この著作に小堀は「きれい寂び」とある。上手い表現である。感心した。その作品のひとつかもしれない桂離宮を四季折々眺めて感じるのは、「マイクロ」からの視点だ。とても狭い7ha(周辺含む)の規模ので池を囲む離宮である。近くには道路や鉄道が通っている。<o:p></o:p>
桂離宮と修学院離宮の比較なら修学院は風景、展開、力強さがある。その反対に桂は倒れても再生する構造の単純さ、儚さ、自然素材(木、土、石)の「力強さ」がある。倒れても再生するたおやかな存在は迫力を持つ。そこに、素晴らしい手入れがあると、枯れていくものが「いのち」を持ち復活する力をいつも発揮する。これが「きれい寂び」であろう。さらに桂の魅力はこういうものが台風に耐えられるのだろうかという「「はかなさ」がある。歳を経て凛としている。桂にはそれがあるがその小宇宙の中だけだ。修学院では都市としての京都を見渡せる。おおらかな視点がある。これが違いだ。<o:p></o:p>
なお、この著作は面白いが、何で京都に奈良の記述があるのか、鑑賞する観点は何か、知識でなく楽しむための背景・歴史の追記を願う。なお、地図とイラストの充実も肝要だ。<o:p></o:p>