『 祇園社が比叡山の末寺になる ・今昔物語 ( 31 - 24 ) 』
今は昔、
祇園(祇園社。八坂神社の旧称。)はもと山階寺(ヤマシナデラ・興福寺の別称)の末寺であった。
その真東に比叡山の末寺である蓮花寺(伝未詳)という寺があった。
さて、祇園の別当(寺務を統括する役僧。)に良算(ロウザン・伝不詳)という僧がいた。権勢があり豊かな生活を送っている僧であった。
ところで、かの蓮花寺の堂の前に立派な紅葉(モミジバ・楓などらしい。)があったが、十月の頃であり、色がたいへん美しいので、祇園の別当の良算が枝を折りに人を行かせたところ、蓮花寺の住職の法師は、ねじけた心の持ち主だったので、これを制して、「祇園の別当がいかに裕福であろうとも、どうして天台末寺の境内にある木をば、自分勝手に、こちらに挨拶もなく折ろうとなさるのか。極めて非常識なことだ」と非難した。
良算の使いで来た男は、このように制止されて折ることが出来ず帰り、「こう申して、折らせてくれませんでした」と良算に報告すると、良算は大いに怒って、「その様なことを言うのであれば、いっそその木を全部伐り取ってこい」と言うと、従者共を呼び集めて行かせたところ、切るのを止めたあの蓮花寺の法師は、「きっと良算は、従者共を集めて、この木を伐らそうとするだろう」と察知して、良算の従者共がやって来る前に、法師自らその紅葉の木を根元から伐り倒してしまった。
そのため、良算の使いが行って見てみると、木が伐り倒されているので、帰って良算にその由を報告すると、良算はますます怒った。
その頃、横川(ヨカワ・東塔、西塔と共に比叡山三塔の一つ。)の慈恵僧正は天台座主として殿下(摂政・関白の敬称であるが誰をさしているか未詳。)の御修法(ミシュホウ・真言の密法を修する法会。)のために法性寺(ホッショウジ・現在の東福寺の地にあった大寺。)に滞在していたが、蓮花寺の法師は木を伐り倒すと、急いで法性寺に参って、この由を座主に申し上げた。
すると、座主は肩を並べる者とてないほど権勢を誇っていたが、話を聞いて大いに怒り、良算を呼び寄せるべく使者を遣ると、良算は、「私は山階寺の末寺の役僧だ。どういうわけで、天台座主が私を勝手気ままに召し出すのか」と言い放って参ろうとしなかったので、座主はますます怒って、比叡山の所司(寺務を司る役僧)を呼び下ろして、その者に命じて、祇園の神人(ジンニン・神社の下級職員)らや代人らが延暦寺に身柄を預けるという文書を書かせておいて、「それに判を押せ」と強要したので、神人らは責め立てられてやむを得ず判を押した。
その後座主は、「こうなったからには、祇園は天台山の末寺である。速やかに別当良算を追い払うべし」と言って追い払わせると、良算は全く意に介せず、[ 欠字。「平」が入る。]公正(キミマサ・平公雅のことらしい。生没年未詳、桓武平氏。)、平致頼(タイラノムネヨリ・ 1011 年没。従五位下、武勇に名高い。)という武士の郎等共を雇い入れて、楯を並べて、軍備を構えて待ち受けていた。
これを聞いて、座主はますます怒り、西塔の平南房(ヘイナンボウ・未詳)という所に住んでいる武芸第一の睿荷(エイカ・伝不詳)という僧や、かの致頼の弟である、やはり武芸に勝れた入禅(ニュウゼン・伝不詳。致頼の弟というのも未詳。)という僧もいたので、これら二人の僧を祇園に遣わして、良算を追い払うよう命じた。
二人は祇園に行き、良算が集めた軍兵に向かって、「お前たち、みだりに矢を放って悪事を働けば、後の為に悪いことになるぞ」と説得したところ、良算が雇った致頼の郎等共は、入禅を見ると、「なんと、山の禅師殿がおいでになっているではないか」と言って、後ろの山に逃げ去ってしまった。
そこで、出向いた僧たちは、思い通りに良算を追い払ってしまった。
そこで、睿荷を別当に任じて、事務を執行させたが、その後、山階寺の大衆が蜂起して朝廷に訴え出て、「祇園は往古より山階寺の末寺である。その寺が、どうして強引に延暦寺に奪われてよいものか。速やかに本のように山階寺の末寺とするように仰せ下しいただきたい」と、度々訴え出たが、御裁許が遅々として出されないので、山階寺の大変な数の大衆が京に上り、勧学院(カンガクイン・左京三条にあった藤原氏一門の子弟のための教育機関。)に到着した。
そこで、朝廷はこれを聞いて、驚いて早速御裁許が為されることになったが、その前にあの座主の慈恵僧正が亡くなってしまった。
「その沙汰は明日行う」とすでに仰せ下されていたため、山階寺の大衆は全員が勧学院に留まっていたが、その寺の中算(チュウザン・仲算とも。経典に通じ、顕教の名人といわれた人物。)はこの騒動の交渉に対処する中心人物として、勧学院の近くの小家に泊まっていたが、その日の夕方、前に多くの弟子共などを控えさせていたが、にわかに中算は、「只今、ここに人がやって来る。皆、しばらく外に出ていよ」と言ったので、弟子共は皆外に出ていたが、誰かが外からやってきたとも見えないのに、中算が誰かと話している声が聞こえてきた。
弟子共は、「怪しいことだ」と思っているうちに、しばらく経って、中算が弟子共を呼んだので、全員が入ってくると、中算が「ここに比叡山の慈恵僧正がおいでになったのだ」と言ったので、弟子共はこれを聞いて、「これは、いったいどういうことを申されているのか。慈恵僧正はすでにお亡くなりになった人なのに」と思ったが、怖ろしくなって何も言えないままになった。
そして、その翌日、この裁決が行われたが、中算は、「風邪の発作が起った」と言って、裁決の場にも出なかったので、山階寺の方にはこれといって論弁出来る者がいなかったので、その御裁許は思わしくなく、大衆も山階寺に帰っていったので、遂に祇園は比叡山の末寺になってしまったのである。
あさはかな良算の悪事から起った事ではあるが、これを思うに、慈恵僧正が祇園に強い執着を抱いていたからであろう。亡くなってからも、その霊は現れて、中算に頼み込んだので、中算は、「にわかに風邪の発作が起った」と言って裁決の場に出てこなかったのであろう。
もし、中算が裁決の場に出て論弁していれば、どうなっていただろうか。それを知っていたから、慈恵僧正の霊はわざわざ頼みに行ったのであろう。
されば、「中算は、並の人間ではなかったのだ」と、弟子たちも、この話を聞いた人も、皆が知ったのである、
となむ語り伝へたるとや。
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