チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

久留米絣のランチョンマット

2014年12月21日 | 身の回りのもの

曇、15度、76%

 私の実家の整理で頭を悩めていたのは、もう2年以上も前のことになりました。毎日毎日やれば2年近くもかからなかったのでしょうが、いかんせん、私は香港に住んでいます。とにかく、家の汚れ、整理されていない様子は、ゴミ屋敷などといって報道されているあの状態でした。蜘蛛の巣、蜘蛛の脱け殻なんて当たり前、埃がごっそり溜まっています。おまけに、今やっと人様に言えるようになったのですが、ある日帰ってみると、奥の部屋に猫が死んでいました。屋根の隙間から入り込んだようです。恐がりなので、近くの派出所に飛んで行きおまわりさんに遺骸を引き取ってもらったこともありました。見通しの立たない整理でした。

 私自身、捨てる捨てないに迷うものは実は少なかったのですが、どこに何があるかが分からない、おひな様を探していましたが、見つかったのは御雛人形と書かれた箱の中ではなく、大きな茶箱に放り込まれていました。ひっくり返ったおひな様を見たときは涙が出ました。永年の放置で、髪の毛はすっと抜けます。初めから衣服は好みが違うので捨てるつもりでした。食器類もほとんど捨てるつもりです。往生したのは本の量。ちょっと他の家にない品物といったら、これまたかなりの数の古いカメラでした。父の職業柄、珍しい古いカメラが、これだけはきちんと梱包されて見つかりました。

 母のことを知る人は洋服ばかりの人と思っていらっしゃいますが、私が小さい頃は着物も着ていました。着物を着て運転していたような人です。着物を見つけたのも、随分片付けが進んでからでした。茶箱2つ分ありました。これらも虫食いこそしていませんが、自分に残そうとは思いませんでした。今では見られなくなった銘仙、紅型のご自慢の着物も全て捨てました。そして手元に残したのは、着物の端切れ三枚。その中の一枚が、久留米絣です。

 三枚とも、拡げてみてもそんなに大きくありません。着物をリメイクした小物が似合う私ではありませんので、即座にランチョンマットにすることに決めました。 写真ではよく見えないのですが、小さな赤い織りが入っています。私は母が久留米絣を着ているのを見たことがありません。この久留米絣、実は小学校の時の私のワンピースに仕立てられました。ストレートなワンピースでピケの生地の白い襟がついていました。私の小さい頃の服は、家で洋裁をする方に作ってもらっていました。急にお名前を思い出しました。杉原さんです。長袖で、袖のカフスのところも白いピケの生地でした。白い襟を付けるところは、着物の半襟ね、と今にして思います。

 実家の片付けをしていた頃の私の日本からのトランクの中には、大事に包まれたおひな様やこんな端切れがはいていました。端切れは、家に持ち帰って糊抜きもあって洗ったのですが、茶箱の匂いが取れません。1年半経ってやっと匂いがなくなったので、先日、手荒にもミシンでマットに仕立てました。主人と私の二枚分だけしか取れませんでした。

 母が逝って1年と数ヶ月、私の母へのわだかまりも少し形が変わってきました。マットを前にして、この絣でワンピースをと考えた母のこと、もっと時間が経てば、心の中の氷も少しは溶けるかと思います。母が仕立てずに残した反物が2本。男物の大島と細かい模様の久留米絣。父のための求めた大島でしょう。ゆっくりと、この2本を主人と私に仕立てるつもりです。

  モモさん、ほんとに紅茶だけですよ。モモさん、私のエプロンのポケットにサブレが入っているのをご存知です。

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ぼくはじゃまなんかしていません。モモ

2014年12月20日 | もも

曇り、11度、84%

 年の瀬も押し迫ってきたというのに、私はほとんど家から出ずにチクチクと励んでおります。例年ならば、気もそぞろに大きなクリスマスツリーの飾られたショッピングセンターで、あれでもないこれでもないと買いもしないウィンドショッピングを楽しんでいる時期です。朝、ざっと掃除をすませると定位置に付きます。主人が夕飯がいらないなんて言ってくれた日には、万歳と心の中で叫んで、夕方のモモさんの散歩まで座りっ放しです。もちろん途中お昼ご飯は頂きます。チクチクしながら、これは浪費を防ぐいい方法だとまで思います。それにしても、小さな麻布の目は、昔に比べると私には厄介になってきました。

