虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

レンズーリの拡充学習について 5

2017-01-25 19:48:48 | 教育論 読者の方からのQ&A

 レンズーリの拡充学習について

という記事のなかで、、子どもの能力、興味、学習、表現スタイルの好みについての情報を体系的に集め、

「全才能ポートフォリオ」という形で記録するという海外の学校の取り組みについて書きました。

先生方は絶えず子どもの得意な分野に関心をしめして、情報を収集し、情報を更新しているそうです。

 

虹色教室でも、ひとりひとりの子どもの得意分野、才能、興味、学習や表現スタイルについて、どんなささいなことも把握し、親御さんと共有するようにしています。

また、それぞれの子の個性の芽が見えたら、それを育む機会をたくさん設けるようにしています。

どれもほんのささいなことばかりなのですが、どんな風に個性の芽を感じ取り、育もうとしているのか、プレ年少のAくんのレッスンの様子から、紹介しますね。

 

ここのところのAくんは、何だか元気がありませんでした。

年中のお兄ちゃんのBくんといっしょに教室で過ごす間、十分、Aくんが楽しめそうなゲームなども、緊張した面持ちで、「できない。難しい」と言ったり、

自分で遊びを選ばず、周囲の流れになんとなくあわせながらつまらなそうにしていたり、笑顔が減って、言いかけた言葉を飲み込んでしまったりする姿が目立ちました。

Aくんらしさがきちんと発揮されていないのを感じたので、お兄ちゃんとは別日にAくんだけのレッスン日を設けることにしました。

そうして、Aくんが自分のやりたいことを誰にも邪魔されずにやりつくしたり、Aくんのお母さんもわたしも、Aくんが話す言葉にていねいに耳を傾けたり、

Aくんという子がどんな子なのか、どんなことを考え、どんなことに好奇心を抱き、どのような才能や可能性を秘めた子なのか、全身で感受することにしました。

 

Aくんのレッスン日、0歳の弟くんといっしょにニコニコしながら教室に入ってきたAくんは、これまで教室でしたことがある遊びをひとつひとつていねいにやりはじめました。

新幹線や電車のNゲージを横一列に隙間なく並べてから、サイズの大きな恐竜や動物の人形を4体ずつ対面で並べました。

どちらも、以前Aくんがそうやって並べだしたら、お兄ちゃんのBくんや他のお友だちがおもちゃを借りたがって、結局、貸す貸さないの小競りあいで終わった遊びでした。

恐竜や他の動物を対面させながら、Aくんは、「これは同じ種類、これは、こっちと同じ種類、これはこっち」と言いながら、

どれをどちらの仲間に入れるか、あれこれ試しながら、そうして迷うことを心から楽しんでいました。

そういえばAくんは、2歳代の頃、動物のフィギアのなかから水の中に生息する生き物を選び出して、ブロックの海の基礎板(南極か北極の海を表現しているプレート)の上に並べていくことが好きでした。

当時も、Aくんは誰かに教わったわけではないけれど、1匹も間違わずに水のなかの生き物と陸の生き物に分けていました。

当時は迷いがなかったのに、成長したAくんが、今、頭を悩ませつつ恐竜や動物を分けているのは、水の中の恐竜とくじらは同じ仲間に入れてもいいのか、

自分が大好きな強い生き物たち」というくくりはセットにしていいものか、小さい恐竜と大きい恐竜は同じ種類でも同じ側においてもいいものか、

また対面で向き合わせるということは戦わせることでもあるので、それなりに、どれとどれがあうのか考えなくてはならないけどどうしたものか、

Aくんのなかにある分類の仕方が複雑になってきたからのようでした。

 

いったん「こうだ」とおいてみてから、「やっぱりこれはちがうのかな」と差し替えるときに、自分で自分を納得させる理由に思いをめぐらせることや、

それを言葉にして表現することに何よりも意識を集中させているところにAくんらしさがありました。

 

いったんは別の種類としながら、算数のレッスンのときに、「2の数の玉」の上に好きな生き物を選ぶ課題で復活していた恐竜同士ではないけれど、水のなかで暮らしている2匹。

この選んで仲間同士で集めることは今のAくんを心からわくわくさせるようで、算数レッスンの際は、数ごとにおいた動物をばらして元に戻さずに、

「全部並べておいておいて」と言って、どんどん大きな数になるまで続けたがった後で、数ごとに並べた人形の前に鎮座して、いろいろな思いをめぐらせていました。

 

次回に続きます。


レンズーリの拡充学習について 4

2017-01-24 22:03:27 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事の同じ見本を見てから、まったく別路線で、犬の散歩迷路を作っていたBちゃん。

 

ポップアップ絵本にするために、切り込みを入れて、迷路上を犬が移動できるようにしました。

 

 Bちゃんは、いろいろな物事にアンテナを張っていて、あれこれサッとキャッチしたらすばやく意味を察する飲み込みのはやい子です。

一方で、そうした頭の回転の速さや、気持ちの移り変わりに身体がついていけていないところがあって、ひとつひとつ手順を踏んで学んでいったり、手指を使ってじっくり何かを作り込んでいったりするのは苦手です。

