12月5日、前国立市長上原公子氏のご講演「市民自治こそまちをそだてる」を聴講してきた。
講演後、上原氏とお話しした際、ご自身が市政で大切にしたことは、「子どもの目線」であったとおっしゃっていた。
子ども第一のまちづくりを目指してこられたのだと思う。
国立は、もともと環境・景観にこだわる市民意識が大正時代の街の創成時期からあった。
街を朝鮮戦争出兵で増加した米兵の歓楽街化を阻止するために、「文教地区指定運動」が起こり、メインストリートである「大学通り」へ歩道橋設置に際し、日本初の環境権裁判(高裁棄却)が起こった。
1993年大学通りのマンション計画を巡り景観紛争が生じ、景観問題の運動が高まった。
その高まりの中、1999年東京初の女性市長として上原市政が誕生した。
大学通りの「明和マンション問題」が上原市政誕生直後に勃発。訴える側が、訴えられる側になったとご講演でもおっしゃっていた。
建築差し止め訴訟が行われたが、東京地方裁判所では、条例に基づく20m以上の部分の取り壊しの判決がでたが、高裁で逆転敗訴。
最高裁では、住民側は敗訴になるが、「大学通りの景観は、法的に保護すべき価値がある」と認定。普通の町で景観が客観的に法的価値を認められたのは日本で初めてとなり、高度制限の条例も認められた。
明和マンションは、既存不適格建築物となり、今後、20m以上の建てかえはできない。
これら動きから、国では2004年「景観法」が誕生することになる。
樹木医の講習から、市民樹木医が誕生し「桜守」として大学通りの桜の世話をし緑化を積極的に進めた。
商店街振興では、長野県旭村から間伐材を取り寄せ、空き店舗を改装、また商店街も木で装飾して、活性化に努めた。
市民の力を信じ、皆で合意をする中で、市政を進めてこられた。
公共を市民に取り戻したのである。
都市計画マスタープランも、市民を入れ議論百出の中、作り上げた。最初の苦労はあるが、市民が作り上げたものであり、その後は楽に進んだという。
上原氏は、町歩きを大切にされている。
普通の町であっても美しい部分、好きな部分が町歩きの中から発見されうる。
住民参加の可能性を裏付ける勇気のわくご講演であった。
ここ中央区でも、一番かけていること、それは、子ども第一のまちづくり。
そして、住民が参加し、住民の合意形成のもとなされるまちづくり。
まちづくりを区民の手に取り戻さねばならないと強く感じている。
講演後、上原氏とお話しした際、ご自身が市政で大切にしたことは、「子どもの目線」であったとおっしゃっていた。
子ども第一のまちづくりを目指してこられたのだと思う。
国立は、もともと環境・景観にこだわる市民意識が大正時代の街の創成時期からあった。
街を朝鮮戦争出兵で増加した米兵の歓楽街化を阻止するために、「文教地区指定運動」が起こり、メインストリートである「大学通り」へ歩道橋設置に際し、日本初の環境権裁判(高裁棄却)が起こった。
1993年大学通りのマンション計画を巡り景観紛争が生じ、景観問題の運動が高まった。
その高まりの中、1999年東京初の女性市長として上原市政が誕生した。
大学通りの「明和マンション問題」が上原市政誕生直後に勃発。訴える側が、訴えられる側になったとご講演でもおっしゃっていた。
建築差し止め訴訟が行われたが、東京地方裁判所では、条例に基づく20m以上の部分の取り壊しの判決がでたが、高裁で逆転敗訴。
最高裁では、住民側は敗訴になるが、「大学通りの景観は、法的に保護すべき価値がある」と認定。普通の町で景観が客観的に法的価値を認められたのは日本で初めてとなり、高度制限の条例も認められた。
明和マンションは、既存不適格建築物となり、今後、20m以上の建てかえはできない。
これら動きから、国では2004年「景観法」が誕生することになる。
樹木医の講習から、市民樹木医が誕生し「桜守」として大学通りの桜の世話をし緑化を積極的に進めた。
商店街振興では、長野県旭村から間伐材を取り寄せ、空き店舗を改装、また商店街も木で装飾して、活性化に努めた。
市民の力を信じ、皆で合意をする中で、市政を進めてこられた。
公共を市民に取り戻したのである。
都市計画マスタープランも、市民を入れ議論百出の中、作り上げた。最初の苦労はあるが、市民が作り上げたものであり、その後は楽に進んだという。
上原氏は、町歩きを大切にされている。
普通の町であっても美しい部分、好きな部分が町歩きの中から発見されうる。
住民参加の可能性を裏付ける勇気のわくご講演であった。
ここ中央区でも、一番かけていること、それは、子ども第一のまちづくり。
そして、住民が参加し、住民の合意形成のもとなされるまちづくり。
まちづくりを区民の手に取り戻さねばならないと強く感じている。