わたしは、どうしても、お上品になれない。
お利口さんぶるのも、きらい。
(→でも、受け売り、知ったかぶり、時々してます。
それが、時として間違ってたりするから、大恥)
食べ物も、日常は、質素、大好き。
枯れかかっているんだろうか。
干物か?
贅沢なモノも、そりゃあ嫌いじゃない。
否定なんぞは、していない。肯定。
良いモノを見る目は、そこそこあるかも知れない。(ないかも知れない)
だが、上質なニセモノと、B級のホンモノとでは、A級ニセモノに軍パイをあげてしまいそうだ。
豪華なもの、素晴らしいもの、
目や舌を楽しませてくれるもの・・・それらは人生に至福を与えてくれる。
時には、生きる目標、目的になったりする。
でも、基本的には、けっこう、わたしは、地味だ。
農家からのいただきものの白菜をまだ延々と食べ続けている。
(しかも、調理法が、よくわからないことと、面倒くさがりなこととで、単純に煮るだけ)
ご飯に、お漬けもので、さささ、ぱくぱく、でもOK.。
自分で作る、かんたんサンドイッチも、大好物。
ひとりになっても、気楽な、おひとり様暮らしができるような気がする。
(ただ、非常事態のとき、病気や災害、事故が、怖い。これって、重要な要素)
ダンスレッスンのウエアや、自宅から着ていく服は、わたしは安もの。
皆さん、値が張りそうな豪華なお召し物。
でも、わたしは、いいんです。自分は、自分。
「ハレ」と「ケ」。
都会人は、四季を通じて1年中、ハレ。
田舎人は、冠婚葬祭の時は、ハレ、日常は、ケ。
これも、時代と共に風習も変わってきているだろうけれど。
しかしまあ、ダンスのレッスンごときに、なんで、あんなキンキラキンの洋服を着てくる?
発表会や、パーティならいざ知らず。
よっぽど、着ていく場所や機会がないのか、衣装が洋服ダンスから溢れかえっていて、
一生、毎日、取っかえひっかえ着替えても、着尽くせないのか。
お金とモノとヒマが、溢れかえっているってことなんでしょう。
それで、ダンスがヘタなら、それ見たことか、ざまあみろ、と大喜びできるのに、
ダンスは、とてもお上手。
つまり、お金とヒマをたっぷり投じた結果が、あれ。文句いえないほど、上手。
どの世界も、やはりお金がモノをいうようだ。
まあ、あまり上を見すぎないことが大事。
何事も、ほどほどに。
それでも厚かましくも、まだ、わたしにも上達する可能性がある、なあんて思っている。
彼ら、彼女らは、プロではない方々なので、わたしの精進と努力いかんによっては、
彼女たちの域に達することが出来るかも知れない。
もし汗と涙の結晶の甲斐あって、奇跡的に目標域に達したら、
わたしは、とんでもなくイヤなヤツになっていることだろう。
コンプレックスや短所・引け目があるのは、人間としては、ちょっと気の毒で、かわいらしい。
「残念な人の英語勉強法」というタイトルの本(山崎将志・著)を書店で見かけ、
タイトルに惹かれ、何回にも分け、立ち読みした。
(せこい・・・でも、ちゃんと、ラジオ講座・フランス語のテキストは、そこで買ってます。
何度も言うところが、また、せこい・・・)
そういう、ちょっとダメ、というのが、ぐっとくる。
この「残念な人」シリーズは、けっこう、ベストセラーになっているようだ。
服装のことに、話はもどるが、
ただ、ふと、自分の年齢からすると、こんな安もの、しかも、年齢に合ってないかも知れない、
似合ってないかも知れないものを、着ていていいのかな・・・って思う時がある。
自分だけが、満足。
たまに、年齢に合ってない、よけいに年齢を強調してしまうような服装の
残念な人を見かけると、はっとする。(「ほっとする」のではなく)
わたしも、あんなのかも。
でも、表彰式や、公式の場に出るわけじゃないんだから、いいか・・・。
(と、無理やり自己肯定)
ちょっと残念な人である、わたし。
「ちょっと」ということは、まだまだ、自分枠に余白が残っていて、動きがあるっていうことだ。
あきらめきらずに、ジタバタあがこう。
ちょっと残念な人は、根拠もなく、ちょっと前向きに明るかったりする。
トップ画像は、マウリッツ・コルネリス・エッシャーのだまし絵です。
わたしも、だまし、だまされ、今日まで来ています。