虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

勉強が好きになるまでのプロセス 6

2016-12-14 21:10:02 | 教育論 読者の方からのQ&A

「前回までの内容について、具体的な例をあげて、くわしく説明を……」という心づもりはあるのですが……。

これから書こうと思うことは、あらかじめ子どもとの関わりの土台部分を共有しておかないと、「読めば読むほど、何のことやらわからなくなった」となりがちな内容なのです。

そこで、子どもとの関わりの土台となるものをわかりやすい言葉で解説しておられる他のブログの記事を引用させていただくことにしました。

(先に書いた「相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」の話は、この土台について十分理解していただいた上でのより繊細な対応を扱っているため、後ほど書かせていただくことにします)

人気ブログ 『保育士おとーちゃんの子育て』に、大人は「結果」をつくりだしたくなる というテーマで書かれた一連の記事があります。

大人は「結果」を作り出したくなる

 『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと 

『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと  vol.2 

『大人は「結果」を作り出したくなる』のお話からふたつのこと  vol.3 

 

『保育士おとーちゃんの子育て』のブログにある一連の記事は、子どもの勉強について書かれたものではありません。

でもここに書かれている

★  「できるようにしないこと」が子供を「できるようにしてくれる」

★ 「教えない・させない」でも子供は伸びていく

という保育の本質に触れる言葉は、そのまま子どもの学びを支える上での本質を言い当ててもいます。

直接的に子供の姿をこねくり回すことで、大人の望む「結果」を子供に短絡的に持たせる関わりが、子どもが自主的に主体的に自分で考えていこうとする姿を奪ってしまうことは、保育の現場だけで起こっている問題ではありません。

教育現場でも、まだ十分に準備のできていない子に大人の望む結果を即座に求めるあまり、自分の頭で考えようとせずに、言われるままに丸暗記していく姿やただ作業として習ったことをなぞっていくだけの姿につながっているのです。

 

大人の管理や支配は、教育現場から、自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問などを発信していく姿、自分の思考の筋道を苦労しながら表現していこうとする意欲を根こそぎ奪ってしまいます。

「なにが必要かを伝え、子供にどうすべきかを考えさせ、そして実行させる。それでもうまくいかなかったり、失敗したら、そこにサポートをする。それでもできなければそこから大人が手を貸すのでも遅くはありません。」

という保育士おとーちゃんの言葉は、子どもの学びを支える際にも通じる言葉なのです。

 

勉強が好きになるまでのプロセス 1

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子どもが「習ってない!くんタイプ」だった場合、次にとおるべきプロセスは、間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態で、それを存分にやりつくしてから、次の「理解した上で答えを導きだす」「慎重に忍耐強く考え抜いていく」「考えるための技能を身につけて解く」というプロセスへと移っていくといいのかな……と考えています。

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間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態とは、ある意味、学びを支えている大人に対する信頼感がある状態とも言えます。

間違っていても、待ってもらえる、

間違っても、大人は自分の思考の筋道を信頼してくれていると安心している、

間違っていても、それは終わりではない、

間違っても、できなかったと烙印を押されるわけではない、

なぜ間違ったのか考えたり、もう一度チャレンジしなおせば、リベンジできる、

ということを体験的に知っている状態と言えるのです。

また、学んでいる自分自身に対する信頼感が十分ある証拠でもあります。

途中ですが次回に続きます。

 

最後までパズルを解ききって、深いため息をついていた1年生のAくん。

自分に対する信頼感が高まり、自分への見方が変わったようでした。


勉強が好きになるまでのプロセス 5

2016-12-09 22:41:56 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事の続きを書く前に、虹色教室のことについて、少し触れさせてください。

虹色教室の特徴は、ひとりひとりの子と長い期間関わることが多いことです。

1,2歳の頃出会って、それから10年あまりの年月、見守り続けることもめずらしくありません。

もうひとつの大きな特徴は、子どもとの関わり方が多岐にわたっていることです。

工作したり、実験したり、ゲームをしたり、ブロック遊びをしたり、ごっこに興じたり、算数を学んだり、お泊まりのレッスンに行ったり、それぞれの子のその時期の興味やニーズにそった活動をしたりしています。

そんなふうに、幼い頃から大人のような口をきくようになる頃まで、その子がどんな風に成長していくのか見守りながら年月を重ねるうちに、

子どもというものやそれぞれの子の個性、子どもの育ちというものに対して、深い信頼感や安心感や自然を前にして感じるような敬虔な気持ちを抱くようになりました。

 というのも、どんなに今、目の前の子の問題行動が目立っていても、できないことばかりが目についても、子どもは成長の過程でそれを取り戻すかのような劇的な成長の時期が訪れたり、

個性の力で、不利な条件を利用して、他の子らが真似できないような面を大きく伸ばしたりする姿を何度も目にしてきたからです。

 

戸塚滝登著の『子どもの脳が学ぶとき』に、数学者のシーモア・パパートの『パパートの原理』がの一部が紹介されています。

 

「子どもの脳は単に知識を詰め込まれるだけでは発達できず、その知識を使うための知識(より良い方法を見つけたり、発展させたりする体験などの知識)を与えられない限り、うまく成長することはできない」という考えのことです。

 

子どもの脳は単に新しいスキルや知識を身に付けるだけでは成長できない。

「知識を使いこなすための知識」

「知識についての知識」を学ぶことも、

子どもの脳の発達にとってかけがえのないステップになる。

ーー『子どもの脳が学ぶとき』戸塚滝登著

 

この著書には、脳神経科学者、ジュディス・ラポポートとジェイ・ジードの脳スキャナーを使った脳発達の研究の話題も取り上げられています。

ララポート博士が、普通のIQの子どもたち、ややIQが高い子どもたち、最もIQが高い子どもたちの3つのグループに分けて子どもの脳発達と知能指数との関係を追跡したところ、もっとIQが高い子どもたちにだけ、奇妙な現象が見つかりました。

それは、

IQの高い子どもたちの脳ほどスロースペースで成長し、思春期がやってくるまで成長をやめなかったということです。

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虹色教室では、先に書いたように長い期間、多岐にわたる活動を通して子どもたちとかかわるため、知識を使うための知識、つまり知恵を獲得していく場面にしょっちゅう遭遇します。

また、教室では、子どもがよりよい方法を見つけたり、オリジナルアイデアをひらめいたり、問題の解決法に気づいたり、それらを繰り返しによって洗練させ、より高度なものへと発展させていけるように環境を整え、私自身や親のスキルアップに努めてもいます。

