雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

名恐ろしきもの

2014-09-20 11:00:18 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百四十六段  名恐ろしきもの

名恐ろしきもの。
青淵。谷の洞。鰭板。鉄。土塊。
     (以下割愛)


名前が恐ろしいもの。
あおふち(青く見える深い淵)。たにのほら(谷の洞穴)。はたいた(板塀の一種。鰭という魚類の気味悪さをいっているらしい)。くろがね。つちくれ。

雷(イカヅチ)は、名前だけではなく、大変恐ろしい。
疾風(ハヤチ・つむじ風か)。不祥雲(フサウグモ・凶事の前兆とされる雲)。矛星(ホコボシ・北斗七星の第七星の破軍星。または彗星とも)。肘笠雨(ヒヂカサアメ・にわか雨。肘を笠の代わりにしなければならないような雨)。荒野ら。

強盗。ともかく恐ろしい。
濫僧(ランソウ・無住の僧。あるいは乱行の僧とも)。大体において恐ろしい。
かなもち。これもまた、ともかく恐ろしい。
生霊(イキスダマ・生きている人の霊魂が人にたたるもの)

蛇苺(クチナハイチゴ)。鬼蕨(オニワラビ)。鬼ところ。むばら。からたけ。

いり炭。牛鬼(ウシオニ・伝説上の鬼か)。
碇(イカリ)。名前を聞くより、見た目が恐ろしい。



いわゆる「・・・もの」の章段ですが、数多く挙げられています。
説明不十分な項目もありますが、不詳であったり、少々無理な説もあるようです。

「不祥雲」につきましては、二筋の白雲が不気味に山にかかり凶変の兆しと言われた翌朝に、中宮(その時は皇后)定子が崩御したといわれており、少納言さまにとっては「単なる例示」とは違う意味を持っていると考えられます。

また、全体を五つの種類に分けて列記するなどの工夫はいろいろな章段で見られることですが、この中では「かなもち」という項目にとても興味が惹かれました。
この項目は、不詳あるいは諸説がありますが、当然「金持」という文字も浮かんできます。
前後の項目から、ある種の人間のようなものを指していると思われるのですが、強盗、濫僧、生霊の中に並べられている「かなもち」とは一体どういう人なのでしょうか。
「金持」と読み取るのが正しく、そしてその意味が資産家・大金持を指し、「ともかく恐ろしい」と指摘しているのであれば、少納言さまの鋭い感性に「やんや」の喝采を送りたいのですが、残念ながら、当時、富豪という意味で「金持」という言葉が使われていたかどうかは不明のようなのです。
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見るにことなることなきものの

2014-09-19 11:00:28 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百四十七段  見るにことなることなきものの

見るにことなることなきものの、文字に書きてことごとしきもの。
覆盆子。鴨頭草。水茨。
蜘蛛。胡桃。文章博士。得業生。
皇太后宮権大夫。楊梅。
いたどりはまいて。「虎の杖」と書きたるとか。杖なくとも、ありぬべき顔つきを。


見た目には大したことはないが、文字に書くと大げさな感じのするもの。
いちご。つゆくさ。みづふぶき。
くも。くるみ。もんじゃうはかせ(大学寮に属する詩文、紀伝の教授。定員一名)。とくごふのしゃう(大学寮の修了者から選ばれる研究生。定員二名)。
くわうたいごうぐうのごんのだいぶ(特に字面が長く大げさ)。やまもも。
いたどりは特に大げさです。「虎の杖」と書くとか。虎は杖などなくても、平気な顔をしていますよ。



大変わかりやすい内容です。文字の難しさは別にしてですが。
最後の部分、とても機知に富んでいると思いますが、少納言さま、虎は見たことがないと思うんですよね。
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むつかしげなるもの

2014-09-18 11:00:54 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百四十八段  むつかしげなるもの

