虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

過去記事にいただいたコメントです つづき

2016-11-10 14:12:37 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

ブログの過去記事にいただいたコメント 

の記事にコメントをいただいて、こちらも残しておきたくて記事にしてアップしておくことにしました。

 

↑年中のAくんといっしょに作ったジオラマ。

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>「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。」

という息子さんのことばは、現在のEUイギリス離脱やら、アメリカでのトランプ旋風のことを思うと、切実に響いてきますね。(トランプはとうとう大統領になっちゃいましたね。)

わたしもスタインベックの小説は好きですが、ここで引用されているスタインベックの言葉をわたしなりに翻訳すると、「120%自分を生きている誰かが、自分はこう思うと意見をいったとして、それが100人いたら100通りの意見が出るはずだ。」ということではないかとおもいます。

たいした議論をすることもなく多数派でまとまるということがそもそも嘘くさいことであって、多数がまとまっているように見えるのは、実は不安を刺激されて煽動されていたり、商業主義に誘導されていたり、よく考えていなかったりの結果なんじゃないかとおもうのです。

コメント主さんの文章はとても興味深いです。

「魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い」「奥行きを感じる体験」「創造性」これらのことがつながっている感覚はすごくよくわかります。

わたしが自分で感じていることばで表現してみます。

自分の奥に魂の場所があって、そこと仲良くするためには、孤独が必要である。
魂と仲良くなって、自分の奥をどんどん発掘していくと、そこに独自の世界や、新しいアイディアに出会える可能性(創造性)があらわれてくる。それを表現した時、同じように自分の奥を掘っている人たちと、火花がスパークするように、触発しあえることがある。

近回りの人々が関係する日々の生活、生きていくために必要な細々としたことは、生きる上でなくてはならないものである一方、それだけでは「何も考えずに周りに合わせる」など、集団心理の犠牲になったり、近視眼的で間違った判断につながりやすい危険がある。

その2つの視点を合わせ持つ感覚は、確かに奥行きがある感じともいえるし、立体感覚ともいえるかもしれない。

といった感じになるでしょうか。

自分の奥、魂との対話をしないということは、生きる上でしっかりした軸を持たずに生きていくということで、その方が楽なように見えて、実は周りの環境任せのとても不安定な生き方をするということかなとおもいます。

不安定な自分を受け入れて見つめるということができれば、自分の奥との対話が進んでいきますが、不安定な自分を見たくないために、多数派というもの、力強そうなものに頼りたくなる、というのが今のトランプを応援する人たちの気持ちなのかもと想像してみます。

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「誰の力も借りず、独りで堂々と闘う…孤独は真の自由へ導く味方」

こちらの記事4の方にある、カニグズバーグやアインシュタインが「孤独」について語っている文章を興味深く読みました。集団と個について考えさせられました。

私のところに古い新聞の切り抜き記事があったので紹介させて下さい。

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君たちに伝えたいこと (作家 丸山健二)
※2000年8月 朝日新聞より抜粋

ときとして人が激しい孤独感に苛まれるのは、自身の魂を相手にする時間がいかに大切であるかという何よりの証なのです。

人はあまりにも社会的な生き物でありすぎるがために、集団のなかへ埋没することで安らぎを得るという習性を持っています。

そのせいで独りの立場に追いやられそうになったという予感だけでうろたえます。

そして、まだ何ひとつとして失ってはいないというのに、それどころかありとあらゆる可能性を秘めているというのに、この世は生きるに値しないというせっかちな答えを出す始末です。

どのようにして孤独感に対処すればいいのか。逃げるに逃げられないこの重苦しい問題と真剣に取り組むこそが青春の大半を占める意義であり、ひいては人生の明暗を分ける重大な鍵なのです。

残念なことに多くの人々がこの罠に掛かり、自己の何たるかも、自由の何たるかも知らずじまいのまま、本当は数倍も充実させられたかもしれないたった一度の人生を自ら台無しにして終えてゆくのです。

孤独の奇襲を受けた際、あなたが選ぶ最良の方法は、誰の力も借りず、虚構の世界へも逃げ込まずに、独りで堂々と闘うことです。まずはそれをはったと睨みつけ、次にどんと受けとめることです。ぐっと歯を食いしばって、底無しの虚しさと自力で対決するのです。

この世を生きる意味にしても曖昧です。

ところが、意味があるともないとも言えない点に重大な意味が隠されているのです。

もしこの世にはっきりとした意味やもくてがあらかじめ用意されていたならば、あなたはその意味や目的の奴隷として不自由な生涯を送らなければならないでしょう。

無味乾燥な状態でこの世が存在するのは、あなたの意思の力によってあなた自身を存分に活躍させることが可能な大いなる舞台として用意されているからです。

この世に意味があるかどうかは、あなたが孤独という負荷を逆手にとって精神を鍛えるかどうかにかかっています。

孤独は、どこまでも自分を信頼して生きてみせるという毅然とした心組みで接すれば大した敵ではありません。

敵どころか、実はあなたを真の自由へと導いてくれる唯一の味方であることがわかるでしょう。

真の自由は、独自の判断で、必要に応じて必要な行動を取ることができる、一個の独立した人間にしか根付きません。

孤独の波状攻撃を受けてへばっているあなたが求めてやまない優しさというのは、もしかすると他者から施される優しさのことではないでしょうか。

自分から与える優しさのことを考えたことが一度でもあるのでしょうか。

孤独の試練を積極的にくぐり抜けた者は、むやみに優しさを乞うような真似はしません。

また、優しさに群がってくる者たちをもっと駄目な人間にしてしまうようなこともしません。

そして孤独から逃げつづけ、あるいは、孤独を偏愛することしかできない者たちと比較すると、はるかに生き生きとしています。

それは、長年の孤軍奮闘の結果、遂にこの世を生きる意味と目的と価値を独自に見出しつつあり、情熱を持ってそこへ邁進しているからです。

他人を食い物にして生きようとする連中の魂胆を見抜く眼力を持ち、同時に、尊敬に値する人間が現れた場合には素直に認める広い心を併せ持っているからです。

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ブログ過去記事にいただいたコメント【8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か】

2016-11-07 18:36:01 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

以前書いた、8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」かという記事に、コメントをいただきました。

実はこの記事、教室にいらした親御さん方から、「どういう意味かよくわかりませんでした」という感想を寄せられていたので、「伝わりにくい書き方になっているのかな」と思いつつも、息子との会話をそのままの形で残しておきたかったのでそのまま放置していたものなのです。

そんないわくつきの記事にていねいなコメントをいただいたのがうれしくて、後でまた読み返せるように記事としてアップさせてもらうことにしました。

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私は“責任をもって自分の人生をおくると大切なことが見えてくる”と実感していますが、逆に“責任をもって自分の人生を生きていない”とはどういう状態なのだろうと考えていました。

そして、ここのところ、責任をもって自分の人生を生きていないとは、どこか他人として生きていて、多数派を良とする考え方、集合体の一部であり、場の分割として生きている状態であると考えるようになりました。

少し前に河合先生の本を読んだことをきっかけに、日本はリーダーに力を持たさないで場を大事にするなど、突出したものを良とせず、暗黙の了解で多数派が占める考えを優先し、討論(争い)を嫌う民主主義タイプ、対して欧米はリーダーが全体を牽引するけれども、その過程で突出した個の意見があがってきたら討論する民主主義タイプという構図を意識するようになりました。

欧米での考えは実際のところわからないのですが、少なくとも今の日本の子育ては、子育てをめぐる場の雰囲気に自分の子育ての方向性をゆだねてしまって、自分の考えをないものにしているということに気がつきました。