 

最近、10年以上続けてきたそうした活動が実を結び、思った以上の成果を得るようになったのを肌で感じています。

その一方で、新たな問題に頭を悩ませてもいます。

「教室での子どもたちとの関わり」という現場の仕事について経験知が上がるにつれて、ブログを読む不特定多数の人々に伝えることがより難しくなってきたのです。

 

子どもの成長のスイッチはいつどんな時、どのような条件で入るのか、子どもとの関わりでどんな点に気をつけていけばいいのか、

現場の子どもとのやり取りのなかでは正確に把握できても、それを言葉でさらっと説明すると、どうしても言葉足らずになってしまうのです。

虹色教室通信は、そうした 現場での気づきを日誌のようにつづっているものです。忙しい日は日誌というよりメモの状態でアップしています。

 

<補足>

断片的な日々の話題なので、もしもう少しまとまった形で読みたいという方は、

 PHP研究所で、『子どもの考える力をぐっと引き出すお母さんの話し方』という本にこれまでの気づきをまとめていただいたので、

手に取ってみてください。

 

前置きが長くなってしまったのですが、次回は、具体的な子どもとのかかわりについて書きますね。(数日、忙しくなるので、この続きを書く前にレッスンに記事をはさむ予定です)


勉強が好きになるまでのプロセス 4

2016-12-05 20:30:43 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回までの記事で、

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遅ればせながら大逆転を遂げる子たちには、それが先に書いた「間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態(やる気がからぶり状態)」をしばらく過ごしているという共通点があります。

また、親や学校の先生や友達から一目置かれて認められていて、周囲の愛情を肌で感じられる状況があり、ありのままの自分を表現できる場がある点も共通しています。

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といったことを書きました。

書きたかったことは、子育てで同様の経験をした方以外には伝わらないだろうな……と思っています。

どうして伝わらないなどと消極的なことを言うのかというと、この状態は、「できなくてもくじけずに意欲的に取り組んでいる」という

一般的に言葉からイメージするであろう状態とはちがって、はっきりとはわからないけれど、

「子どもの脳の中で新しい回路が開発されつつあるんじゃないか」

「幼い子たちの敏感期や集中現象に似ている」

と感じさせるもので、これまでそれについて言及されるのを見たことがないからです。

 

これについてもうひとつ伝えづらさを感じる理由は、この話題が、「敏感さを持っている子」の、極端から極端に走る時のひとつの姿とも関わっていて、

「敏感さを持っている子って何?」と思った方には、説明不足を詫びつつ、ハイリーセンシティブな子たちについてくわしく解説してくださっている方の文章を読んでください、というしかないからです。

 

そんな伝えづらい話をしているものの、それでも興味があるから、もう少しくわしく……と思ってくださった方のために、言葉にできる部分を書いていこうと思います。

 

いつも読ませていただいているブログに、ハイリーセンシティブな子たちについて紹介されていました。

相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」にがんじがらめになって、身体も頭も動きが鈍くなったり、落ち着きなくあちこちに意識をめぐらせてひとつのことにコミットメントできなかったりする子は、かなりの数いるんじゃないかと思っています。

虹色教室でわたしがしている仕事の大半は、この「相手と自分の気持ちが強烈に迫る状態」を解除していくことと、相手と自分の気持ちを強烈に味わいながらも、それを楽しみ、それによって自分のエネルギーを最大限に発揮していける状態にしていくことです。

 

途中ですが次回に続きます。


勉強が好きになるまでのプロセス 3

2016-12-02 23:35:39 | 教育論 読者の方からのQ&A

↑でっかい釣り竿

熊本から帰ってきたかと思いきや、明日からユースホステルでのレッスンで、連日、ばたばたしています。

今日はブログを書く時間が取れなかったのですが……

前回の記事にこんなコメントをいただいたので紹介します。

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「間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態」

↑これがすごく大事なんだな〜って最近ひしひしと感じています。

先生もご存知の通り、娘の書く漢字の中には不思議な形の物がチラホラ、、、(;^ω^)
でも何故か漢字の練習を頑張らせよう、とかいう気になれず、しばらく様子見、、、

すると案の定、個人面談で先生に「漢字がちょっとね、、、漢字の書き取りをご自宅で頑張らせて下さい」言われました、、、
勿論、はい! と返事をし、で、そのまま何もやりませんでした(;^ω^)

それから約一年は見るも無残な点数ばかりで酷い状態でしたが、何故か私も娘もち〜っとも気にならず、、、

そうこうしているうちに娘の方が自発的に漢字の書き取りをするようになり、今ではほぼ毎回満点(*^^*)
しかし、私は勉強の事で特に褒めた訳でもなく、どちらかというと、「プリントくらいやりなさいよ!」と怒っていましたが、、、

では、何が娘をヤル気にさせたんだろう、、、???

「○○はいつも頑張ってるね!頑張り過ぎてない?息抜きも必要よ〜」と、毎日労いの言葉をかけていたから?
はたまた突然ヤル気を出してほぼ毎日やっている習い事のおかげ???
↑これがヤル気が溢れ出した状態なのかしら、、、?

理由はよく分からないままですが、一つだけわかっている事は、私が無理矢理漢字の書き取りをやらせていたらこうはならなかっただろうな、、、です。(;^ω^)

漢字のみならず、他の勉強も自発的にやってくれる日が来るのかな、、、にわかに信じがたいのですが、、、今は淡い期待を抱きながら日々過ごしています(*^^*)


勉強が好きになるまでのプロセス 2

2016-11-30 22:17:40 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事で、子どもが「習ってない!くんタイプ」だった場合、

次にとおるべきプロセスは、間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態で……といったことを書きました。

このことについて、もう少していねいに言葉にしていこうと思います。

 

幼児から小学校高学年くらいまでの子どもたちの育ちに付き合っていると、幼いころは、他の子よりあれこれ遅れがあってやきもきした子も

一般的な子より数年遅れでそうしたあれこれに夢中になって、急激な成長を遂げる時期を経るのをよく見かけます。

 

もちろんオールマイティーにできる子になるというわけではないけれど、苦手でできないように見えたことに、他の子が飽きたころに手をつけだしたかと思うと

いつのまにか苦手が得意になっている、できないが上手にできるに変わっている、という姿はめずらしくないのです。

熊本で会った小学生たちは、口をそろえて「工作が好き!」「絵を描くのが好き!」と言っていたのですが、荒尾のアトリエのレオさんにうかがうと、

今はもりもり作っているあの子もこの子も数年前まで「先生、作って!」が口癖だったというお話でした。

 