むつかしげなるもの。
縫物の裏。
鼠の子の、毛もまだ生ひぬを、巣の中よりまろばし出でたる。
裏まだつけぬ皮ぎぬの縫ひ目。
猫の耳の中。

殊に清げならぬところの、暗き。
ことなることなき人の、子などあまた、持てあつかひたる。
いと深うしも心ざしなき妻の、心ち悪しうして、久しう悩みたるも、夫の心ちはむつかしかるべし。


むさくるしい感じのもの。
刺繍の裏。
鼠の子の毛もまだ生えていないのが、巣の中から転がり出てきたもの。
裏がまだついていない皮衣の縫い目。(中国北方風俗の輸入らしい。皮革の縫製は縫い代が多くむさくるしく感じたらしい)
猫の耳の中。

それほど掃除か行き届いていない所の、暗いの。
たいした身分でもない人が、子供を沢山つくって、もてあましているの。
それほど深い愛情を持っていない妻が、加減が悪くなって、長い間患っているのも、夫の気持ちとしては、きっとうっとうしいことでしょう。



「むつかしげなるもの」を、むさくるしい感じのもの、としましたが、前半部分と後半部分ではかなり対象が違っています。「むつかしげなるもの」には、見た目のものと、心に感じるものがあるということなのでしょうね。

それにしても少納言さま、最後の部分は、冷静といいますか、厳しいといいますか・・・
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えせ者のところ得るをり

2014-09-17 11:00:34 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百四十九段  えせ者のところ得るをり

えせ者のところ得るをり。
正月の大根(オオネ)。
行幸のをりの姫大夫(ヒメマウチギミ)。
御即位のみかど司。
六月・十二月の晦の、節折(ヨヲリ)の蔵人。
     (以下割愛)


つまらない者が幅を利かせる時。
正月の大根。(元旦の歯固めに用いられた。歯固めは、大根・瓜・獣肉などを食べて長寿を願う行事)
行幸の折の姫大夫。(姫大夫は、行幸の折、馬に乗って供奉する内侍司に属する女官。普段は目立たない存在)
御即位のみかど司。(即位式で御座に絹蓋を挿しかける役のみかど司の女官。やはり普段は目立たない)
六月と十二月の月末の、節折の蔵人。(六月・十二月の大祓の夜に、女蔵人が竹を使って天皇の身長を計った。寸法通りに竹の節を折ることから節折といわれた)

春秋の御読経(百僧を請じて大般若経を宮中で読ませた大法会)の威儀師(イギシ・法会の折の先導の僧)。赤い袈裟を着て、僧の名を次々と読み上げているのは、とても清らかで立派です。
春秋の御読経・御仏名などで、場内の設備をする蔵人所の衆(人たち)。(蔵人所の衆は六位なので、本来昇殿出来ないが、この準備の時だけは紫宸殿や清涼殿に昇ることが許された)
春日祭の近衛舎人ども。(祭りの前日に近衛中将が勅使に立つが、舎人が供に着く。途中で舎人を左右大臣などに任ずるような、ふざけた除目を行う習わしがあったらしい)
元三の薬子(グアンサンのクスリコ)。(正月三が日、天皇が召し上がる屠蘇酒の毒見をする童女のこと)
卯杖の捧持。(正月上の卯の日に、宮中では大舎人寮・兵衛府などから天皇・中宮・東宮などに卯杖を献じた。この時舎人などが捧持したが、その得意そうな様子を指している。なお、「捧持」を「法師」とする説もあるが、この時天皇の御前などに法師は登場しない。第七十五段にも登場している)
御前の試みの夜の理髪(ミクシアゲ)。(五節の第二日清涼殿孫庇で行われる御前の試みには、理髪の女官も舞姫に同道する)
節会の御まかないの采女。(節会で天皇などの配膳にあたる采女は、晴れがましい役である)



「えせ者]といえば、偽物、似ているが本物ではない、といった意味に使いますが、当時は少し違うようです。本段も、分相応な役を得て鼻高々なものをあげています。
おそらく、少納言さまお得意の分野だと思われ、数多く示されていますが、いずれもかなり難しいものばかりでした。
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苦しげなるもの

2014-09-16 11:00:43 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百五十段  苦しげなるもの

