虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

小学5年生のギフテッドくん とレッスン内容についての息子との会話 1

2015-06-07 21:42:46 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

小学5年生のAくんは統計学に夢中のギフテッドくんです。

お母さんとお家でする学習だけで高校数学までマスターしたそうで、

Aくんの進度が速いので、

お母さんが教えられる限界を超えてしまったというお話でした。

そこで時々息子が、Aくんの学習のお手伝いをすることになりました。

 

Aくんは進数に強い関心があるようで、

エクセルについている電卓ソフトで10進数を2進数に変換させたり、

16進数に変換させたりすることが楽しくてたまらないようでした。

 

16進数では、

普段使われている10進数での

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10が、

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9A.B.C.D.E.F.10という数や英文字に対応しています。

 

そこでランダムに数字を打って、16進数に変換させた時に

うまくいくと 「CEDCFA」のように全部英語になっちゃうことがあります。

それが「暗号みたい!」とうれしくてたまらない様子のAくん。

エクセルのセルの中にそれぞれ適当な数を入れていって、

2進数に変換した瞬間、全てのセル内がものすごい勢いで変化しはじめて

0と1だけに埋め尽くされていくのが面白くてたまらないようでした。

Aくんから「(今読んでいる統計学の本に出てくる)正規分布の意味がよくわから

ないので教えてほしい」とお願いされていたので、

パソコン画面を0と1で埋め尽くしたところだったので、

「まず(それと関連がある)二項分布って知っている?」という話から説明して

いました。Aくんは、「そうか!わかった、わかった!」と興奮した様子で

相槌を打っていました。

 

Aくんの学習や知的な探究心を満たす活動のフォローを頼まれていた息子は、

アルゴカードやつま楊枝を使ってアルゴリズムを体感しながら学んだり、

電子工作でAくんの関心を視覚化できるようにしたりできるよう準備していました。

でも実際のレッスンでは、自分が準備していたものにはいっさい触れず、

2時間のレッスン中ずっとふたりでパソコン画面を覗きこんでいて、

Aくんが目を輝かせて興奮した様子で説明したり統計学の本を読んで

わからなかった部分について質問するのに対応していました。

 

Aくんのお母さんは、「試しに受講してみたプログラミングの講習や他の習い事では

10分もすると飽きてつまらなそうにしているのに、2時間の間、一度も集中を

とぎらせることなく、目をキラキラさせて夢中になって取り組んでいる」と喜んで

くださっていたし、Aくん自身も誰の目からもわかるほど心底満足した様子で

帰って行ったのですが、見学していたわたしは、

「学んでいる内容はとてもいいようだけど、Aくんのペースに合わせすぎているの

ではないかな?途中でもう少し別の活動に切りかえた方がいいんじゃないかな?」と

感じていました。

 

そこで、Aくんの学習をこれからどのようにサポートしていく心づもりなのか、

息子の考えを聞くことにしました。

 

わたし 「Aくんの学習をどうやってフォローしていくのか方向性はつかめたの?」

息子 「Aくんは高い能力を持っている子だし、何よりの強みは数学が好きでたまら

ないってことや学んでいることに強い関心を持っているってことだよ。

それをこちらが壊さないことや誰かに壊されないように気をつけてあげることが

一番大事なのかと思ってさ。

 

Aくんが興味を抱いている分野について、

もっと系統立てた理解ができるように説明したり、本人は直観的に理解しているけど

正確な言葉を知らないため他の人に説明したら誤解を受けるような言い方になっている

ところを細かく修正していったりすると、

Aくんの学習範囲はもっと広がるはずだけど、今はやめておいたんだ。

そうしてがっちり固めると、子どもの頃に持っている自由な発想ができなくなるかも

しれないからね。

Aくん自身が難しい言葉を積極的に使っていこうという意思を持っているから、

焦らなくても大丈夫だと思うよ。」

 

わたし 「そうだったのね。

Aくんは、レッスンが終了してもまだ話し足りないみたいにうれしそうに大興奮して

いたけど、せっかく電子工作や手で操作してアルゴリズムの世界を体感できるものも

準備していたんだから、途中で他の活動に切り替えてもよかったんじゃないの?」

 

息子 「Aくんはひとつのことに捉われると、夢中になりすぎて、

他のことを考える余裕がなくなっちゃうみたいだったんで、途中で別の思考に

切り替えさせようとすると混乱したり飽きたりするんじゃないかと思ったんだ。

本人が熱中していることの延長線上で、内容を発展させたり、

本人があいまいに捉えている部分を言語化して整理していったりすべきだって。

Aくんはきっと教えられ過ぎたら萎えるタイプなんじゃないかな。」

 

そう言ってから息子は『いかにして問題をとくか』を持ってきて、

「Aくんくらいの子に教える時に、この本にある教え方の手引きが

役立つんだろうなぁと思ったよ」と言いました。

 

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教師の大切な仕事は学生を助けるということである。

この仕事は余りやさしいことではなく、それには時間と労力が必要であり、

熱意と健全な指導原理が必要である。

学生はできるだけ自分自身で問題を解く練習をしなくてはならない。

しかしもしここで彼が充分助けてもらわないですてておかれるならば

学生は何も得るところがないであろうし、教師は手を貸さなければならないが、

それは多すぎてもすくな過ぎてもならない。(省略)

そのために教師は目立たぬようにそっと助けてやらなければならない。

いちばんよいのは極めて自然な助けを与えることである。

教師は学生の立場に身をおいて、学生がどのような立場におかれているのかを

よく調べ、学生の心の中に起こっていることを理解しようとしなければならない。

そうして質問したり、学生の心に起こりうる思考の段階を示してやることが望ましい」  

                『いかにして問題をとくか』(G.ボリア 丸善出版)P5 

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息子 「ぼくの友だちにも、高い能力を持っていてそれを持てあましているような

子がいるけど、教師と生徒というシチュエーションで、

『きみのためになるから、これを教えてあげよう』というアプローチをされると、

できることでも気が乗らないのに、

『こんなことに困っているからやってくれないかな?』と依頼されると

高いパフォーマンスを発揮することができるんだ。

ぼくにしても、そんなに高い能力を持っているわけじゃないけど、そういう面があって、

『きみに役立つから……』『きみのためになるからこれをしたらどうか?』と言われると、

自分のことは自分で決めたい、という気持ちが前に出てきて、積極的になれないけど、

『きみの力が必要なんだけど』という頼まれ方をすると、多少手間のかかることでも

やってみようかと思うよ。

Aくんにしても、そうしたプライドが強い面があるから、

きみの知らないことを教えてあげよう、間違いを直してあげよう、という

接し方ではなくて、『ここにエクセルで作ったすごいものを貼り付けたいんだけど、

作り方を教えるから、お仕事をやってみない?』という形で学習場面を提供したら

どうかと思うんだ。」

 

次回に続きます。

 


大阪駅の魅力 3つ

2015-01-31 19:05:45 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

先日、教室の子どもたちと大阪駅に行ってきました。

正確には、子どもたちが電車で帰るのに大阪駅まで付き合いました。

この後、私はいきなり高い熱が出て、インフルエンザにでも感染したのかと

心配したのですが、ただの風邪だった模様。

(もしこの日、風邪が移ってしまった子がいたらごめんなさい。)

今は全快しています。

 

大阪駅まで子どもたちを見送った理由は3つ。

ひとつは、「化石探し」を手伝うこと。

うにょうにょしたカエルの卵のように見えるおそらくサンゴの化石。

壁一面がこんな感じ。

子どもたちは、すっかり化石通になって、

「あっちにもビリビリがある」「こっちにぐにゃぐにゃがある」

「こっちに貝の四角いみたいな丸いみたいなのがある」と大騒ぎでした。

 

もうひとつの見どころは、電車のおでこ。電車の背中。

ちょうどめずらしい電車が到着したので、

みんなで「電車を上から見たらどんなだろう?」と覗きこんでいるところです。

残念ながら、シャッターチャンスを逃しました。

3つ目の魅力は、エレベーターのしくみが見えるガラス張りのエレベーター。

2階では、「エレベーターの頭の上を見よう!」と覗きこみ、

透明のエレベーターに乗って1階に下りてからは、

「エレベーターのお尻を見よう!」と言って下から見上げました。

子どもたちは非常ボタンを見つけて大喜びしていました。

 


ツタヤで再会した大工仕事を教えてもらった小学生

2015-01-28 21:38:18 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

(過去記事です)

昨日、ツタヤでCDを選んでいたら、いきなりトントンと背後から肩をたたかれて

振り向いたら、背の高い20歳くらいの男の子がニコニコしながら立っていました。

誰……??と一瞬、面食らって、誰だかわからずにポケッとして、

相手の目を見ていたら、「あ~!!!これは……!!」と思いあたりました。

数年前に、私が大工仕事を教えてもらった小学生……!