虹色教室では算数の学習も見ているので、工作や遊びだけでなく、勉強においても同様の変化があって、勉強でつまずいてばかりいた子が、ある共通するプロセスを経て、いつの間にか勉強が大好きな子になっているのをよく目にします。

 

遅ればせながら大逆転を遂げる子たちには、それが先に書いた「間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態」をしばらく過ごしているという共通点があります。

また、親や学校の先生や友達から一目置かれて認められていて、周囲の愛情を肌で感じられる状況があり、ありのままの自分を表現できる場がある点も共通しています。

 

「考える場面ですぐにシャッターを下ろしてしまう子」に対して、「間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態」に移行させようと思う親御さんは少ないです。

たいていは、できないところをできるようにさせようとしたり、考えないでも解ける形になおして、暗記メインで訓練したりします。

あっちのいい方法、こっちのいい方法、あの習い事、この習い事……と、とにかく大量にインプットすることで解決しようとする方もいます。

でも、そうした方法は、一時的に効果が上がったように見えてもさらに考えることから遠ざける結果を生んでしまいがちです。

 

話の途中ですが、次回に続きます。

(レッスンの記録がたまっているので、途中で別の記事をはさんで続きを書く予定です)


勉強が好きになるまでのプロセス 1

2016-11-29 10:14:08 | 教育論 読者の方からのQ&A

 熊本の遊びのアトリエさんのところにお邪魔してきました。写真は、連れて行っていただいた素敵なカフェです。

「九州に行く際は必ず寄りたい!」と感じた素敵なお店でした。

 

熊本の子どもたちと工作や算数を通して、わくわくする時間をたくさん過ごしてきました。

 

虹色教室で人気の「高さ(長さ)と重さ」のバトルカードは、熊本の子どもたちにも大好評でした。

バトルカードの裏には、ポケモンの体重と身長が書いてあります。(ポケモン以外に、身長(長さ)と体重がわかれば、どんなものも参加しているカードです。船舶や人間の子どもなども参加中。)

 

<遊び方> 

順番に、高さで勝負するか重さで勝負するかを宣言し、カードを出しあいます。

基本は、一番大きい数値のカードを出した人が勝ちですが、逆転勝ちのチャンスもあります。

体重の勝負で 負けてくやしいから逆転勝ちしたい場合、「勝ったカードの体重が、自分のカードの体重の何倍か」近い数字を当てられたら逆転できます。

正しいかどうかは、電卓で出します。

(勝ったカードの体重÷負けたカードの体重)

 

↑すごく上手に描いたカードとイラストをおみやげにもらいました。ありがとう!

 

学校で習ったりワークを解いたりする前に こうした学習ゲームで遊んでおくと、苦手感が薄れて意欲的に学習に取り組めるという声をいただいています。

AはBの□倍か?といった問題は、4、5年生が、

「どっちからどっちを割ればいいんだったかな?」と首を傾げたり、「難しい!無理!」と突っぱねたりする部分です。

でも、電卓を使ってでも、こうした遊びで触れていると、「何倍か?」という問いにどう対応すればいいか、すぐにピンとくるようになります。

 

熊本で算数のレッスンをしていると、見慣れないものを目にするたびに、よく見もしないで……また、数秒、考えてみることもしないで、即座に、「習ってない!そんなのわからん!」と突っぱねる子……(「習ってない!くんタイプ」とします。) と、

やる気まんまんで、積極的に参加しているんだけど、考えていく手立てが身についていなくて、答えを間違ってばかりいる子……(「やる気がからぶりくんタイプ」とします。)の2タイプの子たちがいました。

 

「習ってない!くんタイプ」と「やる気がからぶりくんタイプ」が、能力もできていることも同じくらいだったとすると、これから先の伸びとか可能性という面では、「やる気がからぶりくんタイプ」の方が利があるのです。

「習ってない!くんタイプ」は、チャレンジする前から、耳をふざいで、目を閉じて、心にシャッターをおろしちゃってますから。

でも、「やる気がからぶりくんタイプ」の方は、夢中になって関わっているうちに、体感が身についていったり、気づきが生まれたり、的確に指導することで、理解に至ったりするでしょうから。

 

ここで書きたいのは、だから、こんな口癖の子はダメだとか、この子の態度は丸でこの子はバツといったことではありません。

 

そうではなくて、子どもが「習ってない!くんタイプ」だった場合、次にとおるべきプロセスは、間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態で、

それを存分にやりつくしてから、次の

「理解した上で答えを導きだす」

「慎重に忍耐強く考え抜いていく」

「考えるための技能を身につけて解く」

というプロセスへと移っていくといいのかな……と考えています。

 

途中ですが、続きは次回に書きますね。


集団への適応力がいい子が考えない癖をつけないための微調節

2016-10-23 16:13:59 | 教育論 読者の方からのQ&A

年中さんと年長さんのレッスンの様子です。

幼稚園などの集団の場で「よくできる子」「しっかりしている子」とほめられることの多い適応力の高い子たちが、場の空気を読むことにあまりに長けているため、「考えない」癖を身につけてしまうことがあります。

 

先生や自分より上手にできる子を真似て吸収するのが上手で、いつも場の流れの先陣を切っている子たちです。

その場所で重要なキーマンとなる人物に即座に気付く力も持っています。

 

集団への適応力がいいことも、その場のカギを握っている人に気付くことも、他の人のすることを上手に真似ることができることも、とてもすばらしい能力です。

ですからその資質は大切にしてあげなくてはならないのですが、その資質が原因で、考えない癖がつきはじめたら、その子への関わり方や質問の仕方などを微調整して

「自分で考える」経験を積ませたり、自分が考えたからこそ味わえる喜びや達成感を体感させるように気をつけています。

 

「集団への適応力のいい子がつける考えない癖」と聞いても、ピンとこない方がいらっしゃるかもしれませんが、グループで子どもたちが活動する様子を見ているととてもよくある光景です。

 

集団での適応力がいい子は、どうすれば先生にほめられるのか、その場でリーダーシップをとっている子に認められるのかに敏感でよくわかっています。

またそこにいる「みんな」から好感を持たれる方法にも長けています。

常に変化する集団の行動や気持ちの流れにすばやく柔軟に対応することができます。

 

それらはどれも長所ではありますが、それらの長所が行きすぎると、次のような困った態度も生じてきます。

 

