雅工房 作品集

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運命紀行  一族の切り札

2014-02-02 08:00:58 | 運命紀行
、          運命紀行
               一族の切り札

飛鳥時代末期から奈良時代・平安時代の歴史を紐解くとき、藤原氏の動静を無視して理解することは困難である。
藤原不比等を祖とする一族は、他の氏族と、あるいは天皇家を中心とした皇族とも激しく対立し時には絶妙の関係を保ちながら繁栄を続け、道長・頼通という絶頂期を現出させるのである。
しかし、その歴史は、藤原氏という氏族内での激しい権力争いの歴史でもある。

聖武天皇の御代、不比等の四人の息子たちは、偉大な父を亡くした後の苦難の時期を切磋琢磨しながら勢力の挽回を図っていた。
四人の息子とは、南家の武智麻呂、北家の房前(フササキ)、式家の宇合(ウマカイ)、京家の麻呂であるが、長屋王と政権を争ったのは、長男の武智麻呂と次男の房前が中心であった。
因みに、南家・北家というのは、二人の屋敷の位置関係から称せられるようになったものであり、式家は、宇合が式部卿であったことに由来し、京家は、麻呂が京職太夫であったことに由来する。

長屋王が謀反の疑いから滅亡すると、武智麻呂と房前は弟たちを順次朝廷の要職に引き上げ、四兄弟が朝廷を完全に牛耳るまでに至った。
しかし、天平九年(737)、蔓延していた天然痘により、四兄弟全員が順次没してしまったのである。
再び苦境期を迎えた藤原各家であったが、光仁天皇の御代では、北家房前の子の永手・魚名が左大臣に上り復権を見せたが、永手の嫡男は夭折し、魚名は乱に連座して失脚、北家は南家・式家に押されていった。
だが、その両家も、大同二年(807)に南家が伊予親王の変で没落し、弘仁元年(810)に式家が薬子の乱で勢力を失っていった。
すると、それまで雌伏の時を送っていた北家の冬嗣は、嵯峨天皇の信任を得て急速に勢力を伸ばし、藤原四家の中心になっていったのである。

冬嗣には多くの妻がいるが、その中に藤原美都子という注目すべき女性がいる。
美都子は武智麻呂を祖とする南家の人であるが、祖父は仲麻呂の乱で処刑された巨勢麻呂である。その前に亡くなっていたという説もあるが、美都子の父真作は無事であったようであるが、貴族とはいえ最終の官職が阿波守であることを考えれば、あまり恵まれた境遇ではなかったらしい。当然美都子も幼年期は恵まれなかったと想像されるが、冬嗣の妻となったことで一族の重要な役割を担うことになる。

美都子は四人の子供を儲けた。
男子は、上から長良・良房・良相の三人で、女子は一人で順子である。
順子は嵯峨天皇の皇子である仁明天皇のもとに入内、後に文徳天皇となる皇子を生む。これにより、冬嗣の朝廷内での地位は確固たるものとなっていった。
長良は、人柄高潔にして、官職において弟たちに後れを取っても拘ることなく付き合ったといわれるが、いわゆる総領の甚六的な人物だったのかもしれない。しかし長良は子供に恵まれ、特に高子と基経という重要な人物を得ている。ただ、出世争いにおいては、公卿とされる参議になるのは、二歳年下の良房に十年遅れ、四十三歳の時であった。さらには、権中納言になるのも、九歳ほど下の弟良相に先んじられ、亡くなる二年前に良相が権大納言に昇った後釜として就いており、それが最高位であった。

良房は、実質的な冬嗣の後継者として着々と地位を固めていったが、それは、もちろん当人の器量によるところもあるが、何よりも嵯峨天皇の皇女潔姫を妻に迎えたことが大きかった。
その代わりというわけではないが、二人の間には姫が一人誕生しただけで、嫡男を設けることができなかった。記録として残っているものを見る限り、他に妻妾を娶らなかったようなのである。そのため、兄の三男である基経を養子に迎えることになったが、この人物は父には似ず、むしろ養父となった叔父良房を上回るほどの政治力を発揮して、藤原北家の勢力を万全のものへと導いていくのである。

しかし、そこへ至るにはいくつかの難関もあった。
良房と潔姫の間に生まれた明子は、文徳天皇に入内させることができたが、すでに惟喬皇子という嫡男というべき立場の皇子がいた。明子は、待望の男子を設けるが、惟喬親王はすでに七歳になっていた。良房は、惟喬親王の生母が紀氏という勢力の弱い一族であることと、明子が皇女を母としていることなどを武器に、生まれたばかりの惟仁皇子を立太子させた。
さらに、惟仁皇子が成長するまでの繋ぎとして惟喬皇子を即位させたい意向を文徳天皇は抱いていたが、それも強引に押さえつけることに成功した。
そして、文徳天皇が三十二歳で崩御すると、ただちに九歳の惟仁皇子を後継者として践祚、即位させたのである。天安二年(858)のことで、清和天皇の誕生である。
ここに、藤原北家による天皇外戚としての基盤は固まったかに見えた。

だが、清和天皇がいざ即位してみると、重大な問題が持ち上がってきたのである。
次期天皇を設けるべき妃の選定であった。皇族関係や他の有力貴族にはその候補者となるべき姫は数多いたが、肝心の藤原北家には嫁がせるべき適当な姫がいなかったのである。
清和天皇はまだ九歳とはいえ、天皇家にとっては後継者を一日も早く儲けることは何よりも優先されることであった。むざむざと時間を送っているわけにはいかなかった。すでに他の勢力からは入内させようとする動きが表面化してきていた。
摂政として政治の実権を握っていた良房と、その後継者として頭角を現しつつあった基経は、藤原北家の最後の切り札ともいうべき苦肉の手段に出たのである。
それは、基経の妹である高子の入内であった。

