トロイの発掘で有名なシュリーマン、彼が日本を訪れていたことをご存じだろうか。
ドイツで生まれたシュリーマンだが、様々な経験の後にロシアで貿易商として大成功し、大金持ちになった。なのにわずか41歳で事業を停止し、43歳で世界漫遊の旅に出発、その途次で日本に1ヶ月滞在した。
その経験をアメリカへ渡る船の中で書いたのが 「シュリーマン旅行記 清国・日本」
トロイの発掘に取りかかるのはその後のことである。
本はまず万里の長城を見物に上海から天津、北京を経て古北口へ向かうところから始まる。
時は1865年。アメリカやイギリスが上海に租界を作って間もない頃で、清の国内はがたがた。
民心も荒廃していたのだろう、シュリーマンはどの町も不潔極まりない事に怒り、壮麗な紫禁城も荒れ果てていることを嘆く。偉大な文明を築いた民族がすっかり落ちぶれてしまったことにがっかりしている様子がよくわかる。
当時の劇場や女性の纏足に興味があったらしくその説明が詳しいが、どこでも食べるものには困らないことやら住民がそこいらへんにゴミを投げ捨てる様子、また漢民族が異常に賭け事が好きだとしているところなど、中国人、150年前とそれほど変わってないかも、と言うのが面白い。
そんな清国との比較のせいだろうか、その後に訪れた日本に関してはどこよりも清潔だと大絶賛している。
男女混浴の銭湯からは外国人である自分を見ようと裸の人間が飛び出してきたそうだが、それさえ受け入れてしまうのだからシュリーマンの柔軟性は大したものだ。
この旅行記がおもしろいのは他の日本滞在記のほとんどが明治になってからの来日であるのに、シュリーマンが来た1865年はまだ江戸幕府の時代、尊皇攘夷まっただなかだったということ。
家茂が京都に上る行列にでくわしているし、外を歩く時には必ず幕府の役人が5人づつ護衛についている。
実はこの時代、外国領事館も襲われて死者も出ていたので、江戸府内に住んでいたのはアメリカの代理公使ひとりだけ、あとの外国人はみな安全な横浜の居留地に留まり、当然旅行者が江戸へ行くことなど普通はできなかった。それをつてを頼って許可を得、VIP待遇の護衛付きで観光しているのは大金持ちならではのことだろう。
見聞きしたことの説明に関しては間違っていることもいろいろあるし、たとえば10年後に来日したイザべラ・バードの旅行記などに比べるとやはり素人の書いたものと言う感じがする。
まあ、我々が旅行をしてこんなブログの記事にしているようなものだ。
しかしそう簡単に外国旅行などできなかった時代、江戸にやって来たシュリーマンの財力と好奇心の強さはやはり尋常ではない。
開国したての日本はどれほどエキゾチックで面白かったことか。
今の地球上でそんなところは残っているだろうか。
ところで翻訳者のあとがきによると、アテネにはシュリーマンが晩年に建てて住んだ邸宅が残っていて、今は貨幣博物館になっているとか。
贅を尽くしたお屋敷内の各ドア上にはいちいちギリシア語で格言が刻まれていて、その一つは「何事も中庸が肝心」とか。
成金の俗っぽさがにおうが、好きなように生きたうらやましい人であることはまちがいない。
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ドイツで生まれたシュリーマンだが、様々な経験の後にロシアで貿易商として大成功し、大金持ちになった。なのにわずか41歳で事業を停止し、43歳で世界漫遊の旅に出発、その途次で日本に1ヶ月滞在した。
その経験をアメリカへ渡る船の中で書いたのが 「シュリーマン旅行記 清国・日本」
トロイの発掘に取りかかるのはその後のことである。
本はまず万里の長城を見物に上海から天津、北京を経て古北口へ向かうところから始まる。
時は1865年。アメリカやイギリスが上海に租界を作って間もない頃で、清の国内はがたがた。
民心も荒廃していたのだろう、シュリーマンはどの町も不潔極まりない事に怒り、壮麗な紫禁城も荒れ果てていることを嘆く。偉大な文明を築いた民族がすっかり落ちぶれてしまったことにがっかりしている様子がよくわかる。
当時の劇場や女性の纏足に興味があったらしくその説明が詳しいが、どこでも食べるものには困らないことやら住民がそこいらへんにゴミを投げ捨てる様子、また漢民族が異常に賭け事が好きだとしているところなど、中国人、150年前とそれほど変わってないかも、と言うのが面白い。
そんな清国との比較のせいだろうか、その後に訪れた日本に関してはどこよりも清潔だと大絶賛している。
男女混浴の銭湯からは外国人である自分を見ようと裸の人間が飛び出してきたそうだが、それさえ受け入れてしまうのだからシュリーマンの柔軟性は大したものだ。
この旅行記がおもしろいのは他の日本滞在記のほとんどが明治になってからの来日であるのに、シュリーマンが来た1865年はまだ江戸幕府の時代、尊皇攘夷まっただなかだったということ。
家茂が京都に上る行列にでくわしているし、外を歩く時には必ず幕府の役人が5人づつ護衛についている。
実はこの時代、外国領事館も襲われて死者も出ていたので、江戸府内に住んでいたのはアメリカの代理公使ひとりだけ、あとの外国人はみな安全な横浜の居留地に留まり、当然旅行者が江戸へ行くことなど普通はできなかった。それをつてを頼って許可を得、VIP待遇の護衛付きで観光しているのは大金持ちならではのことだろう。
見聞きしたことの説明に関しては間違っていることもいろいろあるし、たとえば10年後に来日したイザべラ・バードの旅行記などに比べるとやはり素人の書いたものと言う感じがする。
まあ、我々が旅行をしてこんなブログの記事にしているようなものだ。
しかしそう簡単に外国旅行などできなかった時代、江戸にやって来たシュリーマンの財力と好奇心の強さはやはり尋常ではない。
開国したての日本はどれほどエキゾチックで面白かったことか。
今の地球上でそんなところは残っているだろうか。
ところで翻訳者のあとがきによると、アテネにはシュリーマンが晩年に建てて住んだ邸宅が残っていて、今は貨幣博物館になっているとか。
贅を尽くしたお屋敷内の各ドア上にはいちいちギリシア語で格言が刻まれていて、その一つは「何事も中庸が肝心」とか。
成金の俗っぽさがにおうが、好きなように生きたうらやましい人であることはまちがいない。
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