<小学生の子に大工仕事を教えてもらった話>の記事に書いた男の子。

この記事の下に出来事をコピペしておきますね。

ということはまだ、中学生か高校生……?

すごく大人びていて、背丈も見上げる感じで対面しているんですが、

笑顔は当時のまんま(いまだに友だちと思ってくれていたのか……?)。

あまりに突然でボケていたので「仕事は何をして……」と問いかけて、

いや、まだよね……学生よね」とひとりごとを言っている間に、

ニコニコしながらさわやか~に去っていきました。

「よその子はすぐ大きくなる」っていう話……よく聞くけどホントだわと

思った出来事でした。

 

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<小学生の子に大工仕事を教えてもらった話>

以前、近所の小学校でする子ども会主催の「たこ作り教室」のお手伝いに

行っていたことがあります。

そこで、おとなしすぎる小学生と活発過ぎる小学生(つまり両極に寄り過ぎて

一周回って似たタイプの子ら……)が小競り合いを始めました。

私は、けんかを妨害するように、二人の間に自分の「たこ」を広げて、

「たこ」にイラストを描き始めました。

その前の年は「火の鳥」を描いたんですが、その年は「だんじり」。

すると、それまでけんかをしていた活発な方の子が、

さらに私の近くに席を移して、だんじりの絵をなめるように見ていました。

そして、自分も「たこ」にだんじりの絵を描き始め、

だんじりについて熱心に語りだしました。

私が、一番興味を惹かれたのは、

その子が、自分で、大工道具を使って、だんじりを作った…という話でした。

実は、私は、何年来、大工仕事にあこがれていて、

今は廃材や紙で工作しているけれど、いつかは木材で子供用のままごとセットなど

作ってみたいと考えていました。

それで、その子に、材料の入手先や道具について、あれこれ質問しました。

すると、その子は、それは熱心に、

自分の作っただんじりを見に来るように……

それは、子どもが乗ったって大丈夫な作りなんだ…

今日にでも、ホームセンターと木材屋に連れて行ってあげるから、

「たこ作り教室」の後の予定は空いているか?とたずねます。

うーん、それは魅力的な誘いではあるけれど、

お母さんに聞いてみなくてはならないよ。勝手によその子をホームセンターに

連れて行くわけには…(連れて行ってもらうわけには……。)

といったんは、ていねいにお断りしたんですが、

帰りはしっかり我が家まで付いて来て熱心にすすめてくれます。

そこで、親御さんに連絡して、(「うちの子でお役に立てるんでしたら、

どーぞどーぞ」とのこと)さっそく二人で買い物に出かけました。

「ちょっとお金がかかるかもしれないよ。ドリルはまず必要だからね。

それと、サイズのちがう釘もいるし~。それとさ~、いらなくなったとき、

リサイクル料金400円かかるかもしれないけど、大丈夫?」としゃべり続けて、

男の子は、私の財布の中身をすごく気にしてくれてました。

そして、ただで木材を分けてくれる材木やさんに寄ったり、

途中で家を建築中の大工さんに声をかけて、木の廃材を分けてもらったり、

ホームセンターの特価品コーナでお買い得の板を集めてくれたんですよ。

私の場合、買い物だけで、疲れちゃったんですが、

「だめだめ、思い立ったときに、ある程度仕事を進めとかなきゃ。」と注意され、

さっそく「だんじり作り開始!!」それが、のこぎりやドリルの音が

思った以上に大きくて、騒音だ~!ご近所迷惑だ~!

と気が気じゃなかった私は、なんとかそれらしい形までこぎつけたときは、

涙が出そうでした。

その子は、小学生とは思えない仕事っぷりなんですが、

勉強はすごく苦手なんだそうです。そこで、大工仕事を教えてもらったお礼に、

製図に役立ちそうな算数を教えてあげるよ~と言ったんですが、断られました。

それで、帰りに本人が持っていないというサンダーをあげることにしました。

というのも、大工仕事を教わってみて、

「こんな都会の真ん中で、そんな作業できるわけない!」という現実を

しっかり勉強させてもらったからなんです。

それと、大工仕事の、大体の流れと、

購入場所もしっかり学習できました(かかった費用のもとは取れました)。

「サンダーはかなり音が出るけど、大丈夫?」

「いつも使っている電動のこぎりも、電動ドリルも同じくらいの音だから

大丈夫だよ。でも、ほんとのほんとに、サンダーもらって良いの???」

とその子は喜び勇んで帰って行きました。

その後、小学校の柵のそばで、数人の子と群れて遊んでいるその子を

見かけました。手を振ったら、「おっ!」と挨拶。

「だれ~?」と友達に聞かれると、

「ともだち~」と答えていました。

ともだち…ですか?



子育てで気をつけていたこと

2015-01-27 13:56:26 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 思い出話を書いた記事に、「先生のお母さんについて、そして妹さんとの関係に

ついてもう少し教えていただけませんか?」

というコメントをいただきました。よかったら、読んでくださいね。

(以前、この記事は子育てで気をつけていた3つのこと……という

タイトルだったのですが、3つめの内容がタイトルと少し合わないようだったので

別の機会に紹介することにしました。)

 

私のかなり手抜きでおっちょこちょいな子育ての中で、

大事にしていたことが2つあります。

子どもが大きくなるにつれて、その2つに注意していれば、子育てって、

あとは何とかつじつまがあってくるんだな~と感じることが多々ありました。



<1つめのことと長い前置き>

私はずいぶん幼いころから、表面的な出来事や人の言動の背後にある

目には見えない力関係やエネルギーの流れを敏感に意識していました。

無意識の世界のやりとりのようなものです。

それは、父と自分との間にある奇妙な力関係から気づいたことでもあるし、

妹と母との間で、日夜繰り返されるドラマを外から眺めるうちに

感じたことでもあります。

また団地暮らしという環境ゆえに敏感になったものでもあります。

私の父は、これまでもブログで何度か書いていますが、子煩悩だけれど、

粗暴でわがままで、母からすれば今でいうDV夫。

ギャンブル中毒で、周囲のだれからも恐れられていました。

スポーツや肉体労働で鍛えあげた巨体で、女子どもに暴力を振るうんですから、

ひと睨みされたら最後、誰も父に反抗できる人はいませんでした。

一方、私は喘息や鼻炎や起立性の低血圧やら貧血やらで、身体が弱く(そんな私も

当時は毎日外遊びをしていましたが)内向的で引っ込み思案な性格で、

とにかくひ弱な印象の子どもでした。

それにもかかわらず、私は父をちょっと小ばかにしていて、

「お父さんは私のことを怖れてる。私が怖いんだ」と感じていました。

DVの人というのは、暴力を振るっていないときは、

ベタベタと優しくする~って話をよく聞きますよね。

私の父も同じく、激怒していないときは、何か買ってくれようとしたり、

お小遣いをあげようと言ったり、子煩悩そのものの姿を見せたりしていました。

妹やいとこは、父に当時はまだめずらしいドーナツ屋さんやレストランに連れて

行ってもらったり、おもちゃを買ってもらったり、お小遣いをもらったりすると、

もう目の色が変わって、父の思うままになっていました。

父がお店の近くまで子どもたちを連れて行きながら、急に気が変わったからと

帰りはじめたりすると、半泣きになってすがって、父の機嫌を取っていました。

私は父がそうやって人の心をコントロールしようとするやり口を軽蔑していましたし、

もともと、外食にもおもちゃにもお金にも興味がなかったので、

そうしたドラマの中ではいつも部外者でした。

すると、父は今度は私に嫌がらせを言ったり、にらみつけたり、

げんこつでこづいたりするのですが、それに対してもお腹の中で、

そうした父の幼稚さをちょっと小ばかにしているもんですから、

怖がりもしませんでした。

そんな私を父がどこかで恐れている、怖がっているというのは、

妹や母には遠慮のない父が、私の前では途方にくれた小さな子どものようにも、

老いた老人のようにも見える弱々しい一面を時々見せていたからです。

私は、相手が自分の前に釣らすエサに無関心だというだけで、

それがかなり大きな力になりうることを感じ取りました。

また、表面的に言葉でかわされたり、目で見える出来事の後ろには、

いろんな力がうごめいていて、さまざまな見えない力関係が

成り立っているのだと思いました。

 

