『 多武の峰と延暦寺 ・ 今昔物語 ( 31- 23 ) 』
今は昔、
比叡の山に尊睿律師(ソンネイリッシ・天台座主義海の子。1007 没。律師は、僧正、僧都に次ぐ僧綱の一つで、僧尼を統括する官職。)という人がいた。
長年山に住んで顕蜜(ケンミツ・顕教と蜜教)の法を学び、高僧と崇められていた。また、勝れた観相人でもあった。後には、京に下って雲林院(京都市北区にあった寺。もとは淳和天皇の離宮だった。)に住んでいた。
ところで、無動寺の慶命(キョウミョウ・後に天台座主。1038 没。)座主が、まだ若い頃で阿闍梨(アジャリ・高僧に対する称号で、職官の場合と、有力寺院が定める場合があった。)であった時、この尊睿律師が慶命阿闍梨を見て、「あなたは格別に高貴な相を限りなく備えておいでのお方だ。必ずこの山の仏法の棟梁(指導者といった意味で、座主を指しているらしい。)となるべき相が現れている。されば、拙僧はすでに年老いて、世にあっても役にも立ちません。そこで、私の僧綱の位をあなたにお譲りいたしましょう。あなたは関白殿(藤原道長。実際は、道長は関白には就いていないが、多くの文献が関白と称している。)に親しくお仕えして、お覚えも良いお方だ。この事を言上なさい」と言った。
阿闍梨は心の内で、「嬉しいことだ」と思って、この事を殿(道長)に申し上げた。殿というのは御堂のことである。
殿は、慶命阿闍梨を寵愛なさっていたので、この事をお聞きになって、「まこに良い事だ」と仰せられて、慶命阿闍梨を尊睿の[ 欠字。「推挙」といった意味の言葉らしい。]によって、律師に成された。
その後、尊睿は道心を起こして、比叡山を去り、多武の峰(トウノミネ・奈良県桜井市)に籠もって、ひたすら後生を願い、念仏を唱えていた。
多武の峰は、もともと御廟(藤原鎌足の廟がある。)は尊いが、顕蜜(顕教と密教)の仏法は行われていなかったので、この尊睿は多武の峰に住んで、真言の蜜法を広め天台の法文を教え始めてから、学僧が多数輩出したので、法華八講を行わせ、三十講を始めるようになり、しだいに仏法の地となったが、尊睿は、「この所を、このように仏法の地とすることが出来たが、格別これといった本寺(本山)がない。同じことなら、自分がもといた比叡山の末寺として寄進しよう」と思い至って、尊睿はあの慶命座主が関白殿の覚えが良く親しくお仕えしているので、慶命を通して殿の内意をうかがったところ、殿はそれをお聞きになって、「大変良い事だ」と仰せられて、「速やかに末寺とすべし」と仰せ下されたので、多武の峰を妙楽寺という名を付けて、比叡山の末寺として寄進した。
その時、山階寺(ヤマシナテラ・興福寺の別称。藤原氏の氏寺。)の多くの僧侶たちがこの事を聞いて、「多武峰は大職冠の御廟である。されば、当然山階寺の末寺であるべきだ。どうして延暦寺の末寺にされてよいものか」と騒ぎ合って、殿下(道長)にこの由を訴え申したところ、殿は、「先に延暦寺の末寺に成すべきとの申し出あったので、すでに許可を与えている」と仰せられて、承諾されなかったので、その申し出は叶わずに終った。
されば、後悔先に立たず、という諺の通りでである。今も昔も、いったん下された仰せは、このように変えられないものである。
山階寺が先に申し出ていれば、山階寺の末寺になっていたであろう。何事も適切な時期というものがあるので、すでに仰せ事が下された後に申し出ても、叶えられるはずがない。それで、比叡山の末寺として、今も天台の仏法が栄えている。
それゆえ、尊睿をかの山(多武峰の妙楽寺)の本願(寺院の創立者)と言うのである、
と語り伝へたるとや。
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