母の事を嘆きつつも、ちゃっかしお昼は奢ってもらう、いつまでも母と子供たちの構図を(敢えて)断ち切らない私たち。

 

 ←母は、今、歯が抜け掛かっていて、掛かっている歯医者が「抜けたら来てね~。」などとトンチキな事を言うので、こんなパスタでも硬くて食べられなかったのです。(何とかしなくちゃの案件ですね。)

 

3時の面会時間に間に合うように行ったのですが、1月3日なので、ちょっと早く着いてしまっても大丈夫だったみたいです。

病院に入った途端に、窓辺に佇む妹の連れ合いの写真が送られてきました。。

「こんな風に待ってるよ。」と言う意味なのかと思いました。

ところが後で聞くと、写真を拡大したらわかった事ですが、向こうから病院に向かって歩いてくる私たちが分かったので、それを撮ったみたいなんです。

豆粒だったので、(いや米粒よりも小さかったと言うべきでしょう)だから分からなかったのです。

 

談話コーナは私たち以外は誰もいなかったこともあってか、これが見舞いかと言うくらい賑やかでした。なんたって母と姉妹と姪も入れたら女が6人ですものね。

妹は日に日に良くなっていき、元気で明るかったです。

乳癌転移の脳腫瘍らしいので抗がん剤なども免れないようなのですが、それは先の話になるようです。放射線での治療の日程や、なんとなくの退院の予定はぼんやりとは決まったようです。

だけど手術の後遺症もなくて、快活に妹は手術の体験談とかその後の話とかをしてくれました。

私たちも、退院して体力が回復したら行こうと計画を立てている温泉への旅の話などをして、盛り上がりました。

 

「ラッタが言ってたよ。」と私は言いました。

「『3つの大病に打ち勝つ女、なんかすげぇなぁ。』って。」

「そうでしょう。エヘン。」

彼女が明るい事を良い事に、更に私はかなりろくでもないことを言いました。

「なんか続けて言うとゴロが良くてラップみたいよね。『乳癌・肺がん・脳腫瘍イエィ♪』」ってさ。

 

なんてことを言うんだ、この人はって今思った人もいるだろうなぁと思いますよ。いや、自分でも思いますもの。よそ様では絶対に通じない会話です。

ところがですよ、ここに頓珍漢な母がぶっ飛ぶようなことを言ったのです。

「さぁ、ここは病院だから長生きしちゃダメよ。」

「なんてことを言うのよ。せっかく強く頑張ろうとしているのに、長生きしちゃいけないのかい。」と妹が突っ込みます。

何を言い間違えたのか、皆分かっていてのツッコミです。母は本当に昔から、言葉をいい加減に話すのです。でもここでそれはまずいじゃないのよ~。

私はもう、ツッコミなど入れられないくらい笑っちゃって、深夜にひとりでお風呂に入っていた時も思い出して、声を出して笑ってしまいました。

あっ、そうそう。これは「長生き」ではなく「長居」の間違いで、うっかり「き」をつけてはダメですよね。

 

本当はラッタからの伝言の後に、私はこう続けました。

「本当にあなたは凄いと心の底から思ってるよ、私も。」

「明るいから?」

「いや、本当は違うと思ってる。」などと実も蓋もないようなことを言う私。

だって次から次へと襲ってくる病魔が辛くないわけがない。怖くないわけがない。悲しくないわけがないじゃないですか。

「だけどね、その仮面を被れること自体が、『凄いな!!』って本当に思ってるよ。」

 

「長生き」じゃなくて「長居」をしてはいけないので、話も盛り上がって楽しく名残惜しかったけれど、帰ることにしました。

病院を出た時に、ふと、そう言えば来るときと同じように上から見てみ送っているのかなと思い出し、見上げてみると、妹たちは家族3人で手を振ってくれていたのでした。

 

 (姪が上から撮ってくれました。)

MaskWomen 帰りまーす。

 

NYUUGANN   HAIGANN   NOUSYUYOU   YAY!

だけど彼女は負けないんだ。

だけど彼女は笑ってる。

NYUUGANN   HAIGANN   NOUSYUYOU   YAY !

ずっと一緒につるむんだ。

ずっと一緒に遊ぶんだ。 

ねっ、おとうさん !

 

そう言えば集中治療室で彼女がうっすらと目を開けた時、傍に若くてハンサムな男の人が、じっとこっちを見ていたんだって。

「なんだ、誰かと思ったらお父さんじゃない。なんでそんなに若いの ? 」って妹は心の中で話しかけたんだって。 

その話、ちょっと泣けました。

 

 

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