虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

内向的直観タイプのわかりにくさについて

2022-04-01 22:19:45 | 子どもの個性と学習タイプ

教室でひとりひとりの子とじっくり関わっていると、その子が「感覚」、「感情」、「直観」、「思考」、どれを主にしてものを考えていくのかよく見えてきます。

とはいえ、見えやすいタイプ、見えにくいタイプというのはあって、子どもの姿の一部分だけ捉えて、「この子は○○タイプだろう」と決め付けてもあまり意味はないと感じています。

「こういう面があるから、この子は○○タイプじゃないかな」という印象は持っても、「やっぱり、○○タイプなんだろうな」と実感するのは、何年もの期間、遊んだり、物を作ったり、考えたり、おしゃべりしたりする姿を見守り続けた後となります。

「この子は、○○タイプじゃないかな」と思っても、関わる時間が増えるにつれて、「最初の印象とは別の○○タイプの子にちがいない」という確信を持つようになる子もいます。

 

教室でスーパーボールすくいのような遊びをする時でも、性格タイプによって、何に熱中するか、何をもっとも面白いと感じているか、どんなことに気づくか、そこから何を学びとるかなどはずいぶん違います。

わたしが、「ちょうど100グラムぴったりになるようにスーパーボールをすくってね」とはかりをだすと、直観タイプの子たちは、コップに入れたスーパーボールを何度か試しに量ってみてから、戦略的に100グラムちょうどになるような方法を編み出そうとします。

「スーパーボールをひとつ取り除くと、はかりの針がこれくらい後ろにさがるから、3個くらい取るといいだろう」とか、「ボールがコップにいっぱい入っている時は100グラムのところよりこのくらい過ぎているから、コップの半分と残りの半分の半分くらいまで入れたら100グラム」といった具合に。

遊んでいるうちに、新たな「こうしたい」を見つけて熱中しだすことはあるものの、本人なりのねらいがあるあたり感覚タイプの子たちとの違いを感じます。

感覚タイプの子たちの子の場合、ひとつのねらいというより「網羅したい」「できるまでやりたい」というあたりにモチベーションがあるので、最初に「100グラムにぴったりになるように……!」と告げていても、スーパーボールを乗せてははかることを繰り返して、1回、1回、「あっ、○グラムだった」「今度は○グラムだった」と確認することが遊びのメインになっていきますから。

 

思考タイプの子たちは、活動そのものには熱心でない場合が多いけれど、はかった重さをまとめた表を見ながらデーターを分析したり、原因や理由について考えさせる場面でいきいきしています。

感情タイプの子たちは、お友だちと同じ目標で動いたり、他の子らをびっくりさせたり感心させたりすることにモチベーションにしやすいです。

見えにくいタイプのひとつに内向的な直観タイプの子が入ります。

 

外向的な直観タイプの子たちは、次々と新しいことに興味を移して「ひらめいた!」とばかりに自分のアイデアを口にするけれど、内向的な直観タイプの子たちは、頭の中は忙しくてしていても、行動はおっとりしていたり、直観の使い方にしても、自分の内面での「あっ、そうだったのか」というひらめきが主なので、外からわかりにくいのです。頭の中で自分の考えを追っている時は、フリーズしたようにボーッとしているので、考えている時ほど、何も考えていないようにも見えます。

 

わたし自身は内向的直観タイプなので、「自分の内面の動きや頭の働かせ方に似ているから内向直観の子じゃないかな」と感じるのですが、他のタイプの子たちに比べて、はっきり目に見える判断材料がほとんどないので、「うちの子の性格タイプは?」とたずねられると、幼児期は、「たぶん、……でしょうけど」「おそらく……でしょう」とあいまいな返事を続けることになりがちです。

たいてい小学校中学年くらいになると、読書の好みやおしゃべりの内容に、内向的直観の子らしさがはっきりしてきます。

 

大学生の息子と話をしていると、「この子はやっぱり内向的直観タイプだな。内向きの直観をよく働かせるんだな。」と実感することが多々あります。

物事が行き詰った時にしろ、普段のちょっとした問題解決にしろ、自分の内面に光を当てることで答えを見いだす姿がありますから。

 

