京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

そう思いたい

2022年11月19日 | 日々の暮らしの中で
古井由吉さんが、鐘の音のことを平成27年「月間住職」に寄せた随想で書いておられる。
文中、
――お寺の鐘の音というものを、東京で生まれ育った私は日常聞いた覚えがない。あるいは遠くにかすかに聞こえていたのを、忘れているのかもしれない。

… 冬の冴えた空気にくっきりと響く、あるいは初夏の小雨の中にやわらかにふくらむ、あるいは晩秋の風にとぎれがちに運ばれてくる、そんな遠い鐘の音へ、私もつくづく耳をやったことがあるような気がする。

往古の歌集を読むうちに、鐘の音を詠み込んだ歌に出会うと、今しがた聞こえたかのように、遠くへ耳をやることがある。千年もの時空を渡ってくる鐘の声ということになるか。
… 何かと事にまぎれる人生にあって、我に返った心地もするのではないか。


――諸行無常の鐘の声 聞いて驚く人もなし
そんな歌謡が近世にはあったそうだ。これが世の常であろう。しかしひとつの寺の鐘を、その声の渡る範囲の里や街の人が揃って耳にする。それだけでも功徳ではなかったか。ほんのつかのまの、意識にもならぬ、悟りというものはある。悟りとまでは行かなくても、しばしのあらたまりはあるだろう。諸行無常の声は、哀しみではあるが、人生に行き詰まった者には、救いでもあるはずだ。

結びにはこうある。
今の世に寺院というものがあるからには、音にならなくても鐘の声は、おのずとある、とそう思いたい。寺院そのものが鐘の声ではないか。… 過去の衆生の存在を、今の衆生に感じさせる。


こんなに慕わしく寺の鐘を書いた作品を読んだことがなかった気がする。
今では、日々の早朝の鐘の音はうるさいという苦情が出るようになった。

午後1時、鐘を撞く。ゴーン ゴーン
「これから ほんこさん、お勤めします」
と、お知らせの鐘です。
コメント (2)
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