 チクチクの定位置は、座卓を窓向きに置き換えて、ソファーと座卓の間に大きな刺繍枠をかけます。ブリッジ状態にして刺すわけです。このブリッジの下が、モモさんの定位置。ゆっくり、寒くなくお休みいただけるように、私のバスローブなどが置かれています。このバスローブの上に横たわり、私の膝をあご枕にして、一日寝ています。私にしてもちょうどいい加減の湯たんぽ代わりです。

 ところが昨日は、昼食のあとから急に活気付いたモモさん、定位置ではなく私の膝の上にドンと座ります。 私はモモさんの頭越しにチクチクしなくてはいけません。これはかなりの重労働です。この「重」、膝にかかる重みも意味します。なにぶんにも10キロ弱の重さです。もちろん、頭越しに刺すのはこれも疲れます。「下りてよ。」 お返事はこのお顔です。「ぼくはじゃましていません。」時間がもったいないので、この状態で刺し続けます。いつもなら、そろそろ寝てくれるはずですが、寝もせずに私の膝の上です。急にドアベルが鳴りました。モモさん、素早い動きでドアに向かって走ります。私もインターフォンを取ろうと立ち上がりましたが、足が前に一歩も出ません。しびれです。モモさん、元気にドアの前で吠えています。やっと、ドアフォンへたどり着くと、郵便屋さんでした。

 又しても、大きな荷物が届きました。私も、疲れが吹っ飛んで、箱の中を覗きながら次々に品物を並べます。山を越え海を渡ってようこそ。ほんとに沢山の品物です。ワクワクとふと下を見ると、 モモさん待機なさっています。モモさん用の頂き物が匂ったのでしょう。おやつに少しあげて、私は、トナカイのポンチョを着て、雨が上がったのでお散歩に出かけました。

 昨日はこの荷物で、チクチクを切り上げました。さあ、今日もまたチクチク続行です。どうかモモさん、定位置で寝ていてくださいね。山越え海越えの荷物さん、ありがとう。

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クリスマスツリー

2014年12月19日 | 身の回りのもの

雨、13度、80%

 今、世界中でクリスマスツリーが輝いていると思います。暑くなり始めた南半球のの友達も、夏空に輝くクリスマスツリーを見ているそうです。クリスマスツリーが輝く様子は、平和と幸せを意味しているように思います。小さい頃、母が調えてくれたクリスマスツリー、クリスマスまでは嬉しいのですが、私の母は、お正月が来ようが、お正月が過ぎてもクリスマスツリーを片付けませんでした。子供心に時期を過ぎた飾り物が荒んで見えるのが、寂しかった記憶があります。

 息子が小さい頃は、家の鉢植えのいろんな木に飾り付けをしました。カポックのこともありました。小ぶりなヤシのこともありました。木の一番上の金色に輝くお星さま、金銀の丸いボンボン、サンタや雪だるまのフィギュアそんなにぎやかなクリスマスツリーではありません。それに、チカチカと灯る小さな電球もない全く素っ気ないクリスマスツリーでした。飾っているのは、白木で出来たオーナメント、西武のシアーズで取り寄せてもらったものです。今では、そんな白木のオーナメントも中国製で出回っています。息子はとても不満でした。にぎやかなクリスマスツリーを用意したのは、香港に来てからのこと。イミテーションの折りたたみツリーに、チカチカの豆電球を灯して、キンキラのお飾りを飾りました。息子が、香港を離れるまでのたった6回のクリスマスのことです。夫婦二人になっても、クリスマスには、何らかの飾り付けをします。昨年からは白木のオーナメントが出てこなくなりました。それでも、家のここかしこにクリスマスらしきものを置いています。

 もうそろそろ、20年になるクリスマスツリーが、見出し写真のディアドロのツリーです。高さ15センチ程。ディアドロらしい色合いです。毎年欠かさず、12月1日から26日まで、我が家を飾ってくれています。このディアドロのツリーは頂き物です。香港に赴任して見えた多くの方が、帰国の時にはディアドロの置物を買って帰られます。優しい流れるような女性像など、ガラス張りの飾り棚に幾つとなくお持ちです。この私、ディアドロにあまり興味がありません。置物は、お掃除が大変です。要するに無精者。主人がディアドロの店の前で立ち止まっても、私はさっさと行き過ぎます。掃除をするのは私です。

