ブログの過去記事にいただいたコメント
の記事にコメントをいただいて、こちらも残しておきたくて記事にしてアップしておくことにしました。
↑年中のAくんといっしょに作ったジオラマ。
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>「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。」
という息子さんのことばは、現在のEUイギリス離脱やら、アメリカでのトランプ旋風のことを思うと、切実に響いてきますね。(トランプはとうとう大統領になっちゃいましたね。)
わたしもスタインベックの小説は好きですが、ここで引用されているスタインベックの言葉をわたしなりに翻訳すると、「120%自分を生きている誰かが、自分はこう思うと意見をいったとして、それが100人いたら100通りの意見が出るはずだ。」ということではないかとおもいます。
たいした議論をすることもなく多数派でまとまるということがそもそも嘘くさいことであって、多数がまとまっているように見えるのは、実は不安を刺激されて煽動されていたり、商業主義に誘導されていたり、よく考えていなかったりの結果なんじゃないかとおもうのです。
コメント主さんの文章はとても興味深いです。
「魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い」「奥行きを感じる体験」「創造性」これらのことがつながっている感覚はすごくよくわかります。
わたしが自分で感じていることばで表現してみます。
自分の奥に魂の場所があって、そこと仲良くするためには、孤独が必要である。
魂と仲良くなって、自分の奥をどんどん発掘していくと、そこに独自の世界や、新しいアイディアに出会える可能性(創造性)があらわれてくる。それを表現した時、同じように自分の奥を掘っている人たちと、火花がスパークするように、触発しあえることがある。
近回りの人々が関係する日々の生活、生きていくために必要な細々としたことは、生きる上でなくてはならないものである一方、それだけでは「何も考えずに周りに合わせる」など、集団心理の犠牲になったり、近視眼的で間違った判断につながりやすい危険がある。
その2つの視点を合わせ持つ感覚は、確かに奥行きがある感じともいえるし、立体感覚ともいえるかもしれない。
といった感じになるでしょうか。
自分の奥、魂との対話をしないということは、生きる上でしっかりした軸を持たずに生きていくということで、その方が楽なように見えて、実は周りの環境任せのとても不安定な生き方をするということかなとおもいます。
不安定な自分を受け入れて見つめるということができれば、自分の奥との対話が進んでいきますが、不安定な自分を見たくないために、多数派というもの、力強そうなものに頼りたくなる、というのが今のトランプを応援する人たちの気持ちなのかもと想像してみます。
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「誰の力も借りず、独りで堂々と闘う…孤独は真の自由へ導く味方」
こちらの記事4の方にある、カニグズバーグやアインシュタインが「孤独」について語っている文章を興味深く読みました。集団と個について考えさせられました。
私のところに古い新聞の切り抜き記事があったので紹介させて下さい。
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■君たちに伝えたいこと (作家 丸山健二)
※2000年8月 朝日新聞より抜粋
ときとして人が激しい孤独感に苛まれるのは、自身の魂を相手にする時間がいかに大切であるかという何よりの証なのです。
人はあまりにも社会的な生き物でありすぎるがために、集団のなかへ埋没することで安らぎを得るという習性を持っています。
そのせいで独りの立場に追いやられそうになったという予感だけでうろたえます。
そして、まだ何ひとつとして失ってはいないというのに、それどころかありとあらゆる可能性を秘めているというのに、この世は生きるに値しないというせっかちな答えを出す始末です。
どのようにして孤独感に対処すればいいのか。逃げるに逃げられないこの重苦しい問題と真剣に取り組むこそが青春の大半を占める意義であり、ひいては人生の明暗を分ける重大な鍵なのです。
残念なことに多くの人々がこの罠に掛かり、自己の何たるかも、自由の何たるかも知らずじまいのまま、本当は数倍も充実させられたかもしれないたった一度の人生を自ら台無しにして終えてゆくのです。
孤独の奇襲を受けた際、あなたが選ぶ最良の方法は、誰の力も借りず、虚構の世界へも逃げ込まずに、独りで堂々と闘うことです。まずはそれをはったと睨みつけ、次にどんと受けとめることです。ぐっと歯を食いしばって、底無しの虚しさと自力で対決するのです。
この世を生きる意味にしても曖昧です。
ところが、意味があるともないとも言えない点に重大な意味が隠されているのです。
もしこの世にはっきりとした意味やもくてがあらかじめ用意されていたならば、あなたはその意味や目的の奴隷として不自由な生涯を送らなければならないでしょう。
無味乾燥な状態でこの世が存在するのは、あなたの意思の力によってあなた自身を存分に活躍させることが可能な大いなる舞台として用意されているからです。
この世に意味があるかどうかは、あなたが孤独という負荷を逆手にとって精神を鍛えるかどうかにかかっています。
孤独は、どこまでも自分を信頼して生きてみせるという毅然とした心組みで接すれば大した敵ではありません。
敵どころか、実はあなたを真の自由へと導いてくれる唯一の味方であることがわかるでしょう。
真の自由は、独自の判断で、必要に応じて必要な行動を取ることができる、一個の独立した人間にしか根付きません。
孤独の波状攻撃を受けてへばっているあなたが求めてやまない優しさというのは、もしかすると他者から施される優しさのことではないでしょうか。
自分から与える優しさのことを考えたことが一度でもあるのでしょうか。
孤独の試練を積極的にくぐり抜けた者は、むやみに優しさを乞うような真似はしません。
また、優しさに群がってくる者たちをもっと駄目な人間にしてしまうようなこともしません。
そして孤独から逃げつづけ、あるいは、孤独を偏愛することしかできない者たちと比較すると、はるかに生き生きとしています。
それは、長年の孤軍奮闘の結果、遂にこの世を生きる意味と目的と価値を独自に見出しつつあり、情熱を持ってそこへ邁進しているからです。
他人を食い物にして生きようとする連中の魂胆を見抜く眼力を持ち、同時に、尊敬に値する人間が現れた場合には素直に認める広い心を併せ持っているからです。
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