要旨として平安京は大きすぎ、道路も広すぎ、律令制度( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6 )も身の丈に合わないというもの。真っ当で実証的でギャグもあり楽しい。しかし文系の著作に多い、図と表でのまとめが少ない。また論旨のフローが明確でないのが惜しい。読み物としては楽しめる。
都市計画的には
①道路率(町の中の細街路と内裏は無視)
宅地部分の町(1,280(東西32町)×1,480(南北37町))/(1,508×1,751)=72%→道路率28%
現在の京都道路率は3%程度(道路面積24.69/827.83市域面積(km2)、というから朱雀大路(28丈82m)、大路(10丈30m)、小路(4丈12m)が半減か激減しているとしても合わない。市域と平安京の違いが大きいとも思えないが。
ちなみに中京だと17%(1.2/7.2)で半分くらいになった感じだ。
この道路率は異様に高い。道路の広い名古屋市が平均18%だ。
②人口密度(上記道路率をグロスに採用)
P155に580町とあり、821haとした。人口10~12万人なら、121~146人/haになる。道路も含めたグロスでは87~104人/haでそこそこの密度だ。( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6 )豊中市と同じくらいに位置する。
その他の知見は:
・大宝律令による律令制は周の制度の模倣や条坊制は長安の模倣
・豪族を取りまとめ住わせたいため都を造る
・条坊制と四行(東西に4区分)と八門(南北に8区分)、門は東西10丈、南北5丈の戸主
・道は広すぎ、溝があり、見栄え優先の都、勝手に変化させる住人
・南側だけの羅城と羅城門、朱雀大路は見せかけの大路
・大嘗会(833年)の標山:悠記、主基が祇園御霊会の山鉾に酷似、朱雀大路の標山巡行は見世物(しかしめったにしない)
・延喜式以来、朱雀大路は外交の場にならず
・遷都11年目に造営を放棄、北には2町拡大(上東門、上西門)、右京と南部は手を付けず、桂川(葛󠄀野川)を無視し、鴨川に傾注
・左京は洛陽城、右京を長安城、今は洛中というのは左京偏重
・戦国期(16C)上京と下京の惣構と室町小路、これぐらいが適正規模だったのか、国家人口や面積からも唐の長安と比べて過大
・中央集権も停滞、引きこもる天皇
・東への拡大、鴨川東に1075年には六勝寺、法勝寺の九重塔( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%9D%E5%AF%BA )は京都入口のモニュメント
平安京の骨格は残ったが、京都の土地利用は変化した。楽しめるが秀吉以降もあると面白い