教室では、頭や心の動きと身体の動きがバランスよく協調していけるよう見守っていくことがBちゃんの才能を育む手立てだと考えています。

 

この日の算数レッスンで、「3人で分けるとあまらずに分けられる数」と「4人で分けるとあまらずに分けられる数」に赤と青のチップをおいていく作業をしました。

そうした後で、「3人で分けても4人で分けても1あまる数にどんなものがあるか?」という問題や、

50このお菓子は3人で分けると、いくつあまるのか、数の表を見てすぐに当てられるか」という問題を出しました。

すると、Bちゃんは即座にチップの位置とあまりの数の関係に気づいて、正しい答えを言っていました。

 

飴玉とかどんぐりのような身の回りにあるようなもので、「3人で分けたらどうなるかな?」とたずねるのなら、たいていの子が、自分の扱っている操作を理解して、あまりがいくつか答えることができます。

下の写真は赤い玉で「3人で分けても4人で分けても1あまる数にどんなものがあるか?」を試しているところで、それなら年長のDくんにもよくわかる作業のようでした。

でも、そうした赤い玉で行っていることが、数の表とどうつながりがあるのかすぐにピンとくる子は、2、3年生でもそれほど多くないのです。

子どものなかには、計算練習などは嫌がるけれど、3の倍数というのは、ある数を3で割ったときの答えと同じになるし、数の表で一定の間隔をあけて並んでいくことや、

その間にある数があまりのある数にあたること、そうして数の表の上で確認したことを数直線で表すとどうなるのか、ということが難なく同時に理解できる子らがいます。

そうした資質は、学校での勉強では気づかれず、基礎的な計算ルールを訓練させられる間に、大の算数嫌いになっているケースも度々見かけます。

 

Bちゃんは少し前に「九九を覚えられない。九九は嫌い」と言って、算数の学習を嫌がっていました。

コツコツ暗記して学ぶ学習が苦手なのです。

そんな時に、Bちゃんという子をよく理解していて、長所をうまく発揮して算数と関われるように気を配ってあげないと、せっかく数学的なセンスがある子なのに、

算数と聞いただけで心のシャッターを下ろしてしまう癖がつきかねないのです。

学習の面でも、テストで測れるものだけでなく、ひとりひとりの子の個性的な才能に気づいて、それに光を当てる機会を設けることの大事さを感じています。

 次回に続きます。


レンズーリの拡充学習について 3

2017-01-23 09:19:23 | 教育論 読者の方からのQ&A

 子どもの才能を伸ばそうと思うとき、たいていの方は「何をさせるか」「何を学ばせるか」に着目することと思います。

また好きかどうかを調べるのは、習い事やワークショップなどで体験させてみて、喜んだかどうか、他の子よりできていたかどうかで才能の有無がわかると思いがちです。

でも、たいていの場合、才能は誰かが設定した環境のなかにこじんまりと収まるものではありません。

「こんなことをやらせてあげよう」「こういう風に学ばせよう」という枠からあふれだしたり、ずれたり、

反対方向に針が振り切れたりするところにこそ、その子ならではの特別な能力が潜んでいるものですから。

 

ポップアップ絵本作りの際も、全員に見せたお手本は同じですが、それぞれの反応も、興味の方向性も、出来上がった作品もずいぶんちがいました。

 

 

前回、大きな大きな階段を作って、基本のおうちをぐるりと囲ませていたAちゃんの場合、最初に、「今日は何かやりたいことある?」とたずねた時から、

「何もやりたくなーい」「どれもつまらん、やりたくなーい」と言い続け、他の子らの希望で、ポップアップ絵本作りをすることに決まりかけると、

「何もやる気ないし、全然、やりたくなーい、面白くない」とわざとだるそうなポーズを繰り返していました。

Aちゃんが、「何もやりたくない、面白くない」とわざとだるそうなポーズをとるのは、完璧主義で、これまで誰も作ったことがないようなものを作りたいという理想の高さの裏返しで、

実際には、いつも、誰よりも活動に熱中し、ユニークな大作を仕上げているのです。

Aちゃんは創造的でエネルギッシュな子ですが、Aちゃんの能力をきちんと発揮させるには、関わる上でAちゃんという子をよく知っておく必要があります。

 

たとえば前回の記事で書いた

Aちゃんのお母さんの「それじゃ、ポップアップにならないわ。開かないでしょ」という注意のような

「何を作っているのか、何を目指しているのか」決まっている状態で、その路線からはずれたらダメだししていく」という形の関わりをすると、

たちまち、無気力で反抗的な態度に終始することになってしまうのです。

教室での創作活動は、お手本を教えますが、子どもがそこからはみだした時こそ、その子が自分の「こんな風にしたい」を存分に追及できるように手助けしています。

 

基本のお家を階段でぐるりと囲むアイデアは、確かにポップアップにできるのかさだかではありませんが、頭の回転が速く、次々と面白いことをひらめくAちゃんらしいアイデアです。

わたしはAちゃんのアイデアについて、Aちゃんの話にしっかり耳を傾けて相談に乗ることにしました。

 

