昨日、『ことばに探る 心の不思議』という本のなかで、INREAL法というメソッドを目にしました。
それを見た時、わたしと同じような考え方をしている方々がいることと、なかなか伝わらず、誤解を受けがちだった「大人側の沈黙」の
ような引き算を主にした方法に価値が置かれていることをうれしく感じました。
INREAL法というのは、「子どもと大人の関わり方の改善」のための考え出された提案です。
子どもの言葉を育むヒントのひとつとして紹介されていました。
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<INREAL法>
Silence (沈黙)
子どもにああしなさい、こうしなさいと一方的に言うのをやめて、口を閉じ、黙って子どものようすを見守ります。
Observation(観察)
子どものしていること、子どもが何を見ているのかよく観察します。
Understanding(理解)
子どものしていることがみえてくると、子どもの考えていることがわかってきます。
Listening(聴くこと)
言葉を聴きとるだけでなく子どもがからだ全体で発している訴えを、感情も含め、全部聞いてあげてください。
『ことばに探る 心の不思議』(今井和子・汐見稔幸 村田道子編/ひとなる書房)
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『ことばに探る 心の不思議』は一般に流布している「子どもってこういう存在」というステレオタイプな観念に依拠することなく、
子どもの真実を見つめようという努力を重ねてきた方々が、議論を重ねた末に綴った文章を集めたものです。
わたしはこの1ヶ月ほど、「広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性障がいの疑いを指摘されたら」という文章を書き連ねてきました。
途中であっちこっちに脱線しながらも、しつこいほどこのタイトルで書き続けたのには、教室にいらしている一部の親御さんをのぞく
「多くの親御さんたちやこのブログの読者の方々」と「わたし」の間に横たわっていた溝を埋めたい、という思いが煮詰まっていたからでもあります。
わたしの言葉を尊重していただいているし、お互いの親しさこそは増すものの、わたしが最も重要だと感じているポイントを、相手方は最も軽く扱っているように見えるし、
わたしが伝えたことの一部は、理解されていないか、誤用されているように思われる……という、
わたしと相手方の間にある「しっくりいかない感じ」を言語化していくことでそれを解消していきたいと意気込んでいたのです。
そして、「36記事目」を書き終えてから、『ことばに探る 心の不思議』の本に出会って、心の底からホッと一息つくような心地を味わいました。
それは先に紹介したINREAL法を知ったこともありますが、何よりも、最初の書き手である汐見稔幸先生の『生きたものとしてのことば』という文章に自分の表現したかったことが全て科学的な裏付けのもとで集約されていたからだと思います。
先に汐見稔幸先生の文章に非常に勇気をいただいたという話を書きました。
『ことばに探る 心の不思議』からいくつか心に残った部分を紹介させていただきますね。
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ところでこのコミュニケーションということを考えるとき、リズムということがとてもたいせつになります。
最近の人間の研究の中で、人間の行為はすべてリズムをともなった動きであり、人間の内部での筋肉やことば、
大脳の働きのそれぞれのリズムは協応しているだけでなく、人間と人間がコミュニケーションしているときのお互いのリズムも、
さらに人間のリズムと人間の外の自然のリズムも協応していることが知られてきています。
人間内部のリズムでいえば、わたしたちがゆっくりしゃべるときは身体全体のたとえば心臓などのリズムも大脳の脳波のリズムもすべて
同調してゆっくりとなるのですが、あわててしゃべるときはすべて逆になります。
後者の人間と自然のリズム同調ということでいえば、コミュニケーションをしようとする人間同士でリズムが次第に一致していく(エントゥレイメントと言います。そうしないとコミュニケーションにならないのです)だけでなく、
体内時計のリズムが月の引力による潮の干満のリズムや地球の日周リズムと協応していくこと、
さらには宇宙の一定のリズムと一致していることなどが、知られてきているのです。
(『ことばに探る 心の不思議』今井和子 汐見稔幸 村田道子編/ひとなる書房 より引用)
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紹介した文章に、
「コミュニケーションをしようとする人間同士は、だんだんリズムが一致していくということ。
その現象をエントゥレイメントと言って、そうしないとコミュニケーションとならない。」
と書かれています。
それは人間の自然な姿なのでしょうが、親子でこうしたコミュニケーションが上手く交わされていないことが多々あるのです。
親御さんは子どもを目に入れても痛くないほど可愛がっていて、常に最高のものを与えてあげたいと思っており、子どもの側にはハンディーキャップなどはなくても、母子や父子で、エントゥレイメントと呼ばれるような現象がほとんど見られないことがめずらしくないのです。
子どもは、身近な大人とコミュニケーションをしてリズムを同調していくことで、物の見方や感じ方、扱い方、自分や相手、世界というものへの理解を深めていきます。
そのために、周囲の人や自然と同調する力を持って生まれてくるのでしょうから。
また自閉傾向のある子たちは、しばしばこうしたリズムを周囲と同調させていくことができないために、生き辛さを抱えて暮らしているのでしょうから。
でも気になるのは、ごくごく普通の子が、母子で自然な同調した状態にないということです。
数ヶ月前、アメリカのシアトルに行った際に、幼稚園のお迎えに見えた親御さんと子どもは、しっかりと心と心を通わせていた姿を見て、これは今の日本で顕著な状況なのかな?とも感じました。
もっとも、このエントゥレイメントという言葉自体は、この本を読んでから知ったのですが、言葉自体は知らない間も、自分が体験的に知っているコミュニケーションが成り立たっていない母子が多いことに違和感を感じていました。
長年、子どもと関わる仕事をしてきた子育て中の知人も、自分の子のお友だちにあたる幼児の親とコミュニケーションが成り立っていないことに驚愕していました。
会うたびに、それがいかに奇妙なことか、公園や園で見かける光景について話をうかがいます。
この人と人、子どもと大人がリズムを同調させていく現象は、本能的で自然なものですから、ない方が不思議なのですが、なぜか最近では、ある方がめずらしく感じるほどなのです。
それは、なぜなのでしょう?
