ちょっとした取り組み……
ごっこ遊びや物作りや頭脳パズルやなどをしている子に関わっている親御さんに、
あれこれダメ出しをすることがあります。
親御さんは、
「あっすいません、教え過ぎでしょうか?」「しゃべり過ぎですかね」と言って、
言葉だけ控えてとまどっておられることが多いのですが、
言葉の数の問題でもないのです。
過干渉なのがまずい、という時もありますが、過干渉というほどではなく、
口調も穏やかに接しているけれど、そうした関わり方を続けていると、
次第に子どもが集中力や意欲を失っていくように関わり方があるのです。
その一方で、子どもに自由にのびのびと活動させているし、
子どもには愛情深く接して、楽しくおしゃべりしたり遊んだりしているけれど、
いつの間にか子どもから物事にしっかり関わる姿勢や考える力を奪ってしまう
関わり方もあるのを感じています。
どこがどうよくないと思うのか指摘するのが難しく悩んでいたところ、
久しぶりに『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著)を読み返してみたら、
いかにもわたしが言語化できずにもんもんとしていた部分が、
すっきりと簡潔な言葉でまとめられていました。
強力な助っ人でも現れたような心地で、大宮先生の言葉を借りながら、
わたしの言葉足らずで誤解を生じていた『親御さんの関わり方』の何を問題だと感じ、
どう微調整していけばよいと考えているのかを書いていこうと思います。
『学びの物語の保育実践』に、自分の背丈より大きなナタを使って
果物を割るコンゴの1歳前後の赤ちゃんたちの話が取り上げられています。
こうした発達の姿は特別めずらしいものではなく、パプアニューギニアでは、
歩けるようになるまでにナイフと火を安全に使えるようになるし、中央アフリカでは
生後8~10ヶ月から、矢の投げ方や小型の斧の使い方を教えるのだそうです。
ここで取り上げられていたのは、赤ちゃんの知られざる高い潜在能力の話ではなくて、
この赤ちゃんたちがどのようにしてナタや火や小刀などを
安全に扱う能力を身に着けたのか、という点です。
日本の子どもたちの事情とのちがいは、
赤ちゃんを「注意深く見守っている」大人がいること、なのだそうです。
おそらく探索が可能な6ヶ月過ぎに赤ちゃんが自分からナタに近づこうとし、
その時、大人たちは危ないからと取り上げたりせずに、もっと小ぶりなナタを与えたり、
手を添えたりしながら、注意深くその自発的な活動を援助したのだろう、とのことです。
大宮先生は、
「ある年齢段階に達することによってその内部に能力が進展してくるという
「個体発生的発達」だけみれいるのでは発達の真の姿は見えてきません」
「(自分より有能な他者である)大人との共同作業によってはじめて
人間は発達してくる」とおっしゃっています。
といっても、大人が過干渉気味にあれやこれや教えていたら共同作業が成り立つと
いうわけではないし、漠然と見守っていたらよいわけでもありません。
まず重要なのは、大宮先生によると、
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「そうした大人の出番は、赤ちゃんの関心や意欲から切り離されたところでは
成立しない」のです。
つまり、自ら「強い関心」と「使いこなそうとする意欲」をもつ赤ちゃんがいるからこそ
大人の援助が成り立つのです。
赤ちゃんの「関心」に共感を寄せ、その「力強さ」に期待をよせる大人が、
一歩先にある課題…より有能な他者との共同・援助によってはじめて達成できる
「発達の最近接領域」……を見通しながら、
赤ちゃんが活動できる「足場」を広げ高めるように適切に援助することによって、
ナタを扱う能力が獲得されていったのです。
(『学びの物語の保育実践』より)
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紹介した著書は保育について書かれたものですが、指摘されている内容は、
バランスの差こそあれ、どの年齢の子にとっても重要なことです。
わたしは、幼児教育によって弊害がもたらされるのは、
子どもの関心や意欲から切り離された物事を
「できるようにさせよう」「教えよう」という働きかけが多くなる場合だと感じています。
また、子ども本来の関心や意欲に対して、無駄なもの、くだらないもの、
大人が与えたい知識よりもつまらないものとして
非共感的に関わることからも生じるように思います。
次回に続きます。