 このツリーのディアドロだけは、飾っておく期間も短いので特別です。それに、これをくださったご家族が、私は大好きです。ここのお家、ドアを開けた途端、何かしらとても明るいご家庭でした。女の子が二人、猫が二匹出迎えてくれます。女の子がいる家庭ってこんなに明るいのかと思わせます。最後に出てみえるお母さん、これまた明るい方です。そうです、ドアを開けただけで暖かさと明るさがドッと私に押し寄せて来るようなご家庭です。この二人の女の子、今はもうお母さんになっています。長生きしたパピという毛足の長い白い猫も亡くなりました。もう一匹は、ジジ。「魔女の宅急便」の黒猫ジジから取った名前です。私にとっては、一杯の思い出があるこのご家族です。女の子が二人、12階の窓辺から私を見送ってくれた様子など、忘れることが出来ません。

 相変わらず素っ気ないお飾りの我が家のクリスマス、今、私のPCの向こうに紙で出来たツリーがひとつ飾ってあります。 とてもにぎやかなクリスマスツリーです。クリスマスカードです。頂いたカードは封筒に入れてしまっておくのに、なぜかこのカード出しておきました。2日前、こうしてブログを打っていると、ツリーの一番上にPUSHと書かれています。はい、PUSHしてみました。ありゃありゃ、クリスマスソングと一緒にチカチカと電気が灯ります。嬉や嬉し!朝からクリスマスソングが流れるものですから、主人が、どうしたの?とベットから聞きます。ベットまで出前のクリスマスツリー、二人して大喜びです。やっぱり、クリスマスってにぎやかで明るい方がいいなと思います。このクリスマスカードの送り主は、ディアドロのクリスマスツリーをくださったお母さんです。

 にぎやかなクリスマスツリーが欲しかった息子も今年は父親になりました。娘のために小さくてもにぎやかなクリスマスツリーを飾ってやって欲しいと思います。

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イノチェンティミニと北欧の機織り機

2014年12月18日 | 日々のこと

晴れ、12度、43%

 イノチェンティのミニと北欧の機織り機なんてどこにも関係のないようなこのふたつ、実は、私が20代の頃欲しかったものです。

 イノチェンティのミニといっても、ピンと来ないかもしれません。イギリスのミニクーパー(今はBMWミニ)がイタリアのイノチェンティのボディーをのっけていた頃の車です。今でも、ミニは人気の車ですが、イノチェンティのミニは、もっと小さく、走る姿は滑稽でした。それもそのはず、イギリスが経済車として考えた車です。既に生産中止の車です。今ではBMWの傘下で、何やら立派なミニに変身しています。BMWのミニを見てもちっとも欲しいと思いません。古いミニも中古車で売りに出ています。皆さん丁寧に手入れをしています。イノチェンティのミニをお持ちの方に聞くと、その維持費はかなりのものだとか。車内を覗くと、丸窓の計器が見事な配列です。ゾクゾクとしてきます。

 北欧の機織り機、白木で出来た大きな座って織るタイプのものです。もう30年以上前のことですが、この北欧の機織り機を売っている店が東京にありました。あの前に座って、織ってみたいなあと思います。いえ、織物なんてなんにも知りません。ただ、縦糸を張って横糸を潜らすその単純そうに見えて、その実織り手の手の温もりや感情が表れそうな織りがしてみたかったのです。

 そんな事思ってみたところで、イノチェンティも機織り機も買えるような我が家の経済ではありませんでした。考えてみると、若い頃の私は自分の身の程もわきまえず、あれ欲しい、これ欲しいとよく口にしていました。実際の生活は、普通の生活です。外車なんてありません。スバルです。機織り機なんてありません。身の幅で出来る編み物です。

 この秋口、日本で改築をしている家がやっと出来上がり始めました。床の色、天井の高さ、図面で見るのとは違う実態感を持って家を眺めます。家の中の写真を主人と見ながら、照明のことや視界を遮るためにカーテンか障子かなどと話していました。すると、急に主人が、「2階には機織り機を置いたらいい。」と言います。私、心底びっくりしました。30年以上前に私が欲しいと言っていたものを覚えていてくれたのです。確かに、あの当時の私はいつか機織り機をと思い続けていました。30年経ちました。未だに、織物には興味があります。ところが、目下の興味は日本の地端織りです。寒い北欧の長い冬を思いながら白木の機織り機を思います。その同じ感情が、日本の雪国の地端織りを思わせます。織り上がるものの色も風合いも全く違いますが、私の中では同じ線上に並んでいます。