先日もこんなことがありました。

学校で自分の名前をテーマにした作品をプログラミングで作る課題があったそうです。

他の課題の提出時期と重なっていたため、一夜漬けで、「自分以外の人(友人等)の名前の集合体が、クリックボタンを押す度にまぜあわさって、だんだん自分の名前に確率的に近づいて行き、最終的に何クリックかで自分の名前ができあがる」というアルゴリズムを組んでいました。

評価自体はよかったようですが、その出来に、短い時間で慌てて作ったこともあって、何かが足りないという不全感を抱えていました。

そこで、他の作品提出の機会にそれをもう少しいい形で練り直して出すことにしたようです。

再度、作品に手を加えるにあたり、息子なりに、何が足りないのか、これから何に最も力を注ぎ、どういう方向性で作っていったらいいのか、もんもんと考えていました。

というのも、親しい友人に、「○○くん(息子)が60%の力で作ったものは、周囲から絶賛されるけど、100%の力を注いだものは、理解されないよな」と冗談交じりに指摘され、「そういや、いつもそうだなぁ」と苦笑しつつ、単純に、だったら肩の力を抜いて作ればいいんだなとも取れなかったようです。

それについて、息子とこんな会話をしました。

 

息子 「大学にしろ、学会にしろ、評価の場ではあって、現時点に終始していて、すでにどれだけ完成されたものかだけで考えるからさ。

もちろん、社会に出ても、それが重要なのはわかっているけど、作品発表での評価基準が、どうしてもパッと見の受けのよさや外から見た印象……宣伝広告で扱われるような部分だけに重きがおかれててさ、中身の質とか、アルゴリズムの新奇性とか、実際に使っていくなかで引き込まれていく部分なんかはほとんど注目されないのは残念だな。

ぼくが全力を出す時は、自分のなりのビジョンを追ってて、未来に価値を置いているからなぁ……これから面白くしていきたいいろいろな可能性を見ながらさ」

 

わたし 「自分のビジョンの価値に気づいて、守って、温めていけるのは自分しかないんじゃない?」

 

息子 「そうだけど、これまで何か納得できなかった理由は、そうした評価のあり方に不満や不信感を抱いていたというより、あまり考えずに全面的にそれをよしとしてしまって、そうした評価と自分の関係のとり方についてよく考えてこなかったからじゃないかと思ってるよ。

ぼくが中身のアルゴリズムや内容を一番重視するのは、今後、どうあったって変わらない部分だけど、同時にデザインや周囲にどう印象づけるか、外から見て魅力的なものに感じられるようにするのかだって、すごく大事だと思ってることなんだ。

そして、内部になんか少しも興味がないっていう一般的な人が、パッと見で惹きつけられるようなものを作っていく上で、今、先生から得られるアドバイスはすごく役立つし、ぼくに足りない部分だ。

ただ、自分のあり方について何も考えないまま学んでいると、周囲の価値観を取り込みすぎて、自分が一番重要だと思うものが侵食されていくのも事実でさ。

そうすると、成功すればするほど、自分を苦しめる悪循環が生じるよ。

だから、自分の強みであって、長い時間をかけて自分のなかで育てていきたいものを持ちつつ、外の意見に耳を傾けて、足りない部分を学びとっていこうと思って」

 

息子 「名前の作品をもう一度見直してみて、内容はそう悪くないんじゃないかと思って。

これまでもの作品もそうだけど、言葉で説明したり、自分の表現したいことを正確な言葉におきかえる面で全然足りていないんだ。

デザインとか使いごごちの修正ももちろんするつもりだけど……。

たとえば、タイトルを、『他人と自分の境界線』ってのにして、他人の名前だけから自分ができていく様子を、アイデンティティーがあいまいになっていく状態とするとか。

まぁ、これはちょっと行き過ぎたタイトルだけどさ。

『情報から生成される自分』くらいがちょうどいいかな?」

 

息子の話を聞きながら、問題を解決する時に、自分の内面を探索するのは、内向きの直観ならではだな……と妙に納得しました。

 

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