虹色教室にやんちゃですぐ口答えする子が来た場合も、

私はすぐさまその子たちが私を巻き込みたいと思っている『力のゲーム』を

行えない状態にするので、

わがままが癖になっている子ほど、素直に私の言葉に従いがちです。

「ぼく誰々君いじめてやったんだ!」とか「~しんじゃえ」「つまんない」とか

言う子に、ショックを受けたり、言葉でわからせようとしたり、悪い子と決め付ける

態度を取ったりすると、たちまち、その子の力争いのゲームに巻き込まれて、

過去にその子が周囲の人と演じてきた悪い関係やドラマを繰り返してしまいます。

そうした言葉は跳ね返さずにきちんと受け取って、こちらから伝えたいことを

はっきり言うと、子どもはたいてい素直に従います。

それがその子お母さんとの間だと、お母さんが注意し、困惑するほど、

子どもは言うことを聞かなくて、好き放題するという繰り返しが続いていることが

多いのです。

 

私の母と妹の関係もそうでした。表面的なやり取りは、妹からのおもちゃを買って

欲しいとか、もっとテレビが見たいとか、母からのそんな贅沢許しませんとか、

テレビは一日○時間まで、とかの言い合いなんですが、

お互いの言葉が相手の気持ちを鎮める方向に働かず、

妹の方は、むしろいっそう気持ちが高ぶって、テレビが見れないんだったら、

すべて終わりだ、何もかもめちゃくちゃにしてやるくらいの勢いになっていくし、

母は母で、どうしてこんな子産んだんだろう~こんな子いらない~

思いきりおしりをたたいて思い知らせてあげなくては……

くらいの追い詰められた気分になっていくんです。

そこまで激しくやりあっているものが、『魔法使いサリーちゃん』ならまだしも、

『デビルマン』ですから……私は母と妹の気が知れませんでした。

そこは、テレビ番組じゃなくて、レストランでもなくて、

目には見えないけれど、お互いが相手を自分のものにしたいというような

力のぶつかり合い、エネルギーのやりとりが背後にはある—。

子どもの頃はそれを言葉にできたわけではないけれど、雰囲気で感じていました。

目に見えない力関係とかエネルギーとか無意識というと、

何だかもやもやと捉えにくい感じがするでしょうね。

テレビやインターネットや宣伝広告があたり前となった現代は、

こうした目には見えない力やエネルギーが乱用されている時代です。

人工的でクリーンで無害そうに見える場所にも、操る側の意図があって、

無意識レベルで操られる側のひとりへと仕立てあげられてしまう

仕組みがいっぱいです。

 

無意識というのは意識されないから無意識です。

テレビで自分よりずっと立派に見えるタレントたちが、口をそろえて、

出された食べ物に「おいしい~!」と笑みを浮かべるのを見続ければ、

自分の味覚と関係なく、みんながおいしい~と言うときには、

「おいしい~」と言うべきなんだな~と知らないうちに学習してしまいます。

食品会社の思惑で、食品添加物いっぱいの新製品を

「おいしい~おいしい~」と食べさせられてしまうくらいはかわいいもので、

しまいには政治や戦争への参加、不参加を決めるような大きな決断をくだす際も、

自分がお留守のまま反射的にみんなに合わせる人が増えていくのかもしれません。

 

話がずいぶんそれてしまったのですが、子育ての話にもどりますね。

大人の場合、自分が感じていることを無視して、操る側や力を乱用している側に

同調する悪い癖がつく程度ですむものの、

子どもの場合、操る側や力を乱用している側が期待していることが、

自分が楽しいことなんだ、うれしいことなんだ、欲していることなんだ~と

間違っちゃうこともよくあります。

そうして子ども時代から自分がスカスカのまま、周囲の思いを自分の思いと

勘違いして育ってしまった子の犯罪や自殺や心の病があとを絶ちません。

だから私は、わが子が何ができるようになったかとか、何ができないかとか、

先生からどう評価されているかとか、

何を食べ、何を着て、どんな家に住んで、どんな学校に通うのか、

なんてことは、ほとんど気にかけませんが、自分の心には細心の注意を

払っています。

エゴに絡め取られて、間違った判断を下さないように、

時々周囲のノイズから離れて、なるべくクリーンな状態を保つように

気をつけています。

それはけっしていつも良い人、良い親でいることではないです。

良い人、良い親であろうという思いだって惰性で仮面のように貼り付けていれば、

叱るときに叱れないし、

ルーズなくらいでいいときにやりすぎてしまいますから……。

ある程度ダメな親でも、子どもの人格や魂に対して、純粋で正直な気持ちで

向き合えたなら、子どもはとても幸せなんだと思うのです。

私も子どもの頃、最も幸せに感じたのは、母が自分の好きな針仕事に夢中になって、

母自身の夢を生きているのを感じるときでした。そうしたときは、私は私で、

自分にとって大事な何かを探しに行きたい気持ちに駆られるのです。

 