 先週の日曜日、久々に主人と夕食を外でとりました。顔なじみのお店の人が案内してくれたのは、窓際の席。香港の狭い道を行く車や人がすぐ横に見えます。いつも不思議に思うこと、新車が発表されると、余程車好きの方か、お金に余裕のある方でしょう、その真新しい車が香港の道を走っています。ベンツ、アウディー、マセラティ、もちろんポルシェも。ベンツの新車が横を通りました。そんな話をしていると、主人が、今の車の調子を聞いてくれます。そりゃあ、ふるいふるいマツダのロードスターに比べれば、今のBMWのZ4は遥かに乗り易い。車体は重いけど、力が違います。坂道を上がって家に向かう私にとってはありがたいことです。そう話すと、「じゃあ、日本に帰るときは、持って帰ればいい。」と云ってくれます。私が、慣れ親しんだものと分かれることが辛いのをよくご存知です。

 そうそう、マツダを買うときも、BMWに買い替えるときも、いつも、ミニは?と聞いてくれたのも主人です。30年以上の間に、私は、北欧の機織りから日本の機織りに目が行きました。車も、イノチェンティのミニは諦めて、他の車種を選びました。それなのに、ずっと昔の私の言葉を主人は覚えていてくれます。

 きっと、機織り機は買いません。今すぐ帰国ではありません。Z4を帰国の荷物に入れるかどうかは、運賃次第です。時に、イノチェンティのミニや北欧の機織り機を欲しかった頃の私の心の中を思うと不思議なことに何処からともなく元気の玉が飛び出してきます。

 

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京都からの小包

2014年12月17日 | 日々のこと

晴れ、11度、27%

 先月、日本にちょっとした物を注文しました。香港まで配送してくれるそうです。通常、EMSなら日本を出た翌日には我が家に到着します。便利になりました。しかも、追跡調査、今荷物が何処にあるかも分かります。ところがこの注文した品物、日本を出てから行方が分からなくなりました。日本側からも調べてもらいます。税関や飛行会社まで調べるのだそうです。昨日の朝、PCを開けると注文した店からのメールが入っています。非常に珍しいケースで、完全に行方知れずになったそうです。「亡失」というのだそうです。一点もののそれはもう手に入れることが出来ません。非常にがっかりでした。荷物の行方不明、手紙の遅配、そんなこと、実はこれだけ長く海外にいますから当然になっています。友人からの手紙が、ベトナム経由で2ヶ月後にやって来たことも、私がインドから出したクリスマスカードが年明けて、2月に日本に届いたこともありました。まあ、いろんなことが起こります。

 ちょっとがっかりしていると、ドアのベルが鳴ります。覗き穴には、いつもの郵便屋さん。あれ!見つかったのかしら、とドアを開けます。それにしては大きな箱です。差出人は京都の若い友人からでした。

 荷物をいただくと、台所に駆け込みはさみを片手に、その場で箱を開けます。箱に入った物を開けるのは、どんな時でも嬉しいものです。モモさんもウロウロ。

 この送り主の彼女、生粋の京都の方です。贈り物を頂戴すると、いつも、細々とした心遣いが感じられます。しかも、田舎育ちの私には、あれ?何だろうという物も箱の中に潜んでいます。包みも京都ならではのもの、一つ一つ出していると、モモさん、どこかに行ってしまいました。いつもなら、辛抱強く私の側にいるのですが。はいはい、分かりました。食べ物の匂いではなく、お香の香りです。そういえば昨年もお正月用にお香をいただきました。一袋、京都の動物園のゴリラのラーメンが、笑いを誘います。

 土地土地、家々によってお正月の支度は違います。しかも、次第にお正月のお支度も以前程きっちり守る家も少なくなっています。お商売をなさっている家は、どちらかというとお正月のしきたりを代々受け継いで行かれています。この荷物一つ一つお見せしたいのですが、あまりにもたくさんで。

