本書は自ら荒野のおおかみを自認するハリー・ハラ―という人物が間借りしていた部屋に残した手記とそこに記された「荒野のおおかみについての論文」が主な内容である。このハリー・ハラ―という主人公のイニシャルは作者のヘルマン・ヘッセと同じもので、巻末の訳者によるあとがきによれば、「50歳のヘッセを記念する仮借ない自己告白」(p276)だという。
訳者も指摘していなかったが、ヘッセの作品にはニーチェと仏教の影響が強いことは、以前指摘した通りである。この作品にもそんなところが垣間見える。
例えば、ニーチェ
「ハラ―は悩みの天才であること、ニーチェのよく言っていることばの意味で、天才的な、無際限な、恐ろしい苦悩の能力を養ったことを、私は知りました。」(p14)
二―チェは、「悲劇の誕生」において、理性的なものをアポロン的と呼び、本能的なものをディオニュソス的と呼んだ。もしかすると、ハリーの人間的な部分と本能的な部分をこの二つに例えているのかもしれない。しかし、ニーチェは悲劇をこの二つを統合するものとして考えた。そうすると荒野のおおかみにおいての悲劇とはなんだろう。確かに手記は悲劇的な終わり方をしていたが。
仏教については、次の記述に気が付いた。
「(前略)人間は百もの皮からできている玉ねぎである。たくさんの糸からできている織物である。古いアジア人はこのことを認識し、正確に知っていた。仏教のヨーガ(瑜伽)では、個性という錯覚を取り除くための正確な技術を発見した。(後略)」(p73)
このような記述もある。
「(前略)仏陀を解する人間、人間性の中の天国と深淵とをほのかに感じる人間は、常識や民主主義や市民的教養の支配する世界に生きるべきではないだろう。(後略)」(p79)
実は、この作品は、専業学生のころ一度読んだことがある。その時はそうは思わなかったのだが、今回読み直してみて、かなり病的な文章ということを感じた。とにかく何が言いたいのかよく分からないのだ。
その頃はこんな言葉はなかったのだが、今はぴったりの言葉がある。それは「厨二病」という言葉だ。なにしろ自分のことを「荒野のおおかみ」なんて呼ぶこと自体、かなりの重症だろう。
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※初出は、「風竜胆の書評」です。