平茸を食う ・ 今昔物語 ( 28 - 17 )
今は昔、
御堂(藤原道長)がまだ左大臣で枇杷殿(ビワドノ)にお住まいであった頃、御読経を勤める僧がいた。名を[ 欠字。「雅敬」など諸説ある。]といい、[ 欠字。寺名が入るが不詳。「興福寺」とも。]の僧である。
この僧は、枇杷殿の南にあった小さな家を僧房として住んでいたが、ある秋のこと、仕えていた童子が小一条の社にある藤ノ木に平茸がたくさん生えていたのを、師のもとに取って持ってきて、「このようなものを見つけました」と言うと、師の僧は、「それは良いものを持ってきた」と喜び、さっそく汁物ににさせて、弟子の僧と童子と三人差し向かいで存分に食った。
ところが、しばらくすると、三人とも突然のけぞるようにして苦しみ出した。食べた物を吐き出し、転げ回って苦しんだ末、師の僧と童子は死んでしまった。弟子の僧だけは、死ぬほど苦しんだがやがて落ち着いて死なずにすんだ。
すぐにその事が左大臣殿のお耳に入り、たいそう気の毒がり悲しまれた。貧しい僧であったので、残った者たちはどうするのかと心配されて、葬式の費用に、絹、布、米などたくさん与えられたので、他所に住んでいる弟子や童子が大勢やって来て、遺体を牛車に乗せて立派に葬った。
ところで、東大寺にいる[ 欠字。名前が入るが不詳。]という僧が、同じように御読経に参っていたが、この僧も道長邸の近くに、別の僧と同じ僧房に泊まっていた。
ある時、その同宿している僧が見ていると、[ 欠字。東大寺の僧を指す。]が弟子の下法師(シモホウシ・下級の僧)を呼んで、そっと耳打ちして使いに出した。「大事な用があって、使いに出したのだ」と見ていると、すぐに下法師が帰ってきた様子である。袖に何か物を入れて、覆い隠すようにして持ってきた。取り出して置いたのを見ると、平茸を袖いっぱいに入れて持ってきたのである。
この僧は、「あれは、どういう平茸なのか。つい先ごろ、あのような忌まわしい事件があったのに、どういうつもりで持って来た平茸なのか」と怖ろしく思いながら見ていると、しばらく経ってから、焼漬(ヤキツケ・味付けして焼いたものか?)にして持ってきた。東大寺の僧は、飯のおかずにすることもなく、その平茸だけを限りなく食い出した。
同宿の僧はその様子を見て、「これはどこの平茸をそんなに急いで食ったのか」と尋ねると、東大寺の僧は、「これは例の僧が食って死んだ平茸を、取ってこさせて食ったのだ」と言う。同宿の僧は、「これは、何と言うことをなさるのか。気でも狂われたのか」と言うと、東大寺の僧は、「欲しくなったからです」と答えて、何も気にすることなく食べ続けるので、同宿の僧はとても止めることが出来そうもないので、これを見届けると、急いで邸に駆けつけて、「また大変な事が起こりそうです。これこれ然々の次第です」と取次させると、左大臣殿は、それをお聞きになって、「あきれたことだ」などと仰っているうちに、東大寺の僧が「御読経の交替の時刻になりました」と言ってやって来た。
左大臣殿は、「何を思って、あんな平茸を食ったのか」と訊ねさせると、東大寺の僧は、「亡くなった僧が葬儀の費用を賜り、死に恥を見ずにすんだことがうらやましく思ったのです。私めが死ねば、大路にでも棄て去られることでしょう。そこで、私めも平茸を食って死にますれば、亡くなった僧のように、葬儀費用などを賜ることが出来るかと思いまして、食べたのでございます。それなのに、どうも死ねないようでございます」と申し上げたので、左大臣殿は、「物にでも狂ったような僧だな」と仰せられてお笑いになった。
こういうわけで、どうやら、大変な毒茸を食ってもあたらないことを知っていて、人を驚かせようとして、こんなことを言ったのであろう。当時は、この事を世間で話の種になり笑い合った。
されば、同じ茸を食っても、毒にあたってたちまち死んでしまう人もあり、またこのように死なない人もあるということは、きっと食い方があのだろう、
となむ語り伝へたるとや。
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