 京都にはこんなお正月迎えがあるのだと初めて知ったのが、はし本の宝船。元旦の晩に枕の下に置いて休むと、宝船がいい初夢を運んできてくれるのだそうです。これも、香のいい香りです。

 檜の板に焼き印で松竹梅が捺されたものが数枚入っています。はて、お正月のコースターかな?と思えば、ちゃんと書き添えていてくれます。檜の香りを楽しむために、お風呂にでも浮かべてくださいと。

 私は、目下、クリスマスもお正月もなく家から出ずに、チクチクと励んでいます。お正月のお茶も、干菓子の準備もおかげで調いました。初夢の準備まで用意してもらいました。

 今、世界中の空をこうして皆の思いが飛び交っているのでしょうね。ありがたく頂きます。

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へそくり

2014年12月16日 | 日々のこと

曇り、17度、59%

 結婚して37年になります。結婚当初は、主人が持って来てくれるお給料が、次の月が来る頃には、ほとんど手元に残りませんでした。贅沢なんかしていません。つましい生活です。冬でも、主人は学生の頃からのコートを着て、私はコートがなくて毛糸のジャケットを編んで着ていました。少し余裕が出ると、息子の幼稚園の準備の為、小学の入学とやはりきちきちの生活です。ですから、へそくりなんて考える余裕もありませんでした。そんな生活をしていたのに、主人は一度も私に働いてくれと言ったことはありません。おかげで、息子の小さい時ずっと一緒にいることが出来ました。

 私が、仕事をするようになったのは香港に来てからです。ひょんなことから頼まれた家庭教師の仕事を22年間続けました。ずっと主人は辞めて欲しかったようです。2年前、ふっと吹っ切れたように仕事を辞めました。働いている間は、寝るところも食べることも主人の傘のもと、自分の働いたお金は本や衣服に使えます。22年間、本と衣服は全て自分で買いました。余分なお金は、主人からもらうお金とは別々に貯金していました。つまり、家の通帳と私名義の通帳を持っていたのです。10年程前、急に主人が日本でマンションを買うと言い出しました。主人に取っては、日本に自分名義の不動産が何もないのが不満だったのかもしれません。いずれは主人の実家も、私の実家も私たちの物になるのは分かっています。持ち物が多いのは、困りものです。でも、主人の望みですから仕方ありません。そのマンション購入時に、我が家の蓄えを全部使いました。その後、どうしたことか私は家の貯金と自分の貯金を同じ口座に入れてしまいました。

 今、手元にある通帳を見ても、どれだけが自分が働いたお金か分かりません。私が仕事を辞めた当初は、そんなに感じなかったのですが、最近、本一冊、口紅一本買うのも何やら主人にすまないような気になってきました。服や靴は買う必要が当面ありません。でも、将来必要になったときは、主人に頼んで買って貰わなけれなりません。主人が、ダメだと言うはずはないのですが、私の心持ちとして申し訳ないような気がします。

 最近は共働きのご夫婦も増えてきました。家計をどう操っているかは存じませんが、奥さんも自分の通帳を持つことをお勧めします。専業主婦の人も、へそくりとは耳障りがよくありませんが、例えば家事の報酬として、いくらかのお金をどこかに貯えて置くのは賢い方法かと思います。

 昔のホームドラマで、額の裏や本の間から出てきたへそくり。実際には小さい家計では、へそくりなんか出来ません。主婦だって、家事報酬として貯めたお金で楽しみのものを買うのは、晴れ晴れしいと思います。「へそくりのススメ」です。さて、これから私はどうやって、主人にすまなく思わずに本を買うかを考えます。私の本読みなんて、一円の足しにもならない趣味ですからね。

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魚のあらのお味噌汁

2014年12月15日 | 日々のこと

曇り、16度、77%

 香港、少しだけ寒くなりました。もう一枚なにか羽織ろうと思うようになるこの時期、決まって会いたくなる人がいます。

 香港のような町に生活して、随分長居しています。主人の仕事関係のお客様も多く、お客様が見えれば中華料理を中心に外食の機会が増えます。なんだか、いつも外食ばかりのようですが、夫婦二人の食事は、基本我が家で普通の日本と同じような食事をいただきます。そんな我が家から数分も歩けば、SOHOやランカイフォンといった一大飲食店街があります。世界中の食べものが食べられます。