「Aちゃん、らせん状に階段がだんだん高くなっていくのはすてきなデザインよね。どうしてもポップアップにしたい場合、かなり工夫がいるかもしれないよ。

もし、Aちゃんがポップアップ絵本ではなくて、開いた形のままで、ぐるっと階段があがっていく建物を作っていくのでもいいなら、とても魅力的な作品ができあがると思うよ」

といった話をすると、「たためなくてもいい」と言いました。

そこで、Aちゃんに階段の一方の高さと同じ幅の帯を作ると、もう一方にも壁ができることを教えました。

すると、Aちゃんは、目を輝かせて、「それなら、こうすればいいね」と、階段のスタート地点を最初に作った家の屋根部分まで引き上げました。

そうして、これから作るもう一方の壁に、反対側の壁の高さともともとあった家の高さを足すと、らせん状の階段は一気にスケールの大きいものになり魅力がアップしました。

 

それからのAちゃんは、2年生と思えない根気と創造力で、誰の手も借りずに残りの階段の壁をすべて作りあげたあとで、家の屋根から降りるための折り返す形の階段を作っていました。

次回に続きます。


レンズーリの拡充学習について 2

2017-01-22 21:38:10 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事の最後に、こんなことを書きました。

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教室では、ひとりひとりの個性と才能に向き合い、それを発展させる手伝いをずっと続けてくるなかで、拡充学習を成功させるための知恵をいろいろと蓄えてきました。

次回は、それについて、書いていこうと思います。

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それでは、今日の工作と算数のレッスンのなかで、どのような点に注意して子どもの才能を育む手伝いをしているのか、具体的に書いていこうと思います。

今日集まった子は2年生のAちゃん、Bちゃん、Cちゃんと、事情があって今回だけこのグループに参加している年長のDくんの4人です。

子どもたちに何がやりたいかたずねると、「ポップアップが作りたい」という話でした。

そこで、簡単なポップアップの作り方を3つ教えました。

こんな風に活動のお手本を見せるとき、

★ 2,3手順でできる易しさ

★ 今している活動の本質的な部分に気づくことができる

★ 自分の想像力で自在に習ったことを応用させていくことができる

★ 子どもたちにとって、すぐにでもやってみたいと思うような魅力的なもので、自分でできそうだという見通しが立つものである

ということを大切にしています。

工作本や実験の本に載っている見本は、子どもがその本質的な部分の気づきにくく応用しずらいものが多いので、本にあるものを教える際も、いったんそうした形に変えて伝えています。

 

年長のDくんは、器用で完璧主義で、日ごろから幾何学的な形や数の世界の秩序に強い関心を持っている子です。

そうしたDくんの資質は、教室でさまざまな取り組みを続けるうちに、非常に複雑なピタゴラ装置の仕組みを最後まで考え続けるような洗練されたものになってきました。

基本のポップアップの作り方を見たDくんは、「開いたら、5階建ての家がでてくるようにしたい」と言いました。

 

Dくんは高いお家をていねいに根気よく作っていました。

作り方に余裕があるようだったので、「ポップアップの階段の作り方を習いたい?」とたずねると、大きくうなずきました。

たたむことができる階段は、細い線を同じ幅に切ってから、階段状に折って、ポップアップする家の壁に対して垂直になるように貼ると作れます。

Dくんはこうした新しい技術の習得に熱心で、学んだことを何度も繰り返し活用し、独創的で完成度の高い作品を作りあげます。

それはDくんのすばらしい才能のひとつです。

Dくんがそうした才能を活かすには、身の回りのものや本を見た際に、そこで目にした新しいアイデアを自分のものとして取り入れるにはどうすればいいのか学ぶ必要があります。

 そこで、教室にある『工事げんば』というポップアップ絵本で使わているアイデアを取り入れて、ポップアップの家に何か付け加えてはどうかと提案しました。

 

「何度もおりたたんだ紙を広げていく」というポップアップの作り方が面白かったので、Dくんはエレベーターを作ることにしました。

 

広げるにつれて、エレベーターに乗った子が上へ上へと移動します。

工事現場の本では乗り物のクレーンに使われていたので、この活かし方はDくんならではのものです。

 

同じ見本を見せても、それぞれの子どもへの響き方は違います。

小2のAちゃんの場合、大きな大きな階段を作って、基本のお家のぐるりを囲ませていました。

たまたま見学していたお母さんが、「それじゃ、ポップアップにならないわ。開かないでしょ」と注意をしていました。

 

 

途中ですが、次回に続きます。


「教える早期教育には反対だけれど、気づかせる早期教育には大賛成。」という言葉

2017-01-19 20:00:17 | 教育論 読者の方からのQ&A

↑この写真の答えは間違っています。どこがおかしいか直感でわかりますか?