★何かを考える時に、自分では考えず、一番正しい答えを知っていそうな人に同調することに必死になる。

★集団の行動や気持ちの流れに敏感すぎて、物事の正しさより、「多数派」の意見を正しいと感じる。

★先生の言う通りにするのが一番と思い、自分では考えず、先生が言った通りにする。

 

「先生の言うとおりにする」ことは、正しいよいことでもあるのですが、それがそのまま「自分の頭では考えない」「思考のスイッチを停止する」ことにつながってしまう場合、少し体験を広げてあげる必要があると思っています。

 

物事は何でも模倣することから始まりますし、自分の頭で考えられるようになる前に、意味がわからなくても丸暗記して、身体で覚えてしまうことがその先の学習の基盤にもなります。

 

ですから、幼児や小学校低学年の子に、「自分で考えなさい」と言葉で繰り返すことは、勉強の仕方をわからなくする原因を作るかもしれません。

 

わたしが気にかけている「考えない」という状況は、次のようなものです。

 

先日、年中さんと年長さんのレッスンでこんなことがありました。

積み木を並べて形を作り、子どもたちの正面(反対側)に人形を置いて、その人形の目で積み木を見たらどのように見えるか、いくつかの選択肢の中から、上から見た図を選ぶという課題をしていました。

 

子どもたちは、「これ!」「これこれ!」と思い思いの図を選びます。

たいていの子が、自分の側からどう見えるかに引きずられて、間違った絵図を選んでいました。

その後、お人形の背後に回らせて、もう一度選択肢を見せると、子どもたちの間から、「あ~!!これだったんだ!」と歓声があがりました。

次の問題からは、「自分の見え方に簡単にだまされないぞ」という意気込みがあり、自分なりの推理を働かせていました。

 

この課題の最中、★ちゃんと●ちゃんは、ちょっと気になる態度をしめしました。

どちらも知能が高い集団への適応力が高い年中さんの女の子です。

 

大人の指示が通りやすくテキパキしていて、幼稚園では担任の先生や周囲の親御さんから絶賛されている子たちです。

お友だちからの好感度も抜群です。

わたしにしても、このふたり本当にかわいいなぁ、といつも感心してしまいます。

 

気になる態度というのは、「これと思う」と指さす時点で、自分が好きな子やいつも正解する子が「これ」と決めるのに、瞬時に反応して、「わたしもこれこれ!」と同調するように答えを選ぶので、

 お人形の背後に回って、本当はどれが正しかったのか自分の目で確かめる段になっても、「あーそうだったのか!」とか「あれ?何でだろう?ちがうな」といった反応がないことなのです。

 

問題となっていた積み木は見ようともせず、正しい答えを確かめたとたん、急に意見を変え出したお友だちの表情ばかり気にしています。

「みんながこれだったのかーって言ってるから、これなんだな」と納得する様子です。

 

といっても、こんな態度をしめすからといって、問い方を工夫すれば、★ちゃんも●ちゃんも考える力が弱いわけでも、推理が苦手なわけでもないのがよくわかるのです。

ふたりのこうした「考えない態度」は集団でのあり方でより有利であるために、わざわざ学習して身につけたもので、場面によって、それを少し解除する必要を実感させていくと、

対象をよく見て、そこから秩序やルールに気付く力を取り戻していくのです。

 

集団への適応力がいい子が、自分で考えようとせずに他人の意見に同調する姿を見て、親御さんから

「自分で考えなさい、と言った方がいいでしょうか」

「どのように言い聞かせたらいいでしょうか」

という質問をいただくことがよくあります。

 

「言えばわかる子だから」という思いが、こうした質問につながりやすいのかもしれません。

適応のいい子たちは、言葉で言い聞かすときちんと耳を傾け 、素直に従おうとします。

 

でも、どんな形であれ、こうしたタイプの子に「言い聞かす」のはあまり効果がないかもしれません。

 

こうしたタイプの子らは、「耳」を通して人を介して情報を得る態度に片寄りすぎて、自分の目で見ているものよりも、人が言っていることの方を信用しがちです。

また人の言葉から学びとろうとして、直接、自分で対象から何らかの秩序を引き出そう、見つけ出そうとする意欲がみられないことがよくあります。

 

前回の記事の★ちゃんは、「答えを確かめるために、人形の後ろから見てみよう」という誘いに、他の子らが好奇心ではちきれそうになって人形側に駆けよる時に、

「行かなくていいよ~、行かなくていい~もう答えがわかってるもん」と言いました。

 

人形側に回った子たちが、「これこれ!」と正しい答えを指すのを聞いたので、もう自分は知っているから、わざわざ見に行く必要はないと思ったようなのです。

 

また●ちゃんの方は、次の問題から、「わたしはここに座ってする」と、最初から人形の背後を陣取って、絶対ミスがない状態で、問題を解きたがりました。

 

ふたりとも、好奇心から、「推理したい」「言い当ててみたい」「当たるかな?」とドキドキする楽しさを味わうよりも、大人が評価するような「正解する」という結果に心を奪われているようでもありました。

といっても★ちゃんも●ちゃんも本来、知能が高くてしっかりした子たちですから、こちらが極力、言葉で言い聞かせるのを控えて、目で対象をよく眺めるようにうながしていると、

自分の力で「原因と結果」のつながりに気づきはじめ、たちまち考えることが楽しくなってもくるのです。

 

また「考えなさい」と注意するのではなく、その子たちの発する思いつきや論理に、こちらが強い関心をしめすと、

もともと人と人の間にある感情の流れに敏感な子たちですから、人が興味を持っている対象には、強い集中力を発揮するのです。

相手の心が自分の発言に興味を持っていると察すると、一生懸命、考えを伝えようとします。

 

気をつけなくてはならないのは、子どもが「大人は自分が正しいことを言うのに興味を抱いている」と思うか、

「大人は(間違っていようといなかろうと)自分が発言している内容に興味を持っている」と思うかにあるのです。

 

適応力のある子たちは、とても合理的で、結果主義の子が多いので、「大人が自分が正しいことを言うのに興味がある」なら、正しい答えを知ってそうな子の意見を真似るか、

先生の言うことを、わかっていてもわからなくても、そのまんま言う方がいい、と考えるからです。

 

小学3、4年生の子らのレッスンでこんなことがありました。

自由時間に何をするかは、「工作」か「実験」か「ボードゲーム」の中から子どもたちに選ばせています。

この日は「実験がしたい」という話でした。

科学の本を見ながら、「水」に関係する実験をいくつかして大盛り上がり。

好き勝手実験が行きすぎるのをちょっと締める意味もあって、帝塚山学院泉が丘中の「水の変化の実験」を扱った受験問題を、できる部分だけ実験を再現してみて、問題の答えを推理してみることにしました。

