雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遅い春   第二回

2011-01-01 15:09:59 | 遅い春
          ( 2 )

牧村は桜木社長との直接交渉を断念し、季節の挨拶だけに会社を訪問することにした。前任者とは強い信頼関係があり、そのうえ自分には訪問を控えてくれといっている桜木社長といくら折衝したところで、何の成果も得られないと考えられたからである。
その代わりに、自宅で用件を取り次いでくれている桜木志織へのアプローチを増やし、気に入られるようになろうと方針を決めた。
桜木家の長女である志織の信頼を得ることが出来れば、桜木社長によほど嫌われないかぎり、自分が担当している間は桜木家の取引を何とか守れる筈だという極めて消極的な判断からである。

牧村は用事があろうとなかろうと週に一度は桜木家を訪問することにした。
店舗のある場所からは少し離れていたが、車で移動していたのでそれほどの負担はなかった。
「近くまで来ましたので・・・」
と、挨拶するだけでの訪問が続いた。
決して不純な動機から始めたことではなく、大切な顧客の防衛策として始めたことであるが、引継の挨拶に連れてこられた時から志織の美しさに惹かれていたので、訪問予定の日は朝から晴れやかな気持ちになっていたことも事実である。

志織は、確かに美しい人であった。小柄というほどではないが、物静かで控えめな印象から実際より小さく見える感じの人であった。
よく芸能人にたとえると、などといういい方をすることがあるが、志織の場合はたとえ方が難しかった。妖艶などというのは彼女から最も外れた表現の仕方だと思われるが、清楚というのとも少し違うと牧村は感じていた。ほんの数回挨拶程度の会話を交わしたぐらいで正しい表現など出来る筈もないと思われるが、清楚というより透明感を感じる美しさだった。あえて言えば、現実社会から少し離れているような存在に思われ、物語などに登場してくる静かなヒロインといった風に感じられた。

しかし、牧村が数度の挨拶だけで志織の魅力に強く惹かれ虜になっていったのは、その容貌もさることながら、そばにいるだけで不思議な安心感のようなものを与えてくれる人柄にあった。
いわゆる育ちが良いという部類に入るものなのかもしれないが、包み込むようなやわらかな感情の持ち主であった。
義務として自分自身を縛った桜木家への訪問は、牧村にとって最も楽しい仕事となった。

牧村が定期的な訪問を始めた時は、何事かと思ったのか志織は驚きの表情を見せたが、それでも特に迷惑そうな仕草は見せず、
「まあ、それはごくろうさま」
と、こぼれるような笑顔を見せてくれた。
その笑顔が牧村の心にさわやかな風となって伝わった。突然に前任者とは違うパターンでの訪問に、苦情でも受けるのではないかと懸念していただけに、その笑顔が特別ありがたく感じられた。

そして、二か月ばかり経った頃に、
「お時間があれば、お茶でもいかがですか?」と、部屋に迎えられた。
前任者からは、自宅にいるのは女性だけなので部屋に上がるのは遠慮した方がよいと教えられていたが、もうその頃の牧村には、そのような申し送りを守るつもりなど全くなかった。

最初と二回目は応接室に通されたが、三回目からは別の部屋に変わった。
応接室は桜木社長が使うことが多い様子で、二十畳ばかりの洋間にちょっとした会議にも使えるように家具が配置されていた。
応接室に通された初めの二回は、牧村と志織の会話はぎこちないもので、文字通りお茶とお菓子をご馳走になるだけであったが、三回目からは次第に打ち解けたものになっていった。

桜木家の家族構成は、桜木社長と志織の二人だけであった。
他に長年住み込んでいるという恵子さんと呼ばれる六十歳ぐらいの女性と、通ってきている家事などを手伝っている女性がいた。
社長の夫人、志織の母親であるが、その人は志織がまだ小学生の頃に亡くなったということである。その後は祖母にあたる人が残された子供の世話などをしてきていたが、すでに数年前に亡くなっていた。

牧村は、桜木家を訪れると業務上の用事の有無にかかわらず、部屋に招じ入れられるようになった。
三回目から通されることになった部屋は、応接室の半分ほどの大きさの洋間で、やはり応接室のような調度品が置かれていたが、やわらかな雰囲気を持っていた。
これは後で分かったことであるが、この部屋の他に隣接している日本間とその奥にある寝室との三部屋が志織の専用の居住空間であった。

志織といつも会うことになった洋間には、小ぶりの応接セットも置かれていたが、応接室というより居間という感じの部屋であった。椅子の背もたれ部分やテーブルだけでなく、壁にも美しく刺繍された作品が飾られていた。
いずれも志織の作品で、どの刺繍にも美しい色が使われているが、色鮮やかというよりは日本画を思わせるようなものが多かった。

志織は、牧村が最初に会った時から強く惹かれたように、その容貌が魅力的なことは確かだが、二人で会う機会が増えるほどに、彼は彼女の持つ性格というか気立てというか、そういった精神的なものに引き込まれるようになっていった。
牧村は、部屋に飾られている刺繍が志織の作品だと知らされた時、その淡く清楚な作品は彼女自身の表現だと感じた。
控えめな色彩を加えただけで強い印象を醸し出す日本画のような、部屋のここかしこに飾られている刺繍の中にいる志織は、まるで同化しているように見えた。
志織の美しさは、飾られている作品と同じように、圧倒するような美しさではなく、溶け込んでいくような美しさであった。

志織は、色の白い女性であった。その白さは、手に触れるのが恐いほどで、白い色というよりも透明感を感じさせるような肌理の細かさであった。そして、その透き通るような肌とは対照的に、実に美しい色の唇を持っていた。
もちろん紅を差しているのだろうが、人工的なものを感じさせない印象的な美しさであった。日本画において、微かに加えられた紅色が強烈な印象を放つことがあるように、全体として透明感を感じさせていながら、強い印象を牧村に投げかけていた。
そして、大きな瞳を真っ直ぐに向けて、静かに語りかけるように話す女性でもあった。

さらに、牧村が何よりも驚いたことは、志織の年齢であった。
当時牧村は二十六歳であったが、志織の年齢を二つ三つ年上と想像していた。しかし、実際は三十八歳であった。
仕事柄牧村は、人の年齢を見るのは正確な方であった。それだけに、実際の年齢を知ってからも、とても三十歳を大きく越えている女性とは思えなかった。






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