 基本はお家でご飯の我が家で、二人してご飯を外にというと、新鮮なお魚を料ってくれるお店に足が向かいます。お刺身用の魚のさくも買い求めることが出来ますが、その日に日本から空輸されたお魚を目の前でさばいてくれるお刺身は、格別です。

 主人が贔屓にしているお店は、わざわざ海の向こう、九龍サイドまで出向きます。チムサッチョイの繁華街にその店はあります。カウンターに座れば、心得たもので主人の好きな飲み物が黙っていても出されます。カウンターの周りに集まって来るお客さんはみんな顔なじみ。そのカウンターの中で包丁を握っているのが、この店の主です。まだ、今のように日本料理屋が多くなかった頃から、香港で板前をして今のお店を持ったと聞いています。夕方少し早めにいくと、空港から届けられた魚が私たちの横を通って奥へ運ばれます。ここの魚は、私たち夫婦の出身地、福岡から運ばれてきます。

 お刺身以外にもお料理があるのですが、ここに私が行くときは概ね刺身のみ。その時その時の旬の魚のお刺身を作ってもらいます。いろいろなお魚を少しずつ盛り合わせるのではなく、そのアジ一匹をたたきにとか、そんさんまを一匹を刺し身にとか、石鯛を一匹お煮付けにとか、注文の仕方も我が家流。ちょっと多いかなと頭を傾げれば、カウンターの中から半分でもいいよ、とご主人の声がかかります。

 このカウンターの中のご主人、私たちよりほんの少し年下、旭川の出身で横浜で修行して香港にやって来たのだそうです。長い付き合いですから、家族関係まで知っています。そして、このご主人、主人にも私にもいろいろ嫌みまでおっしゃいます。さんまをパクパク刺身で食べている私に、よくそんなに食べれるね、なんて言います。脂の乗ったさんまは気持ちが悪くなるのだそうで、普通は2、3切れだそうです。食事が終わりになる頃には、奥の調理場に声をかけます。すると、その日の白身の魚のあらがお味噌汁に仕立てられて私たちの前に。このおいしさって、なにものにも替えがたいと思う程、美味しい。もしかした、お刺身よりもおいしいかもしれません。細かい骨の周りの身をちゅっと吸ったりします。お勘定の合間には、熱い熱いほうじ茶と日本の果物が出てきます。マスクメロンがデザートのときは、私には別のものが出てきます。マスクメロンが苦手なことも充分ご存知です。

 このお店、サーズのときも、リーマンショックのときも乗り越えてきたのに、3年程前、ご主人がほかの方に店を売って日本に帰られました。お店自体は、そのまんま新しいご主人が切り盛りしています。新しいご主人は、前のご主人より人柄はいい方です。でも、料理と人柄は一致しません。我が家の料理の頼み方も変わりました。ちまちまと盛られた盛り合わせのお刺身です。私はどうも、その手のちまちまでは満足しません。お魚のあらのお味噌汁なんて出てきません。

 前のご主人にはよく魚のさばき方、包丁の研ぎ方を習いました。刺身は刃の当たった切り口が命です。前のご主人が、作ってくれた刺身が懐かしい。熱いお魚のあらのお味噌汁が懐かしい。

 その実、お刺身でもあらのお味噌汁でもなく、私たちが懐かしんでいるのは、口の悪いカウンターの中のご主人です。何故かしら、このクリスマスのイルミネーションが灯り出す頃になると、あの昔のご主人を思い出します。

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ファビエラ王妃と美智子妃殿下

2014年12月14日 | 日々のこと

晴れ、14度、64%

 ベルギーのファビエラ王妃がお亡くなりになったのを知ったのは、日本から香港に戻った今月のはじめでした。昨日の新聞で、ファビエラ王妃の葬儀が12日に行われ、美智子妃殿下がご出席なさったことを知りました。しかも、美智子妃殿下お一人です。美智子妃殿下お一人で海外のご葬儀に出席なさるということは、初めてのことだとも書かれていました。この新聞記事の見出しを見た時、あっと声を出しました。