 

以前も紹介したことがあるのですが、『よみがえれ思考力』ジェーン・ハーリー  大修館書店の中に、就学前の「学習」環境の設定する研究にもとづいたガイドラインがしめされています。

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★ 六歳以前の子どもの仕事は、周りの世界を理解する方法を学習することであり、学習に関わる神経構造が関与しない意味のない教材を丸暗記させることではない。

★ 数や文字などの作業的レベルの学習課題を「教える」ようなワークブック、あるいはそれに類似した市販の「学習教材」を避ける。

★ 遊びの感覚的な側面は言葉でつなぎとめることができる。それはどんなに見え、聞こえ、嗅い、味がし、感じがするのかたずねる。

★黒板や塗り絵、粘土や砂、フィンガーペインティング、水、折り紙、のり、どろんこが子どもの感覚受容系を構造化し、さらに成功にさせる助けとなる遊びの素材である。

目を閉じて子どもの混沌とした頭の中で、ニューロンの樹状突起が枝を広げていくさまを思い浮かべてほしい。

(『よみがえれ思考力』から)
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子どもの思考力について研究している方々によると、早期教育には弊害が生まれるものと豊かな成長の土壌となるものの2タイプあるようです。

 

先に紹介したような就学前の「学習」環境の設定する研究にもとづいたガイドラインを目にしても、教えれば教えるだけ吸い取り紙のように覚えていく幼児を見ていると、

「早めにできるようになることが、それほど問題があるとは思えない」「たくさん知識があるのにこしたことはないのに、教えることに問題があると聞いても、ピンとこない」という方が多いのではないでしょうか。

わたしも何度も繰り返しブログでこの話題を取り上げてきたもののどうも伝えたいいとがきちんと伝わっているように思えずもやもやしていました。

 

 

そんな折り、受験業界でお仕事されながら3歳と1歳のお子さんを育てておられるあさがおさんのブログを読みました。

読んだ瞬間、「そうだー、私が考えていたことは、まさにそれ!」という一言が喉元まで‥‥‥(すいません、あまりに同じ感想だったので、あさがおさんの記事から言葉をそのまま拝借しています

そこであさがおさんにお願いして、ブログで記事を紹介させていただくお許しをいただきました。

中学受験の算数について同僚と話していたあさがおさん。

ある一定のところからなかなか伸びず頭打ちになってしまう子と、そうでない子の違いは何か?

なぜ女子は(の多くが)ああも筆算が好きなのか?

工夫できるものは、筆算せずに解いた方がミス減るはずなのに。

それに筆算は機械的に計算できてしまうから、それに頼る癖がつくと、数字に対するセンスが磨かれなくなる‥‥‥などなど。

つまり、同僚の方々は、「筆算より計算の工夫をする方が楽だし応用が効くのに、何で頑なに筆算にこだわるのか」頭をかしげていたそうです。

そこで、「筆算好きな女子」の代表として、孤軍奮闘したという あさがおさん。

一度便利な道具(筆算)を手に入れて、汎用性があるとなれば、頼るようになるのは当然。

その道具に頼ることに慣れてから突然、「筆算せず、まずは計算を工夫してみろ」って言われても、それは「思考回路を一から組み立て直しなさい」、と言われているようなもの。

同僚の方々は、先に便利な道具を与えるから頼ってしまうのではないか‥‥‥と、学校で筆算を習う段階が、現状早すぎるのではないか?

習う前に、もっと計算の工夫というか、「具体」で数を扱う練習を沢山しないとダメなのではないか?

九九だって、暗唱を先にさせる前に、自らその法則性に気づけたかどうかでその後の伸びが大きく違う。

道具を先に与えてしまうことで、自ら気づいたり考えたりする機会が奪われてしまっているのでは。

と議論が深入りしていったその時、同僚の方がこんな言葉を口にしたそうです。

教える早期教育には反対だけれど、気づかせる早期教育には大賛成。

この言葉が、あさがおさんの心にストン!!と落ちてきましたそうですが‥‥‥

わたしの心にもストンと落ちてきました。本当に同感です。

 

「教える」教育と「気づかせる」教育のちがいとは、突き詰めていくと、「わかる喜び」のあるなしのちがいなのかもしれません。

今月の初めに算数難問研究部 1  算数難問研究部 2というレッスンの記事を書いた際に、青空学園数学科というブログの南海先生にホームページ上の言葉を転載させていただくことをお願いすると、

次のようなお返事をいただきました。

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前にも一度ブログで紹介いただきました.こちらはリンクも引用も自由です.
むしろ引用いただいたことに感謝します.

高校生を見ていますと,人に聞く前にまず自分でわかるまで考えないと気がすまない生徒と,
途中ですぐに答を見てしまう生徒がいます.
前者の方が時間がかかっても必ず力が伸びるのです.

この二つの傾向が,高校段階ではもうその人の考える態度としてある程度できています.
もっと小さい頃に自分で考えわかる喜びを経験していれば,
記憶の中のその喜びに引かれて,高校になってもわかるまで考えるようになります.

ですから小さい時の経験がたいへん重要だということを実感しています.
教える立場でいえば,それを引き出す指導は,なかなか難しいだろうと思います.

追伸:幼少時代に「わかった」という経験をすることが,
高校大学でどのように生きるのか,追跡調査もされると,ありがたいです.

これからもよろしくお願いします.


