ちょっぴり『老子』 ( 47 )
大器は晩成す
同じ教えであっても
「 上士聞道、勤而行之、中士聞道、若存若亡、下士聞道、大而笑之。不笑不足以為道。 」
『老子』第四十一章の前半部分です。
読みは、「 上士は道を聞けば、勤めて之を行い、中士は道を聞けば、存するがごとく亡きがごとく、下士は道を聞けば、大として之を笑う。笑わざれば以って道と為すに足らず。 」
文意は、「 上士(徳が高い優れた人物)は道という教えを聞けば、勤めて之を行う。中士(中程度の人物)は道という教えを聞けば、そのようなものが在るのか無いのか見当がつかない。下士(劣っている人物)は道という教えを聞けば、大ほらだと之を笑う。けれども、そのような人たちに笑われるぐらいでなければ、道を為すのに足らない。 」
文章の意味そのものは、比較的分かりやすいものです。
つまり、『道』という、まことに理解し難いものであるが、優れた人物は直ちに理解し実行するというのでしょう。
中程度の人物であれば、『道』なんて、そのようなものが有るのか無いのかチンプンカンプンだというのです。そして、もっと劣っている人は、そんなものは大ほらだと大笑いするというのです。
この部分、私たちにも一つの示唆を与えてくれているような気がします。
何か理解しがたい難問にあたった場合、何が何だか分からないと正直に受け取れる人は「中ぐらいの人物」なのです。それに比べると、分かりもしないのに知ったかぶりをして、馬鹿にしたりけなしたりするのは「下の人物」だというのです。
日常生活で似たことを経験しませんか?
大器晩成
第四十一章の後半部分を見ましょう。
「 故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若類、上徳若俗、大白若辱、廣徳若不足、建徳若偸、質眞若渝。大方無隅、大器晩成、大音希聲、大象無形。道隠無名。夫唯道善貸且成。 」
読みは、「 故に建言之有り。道に明らかなる者は昧(クラ)きが如く、道を進む者は退くがごとく、夷道(イドウ)は類なるがごとく、上徳は俗なるがごとく、大白は辱なるがごとく、広徳は足らざるがごとく、建徳は偸(トウ)なるがごとく、質眞は渝(ユ)なるがごとし。大方(タイホウ)には隅無く、大器は晩成し、大音は声無く、大象は形無し。道隠れて名無し。それ唯道のみ善く貸し且つ成す。 」
文意は、「 故に、昔の優れた人は次のように述べている。道に明らかな者はかえって暗い(道を理解していない)者のように見え、道を修得すべく進んでいる者はかえって退いている者のように見え、夷道(平らな道)はかえって類(でこぼこ道)のよえに見え、上徳の者はかえって俗人のように見え、道を体得した潔白の者はかえって汚辱にまみれている者のように見え、広大な徳を備えた者はかえって知恵が不足している者のように見え、健全な徳を備えた者はかえって悪賢い者のように見え、質朴で真実な者はかえっておもねる者のように見える。(道を体得した者が、一見正反対のように見えるのは何故か。それは、道は謙譲であり、無限の大きさを持つゆえである)萬物を収める天地のような大きな箱には隅というものがなく、大きな器は晩成し、大音は人間の耳には聞こえず声が無いものと思われ、無限に大きな像は形が無いように見える。道というものは人の目には映らず隠れた存在で名付けることも出来ない。しかし、この道こそが善く萬物に力を貸し与え、且つ生成しているのである。
この部分も『道』を体得した人がどのようであるかを、くどいほどに繰り返しています。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という名言がありますが、『道』を体得した人の一端を示しているような気がするのです。
なお、現在でもよく使われる「大器晩成」という言葉は、この部分が発生源です。
この言葉を信じて、私たちはすべからく成長途上と考えて、ぼつぼつと参りましょう。
★ ★ ★
大器は晩成す
同じ教えであっても
「 上士聞道、勤而行之、中士聞道、若存若亡、下士聞道、大而笑之。不笑不足以為道。 」
『老子』第四十一章の前半部分です。
読みは、「 上士は道を聞けば、勤めて之を行い、中士は道を聞けば、存するがごとく亡きがごとく、下士は道を聞けば、大として之を笑う。笑わざれば以って道と為すに足らず。 」
文意は、「 上士(徳が高い優れた人物)は道という教えを聞けば、勤めて之を行う。中士(中程度の人物)は道という教えを聞けば、そのようなものが在るのか無いのか見当がつかない。下士(劣っている人物)は道という教えを聞けば、大ほらだと之を笑う。けれども、そのような人たちに笑われるぐらいでなければ、道を為すのに足らない。 」
文章の意味そのものは、比較的分かりやすいものです。
つまり、『道』という、まことに理解し難いものであるが、優れた人物は直ちに理解し実行するというのでしょう。
中程度の人物であれば、『道』なんて、そのようなものが有るのか無いのかチンプンカンプンだというのです。そして、もっと劣っている人は、そんなものは大ほらだと大笑いするというのです。
この部分、私たちにも一つの示唆を与えてくれているような気がします。
何か理解しがたい難問にあたった場合、何が何だか分からないと正直に受け取れる人は「中ぐらいの人物」なのです。それに比べると、分かりもしないのに知ったかぶりをして、馬鹿にしたりけなしたりするのは「下の人物」だというのです。
日常生活で似たことを経験しませんか?
大器晩成
第四十一章の後半部分を見ましょう。
「 故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若類、上徳若俗、大白若辱、廣徳若不足、建徳若偸、質眞若渝。大方無隅、大器晩成、大音希聲、大象無形。道隠無名。夫唯道善貸且成。 」
読みは、「 故に建言之有り。道に明らかなる者は昧(クラ)きが如く、道を進む者は退くがごとく、夷道(イドウ)は類なるがごとく、上徳は俗なるがごとく、大白は辱なるがごとく、広徳は足らざるがごとく、建徳は偸(トウ)なるがごとく、質眞は渝(ユ)なるがごとし。大方(タイホウ)には隅無く、大器は晩成し、大音は声無く、大象は形無し。道隠れて名無し。それ唯道のみ善く貸し且つ成す。 」
文意は、「 故に、昔の優れた人は次のように述べている。道に明らかな者はかえって暗い(道を理解していない)者のように見え、道を修得すべく進んでいる者はかえって退いている者のように見え、夷道(平らな道)はかえって類(でこぼこ道)のよえに見え、上徳の者はかえって俗人のように見え、道を体得した潔白の者はかえって汚辱にまみれている者のように見え、広大な徳を備えた者はかえって知恵が不足している者のように見え、健全な徳を備えた者はかえって悪賢い者のように見え、質朴で真実な者はかえっておもねる者のように見える。(道を体得した者が、一見正反対のように見えるのは何故か。それは、道は謙譲であり、無限の大きさを持つゆえである)萬物を収める天地のような大きな箱には隅というものがなく、大きな器は晩成し、大音は人間の耳には聞こえず声が無いものと思われ、無限に大きな像は形が無いように見える。道というものは人の目には映らず隠れた存在で名付けることも出来ない。しかし、この道こそが善く萬物に力を貸し与え、且つ生成しているのである。
この部分も『道』を体得した人がどのようであるかを、くどいほどに繰り返しています。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という名言がありますが、『道』を体得した人の一端を示しているような気がするのです。
なお、現在でもよく使われる「大器晩成」という言葉は、この部分が発生源です。
この言葉を信じて、私たちはすべからく成長途上と考えて、ぼつぼつと参りましょう。
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