吉田拓郎 放浪の唄 カラオケ
歌と言うのは不思議です。歌全体の内容に心惹かれる時もあるけれど、歌を「詩」として捉えると、その音楽の調べに乗った言葉が、歌全体の意味を離れ、心に響く時があるのです。
『僕は少し変わったでしょう。』
心がキューンとしました。
この歌はカラオケである方が歌っているのですが、声も素敵で心に響きました。
※ ※ ※
吉田拓郎の歌を心の栄養にしてある時まで育ってきました。
だけど、ある時から長い間、私は彼の歌をほとんど知りません。それはいつの間なのかと言えば、それはまさに子供が生まれてから、そしてそれからおよそ15年ぐらいの間だったと思います。
不器用な私はあれもこれもに目を向ける事など出来ません。子育ての時は、覚える歌は「日本昔話」のテーマソングだったり、子供番組で流れる曲だったりしたのですよ。パソコンが今のように普及していなかった以前は、好きだった人たちの動向など追う手段もなかったのです。
時は流れて、時間は再び私に、子育ての時とは違う好きな事を遣って良いのだと告げました。
それは又、新作でもないのに新しい知らなかったものに出会うチャンスを私にくれたのかもしれません。
※ ※ ※
ツイッター、遣ってます。←(知ってるよ!とか叱られそう。)←と、毎回書いている私。
でも時々、そのツイッター、もうイイヤとか思ったりしているのです。イイヤと言うのは、止めてもいいやと言う意味なのですが、そんな風に書くと「うそだあ~。」と思われそう。
いつか体験記を書こうと思っているのですが、傍から見れば、凄く楽しんで遣っているようにしか見えないツイッターでも、と言うか、ツイッターごときでも、心ざわめく事もあるのですよ。
何度か波のように遣ってくる「もうイイヤ~。」と言う気持ち。
ブログとは思い入れが違うのです。でも、そう思うと、そこに必ず何か面白い事や役に立つ事が起きるのがツイッターだったのです。その事はいつか私の記録として書くと思いますが、又最近、その面白い事に出会ってしまいました。
※ ※ ※
ある日の私、ぽつんと一人。
私の中身は成長もなく・・・いやいや、それは嘘。重ねてきた年齢は、私に知恵と経験と悔いの涙を与えてくれました。だけど気持ちはやはりあの時と大差ない。
あの時と言うのは、32歳の冬の朝、安物の青いジャンパーを来て、ひとり町を自転車で走っていました。そのジャンパーの青い色がとても綺麗で、そして空も真っ青。私は道端に自転車を止め、髪をかきあげ空を見上げ、そして感じたのです。
「私は、凄く自由だな。私は自分が好きだな。」と。
今も、その時と変わらない気持ち。だけど現実にはそうはいかないことがたくさんあるのですよね。近頃仕事の夢さえも、年齢の制限に奪われてしまった事に気がつきました。「この扉は開いている。この扉は閉じている。」と言うアレですよ。(アレと言っても、私にしか分からない言葉かもしれませんね。)
ツイッターの良い所は、なんたって老若男女、自由にお話しが出来るところだと思います。だけど、じゃあ全てが自由かと言うとそうじゃないですよね。オフ会で知り合った人どうしが、チャットのように会話しだしたら、もうそこには入り込めませんよ。
「まぜて~。」って言えば良いじゃないですかって思う?
そうはいかないのよね。
「お母さんが来た。」って言われちゃいますよ。
ふーんだ。
そして、前後に何の脈絡なく、本当に独り言で呟いたのです。
「吉田拓郎のオフ会なら参加できるような気がするな。」と。
本当の独り言。
だけど・・・
あっ、予想がついちゃった?
そうなんです。誘っていただいたのですよ。だけど、「行ける」と言うのは「行きたい」じゃないのかと言うと微妙なところです。なぜなら、家の裏が果樹園と言う、なんだかカントリーチックなところに住んでうん十年、夜の新宿、別世界です。
それにですよ。
このブログにいつも来てくださる方には、分かっていただけると思うのですが、昼間でも曲がらない角をくいっと曲がってしまって、目的地にたどり着くのが大変な私なのに、夜の帳が下りたら、そこはもはや迷路ですよ、きっと。
街は別世界、そしてそこで出会う人たちは見知らぬ人たち。(加えて言うと胃炎の為にお酒が飲めず、さらに加えて言うと音痴)
自分で呟いておきながら、ちょっと悩んでしまいました。
だけど、私、立ち止まって考えました。
すみませんとかありがとうとか言って断ってしまう事は簡単だけど、でも幾つになっても自分の世界は此処までだと決めちゃいけないんじゃないかなって。
「1999日目」と言う記事の中のラストに吉田拓郎の「こうき心」を載せたのは、その時の気持ちだったからです。
姉を誘って行く事にしました。
行って良かったのかって?
そりゃ、あなた、良くなかったら、こうして記事に書くなんてことはしませんて^^
とっても楽しかったです。
吉田拓郎の歌って、本当に愛されているんだなと実感しました。
それに私、なんだかたくさん「思う」ことがありました。「思う」、すなわち心が動くと言う事で、そう言うことが日々イキイキと生きる糧、または感性の良質な栄養なのだと思います。
思うことはたくさん・・・。
例えば、私の横で姉が幸せそうな顔で笑っていました。その笑顔を見ていたら、なんだか私も幸せな気持ちになりました。やっぱり私の幸せは家族の笑顔にあるのだなと思いました。
だけど・・・・。
「君から貰ったネクタイを~~♪」
この「放浪の唄」は、全体を聴くと、このような歌だったのですね。
男視点の歌と言うのでしょうか。女から見れば「分かるわぁ、こんな男の気持ち。」と、この曲を聴くのかもしれません。
でも男だから、女だからとはあまり思えない私。
この歌のオマージュ的五行詩
『 愛してるって言った言葉と想いに嘘はなかった
だから私は此処にいて、微笑みながらあなたに手を振る毎日
だけど広げて干したシーツの向こう側、飛んで行く鳥を目で追う私
その瞳には真っ青な空の青しか映っていない
私は少し変わったでしょう』
そんな感じでしょうか。
この歌が凄く気に入ってしまって、何回も何回も聴いてしまいました。
そうしたら、ふとまたも自作のもので申し訳ないのですが「ま・い・に・ち」と言う詩が、なんだか似ているような気がして思い出してしまったのでした。似ていると言うよりむしろ間逆の事を言っているのかも知れない詩なのに。
だけど世の中の愛すべき男たちの優しさは、イヤ女たちも同じかな。こっちの「ま・い・に・ち」に近いような気がしてしまったりもするのですよ。
それでも、おはようとオヤスミを繰り返す毎日の中で、冒険少女のような気持ちは忘れずに、幾つになっても自分の世界は此処までだと決めてはいけないと思うのです。