 

①試験管に水(5℃)を三分の一ほど入れる。

②この試験管をビーカーの中央に立て、まわりに水を入れる。

③水に食塩をまぜたものを氷にかける……

といった設問の実験手順を、ひとつひとつ子どもたちにやってもらいます。

教室にはスタンドや試験管に入れるタイプの温度計はありませんから、水に食塩をまぜたものを氷にかけた後は、「指、温度計で!」と冷たさの変化を指で確かめる適当実験ですが、

そんな適当な実験も、問われていることの意味を実感するのにはとても役立ちました。

 

「冷たー!!」「つ、冷たいー!!」と騒ぐうちに、どの子もすっかりこの実験の世界に入り込んでいました。

 

そんなわけで、実験そのものは、とても楽しく、していることをよく理解もしていて、水が氷になる際の体積の変化や重さの変化なんかも、

製氷皿で氷がプクッと膨らんでいる様子を手で作りながら「体積は冷えると増えるけど、重さは変わらないね」などと言いあっていました。

 

しかし、温度変化のグラフを選ぶ際には、「これこれ」と適当に選んで、選んだ理由をたずねても、はっきりしません。

 

それでも選んだ理由についてあれこれ雑談する時間があって、「だんだん氷になっていくんだから、温度はだんだん下がっていくはずと思ったから」など無理やりでも理由を絞りだすと、

正しい結果を知った時に「ああ、そうだったのか」と心に響く度合いが違います。

 

この子たち、虹色教室で続けてきた算数に関わることでは、しっかり考えてから取り組むのですが、こうした見慣れないものだと、よく見たり推理したり考えたりせずに、

つまり自分では全く考えてみようとせずに、「これ!」と適当に選んで、「正しい答え」を教えてもらってから暗記すれば一件落着、という学び方があたり前となっているようなのです。

 

集団への適応力のいい子たちほど、「どうせあとで先生が答えを教えてくれるのなら、選ぶ時点で真剣に考えたら時間の無駄」という合理的な精神や、

「自分で考えたものが間違えてしまうと恥ずかしいから、最初に選ぶ時点では茶化してどれにしようかな神様のいう通り~という具合に適当に選んでおこう」

と周囲の友だちを意識して、わざわざ考えないで選ぼうとする姿が目立ちます。

 

確かに、ある時期までは記憶力さえよければ、原因や理由について論理的に考えなくてもよい成績が取れるのです。

 

でも、いくつかの選択肢から「どれが正しいか」と選ぶ時点で、自分なりの推理や考えを練って答えて、間違えて、正しい答えを知る子と、

適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、正しい答えを知る子では、同じように正しい答えを記憶したとしても、ずいぶん差が生じてくるのです。

 

ただ、小学校高学年くらいになるまでは、むしろ、場の空気を読むのが上手で、先生の指示が通りやすくて、

「適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、正しい答えを知る」ことに徹している子の方が、学校でも塾でも、有利に働くことも多いのです。

自分で推理すると、教わった後も、自分の考えにこだわって再度ミスすることもありますから。

 

ただ、身近な大人が、自分なりの推理や考えを練って答えて、間違えて、正しい答えを知る子と、適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、

正しい答えを知る子を全く同じように見るか、後者を優遇するようなことが続くと、ほとんどの集団への適応力のいい子たちが、その態度に染まっていくのもよく見かけます。

 

繰り返すようですが、集団への適応力がいいということは、良い資質です。

ですからそれ自体に問題があるわけではありません。

ですが、もともとの気質とさまざまな要因が重なると、「考えない」癖が身に着くことがある、という話をしました。

 

そこで、「考えない癖」を生じさせる要因と思われるものをいくつか挙げてみますね。

 

★ 周囲の大人が、結論を急ぎがち。結果を早く出そうとしがち。

知能が高めで適応のいい子が考えない癖をつけるのは、すばやく良い結果や答えに行きつくのには自分で考えない方が早いと思うからです。

わたしたち大人も、「よくわからない素人が余計なことするより、最初から専門家に頼んだ方がいい」と考えることがありますよね。

 

★ 「勉強」と名のつくものが、考えないものが中心なので、「考える」というのが、どういうことかわからない。

文字の読み書きにしても、計算練習にしても、知能系のドリルにしても、自分で考えず、先に答えを暗記しておいて解いていくスタイルに慣れている子で、「考える」というのがどういうことかわからない子がいます。

 

★ 1~3歳のころの接し方。

子どもに語りかけては、何でも解説してしまうと、子どもが自分で見たり体験したりするものを、大人のフィルターを通したものに変質させてしまいます。

子どもが大人に向かって話しかけたり、働きかけたりする量より、大人が子どもに向かって話しかけたり、働きかけたりする量があまりに多い場合、さまざまな問題が生じてくるのを感じます。

0歳の赤ちゃんだって、相互にコミュニケーションしようという気持ちは十分持っていますから、大人が「教えたい病」にかからないよう注意が必要だと思います。

 

バランスが悪い接し方を続けていると、子どもが自分で見ているものを信用せず、自分で行動した体験のフィードバックから学ばず、大人の言葉だけを頼りに世界を理解しようとするようになっています。

 

★ 幼稚園が年齢以上の過剰な適応を求めている。

幼稚園での生活が始まって、考えない癖がひどくなる子がたくさんいます。

年齢以上の過剰な適応を求めている園に過剰に適応しようとして、それができてしまうため、先生方からいつも褒められているという子に、考えない癖が定着しやすいです。


遊びが幼く、ゲームのルールを説明しても聞こうとしない子にどう対応したらいいですか?