しかし、母が果たせなかった自分の夢を私の上にかぶせて

あれこれ期待するときには、心が萎縮し、

この世は何て退屈でつまらないところだろう!と感じていました。

そんなわけで、私が子育てで、気をつけてきたことのひとつは、

自分の心に注意する、です。子どものことで問題にぶつかった時には、

必ず、子ども時代の自分(インナーチャイルド)の気持ちに

おうかがいを立てています。

どんな親であってほしかったのか、子ども時代の私は今の私に訴えます。

すべてを呑むわけにはいかないけれど、正直に対応するわ……と、

現代の私はインナーチャイルドと会話しています。

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<2つめのこと>

私の母は、私が何を言っても、何をしても、良いように解釈して、

ひたすらかわいがってくれました。

ですから、私には母から叱られたリ、注意を受けたという記憶が

皆無といっていいほどありません。

そんな風に猫かわいがりに愛してくれる母に対して、

私はいつも複雑な気持ちを抱いていました。

というのも、私のふたつ年下の妹は、それはそれは極端なほどに、

朝から晩まで叱られ通し~と言っていいほど、

毎日毎日、母とぶつかり合っていたのです。

それは妹がまだ赤ちゃんで、昼夜を問わず一日中わめくように

泣き続けていたころからはじまって、

2~3歳の反抗期も、幼稚園児、小学生、中学生となっても、

どの時期として落ち着いた良い関係というのはなくて、

いつも母と揉めていたからです。

ですから、私は母から特別にひいきにされる度に、胸が苦しくて、

うれしさと同じくらいさみしく悲しい気持ちを感じていたのです。

母にすれば、内気で、けっして反抗しない私の態度に、

自分が良い母であるという証明や癒しを求めていたのかもしれません。

私をひたすらかわいがることで、理想どおりいかない妹の子育てを頭から抹消して

理想の子育てを自分はしているのだと思い込みたいようなふしがありました。

母は、おとなしくてまじめで気が優しい性格で、良い子良い子した子どもが

そのまんま正直で純真な心のままで大人になったような人でした。

そんな母が父のような荒っぽいギャンブル漬けの人と結婚したのですから、

それまでの成長の中でどれほどバランス悪く

『良い人』としてしか生きてこなかったのかわかります。

母は自分の中に『悪い人』をほんの少し受け入れることさえ拒絶して、

自分の人生のバランスを取るように『悪い人』を

自分の代わりにすべて引き受けて生きてくれる父と結婚しました。

そうして生まれた長女の私には、自分の『良い人』のイメージをかぶせ、

父似の妹には、自分の中の『悪いもの』をすべて押し付けて見ていました。

そんな子ども時代の暮らしの中で、

私はいつも変わらぬ愛情を降り注いでくれた母に対し、

どこか屈折した思いを抱いていて、母の死に際に私が間に合わず、

妹が心を振り絞るように泣きながら最後を看取った事実に、

なぜか、ほっとする気持ちを抱いたのです。

私が母に屈折した思いを抱いていたというのは、母はとにかく優しい人では

あるけれど、周囲に可愛がられて育った未熟で弱さも残った性格で、

普段はとても優しくて、食事のことでも、服のことでも、

習い事や友だちのことでもそれは気を配ってくれるというのに、

肝心かなめの、子どもが大きな問題にぶつかったようなときには、

自分が一番パニックを起していて全然頼りにならなかったことでした。

中学に上った妹がたびたび問題を起したときには、

教師や相手側の言うことを鵜呑みにして、簡単に妹の気持ちを踏みにじったり、

裏切ったりする一面もありました。

それで、私は自分が子どもを育てるときには、大きな問題が起こったときこそ、

しっかりと親になろう!誓いました。

いつ自殺するかもしれない母をなだめたりはげましたり、

母に向かって妹の良い面を話して聞かせたりしながら過した思春期に

強く強く覚悟した言葉でした。

そうして、親になった私は、普段はかなり手抜きだけれど、

肝心の子育ての急所には、自分の精神力の全てを振り絞って、

覚悟して挑むようにしています。

受験なんかでも、子どもがうまくいかなかったときに、親まで泣いていたのでは、

子どもは苦しみから立ち直るだけでなく、

親の不安まで背負い込まなくちゃなりませんから……

そうした時ほどけろっとしています。

だからいつもは適当な親なんですが、こうした本当に子どもがSOSのときは、

子どもたちがしっかり頼りにしてくれるので、うれしく感じています。

 


鍋いっぱいのプリン と ひっくりかえったがんもどき

2015-01-27 12:37:56 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
母の実家の田舎のだだっ広い家に対して、都会のわが家は、
2Kの団地住まいでした。
2DKだって、4人家族にすれば、狭苦しいわけだけど、
2Kとなると、ダイニングと寝る部屋が昼夜で忙しく入れ替わらなきゃ
ならないわけで、まるで芝居の舞台みたいに、
ひとつの部屋がこたつや布団といった舞台道具で、
キッチンになったり寝室になったりと、忙しい家でした。

そんな狭っ苦しい家に暮らしながらも、
人って幼年期や子ども時代に染み付いた身体感覚が
抜けないもんなんでしょうね……
母は、電子ピアノじゃなくて、どでかい本物のピアノを購入してみたり、
食べきれないような料理を作ってみたりと、
母の実家の9人きょうだい仕様の暮らしを引きずっていました。

私も妹も夏生まれで、誕生会には母のお手製のフルーツポンチが
登場しました。
特大サイズのすいかを、ギザギザした切り口でふたつに分けて、
中身をくりぬきます。その時、アイスクリームをすくう
道具の小型版みたいな、すいかをクリッとした丸い形に抜く道具を
使ってました。
そうして、大きなすいかの容器を作って、中にサイダーや
果物のかんずめを注ぎ込み、丸いぶどうの粒のようなすいかを
浮かべてできあがりです。

よく言えば豪華、正しくは大ざっぱで豪快な料理が母の得意で、
グレープフルーツを半分に切って、中身をくりぬき、
ゼリーの粉や砂糖を混ぜて、もういちど注ぎ込みます。
そんなグレープフルーツゼリーが冷蔵庫によく入っていました。

クッキーの種も、おそらく料理本の材料の3倍は作って、
私も妹もねんどで遊ぶように、クッキー人形を良く作りました。
服にフリルをつけてみたり、帽子をかぶしてみたり、
靴や日傘やペットの犬猫、小鳥まで作って、大きなオーブンで
たくさん焼きました。
食べるときには、あまりの量にたいていうんざりして、
ビニール袋に入れてうろうろするうちに粉々になって、
何だかわからない形のクッキーを、
近所の友だちが「おいしい、おいしい」と食べていた記憶があります。

母は母なりに、都会風のこじゃれたものが作りたい気持ちは
満々だった気がします。
シュークリームやアイスクリームやカルピスやクロワッサンなど、
母のこしらえたおやつは、名前だけ連ねれば、
デパートの屋上のレストランで注文するようなものばかりでしたから。

それがどう間違うのか、
あるとき、プリンを作ったときは、大鍋いっぱいのプリン液を
弱火で煮立てて、それをグラタン皿に注いで冷やしてました。
グラタン皿なんて、そういくつもありませんから、
どんぶり茶碗や、タッパーウェアーや小型のボウルまで総動員させて、
プリンを冷やしてましたから、冷蔵庫の棚という棚が、
黄色で埋まってました。
プリンが大好物の私と妹は、最初こそ、飛び跳ねて喜んでいましたが、
途中から、「一生、プリンなんて名前も聞きたくない!」
ってほど、うんざりきてました。

今もプリンを見ると、大鍋でタプタプ煮つめられていた
黄色い液体が思い出されて、
懐かしいです。母はそんな田舎ものの一面を持ちつつも、
その天然キャラで他人から慕われて、
のんびりまったり自分の生をまっとうしました。
もうじき、母の一周忌です。

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思い出ついでに、過去記事の
<ひっくりかえったがんもどき>もよかったら読んでくださいね。

私の父は、以前の記事にも書いた通り、
粗暴で困った人ではありましたが、
気持ちが優しく、ユーモアがあって、話し上手な一面もありました。
私の父のことを、周囲の人はよく、「芸能人」に似ていますね……と
評することがありました。
若い頃は石原裕次郎にそっくりだと言われ、
年を取ってからは、北野たけしと梅宮アンナの父を足して2で割った
ような感じに見えるそうです。
機嫌が良いときの父は、子どもの頃の話を、面白おかしく、
時にはしんみりとしてくれるときがありました。
そんな話のひとつで、心に印象深く残っているのが、
「ひっくり返ったがんもどき」の話です。

父は兄や姉のたくさんいる子沢山の家に生まれたようです。
でも実際に父が何人きょうだいであるのか、私は詳しく知りません。
一方的に自分の話したいことを話す父の話は、
どれもバラバラのパズルのピースのように断片的で、
何年たっても肝心の部分がわからないところもあるのです。

父の家は豆腐屋を営んでおり、
ペットなのか食用なのかわからないたくさんの動物…
やぎやら、にわとりやら、たぬきやらを飼っていたそうです。
そんなごちゃごちゃした家には、
変わり者で乱暴な父親や頭の良い美人の姉や、
知恵の遅れた兄など、さまざまな人が暮らしていました。

くわしいことはわかりませんが、今で言う知的障害であったろう兄は
ゆりちゃんという女の子のような名前でした。
近所の幼い子からもからかわれ、ばかにされ、
当時の父にはふがいない兄であったようです。

そのゆりちゃんは、いつも乱暴者の父親のもとで、
豆腐屋の手伝いをさせられていました。
そのころは、子どもが家業を手伝うのは当たり前で、
父も学校から帰ったら、
揚げ終わった厚揚げやがんもどきをならべさせられたり、
使いっ走りをさせられたりしていました。
そんなときにも、覚えが悪く手先が不器用なゆりちゃんは、
始終父親のげんこつをくらったり、どなられたりしていて、
父は要領よく立ち回りながら、びくびくしていたのだとか。
父は何も言っていませんでしたが、もしゆりちゃんが、
この厳しい父のもとから逃げ出したいと思った日には、
乞食しか、今でいうホームレスになるしか、
生き方が残っていないように感じていたふしがあります。