そんなことを考えていると、以前先生が書かれた、息子さんとポケモンゲームと民主主義についての対話の記事を思い出しました。

「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。

ゲームにしても、投票制にしたとたん、個人個人が自分で思考して進めようとするのではなく、全体の流れに乗って、合わせていくことに慣れてきて、自分の発想で問題を解決したり、別の視点から考えてみようとしたりしなくなるから。

政治でも今のシステム方の中で、個人個人が自分の意見をどう扱うか、どう向き合うか、どう責任を持つか、捉えなおす必要があるんだろうな」


「多数決が暗に力を持ち出すと、創造的ないい意見が埋もれていることもよくある。

でも、本当にそれが問題なのは、自分の意見と自分が同調している多数派の意見との境目が薄れるにつれて、自分の精神が本来持っている可能性とかが、力がないもののように感じられることじゃないかな。

ゼロから何かを作り出すことなんかできない、個人の精神から何か生まれてくるなんてありえない、なんてスタインベックの人間観とは真逆の思考に陥るってことだけど」


つまり、多数派が正解であり、自分の意見には力を感じない現在の社会に身をおくと、“責任をもって自分の人生を生きていない”につながりやすいのだろうなと気がつきました。


気がつくのは簡単でも、抜け出すのが難しい。

子どもの将来の問題、自分自身の仕事、老後の暮らし、経済的なものも含めて将来のことを考えると、先が見えなくて、すっきりしない不安感がある。

どうにかなるよと超越しきれずなにか軸となるものが欲しくて、大多数に合流したり目の前にある強力なメソッドにすがりたくなる。私自身を見つめるとよくわかります。私の中にそういう自分がいますから。

(少し違うかもしれませんが、子どもが難題を目の前にして、くじけそうになるときも、きっと同じようにざわざわしているのでしょうね。)

でも私はそういう自分も抱えつつ、生きていくしかないだろうと考えています。

要所要所でバランスを取りつつ、本当の自分をみつけるしかないと考えています。

それが自分に責任をもった生き方なのだと考えています。

また、個々が創造的な意見を持つようになるよいきっかけはないだろうかと考えました。


先生は「トーク・トーク カニグズバーグ講演集」を引用されていましたが、私の今のところの考えは、“本に限らず、魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い(柳田邦男さん?の言葉)が、

潜在的にもっている個々の考えを解き放ち、創造的な生き方につながるのではないか“というものです。

最近、河合先生や柳田邦男さんの本を読むことがありました。その中で、私自身、心が震えたり、身体の中に奥行きを感じる体験をしました。

すると、本の内容とは直接関係ないことで、私の中の創造性が動き出しているのを感じたのです。

私は本を読むことが創造性につながることが多いのですが、誰もがそのような何かを持っていて、きっと子供の頃夢中になった損得を考えないような一次体験をすることが、個々の創造性を自由にして、自分が求める自分を生きることにつながるのではないかと考えました。

少し話しが変わりますが、「人間は創造力をもった唯一の種である。

(略)

音楽においても、芸術においても、詩においても、数学においても、哲学においても、有効な協力というものはない。ひとたび創造の奇跡が起これば、集団はこれを組織だて、拡大することはできるが、集団が何かを創造することは決してない。

尊いのは個々の人間の独自の精神である」

とスタインベックの引用がありました。

ここでいう創造力とは少し違うかもしれませんが、自分を生きている人たちの集合体の中では、対話がうまれ、集団による創造がおこることもあるのではないでしょうか。

息子さんが “奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値”とおっしゃっていましたが、集団の中で奇跡的な絆がうまれたとき、集団の創造も不可能でないと考えました。

きっと複数で絵本を創作するときや、音楽活動の場では、集団での有効な協力による創造の奇跡が起こっているのではと考えました。

最近私自身言葉を口にしたり、文字にしたりするときに、立体的なものにして伝えようとしていると感じることがあります。

また子ども達を中心とした集団の中で絆がうまれている場では、原因と結果など平面的な伝言とは違う、もっと奥行きのある、私たちそれぞれの生き方考え方や、自覚していないもっと多くのものも乗せて、立体的に伝えることができるのではないかと考えています。

実際に人類の進化の過程、文化の伝承や科学の進歩などの現場では、現世代までの集団における創造の連鎖を次世代の創造につなげているのだと考えています。

ですからある意味私も集合体の中での創造の現場にいるといえるのではないかと考えています。

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<8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か>の記事も下に紹介しておきます。

 

8万人が同時に「ポケモン」をプレー?配信サイトで大実験……とCNNニュースでも取り上げられているゲーム映像配信サイト『ツウィッチ』の実験が数日前からおこなわれています。

 ゲームボーイ用ソフトのポケモンを「社会実験」と称して改造した人がいるらしい。

主人公のレッドをチャット欄にコマンドを書きこむと動かせるようになっています。

レッドは、参加者が増えるにつれ、動きが取れなくなっていました。

 

その混乱ぶりを見た作成者が、75%の賛同を得たら、現状通りのコマンドが反映される「無政府状態」モードか「民主主義」モードに切り替えることができる、という修正を加えたのだとか。

 

その話題を耳にして以来、わたしもこの「ポケモン」ゲームの行方が気になりだして、朝、息子と顔を合わせる度に、「ポケモン、どうなってる?クリアできそう?」とたずねるようになっていました。

 

この実験が始まった当初から、日に数回、このサイトに加えて、この話題で盛り上がっている海外と日本の掲示板の両方をチェックしている息子が、「まだまだ、クリアするのは無理かもな」と答えてから、こんなことをつけ加えました。

 

息子 「無政府状態が行き詰ってにっちもさっちも行かなくなると、大勢が民主主義に傾くんだけど、少しするとそれが窮屈になってまた無政府状態に戻るのを繰り返しているからね。

 

これ、海外でプレーしているからこんな流れになっているけど、プレイヤーのほとんどが日本人だったら、「無政府状態」か「民主主義」かモードが選べるようになった時点で、デモクラシー派がずっとゲームを引っぱってくことになって、あっという間にクリアーしてしまうんじゃないかな?

掲示板見ていても、ほんとに、日本人というか、アジア圏の人は真面目だな。

どっちがいいか正しいかってのは抜きにして……

つまり、ぼくは無政府状態がいいとはちっとも思っていないわけだけど……それでも、日本の掲示板で誰もかれもが一致団結して、「民主主義」モードに切り替えて、より短い時間でクリアすることだけを当然視する様子を見て、

多数決の状態で、より早くクリアすることを目指すんだったら、一人でプレイするのとどう違うのか、疑問を感じたよ」

 

わたし 「そうよね。多数決で進むゲームなんて、少しも面白くないわね。

プレイするにしても、見るにしても」

 

息子「そうなんだ。より効率的にクリアーすることだけを最高善としてしまうと、何万人もの人がプレイすることの意味が見失われそうでさ。

日本の掲示板では、誰も少数派を安易に切り落とすデメリットを口にしないし、投票制で多数決することに慣れすぎて、デメリットがあることすら忘れているようでもあるよ。

 

そういえば、中学の時、こんなことがあったんだ。

K先生が体育館クラス全員で一斉に手を打たせてから、初めてみんなの心がひとつになったと言ったんだ。

自分は、初めてこの「パン!」を聞いたときに心の底から感動した……とも。

でも、ぼくは、それは無理矢理に強制されたから指示に従っただけで、みんなの心が一つになったという表現はちょっと違うな、と感じたんだ。

 

何万ものがプレーしている状態で無政府状態を続けると、大多数が正しく効率的にゲームが進行することを望んでいても、自分勝手に振舞う人や他人の意見を聞かない人がめちゃくちゃにしてしまうのは事実だよ。

 