2016-08-21 07:19:24 | 教育論 読者の方からのQ&A

4~6歳の子をお持ちの親御さんから、「いっしょにゲームを楽しみたいのですが、ルールを教えてもきちんと話を聞こうとせずゲームのコマやチップやカードをバラバラに散らかして遊びます」

という相談を受けるときがあります。

そんな場合、子どもが喜んでやっていることをヒントに 、ゆるめのルールを設定するといいかもしれません。

写真は、チップをグチャグチャバラバラ~とかきまぜて遊んでいた子のために考えたゲームです。

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『グラグラゲーム』

赤いブロックの上に赤いチップ、黄色いブロックの上に黄色いチップを乗せていきました。

チップが落ちたら負け。

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ルールが複雑なゲームをする前に、このくらいのルールの遊びで

★ルールの説明を聞く★順番を守る

★ルールがあることの楽しさに気づく

ことに慣れていくと、市販のゲームをするときも、ルールを理解する姿勢が育ってきます。

4~6歳の子で、遊び方が幼くて、積んでいたものを崩したり、投げたり落としたり散らかしたりすることからいっこうに遊びが発展しないという子がいます。そんな場合、身近な大人が

本人がいつもやりたがることと、もう少し創造的な遊びの橋渡しとなるような、ゆるめの物作りを提案するとよいかもしれません。

↑写真のおもちゃに山ほどチップを入れては、ザーッとひっくり返していた★くん。

「また、こんな遊びばかりしている……」と嘆くより、紙コップや紙箱で回転する仕掛けや、エレベーターのようにチップを入れて上下させる仕掛けを作ってあげるといいかもしれません。

(詳しい作り方はオンライン教材の『回転』のコーナーでもいろいろと紹介しています。)

大人が教えたいことに、無理矢理 子どもを引き寄せようとしても、うまくいかないことがあります。

そんな時は、子どもが楽しんでいることの方に大人が近づいて、より広い世界との橋渡しをすることを考えてみるとうまくいくかもしれません。


子育てがわからなくなった方に(子どもの魂と触れ合うこと)

2016-08-16 08:27:49 | 教育論 読者の方からのQ&A

昨日、『ことばに探る 心の不思議』という本のなかで、INREAL法というメソッドを目にしました。

それを見た時、わたしと同じような考え方をしている方々がいることと、なかなか伝わらず、誤解を受けがちだった「大人側の沈黙」の

ような引き算を主にした方法に価値が置かれていることをうれしく感じました。

INREAL法というのは、「子どもと大人の関わり方の改善」のための考え出された提案です。

子どもの言葉を育むヒントのひとつとして紹介されていました。

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 <INREAL法>

Silence (沈黙)

子どもにああしなさい、こうしなさいと一方的に言うのをやめて、口を閉じ、黙って子どものようすを見守ります。

 

Observation(観察)

子どものしていること、子どもが何を見ているのかよく観察します。

 

Understanding(理解)

子どものしていることがみえてくると、子どもの考えていることがわかってきます。

 

Listening(聴くこと)

言葉を聴きとるだけでなく子どもがからだ全体で発している訴えを、感情も含め、全部聞いてあげてください。

 

『ことばに探る 心の不思議』(今井和子・汐見稔幸 村田道子編/ひとなる書房) 

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『ことばに探る 心の不思議』は一般に流布している「子どもってこういう存在」というステレオタイプな観念に依拠することなく、

子どもの真実を見つめようという努力を重ねてきた方々が、議論を重ねた末に綴った文章を集めたものです。  

わたしはこの1ヶ月ほど、「広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性障がいの疑いを指摘されたら」という文章を書き連ねてきました。

途中であっちこっちに脱線しながらも、しつこいほどこのタイトルで書き続けたのには、教室にいらしている一部の親御さんをのぞく

「多くの親御さんたちやこのブログの読者の方々」と「わたし」の間に横たわっていた溝を埋めたい、という思いが煮詰まっていたからでもあります。

 

わたしの言葉を尊重していただいているし、お互いの親しさこそは増すものの、わたしが最も重要だと感じているポイントを、相手方は最も軽く扱っているように見えるし、

わたしが伝えたことの一部は、理解されていないか、誤用されているように思われる……という、

わたしと相手方の間にある「しっくりいかない感じ」を言語化していくことでそれを解消していきたいと意気込んでいたのです。

そして、「36記事目」を書き終えてから、『ことばに探る 心の不思議』の本に出会って、心の底からホッと一息つくような心地を味わいました。

それは先に紹介したINREAL法を知ったこともありますが、何よりも、最初の書き手である汐見稔幸先生の『生きたものとしてのことば』という文章に自分の表現したかったことが全て科学的な裏付けのもとで集約されていたからだと思います。

先に汐見稔幸先生の文章に非常に勇気をいただいたという話を書きました。

『ことばに探る 心の不思議』からいくつか心に残った部分を紹介させていただきますね。

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ところでこのコミュニケーションということを考えるとき、リズムということがとてもたいせつになります。

最近の人間の研究の中で、人間の行為はすべてリズムをともなった動きであり、人間の内部での筋肉やことば、

大脳の働きのそれぞれのリズムは協応しているだけでなく、人間と人間がコミュニケーションしているときのお互いのリズムも、

さらに人間のリズムと人間の外の自然のリズムも協応していることが知られてきています。

人間内部のリズムでいえば、わたしたちがゆっくりしゃべるときは身体全体のたとえば心臓などのリズムも大脳の脳波のリズムもすべて

同調してゆっくりとなるのですが、あわててしゃべるときはすべて逆になります。

後者の人間と自然のリズム同調ということでいえば、コミュニケーションをしようとする人間同士でリズムが次第に一致していく(エントゥレイメントと言います。そうしないとコミュニケーションにならないのです)だけでなく、

体内時計のリズムが月の引力による潮の干満のリズムや地球の日周リズムと協応していくこと、

さらには宇宙の一定のリズムと一致していることなどが、知られてきているのです。

 (『ことばに探る 心の不思議』今井和子 汐見稔幸 村田道子編/ひとなる書房 より引用)

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紹介した文章に、

「コミュニケーションをしようとする人間同士は、だんだんリズムが一致していくということ。

その現象をエントゥレイメントと言って、そうしないとコミュニケーションとならない。」

と書かれています。

 

それは人間の自然な姿なのでしょうが、親子でこうしたコミュニケーションが上手く交わされていないことが多々あるのです。

親御さんは子どもを目に入れても痛くないほど可愛がっていて、常に最高のものを与えてあげたいと思っており、子どもの側にはハンディーキャップなどはなくても、母子や父子で、エントゥレイメントと呼ばれるような現象がほとんど見られないことがめずらしくないのです。

子どもは、身近な大人とコミュニケーションをしてリズムを同調していくことで、物の見方や感じ方、扱い方、自分や相手、世界というものへの理解を深めていきます。

そのために、周囲の人や自然と同調する力を持って生まれてくるのでしょうから。

また自閉傾向のある子たちは、しばしばこうしたリズムを周囲と同調させていくことができないために、生き辛さを抱えて暮らしているのでしょうから。

でも気になるのは、ごくごく普通の子が、母子で自然な同調した状態にないということです。

 