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文中の「人に聞く前にまず自分でわかるまで考えないと気がすまない生徒と途中ですぐ答えを見てしまう生徒がいて、この2つの傾向は、高校段階ではもうその人の考える態度としてできています。

もっと小さい頃に自分で考える喜びを経験していれば、記憶の中の喜びに引かれて、高校になってもわかるまで考えるようになります」という言葉に触れて、幼児や小学生に対する教育のあり方の大切さをしみじみと感じました。

「教える」のではなく「気づかせる」環境を与えて、自分で考え、「わかった!」という喜びをつかめるように子どもたちを支えていきたい、と強く思いました。


勉強が好きになるまでのプロセス 10

2017-01-02 19:59:39 | 教育論 読者の方からのQ&A

勉強が好きになるまでのプロセス 4で、敏感な子についてこんなことを書きました。

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「相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」を解除していくことと、相手と自分の気持ちを強烈に味わいながらも、それを楽しみ、それによって自分のエネルギーを最大限に発揮していける状態にしていくこと

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これについて、勉強が好きになるまでのプロセス 9で少しだけ説明したのですが、別の面から言葉にしておこうと思います。

 

北海道大学の戸田竜也先生が、『教育』という冊子のなかで、自己肯定感について、こんな指摘をしておられます。

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きょうだいは、親だけでなく、祖父母や関係する支援者などからも「しっかりしている」「障害のある子どもの面倒を見て偉い」等評価されることが多い。

きょうだいは、自分のポジティブな側面が評価されることを学習する一方、「自分の弱さ」をそれらの人たちに受け入れられた経験・機会に乏しい。

ゆえに、あるときにはだらしなく、親にあまえたり、弱さもある「ありのままの自分」が、親や周囲の人たちに受け入れられるということに確信がもてないのである。

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この指摘は、障害児の「きょうだい」支援についての文脈で書かれたものですが、きょうだいに障害のある子がいなくても、

完璧主義の子、五感や人との関わりに過敏なところがある子、幼児期から評価や結果を比べる環境に育った子、過剰に適応がいい子、いわゆるおりこうさんタイプの子に対しても、十分すぎるほどの配慮が必要なところだと感じています。

今回の記事では、完璧主義の子、五感や人との関わりに過敏なところがある子に焦点をあてて書いていくことにします。

ごく一般的な子の場合、「褒めて育てる」ことは、自己肯定感を育むことにつながるものです。

でも、完璧主義の子や五感や人との関わりに過敏なところがある子は、褒められると、褒められるような相手の求める自分しか外に出せなくなってしまいがちなので、適度な配慮が必要です。

相手の求める自分しか出せなくなるのと正反対のようで、同じようなタイプの子が陥りがちな態度に、理想的な自分が出せない場面で、パニックを起こしたり、自分のなかに引きこもってしまったりするというものがあります。

もしかして期待通りの自分が出せないかもしれないという不安で、反抗的なムスッとした態度を取ったり、バカ騒ぎをしたりすることもあります。

特に、「相手の気持ちも自分自身の好き嫌いも強烈にせまってしまう」という葛藤を抱える子は、非常に幼い時期から、ありのままの自分を表現するのが難しいように見えます。

大人の気持ちをいち早くキャッチして、「期待通り動かなくてはいけない」という思いに縛られる一方で、年齢以上に自分の意志や好みがはっきりしていて、自分を束縛する外の刺激に対しても、外の期待を裏切りたい自分自身に対してもいらだちを感じているようです。

2,3歳であっても、「こうして、こうして、こうしよう」といった何手順かの行動のイメージを持って動いているのに、大人が自分に何を求めているかも即座に気づくため、

自分のしようとしたことをしょっちゅう中断されて、ちょっと緊張気味に大人にあわせています。

でも、自分の意志で動きたかったという気持ちはなかなか消えないようです。

おまけに、大人が自分が喜んでいることや楽しそうにしていること期待しているのを感受するため、自分自身に対するいらだちを募らせたり、

「うれしい、面白い、楽しい、わくわくする」といった感情をあまり表さなくなったりします。

一方で、同じ理由で、ずっと激しいかんしゃくを起こし続けて、リラックスして遊べなくなる場合もあります。

そうしたときに、大人がそうした子の性質をよく理解して、子どもがありのままの自分を出しやすいよう調整してあげると、激しいかんしゃくばかり起こしていた子は、真反対の終始穏やかで落ち着いた子になるし、

何をするのもイヤイヤ取り組んでいた子が、これも真反対に、長い時間、集中して物事に取り組むようになったりするのです。


考えることが苦手な子が、考えるようになるまでの道筋 

2017-01-01 22:41:01 | 教育論 読者の方からのQ&A

「考えることが苦手な子」っていますよね。

 

何かたずねると、どこから飛んできたのかわからない言葉や数を言い、間違えたと気付くと、さらに関係のない言葉や数字をパッパと口にします。

その間、考えた形跡はなし。

もちろん答えは間違っています。

 

考えることが苦手になるには、そのもととなったさまざまな原因があるはずです。

 

