雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

折りてかざさむ

2024-04-10 08:00:01 | 古今和歌集の歌人たち

      『 折りてかざさむ 』


 鶯の 笠にぬふといふ 梅の花
       折りてかざさむ 老いかくるやと

          作者  東三条左大臣 

( 巻第一 春歌上  NO.36 )
       うぐひすの かさにぬふといふ うめのはな
               をりてかざさむ おいかくるやと 


* 歌意は、「 鶯が 笠に縫い付けるという 梅の花を ひと枝折って冠に挿そう 老いを隠すことが出来るかもしれない 」といったものでしょうが、取りようによっては、功成っても老いの恐怖を感じている心境を詠んでいるとも言えそうです。 
なお、古今和歌集のNO.1081に、『青柳を 片糸に縒りて 鶯の 縫ふてふ笠は 梅の花笠』という歌がありますので、「鶯が梅の花を笠に縫い付ける」といった俗説のようなものがあったのかも知れません。

* 作者の東三条左大臣とは、源常(ミナモトノトキワ・812 - 854 )のことです。
源常は、嵯峨天皇の皇子ですが、814 年に兄の信・弘と共に、源朝臣姓を賜与されて臣籍降下しています。数え年三歳の時ですから、皇子としての生活の記憶はなかったかもしれません。
常の生母は、更衣の飯高宅刀自です。飯高氏は、当時は下級貴族の家柄であったと考えられますが、当時の慣例として、常が皇位継承の地位を得ることは考えられませんでした。
それに、嵯峨天皇には、后妃を始め妻妾は、伝えられているだけでも三十人を超え、皇子皇女の数は五十人に及びます。おそらくは、実数はさらに多いことでしょう。
臣籍降下とはいえ、実体は、とても皇室内での養育は困難ということではないかと考えられます。

* 臣籍降下した後の幼年期の常についての記録は余り伝わっていないようです。母の実家辺りで養育されたと推定されますが、平安時代初期のことであり、嵯峨天皇も強い権力を掌握していたようですから、政活費などの支援は手厚いものであったと推定されます。
また、常は、幼い頃から優れた才覚が目立っていたようで、早い段階で「宰相の器」と噂されたといい、嵯峨天皇にも寵愛されたようです。

* 828
年、常は、同年の生まれの弘と共に、無位から従四位下に叙され、常は兵部卿に任じられています。十七歳の時のことです。
830 年に従四位上に昇叙される時も弘と同時でしたが、翌 831 年正月には、三階昇進して従三位に叙せられ、嵯峨源氏兄弟の中で一番早く公卿に列しました。同年 7 月に二歳年上の信が参議となり公卿の地位を得ていますが、832 年に常は中納言に昇り、その後は嵯峨源氏の筆頭恪として先頭に立ち続けました。

* 833 年、仁明天皇(嵯峨天皇の第二皇子)の即位に伴って、常は正三位に叙され、837 年には左近衛大将、838 年には大納言に昇り、二十七歳にして、左大臣藤原緒嗣(藤原式家。774 - 843 )、右大臣藤原三守(藤原南家。785 - 840 )に次いで太政官の第三位の地位にまで昇りました。
840 年に右大臣藤原三守の死去により、常は後任として右大臣兼東宮傅(皇太子は恒貞親王)に就きました。さらに 841 年には従二位に昇り、この頃には左大臣を上回るほどの存在感を示していたようです。

* このように、臣籍降下した常ですが、宮廷政治において目覚ましい昇進と存分の働きを示しました。その常にとって、唯一といえるような大事が出来(シュッタイ)しました。
842 年に発生した承和の変です。詳細については割愛させていただきますが、皇位をめぐる争いで、淳和天皇の皇子である恒貞皇太子は失脚し、仁明天皇の皇子である道康親王(後の文徳天皇)が新皇太子になります。そしてこの皇子の生母は、藤原良房の娘順子です。
承和の変は、藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされますが、この変により、伴氏(かつての大伴氏)、橘氏は勢力をなくしていきました。
関係者の多くが流罪など厳しい処罰が下されましたが、東宮傅の常は全く処罰されることなく、次の皇太子の東宮傅に就いているのです。よほど権勢があったか、清廉潔白な人物とみられていたのでしょう。
そして、この変の成功により、藤原北家の良房が大きく台頭して行き、先行する南家・式家を抜いて北家全盛の摂関政治を実現していくことになります。

* 作者の源常の政権基盤は揺るぐことなく、843 年に長く公卿の地位にあった左大臣藤原緒嗣が亡くなると、三十二歳にして太政官の頂点に立ち、以後十年余にわたって政権をリードしました。
844 年に左大臣となり、850 年に文徳天皇が即位すると正二位に昇りました。
ただ、惜しむらくは、854 年に四十三歳で亡くなったのです。

* 源常を歌人として評価することには何の意味もないでしょうが、掲題の歌は四十三歳で亡くなった人物の歌としては、少々大げさな気がします。
それよりも、政権の頂点にありながら四十三歳で世を去ったことが残念でありません。おそらく、常の死去により、皇族出身の政治リーダーは弱体化し、摂関政治の登場を速めたのではないでしょうか。歴史に『もし』は意味ないことではありますが。

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