苦しげなるもの。
夜泣きといふわざする乳児の乳母。
想ふ人二人持ちて、こなたかなたふすべらるる男。
こはきもののけにあづかりたる験者。験だにいちはやからば、よかるべきを、さしもあらず、さすがに、「人わらはれならじ」と念ずる、いと苦しげなり。

わりなくもの疑ひする男に、いみじう想はれたる女。
一のところなどに時めく人も、得やすくはあらねど、そは、よかめり。
心いられしたる人。


苦しそうなもの。
夜泣きということをする乳児の乳母。
愛する女性を二人持っていて、こちらからもあちらからもやきもちを焼かれている男。
手ごわい物の怪の調伏に関わっている験者。祈祷の効験が速やかであればいいのだが、そうでもなくて、それでも「世間の笑い者になるまい」と頑張っているのは、いかにも苦しそうです。

むやみに物を疑う男に、ぞっこん惚れられてしまった女。
摂関家など羽振りのよい人も、そうそう気楽ではないでしょうが、それは、まあいいでしょう。
気持がいらいらしている人。



「苦しげなるもの」というのは、私たちの感覚とほぼ同じもののようです。

最初の「夜泣きというわざする乳児」という表現なのですが、私には少々難しい部分でした。
「わざする」というのは、技巧的な意味があり当然本人(この場合は乳児)の意思が働いているというように思われるのです。当時こういう表現の仕方をしたのか、少納言さま独特の(乳児に若干の嫌みを込めた)表現なのでしょうか。
何冊かの参考書を見てみたのですが、この部分はごく簡単な文章として取り扱われています。
私自身は、少納言さまのブラックユーモアの一つではないかと考えたいのですが。
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身分社会

2014-09-15 11:00:48 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
     枕草子 ちょっと一息

身分社会

清少納言が生きた平安時代は、厳しい身分社会でした。

清少納言が宮仕えをした頃は、京都に都が築かれてすでに二百年が経ち、平安朝文化の真っただ中にあり、藤原氏の権力が盤石のものになっていました。まだ、武士権力は登場しておらず、摂関家を頂点とした公家権力の絶頂期でもありました。
清少納言が敬愛してやまない中宮定子は、関白道隆を父に持ち平安王朝の頂点に位置しておりました。

一方、清少納言は清原氏の出生です。
血統を遠く辿れば、天武天皇にもつながる名門とはいえ、藤原氏の天下にあっては、影の薄い一族であったことは否定できません。父の元輔は歌人としては著名であったとしても、八十三歳で亡くなっ時の官位は、従五位上で肥後守でした。
清少納言はこの時二十五歳の頃とされています。肥後守の娘ですから、れっきとした貴族の一員とはいえ、宮仕えの中で接する若い殿上人や上達部とは、とても比較にもならない身分差があったといえます。また、最初の結婚相手とされる橘則光も最高地位が従四位下で陸奥守ですから、父より若干上とはいえ、ともに受領クラスといえます。

清少納言は、中下級貴族の出身という身分にあり、殿上人・君達・上達部や、さらには天皇・中宮や皇族につながる人たち、同時に自分より身分が低い女官たちや、一般庶民たちをどのように見つめ、どのように私たちに伝えてくれているのか、これも、枕草子を読むうえで興味深い視点といえます。
但し、身分の低いものに対して厳しい差別を感じさせる表現も少なくありませんが、それは決して清少納言という女性の本質ではなく、身分社会という文化にあっては正常な感性とされている点は考慮すべきだと思います。
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みんな仲良く ・ 心の花園 ( 63 )

2014-09-15 08:00:08 | 心の花園
          心の花園 ( 63 )
               『 みんな仲良く 』

一般的に、どんな花でも数多く集まるときれいなものです。
ボタンやカサブランカなどは、一本でも存在感があり、むしろその方が気高く見える場合もあります。しかし、そのような花でも、たくさん集まると、雰囲気は変わるとしても、魅力的なものです。