この時、清和天皇は九歳、高子十七歳、天皇はようやく少年の面影を宿し始めた頃であるが、高子は、当時としてはむしろ婚期としては遅いほどの年齢であった。
しかし、この決断により、これからほぼ十年後に高子は皇子を誕生させ、藤原北家の繁栄を盤石のものとしたのである。


     ☆   ☆   ☆

藤原高子は、永和九年(842)に誕生した。父は藤原北家冬嗣の長男長良、母は藤原乙春である。
高子が誕生した時には、冬嗣はすでに没していて、仁明天皇の御代となっていた。父の妹である順子は、仁明天皇の女御として入内しており、やがて文徳天皇となる皇子を設けていた。
父の出世は遅れていたが、叔父にあたる良房は冬嗣の後を引き継ぐ形で政権の主導権を握っていた。従って、高子の生活は、上流公卿らしい華やかなものであったと考えられる。

やがて高子は、順子のもとに出仕している。詳しい時期は分からないが、清和天皇がまだ東宮時代のことと思われる。
高子が藤原北家の頼みの綱として、清和天皇の女御として入内したのは、貞観八年(866)とされるが、この時には、清和天皇は十七歳、高子は二十五歳になっている。本当にこの時が入内であれば、いささか年齢差はあるとしても、夫婦として自然な年齢である。
しかし、一族以外からの入内を恐れている良房や基経が、天皇がこの年齢になるまで高子を入内させなかったなどとはとても考えられない。さらに高子はすでに二十五歳で、当時の公卿の姫としてはそれまで独り身であることは極めて不自然といえる。
おそらく、高子が順子のもとに出仕したというのは、清和天皇の東宮時代か、あるいは即位間もない頃から実質的な入内を果たしていたと考えられる。
高子はすでに結婚適齢期に達していたが、清和天皇はまだ十歳になるかならぬかの頃からと考えられるので、高子にとっては何とも切ない新婚時代であったかもしれない。

貞観十年(868)、高子は一族待望の皇子を出産する。貞明皇子、後の陽成天皇である。翌年には、貞明皇子は立太子し、貞観十九年(877)には父の跡を継いで即位する。
一方で、高子の夫でもある清和天皇は、波乱の生涯を送っている。
母の出自の威光によって、義兄である惟喬皇子を追い払うようにして立太子し、九歳にして即位した清和天皇であるが、決して満たされたものではなかったようだ。
まず、幼くしての即位は父文徳天皇の崩御のためであるが、まだ三十二歳の若さであり、急病死であることから、とかくの噂もあったらしく、暗殺の可能性も捨てきれない。
また、当然のことながら良房・基経らに政権は委ねられており、やがて自身の成長と、良房没後は基経の剛腕ぶりも目立ってきて、鬱々たる皇位であったようだ。
清和天皇は、二十七歳の時、突然退位を決意し、まだ九歳の陽成天皇に譲位してしまう。
しばらくは、上皇として、基経や高子らと共に政権に関与したようであるが、意のままにならず出家してしまい、寺社をめぐる巡拝の旅に出た。それは、断食を含む厳しい修業を伴ったものらしく、やがて、三十一歳で崩御する。退位して四年後のことである。

高子には、在原業平との激しい恋の物語が残されている。
皇族の一員でもある業平は、惟喬親王と親交があり、互いに恵まれぬ境遇からかなり親しかったようである。そのような関係から高子とも接する機会があったようで、業平は真剣に高子を愛したらしい。
高子は大変な美貌とも伝えられているが、実際に五節の舞姫を務めているので容姿端麗であったことは事実らしい。
高子と業平との恋は、伊勢物語などでその一端を知ることができるが、高子が順子のもとに出仕していた頃と思われ、何とも微妙な時期ではある。

また、清和天皇が崩御した時、高子は三十九歳になっていたが、在原業平もその頃に没している。
後は皇太后として晩年を送っていたが、寛平八年(896)、自身が建立した東光寺の座主善祐との密通を疑われて、皇太后の位を廃されている。
高子が五十五歳の頃のことであるが、どこまでが事実か分からないが、情熱的な女性であったことは確からしい。
皇太后の位を廃されることは、名誉的なこともあるが経済的な痛手も大きかったと思われる。しかし、息子の陽成天皇は上皇として健在であったから、生活に支障をきたすようなことはなかったはずである。

その陽成天皇も、九歳で践祚を受けたが、十七歳で廃位に追い込まれている。暴虐な振る舞いが多かったためとも言われているが、満年齢で言えばまだ十五歳の頃のことで、いくら粗暴だったとしても退位するほどのものであったとは考え難い。おそらく政略がらみと考えられる。
その跡は、仁明天皇の皇子で基経とは従兄弟にあたる光孝天皇が五十五歳で即位し、その皇子も次の宇多天皇となる。
そのいずれの御代でも、藤原北家は天皇の外戚の地位を占め、藤原北家全盛の時代を迎えるのである。
結果として、何人かの天皇や取り巻く人々が、藤原氏の政権争いの犠牲になったともいえるし、高子もまたその一人なのかもしれないが、もし高子という女性がいなければ、藤原北家のあれ程の全盛期は実現しなかったように思われるのである。

『 雪のうちに春は来にけり鶯の こほれる涙今やとくらむ 』

これは古今和歌集に収められている藤原高子の作品である。
おそらく、晩年の作と思われる。
高子は、延喜十年(910)春三月、世を去った。享年六十九歳であった。
なお、それから三十三年後の、天慶六年(943)、皇太后の位に復されている。

                                                    ( 完 )








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