でも、この実験が、どんなにひどいことが起きても裁かれないような状況でも、奇跡的にうまくいくことがあるってことも示しているんだ。

結果として同じでも、そんな風に個人個人が自由意志のもとで行動した上で先に進むのと、1人の指示……それが多数決という指示だったとしても、それに従って、先に進むのでは、ずいぶんちがうんじゃないかな」

 

息子 「実際に完全に多数決派に主導権を譲らない限り、ゲームに決着がつくのかすら怪しいんだから、日本の掲示板の意見は正しいといえば正しいんだろう。

海外のゲームの進行具合は無茶苦茶といえばその通りだしね。

ぼくも、どっちがいいって思ってるわけじゃないんだ。

 

ただ、今までツウィッチで起こってきたことを見て、絶対絶命のピンチに直面したときの、向こうの人の切りかえの早さというか、柔軟性にはびっくりしたよ。

日本人が同じ実験をしていたらもっと早くクリアしていたかもしれないけど、ここで行き詰ってしまったら投げ出してしまうだろうなって場面があるんだけどね。

みんなが自由意志で自分勝手にプレイしながらも、そうした緊急事態にやたら強いというか、何とか持ちこたえていくところがすごいと思ってさ。

 

これまでも、みんなで同時にポケモンゲームをするのと同じようなことを、日本でも真似ようとしたことはよくあったんだけど、いつも盛り上がりに欠けて、失敗していたんだ。

 

それって、やっていることの根本にあることを理解しないで、形だけを真似ようとしてきたからかな、って感じたよ。

 

今回の実験で言うなら、ゲームだからより短時間にクリアするという唯一の正解とそれ以外の不正解という捉えではない。

どうして何万人なのか、このゲームにどんな意義があるのかも考えてみるということだけど」

 

わたし 「何万人もの人が同時にプレイするとなると、もし、最終的にクリアできなかったとしても、クリアできない状態が長引けば長引くほど、ある意味、シュミレーションの結果としては面白いわね。

何万人もの人が、一人ですればすぐにクリアできるようなゲームに多くの時間を浪費するとしたら、その価値は確かに短時間にゲームを終えることではなく、良いことも悪いことも含めた、ゲームのプロセスで起こったことのはず」

 

息子  「そうだよ。といっても、事件がたくさんあるほどいい、大勢でやるから上手くいかないほうが盛り上がるってことじゃないんだ。

 統率が取れたり、取れなかったりして先が見えない状態が続けば、不満が出てくるのは当然だよ。

そうしたストレス下にあるときや、それを奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値といえるのかも。

 

これがゲームであるからには、多数決状態に固定されたまま心を一つにしていると錯角して意識通り進んでいても、不満はあるはずだしね」

 

わたし 「民主主義は大事だけど、多数派が必ずしも正しいわけじゃないし、たとえ多数派の意見の方が本当に正しかったとしても、小数派の意見をないもののように切り捨てていいわけじゃないわ。

 

そういうこと、親子間でもよくあると思うのよ。

特に相手が幼い子の場合には。

大人と子どもは多数派と少数派のような力関係ができてしまうから、そこで優位にある大人側が正しさを振りかざして、まるで子どもに自由な意志などないかのように扱ってしまうこともある」

 

息子 「ゲームを早くクリアしたい気持ちと同じように、何歳までに何ができて、何歳までに何ができるか、ということだけを正解と思ってしまうと、そうなるのかな」

 

続きを読んでくださる方はリンク先へどうぞ

8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か 3

8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か 4


就学前に何を学習したらよいか。心的パターンを創造するよううながすには? 4

2016-11-07 08:45:30 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

前回の記事で、

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親御さんから、

「他人の話を聞きません」

「みんなが集まっているときに、一人だけ自分勝手に振舞っています」という

相談を受けるとき、子どもの様子には何の心配も感じられないけれど、その子を見守る親御さんの言動が気になる、ということは結構あります。

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と書きました。

子どもが相手の話に熱心に耳を傾けるようになるには、自分の話に、親愛を込めて、熱心に、耳を傾けてもらった経験がたくさん必要です。

 

0~3歳の脳を形づくる環境がわかるスケール

という記事でも取り上げたのですが、

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① 世話をする人の情熱的、言語的な反応の仕方

子どもが声を出したときに、反応しないとか、単に動作を真似するという

レベルではなく、親愛を込めて、心のこもった言葉で応えているか。

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が、子どもの脳の発達に大きな影響を与えることが指摘されています。

 

「他人の話を聞かない」という子とお母さんの関わりを見ていると、お母さんが子どもの話に相槌を打ったり、うれしそうな表情で子どもが興味持っていることに共感を示したり、子どもが始めた話で盛り上がったりする姿が少ないように見えることがよくあります。

その一方で、子どもの振舞いを心配そうに見つめたり、「きちんと聞きなさい」と注意したり、子どもが笑いながら話しかけるのに、さらっとした反応を返したり、大人の説明に飽きて、半分腰を浮かしている子にくどくどと言って聞かせたりすることは多いようです。

 

性格上、「情熱的」に相手の話を聞くのが苦手な方もいらっしゃるでしょうが、幼い子にとって、親の自分に対する反応の質がいかに大切か、どうか心に留めておいてくださいね。

 

↑ 大きな数を体感するための手作り教具です。


就学前に何を学習したらよいか  心的パターンを創造するよう うながすには? 3

2016-11-06 12:17:50 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

『よみがえれ思考力』から、子どもが心的パターンを創る過程を援助するためのガイドラインの続きです。

 

本にある順序は変えてあります。

なぜかというと、親御さんの多くが、「パズルや市販されている教材」とか「何度も繰り返し練習」いったお金で購入できるものや、子どもに強いることができるものを目にすると、それに気を取られるあまり、もっと重要で基本的なことを無視してしまいがちだからです。

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★ 自分で遊ぶ時間を子どもに与えること。

子どもにつきまとう母親は、自分自身で心的パターンを形成するという能力の成長を邪魔している。

 

★ パズルや市販されている教材が視覚のパターン化に役立つだろう。

寄せ木細工のブロックやドミノ、万華鏡もよいだろう。

「この絵はどこがおかしいんだろう?」といった質問は認知の技能を結びつけることになる。

                    (『よみがえれ思考力』からの引用)

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一方で、不必要に子どもにつきまといながら、他方で必要とされる教具を用意しても、自ら意欲的にさまざまなものを吸収していこうとする態度につながりません。

とはいえ、「つきまとうのがよくない」と字義通りに解釈して放任しすぎたり、孤独を感じさせるほど一人遊びを強いたりするのも問題です。

子どもが、就学後の学習に核となるような心的パターンを形成するのを援助するには、大人がちょうどよいバランス感覚を身につける必要があります。

 

 

↑ ポケモンチップで対戦中 

  

子どもが学習の基盤となる心的なパターンを形成していく上で、 それを援助し高めるのも、邪魔して押さえつけるのも、 身近にいる親の「感じ方」とのつながりを感じています。

  

春休み向けの算数クラブで、親御さんから、

「他人の話を聞きません」 
「みんなが集まっているときに、一人だけ自分勝手に振舞っています」

という相談を受けることが何度かありました。

実際、算数をテーマにした遊びやクイズをするとき、子どもたちを呼び集めても、席に着こうとしない子は何人かいます。

 

「これやってみたい子!作り方を教えて欲しい子はいる?」とたずねると、「はい!」「はい!」と元気に手があがる中で、一人遊びに興じている子もいます。

 お母さんが何かたずねたり、教えたりしているときに、今にもその場を逃げ出しそうな雰囲気で気もそぞろになって、話を聞いている子もいます。

 

わたしは、そうした姿があるから、即、集団活動が苦手で他人の話を聞くのが苦手な子だとは思いません。 

わたしなりに、「この子は気がかりな子」「あまり心配はいらない子」という 判断の基準があるからです。

 