もっと小型の花になりますと、数多く集まった方がきれいな場合がはるかに多くなります。小型の花の多くは、花自体がそれを承知しているのでしょうか、草花の場合でも、一本でも数多くの花を咲かせるものが多いように思われます。しかし、小型の花であって、しかも一本に一つの花しか付けないとなれば、やはり数多く集めて植える必要があるようです。

「タマスダレ」は、そのような花の代表ではないでしょうか。
小型の植木鉢に一本だけ咲かせるというのも、それはそれで可憐なものですが、やはり、丸く円形状にしたり、長い列を作ったりして群生させるのが見ごたえがあるようです。
心の花園でも、今を盛りとばかりにたくさんの花を咲かせてくれています。一本一本が一生懸命に背を延ばすようにして花を咲かせていますが、美しさを競い合うという風ではなく、みんな仲良く集まっているという感じなのです。

「タマスダレ」はヒガンバナ科タマスダレ属(ゼフィランサス属)の球根植物です。種も付け、それからも目を出しますが、植えっぱなしていても球根をどんどん増やしてくれます。
原産地は、チリ、ペルー、西インド諸島などで四十種ほどの原種があるそうです。わが国には、江戸時代か、遅くも明治の初期には入ってきていて、一部は野生化している物もあるようです。

八月ごろから、線状の葉の間から花茎を伸ばし、白い花をくっきりと咲かせてくれます。一つの花でもしっかりとした美しさを持っていますが、集まって咲いているさまの美しさから「タマスダレ」という名前が付けられたようです。
また、雨の翌日にいっせいに多くの花が咲き乱れることから、「レインリリー」と呼ばれることもあるようです。

「タマスダレ」の花言葉は「潔白の愛」「期待」などが紹介されています。
決して華やかというほどでもなく、しかし、密やかという感じでもなく、清らかな白い花を咲かせてくれます。児童公園や、通りがかりの住居の庭先などでも、見る機会は多いはずです。
厳しい夏も終わりを遂げようとしています。もし「タマスダレ」を見つけたら、ちょっと足を止めて、夏の終わりを感じるのもいいのではないでしょうか。

     ☆   ☆   ☆
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羨ましげなるもの

2014-09-14 11:00:53 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百五十一段  羨ましげなるもの

羨ましげなるもの。
経など習ふとて、いみじうたどたどしく、忘れ勝ちに、返す返すおなじところを読むに、法師はことわり、男も女も、くるくるとやすらかに読みたるこそ、「あれがやうに何時の世にあらむ」と、おぼゆれ。

心ちなどわづらひて臥したるに、笑(エ)うちわらひ、ものなどいひ、思ふことなげにてあゆみ歩く人見るこそ、いみじう羨ましけれ。
     (以下割愛)


羨ましく見えるもの。
お経などを習っていると、自分はひどくたどたどしくて、とかく忘れがちで、繰り返し繰り返し同じ所を読むのに、法師は当然のこと、男にしろ女にしろ、すらすらと楽に読んでいるのを聞くと、「あのように、いつなれるのだろう」と思われます。

気分が良くなくて臥せっている時に、楽しげに笑い、おしゃべりしたり、何の悩みもない様に出歩く人を見るのは、大変羨ましい。

稲荷の社に、思い起こして詣でた時、中の社の辺りが急坂で、とっても苦しいのを我慢しながら登っていると、少しも苦しそうな様子もなく、後から来るなと思っていた連中が、どんどん追い越して行って先にお参りするのは、実に大したものです。

二月の午の日(稲荷社の祭日は、二月の初午・二の午の日)に、明け方から急いで出かけましたが、坂の半分ほど歩いたところで、巳の時(午前十時頃)の頃になってしまいました。ぼつぼつ暑くさえなってきて、まったく情けなくなり、「どうして、こんなに暑い日でなく、ちょうど良い日があるでしょうに、何のために今日お参りしたのかしら」と、涙まで流して、疲れきって休んでいるのに、四十余りの女で、壺装束(女性の外出着)などではなくて、裾をからげただけの格好なのが、
「私は、七度参り(一日に七度詣でる)をするのですよ。三度はすでに参りました。あと四度など、大したことではありません。まだ羊の時(午後二時頃)には帰れるでしょう」
と、道で出会う人に話しかけて、下って行ったのには、普通の所では目につきそうもない女なのに、「この女の身に、今すぐなりたい」と、思ったものですよ。