あるとき、ゆりちゃんと二人で、店番をさせられていた父は、
慌てていて、がんもどきの入っていたケースを、
床にぶちまけてしまったそうです。
それは、うっかり1個落としてしまっても、殴られる、
大事な商品でした。
が、箱ごとひっくりかえした……となれば、
検討もつかないような損害です。
父親がどれほど怒るものか、想像すらできなかったでしょう。
殺されてしまうかもしれない…と感じたかもしれません。

すると、いつもはぼんやりで、
頭の働きが悪そうなゆりちゃんが、
「おれがひっくり返したことにするから、何も言わんでいい」
と言ったそうなのです。
その後、ゆりちゃんは、殺されるほど、父親に叱られたそうです。
でも決して、本当のことを言おうとはしなかったのだとか。

父はあったことを話すだけで、自分がどう感じたのか……
といったことは、いっさい話しませんでした。
が、時々、思い出したようにこの話をしていました。

父は非常に毒舌で、
いやみや皮肉を言わない日はないくらいでしたが、
知的障害かと思われる人と、ホームレスの人の悪口だけは、
決して言いませんでした。
母と結婚して間もない頃、橋の下で、凍えているホームレスの
人を見たとき、まだ買ったばかりの布団の一式を
橋の下まで持っていってしまい、
母が大変な思いをしたことがあります。
父を突然、そういった行動に駆り立てたもの……は
ゆりちゃんという兄との思い出だったのかもしれません。

番外 同じ屋根の下で

2015-01-26 21:00:46 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

何度かこのブログでも書いているのですが、

私は大阪の自然がまだたくさん残っている静かな地域の団地で育ちました。

当時、その地区の団地の住人というのは、地の大阪人というのはほとんどなくて、

地方から出てきた人々の寄せ集めでした。

とにかく考え方も生活様式もまったく異なる人々が、ひとつの団地で、

どこか大家族を思わせる「近さ」で暮らしていました。

近さって…わかりづらい表現ですよね。

うまく表現できないのですが、

現代の団地やマンションの住人同士が仲良く暮らしている様子とは

ずいぶんちがう感覚で、お互いがつながりあってたんです。

似た考えの人同士集まったり、似た境遇の人同士親しくするのとは

ちがって、さまざまな雑多な人がごちゃまぜに暮らす中で、

「自分とはちがいすぎる」「正反対」「敵だ!」「あんなの最低最悪の人間だ!」

と感じるほど、へだたりがあるもの同士でも、

「同じ屋根の下に暮らすもの」

として、あくまでも「自分の延長線上に存在するもの」としてとらえていた感が

あるのです。

自分の身内のはみ出し者や自分の性格の中のいや~な部分のように、

嫌は嫌でも、どこかに自分の一部であるような近さがあったのです。

団地には、変質者と噂される男性もいましたが、

年老いた母親がその男性の世話を焼きに来て洗濯などしていると、

その母親とはだれも話したこともないのに

「あんなに…腰が曲がってまで苦労して…」と気の毒がる人がいました。

また、こんなこともありました。

団地内に精神を病んで近所中の家に、夜昼かまわず無言電話をかけ続ける

女性がいました。

あるとき、腹にすえかねた私の父が、口論の末、その女性をなぐってしまいました。

するとその女性の夫が(なぐられた側なんですが…、)迷惑をかけてきたことを

詫びて、父にセーターを届けてきたのです。私の父は…というと、まるでお気に入りの

一着みたいにそのセーターをよく着ていました。

私の母はクリスチャンで「綺麗なこと、正しいこと、真面目なこと、親切なこと」を

いつも愛している人でした。

基本的に見た目も中身も「天然」なので、そうした良い人ぶったところが

さほど周囲の鼻につくこともなく、暮らしていました。

すぐ下の階に住んでいたのは、ちょっと悪ぶっていて、お酒を飲みながら、

とうてい主婦とは思えぬルーズな暮らしっぷりで、子育てをしている方でした。

よくナイトクラブの話やディーナーショーの話を母にしていましたが、

最近の中学生よりも小さな生真面目な世界でしか暮らしたことのない母には、

想像することすらむずかしく、何やら怪しげな雰囲気しか伝わっていなかった

ようです。

母が、おやつも…カルピスやパンまでも(ハードル高いですね手作りを

決め込んでいるのに、下の奥さんは、「昼食も夕食もインスタントラーメンよ」

と言ってはばからない人で、このふたり…いくら上下の階で生活しているからって、

まず仲良くはできないだろう…と誰の目にも明らかなのに、

なぜか姉妹のような親しさが、互いに互いがわからないまま…

わかりあおうともしないままに…十数年という年月に渡って続いていました。

 

少し話が前後しますが、父は大型トレーラーの運転手をしていました。

一晩中、トラックの運転をした後で、朝から夕方までの仕事をこなすようなハードな

勤務体制で、睡眠不足は命取りでした。

ですから、昼夜問わずかかってくる無言電話は、他のどんな嫌がらせよりも

父を激怒させるものでした。もともと衝動的で粗暴な性格ですから、

思わず手がでてしまったわけです…。

父が無言電話の相手のご主人からもらった服を何度も着ていたのは、

セーターをお詫びに届けてもらった時点で、好きで病気になったわけでなし…と、

相手を犯罪者としてではなく痛ましい人生に翻弄される家族も、

ひとりの人として、受け入れることができたからではないかな? と思っています。

私の父の物言いや考え方は、「北野たけし」にとてもよく似ています。

冗談だか嫌味だか、ブラックユーモアだかわからない…

本心なんだか、うそなんだか、からかいなんだか、優しさなんだか…

毎日顔を合わしているものにも皆目検討がつかないのです。

その後、父の冗談には、この無言電話のご近所さんの話が登場しましたが、

見下しや憎しみは含まれない、どこか親しみのこもった口調でした。

 

ここで、母と下の階の奥さんの話に戻ります。

下の階の奥さんというのは、気づかれている方もいるでしょうが、

ADHD風の人です。

そして母はというと、これも気づかれている人があるでしょうが、

ADD風の人です。

ADHDやADDの人がいる周辺にありがちなことですが、

このふたりのとっぴょうしもないアイデアや行動が、この団地周辺の流行を

リードしているところがありました。

ストライキで電車が止まってしまう日に、下の階の奥さんは突然、

「お弁当を持って線路の上をあるいていきましょうよ」と提案しました。

そこで母ははりきって弁当を作り、私と妹にサスペンダーつきのチェックの

スカートという…おそろいの手作り服を着せ、

近所の仲良しに声をかけてまわりました。

団地中の人がこぞって、弁当を手にぞろぞろと、線路とごつごつした線路のまわりの

石を踏んで、終点の北千里の方向に歩いていきました。

今では考えられないことですが、ストとなると、阪急電車の駅にも周辺にも

駅員さんの姿はひとりもなく、とんでもないピクニックの集団をとがめる人は

だれもいませんでした。

 

ADHD風の人って、どんな感じかというと、

のだめカンタービレののだめちゃんや、

サザエさんや、くれよんしんちゃんのようなタイプです。

やたら頭の中が忙しいちびまる子ちゃんや、のんびりまったりのおじゃる丸や

おでんくんのようなタイプです。

ドラマやマンガの中で、彼ら彼女らは主人公ですが、実生活の中でも、半ば強引に、

このADHD、ADDタイプの人が主人公になっていることはよくあることです。

イベントやらパーティーやら、もめごとやら、競争やら、新しい趣味やら、

料理講習会やら、お金儲けやら、旅行やら…

とりあえず平々凡々とした日々に変化をつけてくれるものなら何でもあり!!

