『 兼家窮地に ・ 望月の宴 ( 12 ) 』
いつの間にか改元されて貞元元年 ( 976 ) となりました。
兼家殿のご息女である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、昨年の夏以来ふつうのお体ではございませんでしたが、ご出産は二月か三月ということで、安産のお祈りなどを盛大に行っておりましたが、それを聞きつけた兼通殿は、「東三条の大将 ( 兼家 ) は、『冷泉院の女御、男御子を生みたまえ。世の中を造り変えよう』といっているそうだ」と言い回っているらしいので、兼家殿は不快に思いながらも、いっそうご祈祷に努められているそうです。
そして、三月頃に、まことにご立派な男御子をお生みになりました。居貞親王とおっしゃることになる御子でございます。
冷泉院は、正常ではないお心になっておられましたが、平常にかえっておられますときには、かわいがられているご様子でございます。
兼通殿は、「何とめでたいことだ。東三条の大将は院の二の宮を得ることが出来て、得意満面であろう」と、まるで間が抜けたようにおっしゃるのを、兼家殿はその言葉に悪意を感じて、穏やかならぬ思いでございました。
この男御子のご誕生も、お二人の仲をさらに険悪なものにしたようでございます。
こうしているうちに、内裏が焼亡してしまい、帝の御座所が見苦しくなったので、堀河殿 ( 兼通邸 ) をたいそう立派に磨き立て、内裏と同じように改装して、もとの内裏ができあがるまで帝が滞在できるように造営をお急がせになった。
貞元二年三月二十六日に、この堀河院に行幸なさるとあって、天下をあげてその支度に追われた。
その日になって帝はお渡りになった。中宮 ( 媓子 ) もすぐさまその夜にお移りになり、堀河院を今内裏と呼んで、世間ではたいそうもてはやした。
こうしているうちに、大殿 ( 兼通 ) のお考えは、世の中というものは予測もつかないものなので、ぜひともこの右大臣 ( 小野宮の頼忠 ) を今少し昇進させて、自分の関白の職を譲ろうと思い立ち、今の左大臣兼明の大臣 ( カネアキラノオトド ) と申す方は、延喜の帝 ( 醍醐天皇 ) の第十六皇子でいらっしゃるが、そのお方が病気であると聞きつけて、もとの親王の地位にお戻し奉って、その左大臣に小野宮の頼忠の大臣を就任させなさった。右大臣には、雅信の大納言がお就きになった。
このように、兼通殿が実の弟である兼家殿を憎まれることは尋常ではございませんでした。
頼忠殿の上席である兼明の大臣殿も、親王に戻り中務卿に就かれたことを憤っていたと伝えられております。
そうこうしているうちに、兼通殿がご病気になられましたが、ますます兼家殿への敵愾心を燃やされ、今のうちに手も足も出ないようにしておいて、左大臣となった頼忠を摂政関白にさせようとの思いから、常々帝に、「あの右大将兼家は、冷泉院の御子 ( 居貞親王 ) を擁しまして、何かといえばこの御子をこの御子をと口にしたり、思ったり、祈祷したりしております」と言い続けられたのです。
帝は堀河院にお住まいになっておりましたので、兼通殿は閑院を仮の住まいになさっていましたが、体調の優れない中でも無理をおして帝の御前に参上なさって、兼家が無能であると奏上なさり、「このような人物が政界にいては朝廷にとって大事が出来いたします。ご用心なさるべきです」などと度々奏上なさいました。
そして遂に、貞元二年十月十一日に、兼家殿の大納言兼大将の職を取り上げて、治部卿に左遷したのでございます。
本当は、無官ということにしたかったのでしょうが、さすがにこれといった確かな罪状があるわけでもなく、このようになさったのでしょう。兼通殿の思い通りになるものであれば、あの恐ろしい筑紫国までも左遷したいと思っていたのでしょうが、相当する過失がなく実現できなかったのでしょう。
後任の大将には、小一条の大臣 ( 師尹 ) の御子の済時中納言殿が就任なさいました。
治部卿となった兼家殿は、邸の門を閉じて、あまりにもひどい世の中を恨み、むせび嘆いておられました。一家のご子息たちも出仕を控えられ、襲いかかってきた不運を耐え忍んでおられたのでしょうか。
そして、そのご子息方の中のお一人は、道長の御殿でございます。
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