女の子でも男の子でも、出家させた子でも、良い子を持っている人は、とても羨ましい。
髪がとても長くきちんと整っていて、下がり端(サガリバ・額から頬わきにかけて横顔を隠すように肩にかかるあたりで切り揃えた、その端のこと)などの美しい人。
また、高貴な方が、多くの人からうやうやしい扱いを受け、かしずかれておられるのを見ると、とても羨ましい。
字を上手に書き、歌を上手に詠んで、何か事あるごとにも、真っ先に選ばれる人は、羨ましい。

高貴な方の御前に、女房が大勢仕えているのに、とても大切な方へお出しになる手紙の代筆などを、そこにいる女房なら誰だって鳥の足跡みたいに下手なはずはないのに、自室などに下がっているのをわざわざ呼び出して、ご自分の硯をお下げ渡しになって書かせられるのは、羨ましい。
そのような代筆などは、そこに仕えて年功の女房ともなれば、本当に「難波わたり(筆跡が未熟なこと)」に近い者であっても、役目がらそれなりに書くものですが、この場合は、そうではなくて、公卿などの息女で、その上「お目見得に参上します」と中宮さまにお申し出のある立派な女性などには、格別に心配りをし、料紙をはじめ何かと整えなさいますのを、冗談にせよ、悔しがって呼ばれた人を中傷するらしい。

琴や笛など習うのも、同じように羨ましいものです。未熟な間は、「先生のように早くなりたい」と思うことですよ。
天皇や東宮の御乳母。
天皇付きの女房で、后や女御などどなたの所へでも気楽に出入り出来る人。



「羨ましい」という感覚は私たちと殆ど変らず、その意味で比較的分かりやすい内容だと思うのですが、
「高貴な方の御前に・・・」の部分は、羨ましいものの一例として書かれているはずなのに、推量や言い訳のような部分もあって、文脈としては少し乱れているようです。
どうやらこの部分は、少納言さま自身の体験で、出仕間もない少納言さまが大役を命じられた時のことのようです。
なお、「難波わたり」というのは、「難波津に咲くや木の花・・・」という手習いの最初に習う歌を指していて、まだ初心者程度という意味のようです。(第二十段にも、似た内容があります)
他にも、「難波の葦」から、「悪し、すなわち悪筆」という使われ方もしていたらしいです。
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疾くゆかしきもの

2014-09-13 11:00:55 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百五十二段  疾くゆかしきもの

疾(ト)くゆかしきもの。
巻染・村濃、括りものなど染めたる。
人の、子生みたるに、男・女、疾くきかまほし。よき人さらなり、えせ者・下種の際(キハ)だに、なほゆかし。
除目の早朝(ヂモクのツトメテ)。かならず知る人の、さるべきなきをりも、なほきかまほし。

    
早く知りたいもの。
まきぞめ・むらご・くくりもの(いずれも染色の手法)なので染めている時。
人が子供を生んだ時、男の子か女の子か早く知りたいものです。身分のある方はもちろんですが、つまらない者や身分の低い者の場合でも、やはり知りたいものです。
除目の翌朝。とても親しい人には、任官しそうな人がない場合でも、やはり早く知りたいものですね。



少納言さまも、人並みの知りたがりだったようですが、紹介されているものがあまりにも平凡すぎて、少々物足りない感じがします。
なお、文中に、「えせ者、下種(ゲス)」という表記があり、現在の私たちにはあまりいい感じを与えない表現ですが、これは当時の標準語であり、厳しい身分制度という背景があることを考慮すべきで、少納言さまを非難すべきではありません。念のため・・・。
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心もとなきもの

2014-09-12 11:00:41 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百五十三段  心もとなきもの