の気ままな思考をする人々が、まっとうな考え方の人々までも巻き込んで、

いっしょになって何かする…。

私の子ども時代には、そうした繰り返しの上を流れていたように思います。

私の住む団地のベランダ側には、団地の所有する小さな土地がありました。

いくらかお金を払えば、たたみ一畳~三畳ほどの地面を借りることができたようです。

それで、団地の土いじり好き、花好きが、自分のコーナーに好きなものを植えて、

手入れをしていました。

ひとつのコーナーはまるで外国の童話に出てくる庭のようでした。

ばらやらゆりやら、豪華な大輪の花が咲き誇るあいだを、見て回ったり世話したり

できるように、くねくねした通路が作られていました。

また別のコーナーはパンジーやチューリップなど…花屋の店先で売られているような

よく見かける花が、よく見かける配列で植えられていました。

私の母も、自分のベランダからよく見える位置に土地を借りて、耕していました。

何を植えようか、悩み悩んだ挙句に、田舎から出てきた人しか思いつかないような

発想で、さつまいもの苗を植えました。

それで、秋には団地の人がこぞって、芋ほりです。

まっとうな考え方をする人というのは、ひとつ欠点があります。

多数決の状況を見て、多数である考え方には、

一も二もなくしっぽを振ってしまうのです。

自分のまっとうな勘より多人数の意見を信頼してしまいます。

それで、母と下の階の奥さんが、だれか一人に声をかけて、「わたしたち○○する

つもりだけど、あなたは、どうする?」とたずねれば、

2対1で、多数派の意見が通って、3人で次の人を誘いにいくあんばいです。

そんなわけで、みんな何の疑問も抱かずに、団地の前で芋ほりに興じながら、

だれの家で、スウィートポテトを作るかという相談をしていました。

そのままふかすのがいちばんおいしいという人もいたし、

アメでからめてゴマをふって、大学芋にするのが一番だという人もいました。

それぞれお国自慢の食べ方があって、私たち子どもらは、芋ほりではしゃぎ、

土の中から出てくる虫をつかまえては騒ぎ、料理大会でも大暴れでした。

 

 

私が団地での人騒がせな悪気のない人々が繰り広げるどたばたした日常を書いて

みようと思ったのは、単に思い出にひたりたかったからではありません。

子どもの頃、見聞きして疑問に思ったこと、わからずじまいだったことを、

もう一度、大人になった自分の目で確かめて

本当のことをつきとめておきたかったからです。

見えていたこと、信じていたこと、信じ込まされていたことと、

背後にある真実はずいぶんちがうものです。

 

私の住んでいた団地は、火災などの緊急時にそなえて、ベランダは片方の

隣の住人と鍵のついていないドアひとつでつながっていました。

うちのとなりは、わたしより2~3歳年上の男の子のいる家庭でした。

母や他の子育て中の団地の人とは、どこかちがう精神的な余裕を感じさせる

子育てをしている人でした。

母が妹の次々しでかす悪さを(近所のいじわるっ子の部屋の前の壁に、

友だちとえんぴつで「バカ」と書いたり、上の階に住んでいる親切な初老女性の

スカートをめくったり)、愚痴るたびに、「何で、☆ちゃん(妹)ばっかり悪く

言うの?あの子はいい子よ」と諭していました。

お隣さんは、小学生のひとり息子の●くんに、一人前の大人に対するみたいに

していました。

戦争中の映画で、軍需工場に働きに行くまだ小中学生の息子に、

母親が大人の他人に対するようなていねい語で

「はるひこさん、今日もお国の為にがんばってください」といった言葉をかける

シーンを見ると、私はよくこのお隣さんのことを思い出します。

このお隣さんは親切で温かみがある人で、妹はよく甘えていました。

が、向こうも私に、私も向こうにあまり関心がありませんでした。

そこで私が、お隣さんについて残っている鮮明な記憶は、

妙なお隣さんらしからぬ…お隣さんの姿ばかりです。

 

ひとつは、私が風邪で寝込んでいたときの話です。

熱も下がり退屈していたところに、図書館バス(バスの中に貸し出しする本を積んで

移動しています)の到着を告げるメロディーが(は~るの~うら~ら~に~)

流れてきました。

パジャマのままベランダまで飛び出ると、洗濯中だったお隣さんが何ごとかと

たずねてきました。半べそをかきながら、本を借りに行けないのを残念がる私に、

お隣さんは、ちょうど私も本を返しに行くついでがあるから、

☆ちゃん(私)の分も借りてきてあげよう」と言います。

誰かが自分のために本を借りてきてくれる…という初めての事態に、

すっかり舞い上がった私は、クリスマスプレゼントでも待つような心地で

いまかいまかとお隣さんが帰ってくるのを待っていました。

そうして借りてきてくれた本は

 

ベーブルース伝記

リンカーン伝記

 

どうしてわざわざ…小学生の女の子がとうてい好みそうもない本をわざわざ出かけて、

わざわざ選んできたのか…なみだ目でお礼を言いました。

団地の中では長女のような役柄で、みなから一目置かれていたお隣さんも、

やはり母と似たり寄ったりの部分があったのかもしれません。

もうひとつの記憶はこんな話です。

あるとき、団地の人たちと近くの山までピクニックに出かけた時も、

このお隣さんの意外な一面を見てびっくりしたことがあります。

私の住む地域は山を切り開いてできた住宅地で、10分も歩けば、まだ未開発の山々が

残っている場所に出ました。

田んぼもまだあちこちにあって、道にはレンゲが一面に咲き誇っていて、

紫の輝きで目が痛いほどでした。

そこいらの山というのは、どこも竹がびっしり生えていました。

団地のピクニック集団が、お弁当を食べる場所をさがして、その竹やぶに入って

いったとき、土の中からは、タケノコの小さな頭が、北国の子の頭巾みたいな

愛らしい様子でのぞいていました。

おそらくだれからというのでなく、自然とそこにいたみんなが、

その小さなタケノコの周りを、落ちていた小枝や素手で掘りはじめました。

誰もが山のどんぐりや落ち葉を集めるような気持ちで、

何の罪悪感もなしに、タケノコを次々掘っていたように思います。

「ほら、あっちにも…」「がんばって!」子供たちも大人の指導を受けながら、

あちこち掘り返しました。

するとその時、背後から激しく犬のわめき声がしたかと思うと、

巨大な野犬のような犬と、目をぎらぎらと血走らせた初老の男性が、あらわれました。

竹林をバックに、そこにいる全員を射抜くほどの眼力で睨みすえたまま、

「なんちゅうことする~このどろぼうらめ~!!こんなちっちゃいのまで、

掘り起こしけつかって!!」と、怒声を浴びせました。

大人も子どもも、凍りついたまま、一言も発することができません。

最初に言葉を口にしたのは、うちのお隣さんでした。

何を思ったか、小学校高学年くらいだった●くんを、その恐ろしい山の持ち主の

男性の前に押し出して、「●、ほら、謝りなさい。」と叱ったのです。

●くんは、急に我に帰ったように、「すいませんでした~」と

深々と頭を下げて謝りました。

それを最初に、大人たちも、子どもも、涙を流しながらぺこぺこと頭を下げました。

その後、長い長いお説教をくらった後で、うなだれたままとぼとぼと帰宅しました。

●くんのお母さんは、●くんが中学、高校へと進む中で、

●くんの友だちが不良っぽい子であろうと、頼りない子であろうと、

とても大切に扱っていました。

●くんというのは、まじめでハンサムでしっかりしていて背が高くて、

いくつになっても●くんのお母さんの自慢の息子でした。

この日の出来事を思い出すたびに、当時の大人たちの依存的で弱い一面を

垣間見たような気がして、悲しいのか面白いのか懐かしいのかおかしいのか

わからない複雑な気持ちになるのですよ

 

長い間おつきあいありがとうございます。


子どもの困った性格をなおす方法

2014-02-08 22:12:38 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
(過去記事です♪)

『こどもじかん(ベースボール・マガジン社)』という雑誌で、
“子どもの「困った」性格 もう嫌いにならない!” という特集が組まれていました。

すぐふてくされる
繊細すぎて半泣き
言い出したらきかない
わがまま 飽きっぽい 甘えん坊

など、ついイライラしてしまうような子どもの性格…
どうやったらなおるのでしょう? 
それに性格なのに、なおしちゃって良いの??