数ヶ月前、アメリカのシアトルに行った際に、幼稚園のお迎えに見えた親御さんと子どもは、しっかりと心と心を通わせていた姿を見て、これは今の日本で顕著な状況なのかな?とも感じました。

もっとも、このエントゥレイメントという言葉自体は、この本を読んでから知ったのですが、言葉自体は知らない間も、自分が体験的に知っているコミュニケーションが成り立たっていない母子が多いことに違和感を感じていました。

長年、子どもと関わる仕事をしてきた子育て中の知人も、自分の子のお友だちにあたる幼児の親とコミュニケーションが成り立っていないことに驚愕していました。

会うたびに、それがいかに奇妙なことか、公園や園で見かける光景について話をうかがいます。

この人と人、子どもと大人がリズムを同調させていく現象は、本能的で自然なものですから、ない方が不思議なのですが、なぜか最近では、ある方がめずらしく感じるほどなのです。  

 

それは、なぜなのでしょう?

自然な同調に基づくコミュニケーションが成り立たないまま成長するとどうなるのでしょう?

コミュニケーションんが成り立っているか、成り立っていないのか、その違いはどこにあるのでしょう?

 

「人間と人間がコミュニケーションしているときのお互いのリズムも、さらに人間のリズムと人間の外の自然のリズムも協応していることが知られてきています。」と汐見先生はおっしゃっています。

でも、現在、親と子の間でお互いのリズムが共鳴しあうようなコミュニケーションが成り立たちにくくなっているのは、なぜなのか?

と疑問を抱きました。

 

ちょっと話が本筋からそれるかもしれませんが、わたしがいつも、「う~ん……」と寂しく感じる事柄について話させてくださいね。

 

幼稚園に通っている教室の子たちが、お友だちからお手紙をもらってくるようになった、という報告を親御さんからいただくことがあります。

また、まだもらっていないけれど、園でお手紙交換が流行っているらしい、という話や、幼稚園でお手紙を交換したりするかもしれないので……という噂話やまだ先の話も耳にします。

どちらにせよ、親御さんたちの関心は、年少さんの入園当初から、

幼稚園のお手紙交換で不手際がないように……

つまりお手紙はもらったはいいものの、お返事を書く際にきちんと文章が書けなくてわが子が恥をかくようなことがあっては困るし、

字が汚くてあちらの親御さんからいらぬ評価を受けたくないし、

ここでつまずいて「自分はみんなのようにできない」と自己肯定感が下がるようなことがあったらどうしよう……?

ということなのです。

子どものいない方には笑い話に聞こえるかもしれませんが、園児の親にとっては深刻な悩みのひとつです。

 

でも、本当は、お手紙というのはコミュニケーションの一形態で、幼稚園の子にすれば、もらった時には、相手から「自分に寄せる気持ち」をもらったようでもあるし、自分が渡す番には、ワクワクドキドキ、何だか面白い遊びの輪に参加しているようでもあるし、言葉を交わしたり、プレゼントを渡しあったり、おもちゃを借りたり、貸してあげたりする経験の広がりのひとつとしてあるものです。

ですから、「はい」って渡す時に、それがシールを貼っただけでも、絵を描いただけでも、字を書かずに封筒に折り紙をたたんで入れただけでも、その子のその時期の能力で表現したいと思うものは何でも「手紙」になるし、それがその子の「心」でもあるのです。

そうして今自分のしたいことをしたいようにして、それがうまくコミュニケーションとして成り立った時に、子どもは自分に自信を持つし、とても幸せそうです。

 

子どもにとって、自分が思いつくものも、自分が決めたことも、自分が選んだものも、自分が表現したものも、

他のどんな素晴らしいものより、どんな優れたものより価値があるものですから。

 

大人がそうした子どもの心と共鳴しあっていたら、そうした子どもと同じように感じ、同じようにワクワクし、同じように誇りに思い、同じように感動することでしょう。

でも実際には、「お手紙」と認識したとたん、それがたとえ幼稚園児のようなまだ夢の国に住んでいるような子たちのやりとりに対しても、赤ペン片手に、テストの採点でもするように厳しい表情で覗き込むようなまなざしがあるのが現状です。

 

子どもがお友だちと親しくなっていく過程を味わうホンワカした気持ちに、ちょうどいい具合に同調する親御さんは少ないのです。

 

上の写真は、お友だちと関わることをずっと怖がっていた非常に敏感な女の子が取った行動の一シーンです。

この子は、ずっとお友だちを寄せ付けず、近づかれるのも嫌だし、何かもらうのも嫌だし、自分からおもちゃを貸したり、あげたりするなんてもってのほか、という様子で過ごしていました。

 

虹色教室でも、最初のうちは、教室の隅に敷物を敷いて、周囲を吊った布で仕切ってお母さんとだけやりとりしていました。

誰かが近づくと暴言を吐いて撃退し、お母さんとだけ会話を交わしていました。

 

それが教室でグループレッスンを続けるうちに、

そうした自分のスペースでぐちゃぐちゃと粘土をこねて遊んでいた状態から、お母さんとふたりだけの遊びがだんだんと美しくて想像力あふれるものへと変化していき、次には、わたしに「犬のリードを作って!」といった工作の注文を出すようになりました。

 

そのうち無関心だったお友だちの遊びを眺めることが増え、お友だちのお母さんとなら口が聞けるようになり、

しまいに、それまでは全く無関心だったお友だちが遊んでいるおもちゃを自分も使いたがるようになりました。 

そして、ある時、かわいいシールを見つけて欲しがったので、貼らせてあげると、急に思いついたように、「どうぞ」と言って年下のお友だちにそれをあげたのです。

お手紙なのだそうです。

それから、自分の持っているおもちゃを他のお友だちにも配ってまわって、心からうれしそうにお母さんに抱きついていました。

 

「手紙」って、子どもにとって、こういうものなのです。

 

はじめてお手紙をもらった子どもの心が、相手とつながる喜びでホンワカしている時に、

「○○ちゃんったら、もう、ね が書けるのね」

といったまなざしで、それを見る時、子どもの心のリズムと、大人の心のリズムは不協和音を奏でているのではないでしょうか。

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食後にくつろいでいる息子に、こんなことをぼやきました。

「今の時代、いい教材もいくらでもあるし、学校にしても熱心すぎるくらいに勉強を教えているわけだから、それ以上、勉強させる方に力を入れなくたって、意志とか意欲とかセルフエスティームとか、自分で決めて自分で表現できるようにするとか、