たとえば、こちらの目を見てよくニコニコ笑う子が照れたり、恥ずかしがったり、少し我を張ったりして、ほかの子らと一緒にする活動に参加しなかったり、こちらの話をきちんと聞かずにうろうろする場合、あまり心配はいらないと思っています。

何度かレッスンに通ってもらえば、みんなでする活動を楽しむようになり、大人の話に集中して耳を傾けるようになるはずですから。

表情、目の合い方、暗黙の了解の理解度、遊び方、おしゃべりする内容、親子の関わり方の様子などから、気になる子もいます。 

 

親御さんから、

「他人の話を聞きません」
「みんなが集まっているときに、一人だけ自分勝手に振舞っています」

という相談を受けるとき、子どもの様子には何の心配も感じられないけれど、その子を見守る親御さんの言動が気になる、ということは結構あります。

 

次回に続きます。


就学前に何を学習したらよいか。心的パターンを創造するよううながすには? 2

2016-11-05 06:44:53 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

幼児期の子どもが心的なパターンを創造していくには、どんな環境が必要なのか。

レッジョ・エミリアにしても、モンテッソーリにしても、そのほかの幼児の認知の発達をていねいに研究している方々にしても、さまざまな貴重な実践方法を提示しています。

そうした実践のひとつひとつに向き合ってみたら、どうだったのか。

上手くいかない場合、どのような工夫が必要だったのか。

 

自分の子らや虹色教室の子どもたちと過ごす中で発見したことを順に整理していきたい、と目論んでいます。

 

とはいえ、あれもこれもと盛り込もうとすると、読んでいる方々に混乱を与えてしまうでしょうから、

まず最初に、赤ちゃん期から青年期までの子どもに必要な働きかけと、発達研究の成果をバランスよく伝えてくれる

『よみがえれ思考力(ジェーン・ハーリー著)』で取り上げられている<就学前の子向けのガイドライン>をベースにして教室で発見したことについて書いていこうと思います。

 

ここから下の赤い文字で書いている部分は、『よみがえれ思考力』からの引用です。

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★六歳以前の子どもの仕事は、周りの世界を理解する方法を学習することであり、学習に関わる神経構造が関与しない意味のない教材を丸暗記させることではないことに気をつける。

 

★心的パターンは感覚連合のネットワークの上に作られる。

感覚的な世界のパターンに注意を向かせるように子どもたちに仕向ける。たとえば、「これはどんな味がする?」とか「それは何の形に似てる?」という問いかけをする。

 

★日常的な出来事の中で、子どもが関係や意味を理解できるように助けること。

たとえば、子どもがくどくど聞き続ける「なぜ」という質問は、出来事のつながりをつけたいニードの表現法の一つである。

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上の3つのことは、幼児との関わりでとても大切なことですが、親子関係でも園などの先生と子どもの間でも軽視されがちなことのように感じます。

幼児は、目で見ること、耳で聞くこと、手触りや匂い、味などに注意を向けて、言葉で大人と共感しあう中で、感覚的な世界のパターンに気づいていきます。

幼児の暮らしが、「とにかく何かをしなくては」「できるようにならなくては」とアウトプットをして周囲に評価されることを中心に回っていることはよくあります。

そんなふうに忙しくしていると、長い時間、何かを覗きこんでみたり、耳をすませたり、砂や粘土の感触と戯れたり、匂いを嗅いだり味わったりしながら、

大人とおしゃべりする時間は、どれも無意味で無駄な時間のようにしか感じられないかもしれません。

でも、それは大きな間違いのようです。

幼児の心的パターンは、感覚連合のネットワークの上に築かれるのですから。

以前、こんな記事を書いたことがあります。具体的な方法を知りたい方は、リンク先に飛んでくださいね。

 

★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 1 <見る>

★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 2 <見た後で>

★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 3 <聞く>

★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 4 <聞いた後で> 

★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 5<感じる>

 

子どもが関係や意味を理解できるようになるために、子どもの体験するさまざまな出来事をていねいに解説を添えたり、子どもが自分でやってみれるようにしたり、

子どもにもわかるレベルの間違った推理をして、「ちがうね~」と考えさせる機会を作るようにしています。

ちょっとした工作をするのも、役立ちます。

次のリンク先は、2歳6ヶ月の◆ちゃんのレッスンの様子です。

 

2歳6ヶ月の◆ちゃん 昼と夜が気になる

 

◆ちゃんの一つひとつの体験に、ゆったりていねいに付き合うことで、◆ちゃんはさまざまなことに疑問を持ち、周囲の物事を関連づけ、

論理的に考えていく力を発展させていきました。この春、年中さんになりますが、観察力、ゲームのルールや物語などの理解力、分析する力、言葉で表現する力、エネルギッシュに物を作り出す力など、どれもしっかりと育っています。

 

これは、春休みの算数クラブに来た新年長さんたちの工作風景です。

ゴムで飛ばす鉄砲のようなものや弓矢のようなものを作って得点ゲームを作っています。

ゴムが引っかからず、うまくいかないとき、「どうすればいいのかな?」と一緒に作品を眺めていたら、「そうだ、引っかけるところを作ればいいんだよ」と言いながら、ハサミで逆三角形の切り込みを入れていました。

また、お友だちの作品と同じものを作ろうとして、真似してストローを貼り付けたものの、実際、ゴムをかけてみると、ゴムがストローと鉄砲の間に食い込んで飛びませんでした。

「どうしてだろう?」と、うまくいかない部分を観察していると、「わかった、セロテープを真ん中らへんに貼ってるからだ。だから、ゴムが入っちゃうんだ」とうれしそうに言っていました。

「こうよ」と教えるのではなく、「どうすればいいかな?」「どうしてだろう?」と一緒に首をかしげながら、物をさまざまな視点から観察してみる体験は、見る力の質的な変化をうながします。

 

次回に続きます。


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 続きの続き

2016-10-30 18:05:15 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

息子が学校の平等主義を批判していたのを受けて、わたしは息子に自分が小学校時代に体験したことと、それによって起こった自分の心に内部の体験と、それと関連する最近読んだ雑誌の記事について話しました。

 

小学6年生の時、ハンディーキャップを持っているひとりの女の子と同じクラスになったのです。

その子はたびたび教室を飛び出していき、担任の女の先生は、わたしたちに自習をするよう言い渡して、その子を追いかけていくことがありました。

わたしはその先生の担任になるまで、授業中に手遊びしているか、窓の外を眺めているか、ぼんやり空想に浸っているか、そんな困った生徒でした。

まぁ、その先生が担任の時も、クラスの友だち数名といっしょに授業中に交換日記を回していた容疑で『終わりの会』の裁判にかけられていたくらいですから、きちんとしているとは言い難かったのですが……。

 

その先生はただ教科書を教えるのではなくて、みなが自分の頭で考えるように促すように教える先生だったので、わたしなりにはちょっとはしゃんとして、夢中になって授業に参加するときが増えていました。

それはクラスの他の子らも同じで、クラスの中には勉強に対する、能動的にかかわろうとする態度や愛情のようなものが、満ちているように感じられました。

 

それで学力という面では、当時の親たちはおそらく不満を抱いてはいなかったはずですが、自習が増えている点へのクレームはたくさん出ていたようです。

何度か親たちと先生の意見交換の場や子どももいっしょに参加する形の説明会が持たれていました。

子どもたちも参加している説明会で、先生は黒板に2つの鍋の絵を描き、一方を塩の足りないスープ、もう一方を順調に煮立っている味が整っているスープなのだと言いました。

それから、わたしは一人ひとりの子を大切に思うし、一人ひとりの子の成長をていねいに見ていて、そこで、味が足りないものがあれば塩を足し、

おいしくできているものには塩は足さずに見守るようにしているのだと言いました。

先生がスープの比喩で、誰のことをどのように説明しようとしているのか、子どものわたしにもよくわかりました。

確かに授業は自習になることはあっても、放課後になると先生は、何だかしゃべりたい気持ちが溜まっている子がいるとそこに行ってゆっくり話を聞いていましたし、わたしたちが口げんかをして揉めると、どちらの言い分にも耳を傾けてくれました。