 ベルギーのファビエラ王妃は、ご結婚前には子供の為の本を書いていました。日本でも刊行されましたが、大きな出版社からではありません。熱心なカソリック信者のファビエラ王妃らしくカソリックの教会の出版社を通じて作られた本は、やはり、教会の購買部で売られていました。いったいどのくらいの本を書かれたのかは、私は知りません。「ファビエラ王妃の12の童話」と題された薄い2冊に分かれた本を私は持っています。

 私の母はクリスチャンでした。この私も、幼児洗礼を受けています。今も、洗礼を受けた福岡市の中心部の教会には、この2冊の本を母が求めた教会の購買店が道に面してあります。いつこの本を母が求めたかは知りません。本の奥付を見れば分かるでしょうが、この2冊の本は、日本の家の本棚にあります。私は字を読めるようになったのが非常に遅くて、ずっと本は人に読んでもらっていました、絵本なら絵でお話が解りますが、字の多い本は自分からは開かなかったそうです。「ファビエラ王妃の12の童話」は、絵はほんの少しです。私の記憶にはありませんが、母か家の者誰かが、読んで聞かせてくれたのだと思います。

 私は小さいときから、かたつむりが好きです。皆さんギョッとなさいますが、小さい頃は、半袖の腕にかたつむりを這わせていました。にゅるにゅるです。這ったあとには、白く粘液が残ります。角のように出た目も可愛い。このかたつむり好きの一番の理由は、ファビエラ王妃のお話です。かたつむりとナメクジの兄弟の話です。この話が好きで好きで、何度も何度も読んでもらいました。

 美智子妃殿下も子供の為のご本を出されています。王室同士のお付き合いが深かったとニュースでは報じていますが、美智子妃殿下が単身でご葬儀に向かわれたお気持ちが、いたいように伝わってきます。お元気な頃は、ファビエラ王妃、美智子さまの間でどんな童話の会話がなされたのでしょうか。子供の為の本、童話といわれるものは、決して小さい子供向けの本という意味ではありません。大人が読んでも身に沁みる本です。

 昨夕のニュースでは、美智子妃殿下のファビエラ王妃ご葬儀での姿が報じられました。その美しいお姿に思わず涙が出ます。80歳を過ぎられ、お体調も思わしくないと聞きます。そんな美智子さまが、お一人で寒波のベルギーに向かわれる程、ファビエラ王妃への思いが深かったのだとお察します。

 ファビエラ王妃のご冥福を祈ります。そして、日本の誇れる美智子妃殿下に感謝いたします。

 

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マハトマガンジー

2014年12月13日 | 日々のこと

晴れ、12度、50%

 東京杉並区の読書の森公園にガンジーの等身大の立像が建っているそうです。実は、2007年に主人とインドへと向かったのは、この立像をガンジーアシュラム再建トラストから寄贈してもらうべく、当時の山田宏杉並区長ご夫妻に同行するのが目的でした。私はまだその立像を見ていません。

 マハトマガンジー、インドの父と呼ばれる人物に付いては、恥ずかしいことに、学校で習う程度のこと、小さい頃、白黒テレビのニュースに写るガンジーの姿ぐらいしか知識を持ちません。マハトマというお名前かと思っていたら、マハトマは、インドの詩人ダコールが、ガンジーを讃えて捧げた偉大なるという意味の呼称だと知ったのも、つい最近のことです。

 そんな我が家の本棚に、 高さ10センチにも満たない小さなガンジーのブロンズ像があります。2007年の渡印のとき、最末席の私にまでガンジーアシュラム再建トラストから頂いたものです。人のポートレートましてや像などは、身近に置くのは好みではありません。それでも、丸7年、この小さな像は本棚の一角を暖めてくれています。

 3日程前、手狭になった事務所の移転の準備をしている主人が、最後に事務所を見に来ないかと言います。持って帰って欲しいものもあるそうです。でも、私、この所、家を出たくありません。チクチクが滞っています。そんな事言っても分かる人ではないので、じゃあ、ちょっとだけね、とお返事すると、もう来なくていいとおしゃいます。しめしめ。その晩、帰って来た主人が手にしていたのは、ひとつの額、ガンジーの肖像画でした。あれ、それどうしたの?と私。主人曰く、2007年の渡印の際、ガンジーアシュラム再建トラストからもらったもの2枚の内一枚だと言います。なにぶんにも、私は最末席、テーブルの向こうの端では、沢山の書類が交わされたり、土産物が交わされているのは遠目に見えていましたが、何が何やら知りません。そういえば、香港に戻ってきて、額に仕立てて主人に持たせてことを思い出しました。会社には似合わないので持ち帰ったそうです。小さな像もこの絵も、不思議なことに見る人の気持ちを鎮めてくれます。