自然な同調に基づくコミュニケーションが成り立たないまま成長するとどうなるのでしょう?
コミュニケーションんが成り立っているか、成り立っていないのか、その違いはどこにあるのでしょう?
「人間と人間がコミュニケーションしているときのお互いのリズムも、さらに人間のリズムと人間の外の自然のリズムも協応していることが知られてきています。」と汐見先生はおっしゃっています。
でも、現在、親と子の間でお互いのリズムが共鳴しあうようなコミュニケーションが成り立たちにくくなっているのは、なぜなのか?
と疑問を抱きました。
ちょっと話が本筋からそれるかもしれませんが、わたしがいつも、「う~ん……」と寂しく感じる事柄について話させてくださいね。
幼稚園に通っている教室の子たちが、お友だちからお手紙をもらってくるようになった、という報告を親御さんからいただくことがあります。
また、まだもらっていないけれど、園でお手紙交換が流行っているらしい、という話や、幼稚園でお手紙を交換したりするかもしれないので……という噂話やまだ先の話も耳にします。
どちらにせよ、親御さんたちの関心は、年少さんの入園当初から、
幼稚園のお手紙交換で不手際がないように……
つまりお手紙はもらったはいいものの、お返事を書く際にきちんと文章が書けなくてわが子が恥をかくようなことがあっては困るし、
字が汚くてあちらの親御さんからいらぬ評価を受けたくないし、
ここでつまずいて「自分はみんなのようにできない」と自己肯定感が下がるようなことがあったらどうしよう……?
ということなのです。
子どものいない方には笑い話に聞こえるかもしれませんが、園児の親にとっては深刻な悩みのひとつです。
でも、本当は、お手紙というのはコミュニケーションの一形態で、幼稚園の子にすれば、もらった時には、相手から「自分に寄せる気持ち」をもらったようでもあるし、自分が渡す番には、ワクワクドキドキ、何だか面白い遊びの輪に参加しているようでもあるし、言葉を交わしたり、プレゼントを渡しあったり、おもちゃを借りたり、貸してあげたりする経験の広がりのひとつとしてあるものです。
ですから、「はい」って渡す時に、それがシールを貼っただけでも、絵を描いただけでも、字を書かずに封筒に折り紙をたたんで入れただけでも、その子のその時期の能力で表現したいと思うものは何でも「手紙」になるし、それがその子の「心」でもあるのです。
そうして今自分のしたいことをしたいようにして、それがうまくコミュニケーションとして成り立った時に、子どもは自分に自信を持つし、とても幸せそうです。
子どもにとって、自分が思いつくものも、自分が決めたことも、自分が選んだものも、自分が表現したものも、
他のどんな素晴らしいものより、どんな優れたものより価値があるものですから。
大人がそうした子どもの心と共鳴しあっていたら、そうした子どもと同じように感じ、同じようにワクワクし、同じように誇りに思い、同じように感動することでしょう。
でも実際には、「お手紙」と認識したとたん、それがたとえ幼稚園児のようなまだ夢の国に住んでいるような子たちのやりとりに対しても、赤ペン片手に、テストの採点でもするように厳しい表情で覗き込むようなまなざしがあるのが現状です。
子どもがお友だちと親しくなっていく過程を味わうホンワカした気持ちに、ちょうどいい具合に同調する親御さんは少ないのです。
上の写真は、お友だちと関わることをずっと怖がっていた非常に敏感な女の子が取った行動の一シーンです。
この子は、ずっとお友だちを寄せ付けず、近づかれるのも嫌だし、何かもらうのも嫌だし、自分からおもちゃを貸したり、あげたりするなんてもってのほか、という様子で過ごしていました。
虹色教室でも、最初のうちは、教室の隅に敷物を敷いて、周囲を吊った布で仕切ってお母さんとだけやりとりしていました。
誰かが近づくと暴言を吐いて撃退し、お母さんとだけ会話を交わしていました。
それが教室でグループレッスンを続けるうちに、
そうした自分のスペースでぐちゃぐちゃと粘土をこねて遊んでいた状態から、お母さんとふたりだけの遊びがだんだんと美しくて想像力あふれるものへと変化していき、次には、わたしに「犬のリードを作って!」といった工作の注文を出すようになりました。