 

そんなわけで、わたしがその体験の中で考えていたことというのは、

「先生っていうのは、うちのお母さんとかより自分の考えとか信念ってものがあるんだな。灰谷健次郎のお話に出てくる人みたいだから。

うちのお母さんは、○さんのお母さん(自分の子を学校の劇の主役にするために、少しこすい手を使ったとうわさされていたクラスの子のお母さん)よりずっと普通のお母さんだと思っていたけど、ちょっと馬鹿なところがあるんだな。

その馬鹿ってどんな馬鹿かというと、「井の中の蛙大海を知らず」っていうことわざの蛙みたいな種類のお馬鹿加減で、いつも団地の前に集まってそこから見える世界が全ての世界のように思ってるから、あんな風に考えるんだな。

だって、学校に講演会に来た植村直己さんみたいに世界の果てまで冒険に出かけたとしたら、授業中に誰かが飛び出して行ったとか、自習が少し増えたくらいであんな大騒ぎするはずないもの。

先生が見ていないところで自習しているときも、みんなきちんと勉強しているのに。

わたしたちはもう6年生で、教科書を見れば字も読めるし、計算問題を解いていくくらい自分たちでできるのに。

それにきちんとしていなければ、クラス委員の子が騒いで学級会でみんなから責められるだろうに」

 

わたしは担任の先生が好きだったので、先生の肩を持つようなところがあったし、ちょうど思春期に差し掛かる時期で、それまで完全ですばらしい人のように見えた母の魅力が急に色あせて感じられるときでもあったので、そんな辛口批評が心に湧いたのでしょう。

 

ひと昔前のことでもあるので、先生が正しいのか親たちが正しいのか、賛否のほどは脇に置いておいて、この体験のなかで、わたしは、他人が見ていないところでもきちんと自分の義務を果たそうと思う責任感のようなものを意識しました。

また、少し視野や世界が広がったような気もしました。

 

親たちが危惧していたように、ハンディーキャップがある子がいっしょにいると、いっしょになって遊んだり怠けたりしたがるようなことはありませんでした。

先生のわたしたちに対する信頼感や期待にきちんと応えていこうとする気持ちがありましたから。

むしろ、わたしたち子どもにはそんな心など存在しなくて、人が見ていないところでは、まるでしつけのなっていない犬のように振舞うだろうと疑っている親たちに対して、ちょっと幻滅していました。

「じゃあ、わたしたちが国語の教科書で習っているものは何なんだろう?

わたしたちは、幼稚園のころ読んだ『ひとりでおるすばん』なんて絵本よりずっと複雑な心を扱った物語を習っているというのに……」

 

わたしは息子に、そんな子ども時代の体験と心で感じたことを話した後で、こんなエピソードも聞かせました。

「雑誌でこんな話を目にしたのよ。親の事情で病院での診断は受けていないものの、自閉症と読み障がいが重なっていると思われる子がいて、

養護教員が1年生のときから、教科書にふりがなをふる対応を続けていたそうなの。

それで、その子は4年生まで続けていたその対応のおかげで、何とか戸惑うことなく学校生活を続けていたんだって。

でも、それまで他の保護者から、どうしてその子だけ、ふりがなをふってもらえるのか? という苦情が届いていたらしくて、悪い対応例なんだけど、

特別支援教育コーディネーターの判断で、医療診断がないから特別な支援の打ち切り……ということになったらしいのよ。

診断がない子同士、不公平があっちゃいけないとかなんとか。

どんな平等感かって驚いてしまうんだけど。

 

同じ紙面に、生徒の学び合いを大事にしていた教師が授業中に解けた生徒が解けない生徒にわかりやすく教え合うという授業をしたところ、

他クラスより学習進度が遅れたそうで、親たちから、わからない子どもは放っておいて、授業を進めてほしい、と言われて辞職した話も載っていて、

勉強って、個別に他人より先に進むことなのか、子ども時代に学ぶことって、それだけなのかって、自分の子ども時代の親たちに

してもやっぱり心が狭かったな~と思いだして悲しくなったわ」

 

息子 「ぼくが小学生の頃、学校の先生たちは、勉強をさせたり、規則を守らせたりするために、年がら年中、損得勘定を刺激するようなことばかり口にしていてさ。

勉強しないければ……規則を守らなければ……将来、どんなに悪いことが起こり、他人から迫害されるような人生を歩むのか、繰り返し洗脳するように言い続けていたわけだけどさ。

そうして強迫概念を刷り込まれて成長していけば、そういう考えをする大人になるだろうし、そういう考え方をする大人に囲まれていれば、

勉強ができない人や規則を守れない人は迫害したっていい、切り捨てていけばいいと思うようになるよ。

でも、子どもって学校で習得する学習過程をこなしていく存在ってだけじゃなく、人間の活動全てに関わる無限の存在でもあるんだよね。

ひとことで子どもといったって、人間としての全ての要素を持っているんだから。

どんなに小さくたって、死ぬ苦しみも、生きるってことも、何が良くて何が悪いかと道徳的に判断していくことも、音楽も映画も、お金に関わることも、人とのつながりも、環境とのかかわりにしても……

そのどれもひとりの子どもに含まれているからね」

 

息子と話しこむうちに、息子自身はどのような学校教育を受けたいと感じてきたのか、どのようであればいいと考えているのか知りたくなって、それについてたずねました。

 

息子 「一度、勉強を損得勘定とつないでしまうと、そこから勉強自体の面白さ……つまりパズルを解くような学ぶ楽しさに気づいていくのは難しいもんだよ。

大人は、勉強しないと将来、こんな困ったことになる、こんな損をするといった損得勘定を刺激するような安易な動機付けをして、生徒たちを机に向かわせようとするけれど……

ぼくが学校で出会った先生たちのほとんどが、口を開けばそうした脅し文句を繰り返していたけれどさ。

 

現実に社会を見渡せば、頭がよくなることがそのまま幸福な人生を保障してくれるわけじゃないことくらい小学生にも見えているんだよ。

実際、かしこくなればなるほど厭世的な思いにとらわれて、無気力になっている人は多いよ。偉人の伝記を読んでも、ネットでの発言を見てもそれは顕著。

人と関わるのが億劫になったり、ささやかな善意を素直に喜べなかったり、日々の営みをつまらなくてくだらないことのように感じて、より単純なもので楽しめなくなっているんだ。

だからって頭がよくならない方がいいってわけじゃないけど、教える側や教育する側に、脅し文句に変わるもっと確かな教育のための哲学が必要だってことじゃないかな?」

 

母 「それなら、実際の教育現場はどのようになればいいと思うの?