まず子どもの困った性格が気になるときは、
別の視点からその性格を捉えなおす必要があります。

落ち着きのない性格は、裏を返せば、明るく元気な性格。
どっちつかずちゃんは…優しい子
ワガママっ子は…意志が強い。
優柔不断は…慎重。
おせっかいは…親切。

教室の中で、子どもの困った性格は、こんな良いものを生んでくれています。
神経質で繊細な子は、ていねいで気づきやすいので、
学習上のミスが少ない。
飽きっぽい子は好奇心が旺盛なので、理科実験にも、新しい分野の学習にも
積極的。
甘えん坊の子は、人なつっこいので、
大人がさまざまな概念を教えていきたいときに、喜んで聞いてくれる。
わがままな子は、自己主張できるので、多少厳しい学習を強いても平気。
引っ込み思案の子は、おだやかなので、大人の話をていねいに聞き、
読書に親しませやすい。

それでは、困った性格のなおし方でしたね。
このように、子どもの性格の困った部分だけでなく
その性質からくる良い部分に、光を当ててあげることです!!

すると、認められることと、
本来の性質が自由に表現できるうれしさのおかげで、
困った部分は次第に陰をひそめていきますよ。

機能不全家族について  もう少し 15

2013-11-24 18:21:05 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

機能不全家族について  もう少し 14 の続きです。

 

問題を抱えている家庭に育つと、

大人になって生き方を取捨選択できるようになっても、

新しく出会う人々を相手に過去の苦しい人間関係を再現しがちです。

 

わたしの母にしても、子どもの目から見ても信頼のおける本当の意味で母を尊重してくれるような

人とは少し距離をおいていて、常に無理難題を押しつけてくる自分を振り回すような人と

いっしょにいることがよくありました。

自分が利用されていることに気づいても離れられないし、

いずれ自分を傷つけたり、不安にさせたりする人だとわかっていても、

多少困った性格の人とも仲良くしなくてはと自分に言い聞かせて、苦手な人を避けることが

できないのです。

 

前回の記事で辛い過去を言葉にしておられた方にしても、

「子どもの困った行動が気にかかり、繰り返し注意するうちに、さらに問題行動が増えていき、

厳しく叱責する日が続くようになりました……」といった

子どもさんが発達障害の診断を受けに行くまでの経緯をくわしくうかがうと、

その背後には、子どもに常にいい子でいてもらわないと親子共々、残酷な苦しみを味わうような

人間関係に身を置いておられることがわかりました。

 

自分にとっては利にならない苦しいだけの関係だとわかっていても、

離れた後で悪口を言われるのが嫌だったり、

自分から動く勇気が出なかったり、

世の中我慢もいるからと自分に言い聞かせたりして、

そこからくる不安や悲しみや怒りを、全て子どもの問題にすり替えて

悩んでおられるようでもありました。

 

 

もちろん、病院で診断名がついたとすれば、

子どもの発達に何の問題もないとは思われません。

ただ、自分や子どもの心を追い詰めるような悪循環や

親が子どものささいな他の子との違いも許容できないような心理状態が続いているようなら、

それをやわらげることが先なのかもしれません。

 

子どもの問題ばかりを近視眼的に眺めて、

心身ともに疲弊するだけではなく、

子どもといっしょに安全で心地よい生活を送ることを一番に考えて、

子どもの困り感を無理のない形で手助けしてあげられる状態に自分を整えていく

必要があるはずです。

 

次回に続きます。

 


機能不全家族について  もう少し 14

2013-11-20 20:45:43 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

前回、熊本の親子のお泊まり会で、

「わたしは親から愛されたり構ってもらったりしたことがないため

子どもにどう向き合っていいのかわからずにきました。

先生がブログで書いておられるような機能不全に陥っている家庭に育ったので、

特に、3歳や4歳の頃は、子どもの相手をするのが苦痛でしょうがなかったのです。

年長のうちの子の遊びが幼く考えることが苦手なのは、それが原因でしょうか。」

という相談をいただいた話を書きました。

 

熊本に向かう直前まで、「機能不全家族について もう少し」という記事を書いていて、

現在、苦しい状態に身を置いている方から、

「どうしたらそこから抜け出せるのか」

「断ち切るヒントを」という声をいただく度に、

役に立つかどうかはわからないけれど、わたしなりのひとつの答えを出しておかなくては

と考え続けていたところでした。

 

そんな最中に、熊本でも同様の悩みの中にある方々に会って、

それまで自分の中でぐるぐると巡らせていた思いを伝えることになりました。

遠回りになるとはいえ、こんな教室の話題から話しはじめました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

こうした話題は、お互いにタブーでもあって、よほどのことがないと

切り出しにくいものです。

「発達障害の診断を受けて……」と教室に連れてこられる子にしても、しばらく付き合ううちに、

どうもこの子の行動の問題は、生まれつきのハンディーキャップによるものというより、

家族の関係による部分が大きいのではないか、

と感じる時があるのです。

 

子どもが自分のしたいことや自分自身のことより、大人の一挙一動に気を取られてばかりいたり、

褒めると、「わたしは悪い子だから」とつぶやくことが多かったり、

家族の中でのひとつの役割とか、決まった性格のようなものを担わされているようだったり、

母子の間のやりとりにしっくりこないことがよくあったり、

発達上の問題がお母さんの目に、誇張されて映っているようであったり、

お母さんが子どもの言動に白黒つけすぎていたり、お母さんがやたら原因を追及するのを急いだり、

即座に結論づけようとしたりする姿が気にかかる場合です。

 

問題の根っこは、子どもの個人的なハンディーうんぬんではなさそうだと

感じてはいても、

そこまで踏み込んで話せることはまれで、

たいていは、表面的な課題を解決することに終始してしまいがちです。

 

でも、こうした「機能不全家族」という言葉を取り上げて文章を書いたことで、

そのように表面的な解決に努めるだけでは行き詰っていた方に、

「実は、これこれこんな点が気にかかっていて……失礼なのですが、

お母さん自身がこれまでの育ちの中で、家族関係の問題を抱えていたということはありませんか?」

という質問をぶつけたことがありました。

 

すると、「家族の問題が深刻で、高校生の頃からひとり暮らしをしていて、

受験も就職も孤独と苦しさを抱えながら全てひとりで乗り越えてきました……」といった

答えが返ってきました。(プライベートな事情を少しだけ書かせていただくお許しを得ました)

どんな厳しい状況にあっても、弱音を吐かずに、

真面目に一生懸命努力してこられたことが伝わってきました。

ただ、そうした自分に対して、いたわったり、よくがんばってきたというねぎらいの気持ちは

抱いていないようでした。

むしろ、そうした辛い時期によって自己肯定感が奪われて、

自分自身や自分の生き方に自信を持てず、

子育てにも迷いが多いようでした。

 

 

 

 

 


『ひっくりかえったがんもどき』  『サンダルとブランド時計』

2013-10-08 21:30:39 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
番外 <15年以上前の記録 将棋の時間> 4
で登場した私の父。
もうちょっと話が聞きたい~と、言ってくださる方がいたので、
気分転換に……(勉強の話ばかりでは疲れますからね)父の昔話でも……。

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<ひっくりかえったがんもどき>

私の父は、
粗暴で困った人ではありましたが、
気持ちが優しく、ユーモアがあって、話上手な一面もありました。
私の父のことを、周囲の人はよく、「芸能人」に似ていますね……と
評することがありました。
若い頃は石原裕次郎にそっくりだと言われ、
年を取ってからは、北野たけしと梅宮アンナの父を足して2で割った
ような感じに見えるそうです。
機嫌が良いときの父は、
子どもの頃の話を、面白おかしく、
時にはしんみりとしてくれるときが
ありました。
そんな話のひとつで、心に印象深く残っているのが、
「ひっくり返ったがんもどき」の話です。

父は兄や姉のたくさんいる子沢山の家に生まれたようです。
でも実際に父が何人きょうだいであるのか、私は詳しく知りません。
一方的に自分の話したいことを話す父の話は、
どれもバラバラのパズルのピースのように断片的で、
何年たっても肝心の部分がわからないところもあるのです。

