新型コロナ対策に関して、いわゆる「東京アラート」を終了させて、「新たなモニタリング項目」が発表されました。
公表された項目は、「 ①新規感染者数 ②東京消防庁の救急相談センターの相談件数 ③感染経路不明者数と増加比 ④検査の陽性率(PCR・抗原) ⑤救急医療の「東京ルール」の適用件数 ⑥入院患者数 ⑦重症患者数 」の七指標で、運用方法などについて説明があったようですが、それぞれの指標に対する数値は設定されていないようです。
数値で判断するのか、比率で判断するのか、傾向を見るのか、あるいはそれらを適切に用いて「総合的に判断する」ことになるのでしょうか。
ふるさと納税の新制度から泉佐野市を除外した総務省の決定は違法として、泉佐野市が取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁は、国勝訴とした1月の大阪高裁判決を破棄し、除外決定を取り消した。裁判長は、国の除外決定を「違法」として、泉佐野市の逆転勝訴が確定しました。
この判決について、テレビのコメンテイターは、「誰が見ても国の決定は違法」という意見が圧倒的に多いように思われました。最高裁の裁判官の判断も「5対0」で、ほとんど疑問の余地などないような裁判だったと思われるのですが、大阪高裁は「3対2」で国を勝利としているのは、どう考えればいいのでしょうか。その背景には、最高裁も述べていますが、法律の分からない私などは、他の市町村税を泉佐野市が貪り食っているように見えていましたので、大阪高裁の判断もありかなと思っていました。
つまり、国と市とが争うといった裁判において、法律に基づいて判断するのか、行政の判断を加味するのか、市民感情も配慮するのか、などと言った判断基準が存在しているようで、そうでなければ、法律の専門家が分かれるような訴訟ではないと思うのです。
こちらはまだ訴訟に至っていませんが、河合夫妻の買収問題となれば、あきれてしまうほどの惨状を示しつつあります。
そもそも、どういう判断基準で、自民党本部から河合陣営に高額な資金が提供されたのか、河合夫妻はどういう基準でお金をばらまいたのか、何を基準に今時お金で票が買えると判断したのか、もらった方は、様々な経緯を述べていますが、同情的な面もあるのかもしれませんが、いやしくも議員と呼ばれるような地位に就く以上は、この程度の善悪の判断程度はしてほしいものですが、それぞれにそれぞれの判断の基準があって、「とりあえず受け取っておこう」ということになったのかもしれません。
さらに言えば、このような問題は、この地域に限ったことなのか、それとも多くの地域で選挙のたびにお金が舞っているのでしょうか。わが国の民主主義はこの程度のものだということなのでしょうか。
私たちの何気ない行動にも、それなりの判断の基準が存在していると考えられます。
その判断の基準は、知識や経験に基づいていたり、誰かのアドバイスを受けての場合もあるでしょうが、とっさの判断が強いられ、その人の人格や蓄積した知識などが吹っ飛んでしまった状態で判断を下してしまうこともあり、多くは、不幸を生み出す原因の一つと考えられます。
まあ、個人の場合はそれはそれで仕方がありませんが、組織や組織のリーダーとなれば、それなりの「判断の基準」というものを明確にして、冷静な運用が求められるのは当然のことでしょう。多くは法律という形を取っており、慣習という判断基準も重きを成しています。
今回のコロナ対策においては、「自粛」という言葉が脚光を浴びましたが、法令に基づかないのであれば、より具体的な判断基準が必要なはずです。
「総合的な判断」というのは実に含蓄のある言葉ですが、多くの場合は、「うまく説明できない」、「知らせる必要などない」、「何かを隠している」といった場合が多いことを、使う方も使われる方も承知しておくべきだと思うのです。
( 2020.07.02 )
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