そのうち無関心だったお友だちの遊びを眺めることが増え、お友だちのお母さんとなら口が聞けるようになり、
しまいに、それまでは全く無関心だったお友だちが遊んでいるおもちゃを自分も使いたがるようになりました。
そして、ある時、かわいいシールを見つけて欲しがったので、貼らせてあげると、急に思いついたように、「どうぞ」と言って年下のお友だちにそれをあげたのです。
お手紙なのだそうです。
それから、自分の持っているおもちゃを他のお友だちにも配ってまわって、心からうれしそうにお母さんに抱きついていました。
「手紙」って、子どもにとって、こういうものなのです。
はじめてお手紙をもらった子どもの心が、相手とつながる喜びでホンワカしている時に、
「○○ちゃんったら、もう、ね が書けるのね」
といったまなざしで、それを見る時、子どもの心のリズムと、大人の心のリズムは不協和音を奏でているのではないでしょうか。
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食後にくつろいでいる息子に、こんなことをぼやきました。
「今の時代、いい教材もいくらでもあるし、学校にしても熱心すぎるくらいに勉強を教えているわけだから、それ以上、勉強させる方に力を入れなくたって、意志とか意欲とかセルフエスティームとか、自分で決めて自分で表現できるようにするとか、
そうした心の力をつけてくようにサポートしたらおのずと勉強が得意になっていくんだけどね。
虹色教室でしているのは、大方、それなんだけどね。
教室の子たちにしても、自分の好きなことをたっぷりさせて、自分の気持ちを言葉にできるようにして、
宿題だなんだってあんまり追いたてないように注意する……ってことだけで、よく頭を働かせるようになるし、勉強も好きになってる。
でもね、心の力をつけたら、結果として勉強もできるようになった子を見て、勉強部分だけ取りだして真似ようとしてうまくいかない人もいるし、こういうことをうまく伝えるのは難しいわね」
すると、息子からこんな返事が返ってきました。
「いろいろなものがメソッド化されて、他人を行動から評価することができるようになった分、心のように目に見えない力は成長しにくくなったのかもしれないね。
評価そのもののレベルが上がって、正確になってきたんだろうけど、評価を過信しすぎたり、子どもを比べたり分析したりするのが当たり前になっているのは、その弊害だろうな。
だって、ひと昔前までは、そうした評価対象からはずされているのが子どもだったはずだよね。
子どもは成長し変化していくものだから、どうなるものかわからない未知の部分をたくさん含んでいるものとして。
でも見える部分、行動として現れている部分を、すべてわからないにしろ仮定の段階でも、何らかの比べられる数値で表せるような評価の体系が増えすぎたことで、見えないし測るのが難しいようなものが過小評価されたり、無視される危険が出てきているのかな?
心とかアイデンティティーとかセルフエスティームとか、測れないとしても、いわばそれが人間のほとんどを占めていると言ってもいいもんじゃん。
体験とか、教育とか、おもちゃとか、子どもに価値のあるもの与えるといったって、体験や教育やおもちゃの側に価値基準があるわけじゃない。
そういうものにどんなに価値があったって一過性のものに過ぎないはすだよ。
本当の価値は、与えた時に派生してくるものの側にあって、その子のなかで生まれたり、結びついたり、変化したりする心と関連が深いものだからね」
わたしは、「そうそう」と言ってうなずきながら、
「教育の場でも、カリキュラムばかりが重視されて、何を学んだとか、どのページまで進んだとか、そういったことだけ注目されて、子どもの意欲とか責任感とか好奇心とか学ぶことへの愛情とかをどのように育てて、守っていくのかはあまり話題にならないのよね。
子どもはマシーンじゃなくて人間だから、自分で愛情を感じて自発的にするものじゃないと、長続きしないのに。」
息子 「評価方法のレベルが上がって、範囲も広がったら、外の世界から入ってくる情報が絶対だと思う人が増えてくんだろうな。
学びとる主体の側の、自分の感性のようなものに自信がもてないんじゃないかな。」