それにしても、

「考えることがちょっと苦手 →

 親や周囲に呆れられたり、叱られたり、笑われたりする → 

考えなくてはならない場面に遭遇すると、気が急いたり、落ち込んだり、イライラしたり、逃げ出したい気分になるから、さらに考えない癖がつく」

という負のスパイラルに陥らないためにはどうすればいいのでしょう。

 

わたしが一番大切だと思うのは、それぞれの子の「今の判断」「今の好み」「今の気持ち」「今の嫌だという思い」「今の能力」といったものを、尊重してあげることです。

特に、反抗心やネガティブな感情や不満や疑う思いが自然に自由に表現できるようにしてあげることです。

 

もし、親御さんがわが子にすばらしいものをたくさん与えてあげたいと思い、こんなおもちゃ、こんな習い事、こんなお洋服、と選んでは与え、

「これをするといいよ」「これを食べるといいうよ」「このテレビを見るといいよ」「この本を読むといいよ」と、子どもが自分で何かを選ぶ前に先回りして、子どものすることを決めてしまったとするとどうなるでしょう。

おそらく、子どもによったら、言われるままにやってみたらそれほどいやではないし、それに反発するほどのエネルギーも自信も持ち合わせていないし、

ちょっともやもやした気分だけど、まっいいか、とそれに依存するようになるでしょう。

 

すると、まず、選んで判断する時点で、「どれが自分がしたいことかな?」と以前行った時の記憶と照らし合わせながらよく考えてみる体験がなくなります。

また、やってみてうまくいかなくても、自分が選らんだのでないから責任を感じません。

つまり、結果なんかどうでもいい、という態度になるのです。

 

すると、当然、何かしてその結果がどうなるかに無関心なので、推測したり、論理的に考えたりする力がとても弱くなるのです。

 

ここまでの話を読んで、「それはわかった。でも、それならいったいどうすればいいの?}と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

 

教室の子たちを見ていると、考えようとしなかった子が考えるようになるまでに共通する道筋があります。

 

工作でもごっこ遊びでもブロックでも、他のどんな遊びでもいいのですが、大人から見ると呆れるくらいレベルが低い活動をたくさん繰り返す期間を経るということです。

物作りが上手になって、自分の考えを論理的にわかりやすく説明できるようになる子は、「折り紙をグチャッとしただけでキャンディー」なんて物作りをしていた時期を周囲の大人に気長に見守ってもらっている子たちでもあるのです。

 

自分では作らずに、親に作ってもらう作品を心から楽しみにして、「もっともっと」と期待する時期があった子でもあります。

そんなふうにアウトプットのレベルは気にかけず、向上することを急がずに、他の人のすることにあこがれたり、面白いなと感じたり、他の子とのやりとりを楽しんだりして、視野をどんどん広げていくと、自然に考えることが好きになっていくのです。

子どもを考えることが好きな子にしようと思ったら、身近にいる大人の視線の先、興味の方向がどこに向けられているか、が重要だと感じています。

大人がわが子がどんなアウトプットをするかばかりに関心を向けていれば、子どもは自分の頭の中でイメージしたり考えたりする時間を取らずに行動するか、過去に聞いたことを口にするか、とにかく外にアウトプットすることにばかり気持ちを傾けるはずです。

一方、大人が子どもではなく、身近な不思議や、物語の進行や、物の仕組みや数や図形の世界の面白さなどに関心を向けていれば、子どもの心はそちらに吸い寄せられて、気付かない間に想像を膨らませて、さまざまなことを考えるようになりますよね。


勉強が好きになるまでのプロセス 9

2016-12-23 10:06:59 | 教育論 読者の方からのQ&A

少し前の記事に

「虹色教室でわたしがしている仕事の大半は、この『相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態』を解除していくことと相手と自分の気持ちを強烈に味わいながらも、それを楽しみ、それによって自分のエネルギーを最大限に発揮していける状態にしていくことです。」

と書きました。

それに対して、こんな質問をいただきました。

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こちらで書かれている「強烈な感情にがんじがらめになって動けなくなる状態」のことについて、ぜひ詳しく教えていただきたいです。

「ああなんだかわかる」感覚はあるのですが、具体的にどんなことが起こっているのか、教室ではどのように解除しているのか知りたいです。

うちの下の子は、第二子なだけあり要領がいい部分もあり、普段は上の子ほど問題が見受けられないのですが、たまにこのように強烈な感情がコントロールできなくなって固まっているふしがあります。

先日は発表会で、観客の存在に圧倒されてしまい、自分でもどうしていいかわからなくなったのか、終始怒った表情で、後は横を向いたり髪をいじったりしていました。

本人はすごく本番楽しみにしていて、リハーサルはばっちりできていたので、本当は本人も笑顔で素敵な演技をしたかったはずと思うのですが。

泣きそうな気持ち、葛藤している様子が見ていて伝わってきてつらかったです。

また機会がありましたら記事にしていただけるのを楽しみにしています。

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実は質問をいただいた方はよく知っている方で、お子さんといっしょに物作りをしたり、遊んだりしたことがあります。

