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最近ブロック教室、はじめました!なおみせんせいのお声がきけて、近くに感じています。お蔭様で、すっかり冷めていたデュプロ熱が再燃しています。
郵便局のお話、小説読むように熟読してしまいました。いろいろ自分のいた職場など振り返りながら。
私は、三姉妹長女です。父に溺愛されていた時期が幼少期にあったからか、なんだかプラス思考気味な大人に成長しました。ただ、母は冷たく中学入試以降の私の成績、言動、もちろん気持ちにも無関心で通されました。。。
成人して、私は「なんでもっともっと頑張れなかったんだろう。なんでもっと自分に挑戦しなかったんだろう。どうして今は頑張れるんだろう。競争することから逃げていたなぁ…」と、学生時代の不勉強をものすごく後悔しています。なので、息子には、一生懸命頑張るという事を覚えて欲しい、一生懸命頑張ったら何事もそれなりに楽しいという事も味わってもらいたいなと思って育児しています。
なので、少しは競争も必要なんじゃないかなと感じています。そのへんはどうなんでしょうか。
あと、テレビで、競争させる育児の保育園の子供たちの運動会で、徒競走2位になってしまった男の子に、同じクラスの女の子が、「2位だよ、よかったね、がんばったね」って駆け寄っていて、感動的なひとコマでした。その男の子のせいで優勝をのがしたのに…。子供がみんな集まってよくやったよくやったと…。私、観ていて泣いてしまう程でした。
もともとやる気のない男の子でしたが、いつのまにか気合が入り、自ら頑張っていたようです。
こういう心の成長というか、いやなこともがんばって乗り越える力みたいなものも必要なんじゃないかなあ、なんて思うのですが、コレはなおみ先生のおっしゃる競争を煽る事とは違うと考えて大丈夫ですか?それとも、やはりこれも競争になるんでしょうか。
というか、そもそもが、幼児にはまだ競争は早すぎというのもありますよね。ちゃんと理解できていなくてすみません。
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確かに子どもの頭と身体と心の成長にともなって、
競争の中に自ら飛び込んでいくなら、
競争はさまざまな良いものをもたらしてくれるでしょう。
けれども、幼児期に大人が過度に子どもたちを競わせる場を作るのは、
大人にとって操作しやすい……思春期までは頑張り続ける良い子を作ることができるでしょうが、
自己実現に向かって、思考で自分の意志を方向付けて、
自分の才能を開花させながら生きていくことからは遠ざかっていくのではないかと思われます。
なぜなら、
競争からは「自分らしさ」は生まれないからです。
子どもの中に「自分らしさ」が育ってきた上で、それを磨くために、
競争するのはすばらしいのです。
けれども、親の欲求か、自分の欲求か区別することすら
まだできていない幼児に、
競争で頑張らせたなら、
強迫的な人間関係や自分へのこだわりが生まれるのは、
目に見えているでしょう。
たくさん得るために……勝つためにがんばることも大切だけど、時には執着を手放すこと、勝ち負けにかかわらず楽しむことも人間関係を豊かにするな……
そうした気づきを得ないと、社会でがんばることは難しいです。
でも幼児の競争心のまま生きつづけたら、
人の持つ独自性への理解力が育たず、
がんばればがんばるほど、自分の「無能」にぶつかって、苦しむのではないでしょうか?
「必死でがんばれば、何でもできる」と幼児に大人は教えます。
「必死でがんばれば、何でもできる」と幼児は信じます。
でも必死でがんばって、例えば超がつく難関の中学なり高校なりに運良く入学して、
そこでも「必死でがんばれば一番になれる」「必死でがんばれば、次の目標に達成できる」と思って、必死になっていたとしたら、
同じように必死でがんばる能力の高い子たちの集団の中では、
「必死で」も「がんばる」も建前で、
才能や能力、置かれた環境で差がついてくるという現実にぶつかります。
そこで、1番になれなかったことを、「がんばれなかった」「必死さが足りなかった」と責めるなら、生きるエネルギーが失われていきますよね。
日本には『燃え尽き症候群』『ゆううつ症候群』とかいった心の病が
教師の間にも蔓延していると言います。
こうした心の病の原因は、ついついやりすぎる、がんばりすぎること。
相手に合わせすぎてストレスをかぶることから生まれます。
日本人の「がんばる」美徳も、
自分を仕事できない状態にまで追い込んでしまっては意味をなさないですね。
『いま、こころの育ちが危ない』吉川武彦 毎日新聞社
では、こんな文章が載っています。
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困難に直面したときその問題に真正面から「向かう」ことが日本人は大好きです。日本人の美的観念にぴったりだからでしょうか。
だから人間魚雷や体当たり戦法、一人一殺など玉砕戦法が当たり前のように広がりました。
ストレスに向かうとき、たしかに「向かう」のですが、ただ向かうだけでは玉砕するだけでしょう。玉砕してしまっては「自分」はなくなってしまいます。
……
ただ向かえばいいというだけではないのです。自分と相手の力関係を読みきり、自分の力がまさっていると判断したときは、間髪を入れず、真正面から戦いを挑むべきでしょうが、それができるということは自己認識が育っているということでしょう。
やり通すだけのやる気があるかどうか自己診断するしかありません。
……
大切なのは、相手をよく知ること。よく相手がわかるようになることでしょう。
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競争の前に、友だちと遊ぶのは楽しいな~遊べない日はさみしいな~
優しくされた、優しくできた、けんかしたけど仲直りした~
そうしたゆるやかな子どもの世界の中で、友だちを知り、自分を知り、
幸福感を味わい、
その先に……
お互いに高めあうために自分を競争の中に投じてみよう~という
思春期以後の全力投球が生まれてくるのだと思います。
うちの子にしても、息子は特に幼児期~小学生を通して
競争心は皆無と言えるのんびりさんでしたが、
思春期近くなって、中学入試したいと言い出したときも、
中高一貫校からさらに上の高校を受験しなおしたいと言い出したときも、
じっさいがんばりだしてからの
一生懸命さや根気やくじけなさは、「この子にこれほどまでの強さがあったとは……」
と親の私がびっくりするほどでした。どんな障害物にぶつかってもめげません。とにかく強いのです。(それまで遊びまくってますから……ね)
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