現実に足りないものや改善点は何だと思うの?」

 

息子 「小学生って、足し算習って、かけ算習って……と、次々、新しい知識を教えられていくけれど、後から振り返ると、そうして6年間に何がどこまでできるようになったかなんて進歩よりも、

本当は習う内容なんてどうでもよくて、それを通して自分なりの勉強のやり方をきちんと身につけることができたかってことが、その後の出来不出来を決めていくと思うんだよ。

ぼくは小学校であれほど漢字を大量に書かされてもいっこうに覚えることができなかったのに、ある時から漢字を覚えるのが簡単になったときに気づいたんだけど。

たとえ100回書いて苦しい訓練を積んだところで無駄な努力は無駄なままで、それよりも1個の漢字を、ああ、こうしたら覚えられる、こうやってできるようになるんだってことを、

1回のプロセスの成功から身体で学ぶことが必要だとわかったんだ。

1個覚えるときに、どういう手順で、どういうプロセスで覚えたかわかったのかということを、あいまいなままにせず、きちんと自分で了解すれば、その後は急速に勉強が楽になる。

もし、教育の現場で、ひとつだけなおしたらいいことを挙げるとすれば、自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報を増やすってことかな。

教える側も、子ども自身も。

たとえば、足し算、引き算を大量に計算カードで練習している子たちは、足し算ってどういう意味なのか、引き算ってどんなことなのか、

どういうときに成り立って、どのような不思議さや不可解さが含まれているのか、足すことと引くことでどんな可能性が生まれてくるのかといった

「1+1」というひとつの数式に関する情報をほとんど与えられていないよね。

考える機会すらない。

そんなにも情報が少ないままに、大量に覚えていくことで、自分でそれをわかるってプロセスがつかめないままでいる子は多いと思うよ。

そこに、なぜ、という問いが入り込む余白がないから」


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 1

2016-10-28 15:20:45 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

まだ息子が受験生だったころ、親子の会話を記事にしたものです。
(会話は、メモに残していたものを、ほぼそのまま載せていますが、話が脱線して長くなったところなど、少しだけ修正した部分があります)

 

息子といっしょに近所のイタリア料理の店に行った日のことです。

息子は夏の間、苦手科目の足踏み状態が続いていたらしく、焦る様子はないものの本人なりに苦しんでいたようなのですが、9月に入って、清々しいほど明るい表情で受験勉強に向かうようになっていました。

お店に向かう道すがら、こんな話をしました。

 

息子 「このところ夏の不調がウソみたいに調子がいいよ。あっ、そうだ。忙しくて国語が手つかずになっていたんだけど、久しぶりに赤本に目を通してみたら、急にできるようになっていてさ。

それが勉強とは別の問題でも、お母さんとひとつのことを突き詰めるまで、さんざん議論したのが良かったみたいなんだ。

メタな視点から問題を捉えて、どのように答えをまとめたらいのか見えるようになった。」

 

母 「そうそう、議論って本当にいいわよね。

今日もレッスンに来ていた年中さんたちと、『少し』とか『ちょっと』ってどれくらいのことなのかって議論をしていたんだけど、どの子も『たくさん』と捉える量は状況によって変わるから、

どれだけを全体量とするかや、誰の視点で『1の量』を捉えるかで、少しやちょっとが相対的に変化することがわかっていて、それを道具を使ってきちんと説明してくれたのよ。

議論をすることって、とっても楽しいし知的ないい刺激になると思うわ」

 

息子 「そうだね。議論は大事だ。夏の一時期、受験のプランの王道ってのに無理に自分を合わせようとして、やってもやっても確実に伸びている実感が湧かなくて悩んでいたんだけど……。

この数週間で自分なりの方法を確立したら、ようやく勉強が軌道に乗りだしたよ。

自分なりの方法って、自分自身の内面でする議論のようなものなんだけど、問題の数をこなすのではなくて、ひとつのことについて、とことんしゃべるように分析するんだよ。

たとえば、この間、解いていた東大の数学に問題にしても、解答に行きつくまでに100のプロセスを踏まなくてはならないとしても、

そのひとつひとつを分析すれば、要は小学校低学年で学ぶような足し算でさ、最終段階からひとつひとつ遡るとすると、とてつもなく簡単なんだ。

それじゃ、そんな簡単な問題を解くのに何が求められているのかというと、それを導き出す思考のプロセスを思いつく力でね。

それには多量の問題をこなすよりも、ひとつの問題について、最小単位まで条件を分けていきながら分析してみると身についてくるよ。

たとえば、英語の文章を見たときにも、これは不定詞を使っていて、こうとも読み取れるし、こうとも言えるし……と、いった具合に、少量であっても、

これ以上分けれないってところまで分析して見ていけば、どの問題も結局はほとんど同じような構造でできていてさ。

よく考えもせずに、多量に問題をこなすことに気を取られずに、いったんそこに立ち止まることをよしとする気持ちの余裕さえ持てたら、難しい問題なんてただの見せかけなんだよ。

そうはいっても、現実の受験勉強はたやすいことじゃないけどね。時間も努力も能力もまだまだ足りない。」

 

母 「私もひとつひとつの経験を大切にするようにすると、そのひとつはどの物事にもつながっていくのを日々、実感している。

たとえそれがごっこ遊びでも、工作でも、ひとつの体験に深く自分自身を投じたら、そこから得るものは、何冊分ものワークに勝るわよね」

 

息子 「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃという焦りを手放して、好きな数学に時間をかけてみたら、数学の勉強が他の教科の学習を急に簡単にしてくれるんだ。

最近、思うんだけど、数学って答えを出すものじゃなくて、ややこしく絡み合って見えにくくなって前面しか見えなかったものの背景からそのものを浮き立たせたり、シンプルにして見えやすくするものだなって。

数学は虫眼鏡のような道具にもたとえられるよ。

数学を解くというパズルのような対象ではなく、虫眼鏡のような物事を見えやすくする道具として利用するとさ、どの教科の勉強も急に扱いやすくなるんだ。

この頃、これは図やグラフにできそうもないというようなものも、嘘や適当なものでもいいからとにかく図やグラフや相関図なんかにしてみるようにしているんだ。

すると、これは解決しようもない、これは理解できないというややこしさを持ったものも、数学の言葉を使えば驚くほど簡単に説明できてしまうんだ。

そうなると勉強の敵は、そうした図やグラフにするような時間を無駄な時間として許せないような強迫観念でしかないよ。自由にひとつのことをじっくり考える時間があれば、難しいと感じていたことも一気に易しくなって、突破することはできるんだよ。

数学は勉強すればするほどいろんなことが見えてきて、本当に面白いよ。」

 

我が家の性格タイプを大きくふたつに分けると、主人と娘は似たところがずいぶんあって、私と息子は物を考えるときのプロセスや好きなものとの関わり方など共通点がたくさんあります。

主人も娘の社会に適応するのが上手で、多数派と楽しく、一方できちんと自己主張しながら渡り合えるタイプで、私と息子は人づきあいは苦手じゃないけど、たいがいが少数派に属していて、マイペースで何でも自己流にするのが好きなタイプです。

主人も娘も目的や目標が決まると、その達成に向けて、情報を集めて、それを見比べて、テキパキと選択していって、そこで浮上した問題点について話し合い、即座に判断して解決するやいなや、実行に移すためにさっさとその場を立ち去る……という忙しい方々。

その素早い動きに噛み合ったためしがない私と息子は、どう転んでも大差がないような話題で延々と議論しあって、行き着く答えが、息子の言葉を借りると、

「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」なんて、スパッと決断したい人々からすると『ふりだし』に戻ったような結論。

そんな不毛とも見える議論も、現代国語の成績アップにつながったというのなら、あながち無駄ではないのでしょう。

 

息子とわたしはユングのタイプ論で分類するなら、おそらく「内向的直観型」と思われますが、私はどちらかというと思考を使うよりも、感情で捉えたことを実践の場で使うのが得意なので、内向的直観型の感情寄りなんじゃないかと思っています。

 

息子は物事を直観で捉えると同時に、それらを思考で分析して、それを苦もなく言葉で言い表すことができるので、おそらく内向的直観型の思考寄りの子ではないかと思っています。

息子が、「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」と感じるようになったのは、受験で地理の勉強を進めるうちに、強くそう思うようになったのだとか。

 