質問主さんの子育てのあり方を思うと、わたしがわざわざアドバイスしなくても、今のままの関わりで十分なのでは、と感じます。

生まれつき過敏な子には、思いもよらない場面で驚かされることもあるでしょうけど、経験を積むうちに和らいでいくはずです。

そうした個人的にお伝えする話とは別に、こうした場面にわたしならどう対応するかお話しますね。

 

不思議なアリスのお茶会で、いかれ帽子屋が、「何でもない日バンザイ!きみとぼくとが生まれなかった日。何でもない日、おめでとう!」と、誕生日じゃない日のお祝いをしている話を知ってる方は多いと思います。

この「特別な日」と「特別じゃない日」をひっくり返したり、「価値あるもの」と「価値のないもの」をひっくり返して話題にするのは、子ども向けの物語でよくあるパターンです。

リンドグレーンの長靴下のピッピは、学校に行かずに気ままに暮らしている小学生ですが、ある時、学校に行っている子らには夏休みや冬休みがあるのに、自分にはないことに怒って学校に抗議しに行きます。

くまのプーさんの世界でも、おバカさんばかりが暮らしているヘルムの村でも、言葉遊びのなかで、物と物が交換され、価値観がひっくり返されます。

子どもたちは、こうした言葉遊びやイメージの世界のおふざけが大好きで、それによってがんじがらめになった葛藤を解いたり、不安感をユーモアで解消したりする姿があります。

質問主さんのふたり目ちゃんの

 「本番楽しみにしていて、リハーサルはばっちりできていたので、本当は本人も笑顔で素敵な演技をしたかったはずなのに、 泣きそうな気持ちになって葛藤しているようだった」

という出来事は、過敏な子なら、どんなに適切に育てられていても、たびたび遭遇するアクシデントだと思います。

おそらく、普段の関わりがいいので、過敏さが目立たないものの、他人の視線や特殊な状況や自分自身の緊張に人一倍影響されやすい子なのだと思います。
 
ですから、こうしたアクシデント自体を避けることはできないけれど、そうしたアクシデントの後で、身近な大人がその子とどう関わるかは、次に同じような体験を迎える際の子どもの行動を左右するのではないか、と感じています。
 
 
「本番が一番大事で、本番でうまくできなかったら失敗」
 
という考えは、子どもにするとあまりにも辛い現実です。
まるで、月曜日の朝に、「日曜日はもう終わってしまって、楽しいことは全部終わり」と告げるようなものです。
 
もし、アリスのいかれ帽子屋なら、
「本番なんて、なんだ!あんな大勢の人にすてきな演技を見せるものか!もったいない。ぼくもうさぎもチェシャ猫も、本番じゃない日だけ、すばらしい演技をするよ」
と言うでしょう。
 
もしくまのプーなら、
「本番って、何だい?それは食べられるの?」とたずねるでしょう。
 
おバカの村ヘルムの長老は、
「本番で失敗したから悲しんでおるのか?
それなら、本番という言葉とリハーサルという言葉を入れ替えてしまえばいいんじゃ。
そうすれば、お前は本番で大成功して、リハーサルで失敗したことになる。
ヘルムの知恵者に解決できぬことはない。」と告げるでしょう。
 
児童文学の主人公たちは、
「まばたきする間にいいこと思いついた。
他の本番を作ろうよ。お母さんとかお姉ちゃんの前で演技する本番や、おじいちゃんやおばあちゃんたちを
集めて、椅子を並べて、舞台を作ればいい」と提案するでしょう。
 
そうした言葉遊びやイメージの世界の遊びは、
子どもの失敗の傷をいやすだけでなく、
再度、失敗したことにチャレンジしようとする勇気をもたらします。

勉強が好きになるまでのプロセス 8

2016-12-17 12:56:23 | 教育論 読者の方からのQ&A

先の記事で書いたように、子どものころのわたしは本が好きでたまらない子でした。

月に一度、移動図書のバスが近所に来てくれたのですが、家族の貸し出しカードを全部使いきっても

読み足らず、学校の図書室の常連でしたし、休日にはおこずかいを使って2駅先の図書館に通いつめていました。

 

そうした子ども時代の読書体験は、

「人が人生で遭遇する問題」に対して、どのように捉えたらいいのか

ちょっとしたコツを伝授してくれました。

 

それは、「人が人生で遭遇する問題」は、

ページの裏に答えが書いてあるなぞなぞやクイズとはちがうということです。

 

それだけで分厚い本一冊分のページを読み切って、ようやく完結するもの。

 答えを求めてページをめくっていたつもりが、

最終章まできて、自分自身が答えだったと気づくもの。

 問題の対象を何とか変えたくて、読みはじめたはずが、

時間とプロセスの力で自分自身が変容していたことを悟るものだということです。

 

そんな質感、

どっしりした手ごたえこそ、わたしが受け取った知恵の中身です。

 

「勉強ができない」「勉強がきらい」ということにしても

人生で遭遇する難しい問題のひとつです。

ちまたにあふれている宣伝文句の通りにアレやコレを試して、

望む結果に子どもを持っていこうとしても、

うまくいかないか、たとえうまくいったとしても別の問題の火種を作ってしまいかねません。

身近な大人には、

子ども自身が、ひとつひとつのプロセスを踏んでいく姿を見守る

分厚い本1冊分くらいの時間感覚が必要なのです。

 