心もとなきもの。
人のもとに、頓(トミ)のもの縫ひにやりて、「いま」「いま」と、苦しう居入りて、あなたを目守(マモ)らへたる心ち。
子生むべき人の、そのほど過ぐるまで、さる気色もなき。
遠きところより、想ふ人の文を得て、固く封じたる続飯(ソクヒ・飯粒を練った糊)など開くるほど、いと心もとなし。

物見に遅く出でて、事なりにけり。白き楚(シモト・長く伸びた若枝。ここでは白い杖のこと)など見つけたるに、近く遣り寄するほど、わびしう、降りても去ぬべき心地こそすれ。
「知られじ」と思ふ人のあるに、前なる人に教へて、ものいはせたる。
     (以下割愛)


気がかりでじれったいもの。
人の所に、急ぎのものを縫いに出して、「今か」「今か」と、苦しみながら座りこんで、そちらの方を見守っている時の気持ち。
子供を生むはずの人が、出産予定の日がすぎても、そのような気配がないの。
遠い所から、愛する人の手紙をもらって、固く封をしている糊付けなどを開ける時は、とてもじれったいものです。

行列などの見物に遅く出かけてしまい、もう始まってしまっていた時。前触れの検非違使の官人の白い杖などを見つけた時には、牛車を進めて近づけようとする間は、じれったくて、いっそ車から降りて、歩いていきたい気持ちがします。
「気付かれたくない」と思っている人が目についたので、前に座っている女房にわけをいって、応対させているの。

「早く早く」と、待ちかねて生まれてきた乳児の、五十日・百日などのお祝いの頃になってからの行く末は、なかなかに先の長いことです。
急ぎの仕立て物を縫うのに、薄暗い中で、針に糸を通すのは、じれったいものです。しかしそれは、役に立ちそうな人を捕まえて、その人に通させるのですが、その人も、気が急くからでしょうか、急には通すことが出来ないので、
「さあ、もう、通さなくていいわ」と言うと、それでも、「なぜですか、通せないはずがない」と思っている顔つきで、立ち去ろうとしないのは、憎らしくさえなってきます。

何事であっても、急いでどこかへ行かなくてはならない時に、「先に自分の用がある所へ行く」と家族の誰かが、「すぐに車を戻らせますから」ということで、出掛けて行った車を待つ間は、実にじれったいものです。大通りを通るらしいのを、「帰ってきたらしい」と喜んでいると、別の方へ行ってしまうのは、たいへん口惜しい。
とりわけ、「行列見物に出掛けよう」と思って待っているうちに、「行列は始まったらしい」と、誰かが言っているのを聞くのは、情けなくてたまりません。

子供を生んで、後産がなかなかない時。

行列見物、お寺参りなどに、一緒に行く予定になっている人を乗せに行った時、車をその人の家につけているのに、すぐには乗らないで待たせるのも、とてもじれったく、このまま見捨てて行ってしまおうという気持ちにさえなります。

また、急いで炒炭(イリズミ・上等の炭で、その分固くて火付が悪い)をおこす時も、とても待ち遠しい。

歌の返しを、早くしなければならないのを、なかなか詠めない時も、とてもじれったい。
先方が思いをかけている人であれば、それほど急ぐ必要もないでしょうが、当然に、急がなければならない時もあります。まして、女同志でも、直接やり取りする歌は、「早いのが良い」と思うのですが、生憎と、急ぐあまり失敗もあるのですよ。

気分の優れない時とか、心配事のある時は、夜明けを待つ間が、とても心細く時間が長く感じられます。



「心もとない」という言葉は現在でも使われますが、少しばかりニュアンスが違うようです。ほとんど同じような使われ方もあるようですが、少納言さまが行列見物などの事例を挙げているように、じれったい、といったような意味合いに使われることも多かったようです。
なお、真ん中あたりの、針に糸を通すというくだりは、かなり違う意味合いに取っているものもあります。ただ、学問的にはともかく、話の流れとしてはあまり影響ないように思われます。
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