 インドには、沢山のガンジーゆかりの建物があるそうです。 この建物もそのひとつ、ニューデリーにあります。暗殺される前、ガンジーがアシュラムとして使っていたそうです。中は記念館になっていましたが、  沢山のヒンズー語、英語の本がありました。久しぶりにガンジーの顔を見ながら、いつかこの人物のことをゆっくりと知ってみたいと思います。

 この建物の写真は、私が撮った写真の中でも大好きな写真のうちの一枚です。

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10枚の雨戸

2014年12月12日 | 日々のこと

曇、15度、59%

 私が育った家には4カ所雨戸がありました。昔の雨戸ですから木で出来ています。今のサッシの雨戸より軽いのですが、滑りが悪かったり、戸袋から出すのに一苦労します。夏休みや日曜日などは、雨戸を開けるのは私でした。暗い部屋に、朝日が入り込むのはなんともいえず気持ちのいいものです。そして、夏の急な夕立が来ると、「真奈さん、雨戸を閉めなさい。」と母が大声を上げます。この雨戸は、座敷の雨戸のことです。

 座敷は、廻り縁というL字型の縁側が付いています。つまり雨戸は二面に付いているわけです。その上、一面の雨戸の数が5枚ときています。合わせて10枚の雨戸です。雨が縁側に両側から降り込みますから、二人掛かりならまだしも、一人でしかも小さな私が雨戸を繰るのは一仕事でした。戸袋から出す時にうまくいかない、途中で動かない、焦っていますから尚更です。縁側が濡れると、あとで雑巾掛けもしなくてはなりません。

 母は、私が家を出てから35年程一人でこの家に住みました。掃除も嫌い、整理整頓も出来ない、帰る度に家は荒れて行きました。座敷の縁側は、物置状態です。物置ですから、母は雨戸を開けなくなりました。それでも、雨戸部分の上には明かり取りのガラスが入っていますので、暗くはありません。陽がさし込む座敷を見たのは、もうずっとずっと前のことでした。

 実家の改築で、私が主人に頼んだことは、床の間と欄間を残して欲しいということでした。実は当初、床の間も欄間も主人は壊すつもりでいました。私の言うことなどに耳を貸しません。それも頷けます。主人は結婚して以来、この家がきれいに掃除され手入れされた状態を知らないのです。廻り縁から差し込む日の光の心地よいこと、その光を透かして見える欄間のきれいさ。結局、欄間と床の間は残りました。ところが、廻り縁の北側は、雨戸一枚分を残して壁になりました。 ふたつの椅子が並ぶ後ろの白い壁が新しく作られたものです。福岡は町の北側が海、玄界灘です。冬は北から風が吹きます。幅の広い幹線道路も家の北側にあります。風を避ける、防音の為にも、壁にしたかったのでしょう。でも、廻り縁の頃のズッパリとした趣はすっかり姿を消しました。

 今、私が家に帰って一番にすることは、残った雨戸を開けることから始めます。玄関を開け、仏壇の前を通りながら父母に「ただいま。」と声をかけ真っ直ぐに雨戸に向かいます。工務店の方が丁寧に高さを合わせ、ロウを縫ってくれていますので、滑りよく戸袋へ納まってくれます。この縁側からの景色も、庭木を思い切って整理しましたから、目の前を遮るものがありません。

 ところが私、やっぱり無精者です。5枚のうち3枚を開けると、充分に明るくなります。そんなわけであとの2枚は開けないまま仕事にかかります。

 今家には、あと3カ所雨戸が付いていますが、これらはサッシの雨戸です。サッシのレールの上を、滑らかに戸袋に入ります。枚数も2枚なのに、ちっとも面白みのない雨戸です。

 雨戸のある生活なんて、もう何十年もしていません。この家に住み始めたら、私の朝一番の仕事は、全部の雨戸を開けることから始まります。朝日の入る部屋、雨戸を開けた途端に、あっと声を上げる雪の日の朝、想像しただけでも楽しい一瞬です。

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