前回までの記事で、こんなことを書きました。

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大人の管理や支配は、教育現場から、

自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問などを

発信していく姿、自分の思考の筋道を苦労しながら表現していこうとする意欲を根こそぎ奪ってしまいます。

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 これは教室をしていて、毎日のように、実感していることです。

なぜなら、「勉強きらい」「勉強面白くない」「学校の勉強、つまんない」と繰り返していた子が、

子どもが勉強に興味を持ちだしたり、自発的に勉強しはじめたり、表情を輝かせて学ぶようになったりする

きっかけはみな同じなのです。

自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問がそれぞれの子のなかから生まれた瞬間です。

 

少し前に、こんなことがありました。

小学2年生の子らのレッスンで、「0,1,2,3,4

の5枚のカードがあります。これから3枚を取り出して、ならべて3けたの整数を作ります。

全部で何個の整数ができますか」という問題を出しました。

これはトップクラス問題集の4年生向けの問題なので、クイズを出す感じて、

できるようにさせるためではなく、

「どんな風に解くかな?」と様子を見るために出しました。

すると、最初はただ適当に書き出していこうとしていたAくんが、

「あっそうだ!」と紙に線を引いて、「1,2,3,4」のスペースを作ってから

百の位が1になるもの、2になるもの……などに分けて書き出しはじめました。

友だちのBくんも、同じように分けて解きだしました。

ふたりは、0の扱いや、書き出す上で気づいたことなどを

ああだこうだと言い合いながら解いていました。

途中で何か思いついた様子で、「あっ、そうだ!」と言って、

よりわかりやすい方法に書き直したりしていました。

 

ふたりとも、自分なりのアイデアをいろいろ試した後なので、

「どのようにしたいのか」がよくわかっているし、「どうもうまくいかない点」にも気づいています。

 

そこで、こうした問題を解くのに便利な樹木のような線を入れて

整理する方法を教えると、「あーそうか」と興味しんしんでした。

 

これが、先にプリントなどで樹木のような整理の仕方を習って、

その解き方に数字を当てはめていくように教えると、

子どもの頭は、「こういう問題を解くにはこういう図を書いて解く」ということはわかっても、

何のためにそんな整理の仕方をするのか、理解できないのです。

子どもが自分の頭を使って考える前に答えを教えてしまって、

その結果に向けて、無理やりにできる形に持っていこうとすると、

なぞるようにはできても、わかりはしないのです。

 

この日、自分でいくつかの解き方を試してみたAくんは、

全身で「算数って面白いな」という思いを発していました。

 

 座り方は何通り?

 


勉強が好きになるまでのプロセス 7

2016-12-16 15:10:37 | 教育論 読者の方からのQ&A

「あそびのアトリエ リボンクラブ」のレオ先生が自分を律する力と自分の限界を知る経験の記事のなかで、こんなことを書いておられました。

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私が子どもの頃、大人のいないところで経験した少し危険なこと、悪ふざけ、なんの生産性もないたわいもないこと…

でもそれが、私の中ではあたたかいものとして心の宝物のようにして残っています。

だから、子ども達の行動を
同じ気持ちになって見守っている自分がいます。

「それで何か?」と言われれば何も言い返す理論的な答えは持ち合わせていません。

ただ私の中で大切なことだと感じているから…そしてそこにはイキイキとした表情で元気に走り回ったり、責任をもってやり抜く子ども
達の姿が現実にあります。

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これを読んで、私自身も子ども時代の宝物に支えられて今の仕事を続けていることに思いあたりました。

宝物のひとつは、子どもの頃に読みふけった童話や児童文学の数々です。

 

わたしが、「相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」にがんじがらめになって、身体も頭も動きが鈍くなったり、落ち着きなくあちこちに意識をめぐらせて

ひとつのことにコミットメントできなかったりする子の気持ちを解除します……」といったことを書くと、「どんなメソッドを参考にしたのか?」「どこで学んだのか?」「何から知識を得たのか?」と疑問に思う方がいらっしゃるかもしれません。

もちろん、さまざまな情報と経験の積み重ねのなかで熟してきたものではあるけれど、子どもと信頼関係を築いたり、

複雑に絡んだ心の糸をほどいたり、見えない葛藤状態を解除したりする時に、わたしの進む方向を最も明るく照らしてくれるのは、童話や児童文学から得た知恵なのです。

子どもというのは、大人の作るきまりやルールには従わないけれど、物語の世界の秩序には素直に従います。

暴君のように振舞う子は、長靴をはいたネコの言葉に乗るうちにねずみに化けてしまいます。

えらそうな殿様っ子も乱暴な武士のような子も、一休さんやきっちょむさんのトンチにはかないません。

子どもたちはタオの心を持つ くまのプーさんの親友ですから、大人が老子に学ぶなら、どんなに荒れた心も静まります。

また、児童文学の多くは、子どもの内面の葛藤が、非常に長い時間をかけて、さまざまな体験や人とのかかわりのなかで昇華されていくことを教えてくれます。