父の家は豆腐屋を営んでおり、
ペットなのか食用なのかわからないたくさんの動物…
やぎやら、にわとりやら、たぬきやらを飼っていたようです。
そんなごちゃごちゃした家には、
変わり者で乱暴な父親や
頭の良い美人の姉や、
知恵の遅れた兄など、さまざまな人が暮らしていたようです。
くわしいことはわかりませんが、今で言う知的障害であったろう兄は
ゆりちゃんという女の子のような名前でした。
近所の幼い子からもからかわれ、ばかにされ、
当時の父にはふがいない兄であったようです。

そのゆりちゃんは、いつも乱暴者の父親のもとで、
豆腐屋の手伝いをさせられていたようです。
そのころは、子どもが家業を手伝うのは当たり前で、
父も学校から帰ったら、
揚げ終わった厚揚げやがんもどきをならべさせられたり、
使いっ走りをさせられたりしていたようです。
そんなときにも、覚えが悪く手先が不器用なゆりちゃんは、
始終父親のげんこつをくらったり、
どなられたりしていて、
父は要領よく立ち回りながら、びくびくしていたようです。
父は何も言っていませんでしたが、もしゆりちゃんが、
この厳しい父のもとから逃げ出したいと思った日には、
乞食しか、今で言うホームレスになるしか、
生き方が残っていないように感じていたふしがあります。

あるとき、ゆりちゃんと二人で、店番をさせられていた父は、
慌てていて、がんもどきの入っていたケースを、床にぶちまけてしまったそうです。それは、うっかり1個落としてしまっても、殴られる、
大事な商品でした。
が、箱ごとひっくりかえした……となれば、
検討もつかないような損害です。
父親がどれほど怒るものが、想像すらできなかったでしょう。
殺されてしまうかもしれない…と感じたかもしれません。
すると、いつもはぼんやりで、
頭の働きが悪そうなゆりちゃんが、
「おれがひっくり返したことにするから、何も言わんでいい。」
と言ったそうなのです。
その後、ゆりちゃんは、殺されるほど、父親に叱られたそうです。
でも、決して、本当のことを言おうとはしなかったそうです。

父はあったことを話すだけで、自分がどう感じたのか……。
といったことは、いっさい話しませんでした。
が、時々、思い出したようにこの話をしていました。

父は非常に毒舌で、いやみや皮肉を言わない日はないくらいでしたが、
知的障害かと思われる人と、ホームレスの人の悪口だけは、
決して言いませんでした。
母と結婚して間もない頃、
橋の下で、凍えているホームレスの人を見たとき、
まだ買ったばかりの布団の一式を
橋の下まで持っていってしまい、
母が大変な思いをしたことがあります。
父を突然、そういった行動に駆り立てたもの……は
ゆりちゃんという兄との思い出だったのかもしれません。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   <サンダルとブランド時計>

若くして両親を亡くした父は、親族の家で世話になりながら、
田舎の警察所の事務をして生活していたそうです。
親族にすれば、
父はかなりのお荷物だったでしょうし、
父にしても、窮屈でたまらず、まとまったお金さえ貯まればすぐにも一人暮らしを始めたいと思っていた矢先のこと、
ちょっとした事件がありました。

身を寄せている親族の家のお金が少しばかり紛失し、父が
あからさまに疑われたようなのです。

父というと、荒っぽい気性で、後にギャンブル依存症となるような素因こそ
持っていましたが、
「犯罪」と名のつくものに手を染めるような癖の悪さは皆無で、
むしろそうした面では、真っ正直で潔癖な人間でした。

無くなったお金について問いただされて
頭に血が上った父は、
そのまんま家を飛び出して、
着の身着のまま、足元なんて、サンダル履きのままで、
列車に飛び乗って、
山口県から関西まで上京してきたのでした。

そうして着いた大阪駅で、電車賃を払ってしまえば、
一食分のお金があるかないかの状態で、駅のホームをうろうろとしていたとき、
ちょうど、どこに向かおうかと駅の案内板を見つめていると、
背後から、トントンと誰かに肩をたたかれたそうです。

振り向けば、警官です。

警官の目は、父のサンダルと、腕に光る真新しい腕時計を
不信そうにジロジロと見比べていました。
父にしても、自分があまりにも怪しげなおのぼりさんであることは、
十分承知していました。
田舎道をぶらっと散歩する格好のまま都会の駅に降り立つ父の風貌のなかで、ひときわ異彩を放っている真新しい時計……。
それは警察の事務の仕事の一月分の給料をつぎ込んで買ったものでした。

私の父というのは、非常にコンプレックスが強い性格で、
その反動か、いやらしいほど見栄っ張りで自慢屋なところがありました。
たいして欲しくもないものを、値段を告げるときに相手の驚きを引き出したいためだけに法外な値段で買ったり、
自分の姉のダンナさんの父親が、田舎の小学校の校長先生をしているというのを、会う人ごとに自分の学歴自慢でもするように持ち出してみたり。

小学校の頃の私は、勉強にしても、他の何をとっても、
「普通」を絵に描いたような子でした。
ただ自分の好きなこと……読書や絵を描くことや科学実験などは、暇さえあったらしていますから、回数をこなすことからくる手馴れたところがありました。
時折、それが先生の目にとまって、工作の時間に描いた絵が選ばれて、校舎の外に設置して展示コーナーに張り出されていたり、雑誌に詩を掲載してもらったり、読書感想文や作文を表彰してもらうことがありました。

まぁ、漢字テストなどは、3点のテストを丸めて、外に捨てて帰って、
それをご親切に拾って届けてくれるご近所さんがいて冷や汗をかいたり、
100マス計算を何回してもタイムも縮まらず、ミスも減らず、
それでもおっとり気にもかけない子どものまま
6年間過してしたのですが……。

そんな私でも、「いやらしいほど見栄っ張りで自慢屋」の父の自慢のネタとなるときが時々ありました。
父からすると、特にポイントが高いのが、
「雑誌に載った」「コンテストで表彰された」系です。
父にすれば、
水戸黄門の印籠のように、それをかかげれば、世の中の人はひれ伏して
「この子は、すごい子だ!!」と感じ入るとでも思っているようでした。

私にすれば、父がしょうもないことを臆面もなく繰り返し自慢するのが
恥ずかしくてたまらず、
おまけにそれが自分のネタで、披露されるときは、
穴があったら入りたいような、うれしかった出来事を他人の手で、
ぐちゃぐちゃに汚されてしまったような気分でした。

そんな風に父の言動に羞恥心を抱いていた私は、
「行列のできる評判のケーキ屋で、1時間以上も並んでケーキを買ってきたぞ」とか、
「どうせ買うのなら、他人から馬鹿にされないように良い物を買いなさい。父さんが出してあげるから」なんて、
父とすれば精一杯に良い親をしようとがんばっているときも、
「ありがとう」と言いながらも、
心はしらっと冷めきって、
一生交わらないほど遠く離れた……
「父と自分との隔たり」を感じていたものでした。

話は警官にもどって……

父が一月分の給料をつぎこんで買ったブランドものの時計を
警官は穴があくほど、見ていました。
そして「それはどこから?」と、もう、どこかから盗んできたと決め付けるような口調で問いただしました。
気が荒いといったって、見栄っ張りの父にすれば、
「どうしてそんなことを疑われなきゃならないんだ?」という怒りよりも、
「しくったな、ボロサンダルのまま出てきてしまった……恥ずかしい……」と
自分の足元が気になって、しどろもどろに返事をして、ますます怪しまれることとなりました。
あげくに、「ちょっときなさい」と交番に連れて行かれて、尋問を受けたようです。

まあ、しばらくすると、ただのおのぼりさんとして、
解放されたわけですが……。

この出来事、
よほどヒヤッ~して、細部まで心に刻みこまれることになったらしく、警官の視線の動き、物言い、サンダルのボロさと自慢のブランド時計の輝きは、
父の言葉で派手に脚色されて、聞く人々の心を惹きつける
「父の十八番の思い出話」となっていました。