雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遅い春   第三回

2011-01-01 15:09:06 | 遅い春
          ( 3 )

牧村が桜木家の担当になって六か月が過ぎた。
牧村が週に一度は桜木家を訪問する戦略は続いていた。それは、続いているというよりもすっかり定着していた。
確かに、桜木家への訪問頻度を増やす方針は営業成績を防衛するために始めたものであったが、この頃になると、牧村の桜木家訪問は義務感でも営業目的でもなくなっていた。

週に一度の訪問は、牧村にとって、最も楽しみな時間であり掛け替えのないものになっていた。
もっとも、志織が牧村が感じているほど楽しい時間と受け取っているのかどうか自信はなかったが、会っている時の彼女の生き生きとした表情や、次の週の訪問予定を気にしていたことなどから、決して不愉快な感情を持っているとは思われなかった。

前任者からの引き継ぎにはなかったし、牧村自身も最初の頃は気がつかなかったのだが、志織は病弱であった。
正式な病名や本当のところはどの程度悪いのか知ることが出来なかったが、遠くへ出掛けるということは殆どないようであった。人混みや、特に強い日光に当たることが良くないということであった。

牧村は、毎週、木曜か金曜のどちらかの午後に桜木家を訪問することにしていた。
訪問予定の日は、朝から普段より遥かに気合を入れて仕事を片づける必要があった。午後の大半を桜木家で過ごすことが定着してきていたので、その日の予定案件は可能な限り午前中に終わらせたかったからである。もちろんその日の仕事量が多くならないように前もって調整はしていたが、それでも午前中はあわただしく、昼食を抜くことも多かった。

志織の趣味は刺繍であるが、牧村には作品の良し悪しを判断するような知識を持っていなかった。それでも、飾られているものや、会話の中で見せてもらった作品などからは、志織自身が表現されているような印象を受けた。その姿形が描かれているというわけではないが、会っていて伝わってくる人柄というか、精神そのものが描かれているように思われ、志織にもそのことを話したことがあった。
牧村の言葉に志織は恥ずかしそうな表情を見せたが、その表情を見た時、志織は自分自身を表現しているというより一体化しているのではないかという思いが浮かんでいた。

志織の生活の中では、刺繍に携わる時間が一番中心になっていたようであるが、牧村との会話では、童話や絵本に関するものが中心になることが多かった。
特に絵本については相当沢山の絵本を集めていた。主に外国のものであるが、牧村に一通り見させた後、感想を聞くのである。牧村のこれまでの生活では、絵本というものに関心を持つことなど全くなかった。
牧村とて、幼児の頃には絵本を与えられたことがあるはずだが、記憶としては漫画の方が遥かに強く、何らかの影響を受けたという実感はなかった。
志織から絵本の話が出た時も、牧村の常識としては、絵本は幼児のものだという感覚が強かった。

しかし牧村は、志織と仕事に関すること以外のことで話し合うことが増えるにつれて、童話や絵本について意外な魅力を教えられていった。もちろん当初は、志織が興味を持っているものを何とか理解したいという義務感からスタートした興味であるが、回数を重ねるごとに何とも表現しがたい魅力を感じるようになっていった。
特に絵本については、僅かなページ数の、それも表面的にはごく簡単なストーリーの奥に、受けての心境次第で無限に広がっていくような世界が秘められているように感じることが少なくなかった。但し、その秘められた魅力が、志織と共通の価値観を持ちたいという願望の影響を受けていることも、牧村自身否定することは出来なかった。

志織は絵本を一冊渡しておいてから、お茶や時には軽食の準備に部屋を離れることがよくあった。その間に牧村が読んでおくというのが、いつの間にか約束事のようになっていた。
感想を求められたり意見を交換したりする絵本は海外のものが多かったので、文字は殆ど読めなかった。英文のものは大体の意味がつかめたが、それ以外のものは全く駄目だった。
志織は、それらの絵本について、単語や熟語の意味を調べたものを一覧にしていた。自分が読む時に調べたものだと言っていたが、きれいに清書された紙が添付されていた。

二人の間で話題となる絵本は、いくら海外のものだといっても、基本的には幼児や児童を対象として書かれているものなので、ストーリーそのものはごく簡単なものが多かった。作者の細やかな意図までは読み取ることが出来なかったかもしれないが、描かれている絵と志織のメモの助けだけで全体の意味を理解することはそれほど難しくはなかった。
牧村は、絵本に描かれている主人公や脇役についてストーリーを離れていろいろと想像することがよくあった。一冊の絵本というよりも、その中の一ページ、つまり一枚の絵からあれこれと思いを膨らませ空想の世界を思い描くのである。

もともと牧村にそのような癖や趣味があったわけではないが、いくら志織から絵本の読後感想を求められたからといっても、いい大人が二人で絵本の筋書きについて語り合うのも変な話だと思い、少々飛躍しすぎるような空想を描き上げて、披露したのが最初であった。
取りようによっては、ふざけていると志織から非難されるのではないか懸念していたが、意外に真剣に聞いてくれ、時には声を出して笑い、時には彼女にしては珍しいほど向きになって反対意見を述べることもあった。

志織はこのような話し合いを、もちろん一つの遊びとしてであるが、かなり気に入ったようである。
牧村も学生時代は読書が好きな方であった。学生時代というより、むしろ中学から高校の前半にかけての頃には、小説などをかなり読んでいたので、絵本に登場する人物や動物について、有名な小説などの展開と比較させたりすることもあった。
このような時に牧村が持ちだす作品については、志織は殆ど承知していた。戦国時代などをテーマにしたものを除けば、志織の方が遥かに読書量は多いようであった。
それも決して乱読といった読み方ではなく、作品の内容や登場人物の心理などを相当詳細に把握しようとしていて、牧村とは作品の理解力という面でもかなり差があるように思えた。

それでも、まるで、登場人物を仲介者としているかのようにして、二人の話題は尽きることがなかった。



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