息子 「地理を勉強しているとね、ルワンダとかナイジェリアとか……戦争が絶えず起こっている理由に、正しいか正しくないかひとつの答えを正しいものとして決定してしまうこと、

つまりAの民族には得になるけれど、Bの民族には損することが確定するような政策を正解として置いてしまうことにあると思うんだ。

正しさはある物差しを使えば確実に思えるものも、視点や立ち位置が変われば、その正誤のほどがあいまいになるものだよ。

お母さんもそうだろうけど、たとえば、UFOについての大発見があったとして、その情報の正しさに納得ができたとしても、それに対しての自分の考えはあいまいにしておきたい、

もう少し不安定がグラグラした部分で経過を眺めていきたいと思うんじゃないかな。

これはこうと決めつけずに、傍観者の立場でいたいときがあるんだよ。」

 

母 「それ、お母さんの仕事で今まさに感じていることよ。

お母さんは教育や子育てや療育の世界が、個体能力を伸ばそうとする発達促進の考え方傾き過ぎているために多くの問題が生じていると思っている側の人間よ。

関わりをキーワードにして、根本的な大人の子どもに対する構えや眼差しの見直しが必要だと思っている。

でも同時に固体の発達促進や子どもの社会に出てからの幸福のために、真剣に悩みつつ仕事をしてこられた方々の考え方を尊敬しているし、

私自身が子どもと1対1で接するときには、その潜在的な能力が最大限に開花することを願ってもいるの。

そんなお母さんの態度は、どちらを支持する方にとっても優柔不断で反対派と融合しすぎているように映るでしょうけど、お母さんの中にはひとつの物事に対する自分なりの態度があって、

いつも相反するふたつのものを微妙な加減で調整をしているの。可逆性ってわかる?」

 

息子 「うん、だいたい。矢印で言うと、こうでこう?」と息子は手で矢印を行き来させました。

 

母親 「お母さんは数学や物理の世界で、可逆性という言葉を捉えているわけじゃなくて、メルロ・ポンティーの本で可逆性とか両義性って言葉に触れて、想像を膨らませてその世界にひたっているとき、

あくまでも雰囲気で考えているんだけど、物事のどちらかひとつに賛成して、それと同時に別の立場を全否定してしまうってどうなのかなって思えてくるのよ。

現実はそんなに簡単に線引きできることばかりじゃないから」

 

次回に続きます。


ボードゲーム喫茶

2016-04-01 19:03:53 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

中学入試を終えた子たちに誘われて

爬虫類カフェとボードゲーム喫茶に行ってきました(親御さんたちもご一緒しました)。

写真は、ボードゲーム喫茶の様子です。

3時半から7時まで、カードゲームやボードゲームをし続けて、

わたしはヘトヘト……。子どもたちは、まだまだ遊び足りなかったようで、

「もっと!」と騒いでいました。

 

ボードゲーム喫茶の店長さんに、ゆうもあゲーム会について教えていただきました。

幼い子たちも参加できるボードゲームやカードゲームの会です。

興味のある方はホームページをのぞいてみてくださいね。

 


忍者修業 〜大阪城お出かけ〜

2015-11-05 12:28:59 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

大阪城内めぐり中、刻印石広場で忍者修業。

術は、『乱太郎の忍者の世界(尼子騒兵衛/文・絵)』を参考にしました。

乱太郎……とありますが、内容はきちんとしたものです。

 

『かたたがえ退き』

曲がり角を曲がったとたん、その場で壁にはりついて、

追手をやりすごす。敵が行きすぎたら、元の方向へ逃げる。

 年長のAくんが、『かたたがえのき』を実践中。

敵は曲がって行ってしまわずに、かくれんぼの流れになってしまうことが難点。

 

『隠れみのの術』

荷物などの中に隠れて敵方へ潜入したり、逃れたり

する方法。

2歳のBくんとと小4のCちゃんでで仲良く『隠れものの術』で荷物に

化けています。が、近くを通ると、Bくんの声が……。

 

Bくん、橋にタッチ。

 

『逢犬の術』

敵の家に忍び込む際、犬がいたら、ほえられないように

逢犬の術で対処。 

★ エサをやって手なずける。

★ 毒エサ。

★ 合う犬の術(メス犬にはオス犬。オス犬にはメス犬をつれていって

気をそらせる。

2歳のBくんとと小4のCちゃんペアで

『逢犬の術』の犬役に名乗りをあげてくれたのですが、

ただお菓子をもらって食べるだけで終わってしまいました。

いまいちわかりにくい術……?


 『観音隠れ』

敵に背を向け、壁などにピッタリはりついて

動かず、耳で敵の気配を感じる隠れ方。

闇夜にはあう術ですが、昼日中に観音隠れをしているAくんは、

バレバレでした。


『ウズラ隠れ』

草むらなどにうずくまり、石のように動かず、敵をやりすごします。

繁みに潜るのはとても面白かった様子。

でも、お尻に泥がついた子も……。

 

『キツネ走り』

つま先だけで一直線に走る、キツネのような走り方。

キツネは肩はばふが狭いので、足あとが一直線になるそうです。

この走り方で後から来る人が前の人の脚あとをたどると、

敵はこちらに何人いるかわかりません。

 

『タヌキ退き』

逃げるとき、敵か背後にせまったら

急にその場でうずくまり、勢いのついている敵が

ぶつかって倒れたすきに、逆方向に逃げます。


移動中、2歳のEくんが突然うずくまったため、後ろから来た

年中のお兄ちゃんFくんが転びそうになりました。

「あっ、タヌキ退き!」の声があがりました。

 

↑歴史博物館の考古学研究所のカメラをのぞくと、発掘中の穴に

お風呂にでも入るように収まっているEくんの姿が!!

 

『合いことば』

合言葉はたくさんあって、一日に何度も変えることが

あったそうです。

月ー日 山ー森 谷ー水 山ー波 花ー実 など。

刻印石広場の石の陰に隠れて、合言葉を言い合って

遊びました。合言葉が違って敵だとわかった瞬間、大爆笑。

ただの覚え忘れかもしれませんが。

 

 

『忍びのいろは』

2つの漢字を組み合わせた◆を、いろは48文字にあてはめた暗号。

秘密の手紙を書いたといわれているそうです。

 小2のGちゃんから小2のHちゃんへ忍びの手紙。

解読したい方は、忍びのいろはを参照してください。

 

1569年、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスにより信長に献上された

コンペイトウを忠実に復元したお菓子。

Iくんのお母さんからいただいたので、大阪城内でみんなで食べました。


小学5年生のギフテッドくん とレッスン内容についての息子との会話 2

2015-06-08 21:51:59 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

わたし 「『お仕事してみない?』って依頼する学習場面を作るの面白いわよね。

やる気が湧いてくる。

お母さんのしている教室でも、いつも子どもが自分で自発的に学びたくなるような

場面を作ったり、自分で能動的に関わっているんだって実感が持続したりするよう

気をつけているもの。ただ勉強をやらせて、できるようにするだけでは、

本当にその子のものとなる力がつくわけではないから。」

 

息子 「そうだね。お母さんの教室は、やらされている感、ないない。

教師と生徒って関係で成り立ってるんじゃなくて、子どもが勉強内容そのものに

興味を持って、自分からやりたいって感じるように工夫しているよね。」

 

わたし 「子どもによっては、教師と生徒、指示を出す側、出される側という枠組みを

はっきりさせておかないとダメな子もいるんだけどね。

枠や縛りがないと、自分がやっていくことを方向づけられない子がいるから。

ただその関係が固定しないよう注意してる。

力がついてきたら、学習の主導権を少しずつ本人に移すようにしているわ。

 