そうした心の力をつけてくようにサポートしたらおのずと勉強が得意になっていくんだけどね。

 

虹色教室でしているのは、大方、それなんだけどね。

 

教室の子たちにしても、自分の好きなことをたっぷりさせて、自分の気持ちを言葉にできるようにして、

宿題だなんだってあんまり追いたてないように注意する……ってことだけで、よく頭を働かせるようになるし、勉強も好きになってる。

でもね、心の力をつけたら、結果として勉強もできるようになった子を見て、勉強部分だけ取りだして真似ようとしてうまくいかない人もいるし、こういうことをうまく伝えるのは難しいわね」

 

すると、息子からこんな返事が返ってきました。

「いろいろなものがメソッド化されて、他人を行動から評価することができるようになった分、心のように目に見えない力は成長しにくくなったのかもしれないね。

評価そのもののレベルが上がって、正確になってきたんだろうけど、評価を過信しすぎたり、子どもを比べたり分析したりするのが当たり前になっているのは、その弊害だろうな。

だって、ひと昔前までは、そうした評価対象からはずされているのが子どもだったはずだよね。

 

子どもは成長し変化していくものだから、どうなるものかわからない未知の部分をたくさん含んでいるものとして。

 

でも見える部分、行動として現れている部分を、すべてわからないにしろ仮定の段階でも、何らかの比べられる数値で表せるような評価の体系が増えすぎたことで、見えないし測るのが難しいようなものが過小評価されたり、無視される危険が出てきているのかな?

 

心とかアイデンティティーとかセルフエスティームとか、測れないとしても、いわばそれが人間のほとんどを占めていると言ってもいいもんじゃん。

 

体験とか、教育とか、おもちゃとか、子どもに価値のあるもの与えるといったって、体験や教育やおもちゃの側に価値基準があるわけじゃない。

そういうものにどんなに価値があったって一過性のものに過ぎないはすだよ。

 

本当の価値は、与えた時に派生してくるものの側にあって、その子のなかで生まれたり、結びついたり、変化したりする心と関連が深いものだからね」

わたしは、「そうそう」と言ってうなずきながら、

「教育の場でも、カリキュラムばかりが重視されて、何を学んだとか、どのページまで進んだとか、そういったことだけ注目されて、子どもの意欲とか責任感とか好奇心とか学ぶことへの愛情とかをどのように育てて、守っていくのかはあまり話題にならないのよね。

子どもはマシーンじゃなくて人間だから、自分で愛情を感じて自発的にするものじゃないと、長続きしないのに。」

 

息子 「評価方法のレベルが上がって、範囲も広がったら、外の世界から入ってくる情報が絶対だと思う人が増えてくんだろうな。

学びとる主体の側の、自分の感性のようなものに自信がもてないんじゃないかな。」


価値観を固定しない教育 と未完成な親 の価値 

2016-08-06 07:10:20 | 教育論 読者の方からのQ&A

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか の記事に、

(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)

次のようなコメントをいただきました。

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草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、

価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。

以前のエントリーにおける「未完成な親」や、

大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が

子供を伸ばす要因なのでしょうか。

逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、

長期に通うことは不適なのかもしれませんね。

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いただいたコメントにある

「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、

(言葉の解釈が重要ではあるけれど)

わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくる

んじゃないかと感じています。

コメントにある

「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、

リンク先の記事のことです。

 

この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい

頭の中に浮かんだ方もおられると思います。

 

そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、

「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さについて

言葉にしてみたいと考えているのですが……。

 

その前に親の接し方の未完成さや、子どもの可動領域に余白があることが、

子どもの心と人生にもたらす価値について綴った

『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を紹介させてください。

 (この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)

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ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、

「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」と

アドバイスできるものでもなく、もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、

言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、

「褒める」行為自体が、

子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんなふうにしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」

「新聞紙使って工作してごらん」なんてあれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、

「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、

自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようと

していたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、ちょっとしたことをきっかけに

自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、

気にかける必要はないのでしょう。

でも、大人の関わり方の加減次第で、日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも

事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、

子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、

「すごい、すごい」と褒めることになりかねません。

 

つまり、

「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」

と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、

子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、自分の心を見はっておくことが大切です。

 

以前、

「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、

数値で子どもを管理したがるのでは?」という辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と

密接に関わっているように捉えています。

 

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、

数値で子どもを管理したがるのでは?」

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと(水島広子/紀伊国屋書店)』

(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました)という著書の中で、

「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても

とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

 

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、

対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から「大人のやり方」に

変化を遂げることが病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、

「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と

考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、

一人でさらに努力して自分を追い込んでいくのではなく、

いろいろな人生があることを知って、

自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。

「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……

大人になっていくということは、他人に頼らず、

自分で責任を持っていろんなことをこなせるようになることではないの?」と

感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。

「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」

という単純なルールで成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、

「秩序」によって安定するタイプが多いので、

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というような

ルールで世の中が動いていないと不安になります。

そうしたタイプの人が、

自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。

そのパニックへの対処のひとつの形が拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、

達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という重要な課題があります。

努力すれば何でもできるようになるわけではない。

がんばればみんなが褒めてくれるわけではない。

運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、

大人になるための思春期の課題です。

「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」

という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、

「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」という

大人としての役割で考えることができるようになることなのですね。

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、

拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、

ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、

まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、ひとりめの娘の子育てでは、

大人になれていない心のまま良かれと思って

子どもの自尊心を蝕むようなことを平気でしていました。

「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで

子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすれば好かれる」というような

安心できる秩序が守られている世界をお金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた、人工的な架空の世界であったとしても、

それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」、

現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。

なぜなら「自分で努力はしたくないけれど、コントロールして、

数値の確認をする作業だけをしていたい」という、

本当は現実の世界で叶えられてはいけない、

病特有の執拗な願いを簡単に実現してしまうからです。

おまけに教育産業の多くが、そうした親の考えを正当化して、

さらに煽りがちです。

教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、

ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題は、

ビジネスのそれと重ならない場合が多いことを自覚することが

大切だと思います。

 

子どもの幸不幸は、どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、

ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、

「大人」になっている親に育てられているかどうかで

決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、

大きく変わってくるのではないでしょうか?

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↑ 先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、

数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

けれども、そうした育て方に代表される大人が、

自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという

理由で)無視するような育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、

毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、

親が子どものなかに見たいものを褒め、

認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。

 

価値観を固定しない教育 と未完成な親 の価値 3

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