話が急に変わるんだけど……料理なら、盛り付け方とか見た感じの新鮮さとかが、

食欲と結びついていることは、周知の事実よね。

料理人なら、食欲をそそるために、食感や香りや素材の質感なんかにも気を配るはず。

でも、日本だと、学習となったとたん、

意欲をそそるために五感に訴えるという発想がない気がするもの。

まるで、まるで駅の『立ち食いうどん』の店並みに。

 

Aくんのやる気を保つための設定を、

B(息子)は立体的に……多角的にと言った方がいいのかな……考えてると思うわ。

本来、もっとそういうふうに本人の精神的な充足感を満たすことや

学習内容そのものへの興味が深まることを意識した学習場面が考えられても

いいはずなのに、

世間では、テストの点や偏差値を管理したり、優越感や劣等感や競争心を刺激したり

すること以外、学習のモチベーションを維持するための手段を考えていないように

見えるのよね。

サピックスの教材とか宮川算数教室の教材の質の良さとかを思うと、

そうとばかりも言えないけど、何だか……ね。

 

さっき、学習意欲をそそるために五感に訴える発想がないって言ったんだけど、

ヨーロッパの知育玩具や頭脳パズルは、

形や素材が思わず触れながら考えたくなるようにできていたり、

幾何学的な美しさや身近に潜む神秘に心が開かれるようにデザインされていたり

するでしょ。

そうしたものと日本で出回っているそれらの違いって、

材料費にいくらかけているかってことだけではない気がするの。

 

お母さん自身が、子どもたちの学習がいいものになるよう探究しているのは、

物のデザインではなく、それぞれの子の個性が持っている知的なものへの志向性や

芸術的なセンスに気づいて、環境を整えることなんだけど、

個性に興味があるから、個性が求めるものや引き寄せられるものに関心があるのよ」

 

息子「まず教育ありきで、何かできるようにさせるための小道具として

教具を作るのと、芸術が出発点にあって、教育の世界での可能性を探っていくのだと

ずいぶん違うのかな。

現場で使われているのかわからないけど、日本でも五感と学習意欲についての研究は

されているみたいで、前にいろいろ調べたことがあるよ。

どれも悪くはなかったけど、それを本当に教育に役立てるとなると、

その場しのぎの『つけやきば』の印象が否めなかったよ。

ここを赤い色にした場合と青い色にした場合では、

どちらがやる気の持続するのにつながるか……みたいな研究で、

どちらの方が意欲を持続させることができたかを調べるのは、

それなりに意味があるんだろうけど。

でも、芸術品は、研究結果の良いものの足しあわせじゃなくって、

それ自体が人を引きつけるし、それ自体が全体として価値がある。

芸術が出発点にある知育玩具や頭脳パズルは、人の心に与える影響って面では、

長い時間と試行錯誤を経て洗練されているってこと。」

 

わたし 「わかる、わかる。またまた話がちょっと飛ぶんだけど……。

このところ幼児や低学年のレッスンで、思考力が必要な算数パズルをブロックで解か

せているんだけどね。それがとっても面白いの。

サイズや色や手で操作する時の心地よさや場の雰囲気のせいで、

『もっとやりたい』『今度はわたしに(ぼくに)解かせて!』と

必死で懇願する子らが多いの。

算数パズルは子どもたちがそれまで体験したことがないような新しい考え方を

提供してくれる良問でね。

『□に入るのはAかもしれないしBかもしれない。他の条件を調べて、

AなのかBなのかを確定する』とか『最終段階から遡って予想していく』とか。

 

子どもたちが、ブロックを使って解く時に『もっと解きたい』って言うのは、

単にブロックでやった方が楽しく解けるからじゃないの。

ブロックに触れていると、「Aかもしれない、Bかもしれない」とか

「答えから遡る」といった思考方法に自然に行き着くから、

ペーパー上であてずっぽうで答えを書きこんだり、

教わりながらパズルを解いたりするのと違って、

『自分で解法を発見したからしっかりわかるし応用もきく。だから、もっと解きたい』

ってことになるのよ。

 

問題は同じでも、何を使って解くかで、自由がきく部分が違ってくるでしょ。

思考したり推理したりすることに集中しやすい場面設定や

新しい思考方法を探り当てたり条件を正確に把握したりするのに適した場面設定が

あるって感じているの。」

 

息子 「そういう設定、本当に重要だよね。

Aくんの場合は、どんなことが大事なのかな。Aくんは興味にまかせて、

どんどん新しいことや難しいことを学びたいと思っているよね。

すると、どうしても土台に危うい部分が残っていくだろうけど、

だからって、『どんどん先に進まずに、理解を定着させること』は

無理強いしない方がいいと思う。

難しいことも簡単なことも、自分の限界にあるものも基礎も両方大事にしていく

必要があるよ。

 

Aくんの求める難しい知識はAくんのやる気につながるだけじゃなくて、

基礎的な学習がどんなことに役立つのか未来への見通しをつけてくれる点で

重要だろうから。

簡単なことを軽く捉えて、難しいことばかり追いかけていると、

どこかで積み上げたものがすべてが崩れてしまうかもしれないから、

Aくんが簡単なことにも難しいことにも、同じように強い興味を抱いて関わって

いけるような状況を作っていきたいと思っているんだ」

 

 

レッスン後、Aくんのお母さんからこんなコメントをいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Aの親です。
先日は、たいへん有意義な時間を過ごさせて頂きありがとうございます!
こちらで示されている通り、Aは興奮さめやらぬ感じで、家に帰ってからもその日の出来事をだーーっと書き綴り、息子さんへの感謝のお手紙も添えておりました。その中には繰り返し「嬉しさのあまり記憶がなくなってしまういそうだった」「嬉しさで言葉が止まってしまった」とありました(笑)普段はそこまでのことは滅多に書かないのですが余程だったのかと思います。外出後も、満足度の採点をいつも本人に問うのですが、今まで一度も無かった「100点」を叩き出したので私もびっくりしました。いつも「今回はさぞかし良いだろう!?」と思っても本人の返答は「70点」とかなんですよー。メンタル面の充足がいかに大事かを思い知らされました。

息子さんとAの学習プランを立てて下さいまして、討論のお話まで綴っていただいて光栄です。親としても大変参考になります。
息子さんの感性は数学に弱い私よりもずいぶんAに近いでしょうし、同性で年齢が近いということもありますし、何よりお母さま譲りの人間観察力と洞察力、後につづくものへの優しいまなざしを感じることができましたので私としましては、息子さんにぽんと預ける形で問題ないと思っております。
むしろ息子さんの独自の感性と視点でどういう風に導いて行ってくださるのかも、私が非常に興味があります。
例えば「がっちり固めると、子どもの頃に持っている自由な発想ができなくなるかもしれないからね。」という
視点は、こちらには無かったものですから、とても新鮮に感じられました。

と同時に、奈緒美先生が感じられた(もう少し幅を広げたり他のものへ目を向けてもよいのではないか)という点も、普段自宅での私とのセッション&今夕、本人に確認したところによるとそちらも正解のようです。
息子に「毎日新しい数学の世界をどんどん広げて行っているけれど、それってストレス?」「中断して別のところから進めたり、毎日単元があっちこっちに飛ぶけれど大丈夫?」と聞きましたところ「全っ然大丈夫。数学ならなんでも楽しい」と答えておりました。
数学に関しては精神もかなり強靭で、妨害しても妨害しても(もちろんしませんが)つぶされることなく夜中に懐中電灯つけて布団の中で勉強するタイプ。
そこらへんは、奈緒美先生の直感やご経験で見通されていたのかな、と思います。

とはいえ、もう一度戻りますが、息子さんとAとが直に接しての感想ですが、息子さんは私や奈緒美先生の思うところを越えた次元で考えてらっしゃる可能性がありますから、やっぱり興味深いですね。