虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 13

2012-02-10 17:15:15 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

子どもが社交的でないことを心配する親御さんは、

「自立してほしい」という気持ちが強い方が多いです。

早く親のもとを離れて子どもの集団でいきいきと活動してほしいのです。

 

でも親御さんの「自立してもらいたい」という気持ちが

子どもの内面の「自立したい」という自然な衝動の大きさよりも

値が大きければ、

親御さんの期待が

漠然とした不安となって子どもの心を覆ってしまいがちです。

 

恥ずかしがり屋でひとり遊びが好きな子も、年齢相応のその子の個性に応じた

「ひとと触れ合いたい」という気持ちや「ひとを求める」気持ちを持っているものです。

まずその子のそうした気持ちの強さを見極めて、

それと同じか

それより少し弱いレベルの体験を用意してあげるといいです。

 

たとえば、親御さんとしっかり遊び込むことや、

祖父母やいとこと交流するのもいいでしょうし、

1,2人のおとなしいお友だちと過ごさせて、

いっしょに遊ばなくても、近くで過ごしているだけでOKとする

ことなどです。

 

子どもと「バランスをとる」というのは、思いの他 難しいものです。

それに、大人にとって、日頃、あまり重要なことのように感じていないものです。

 

先日の工作のワークショップで

1歳くらいのお子さんを背負った親御さんから

「この子にドッツカードを見せようと思っていますが、どのように始めればいいでしょう」

という相談をお受けしました。

 

見たり聞いたりすることに非常に敏感になっている

1歳6、7ヶ月の子は、

ドッツカードや絵や写真や文字が印刷してあるカードを

何枚も見たがることがよくあります。

 

(↓トーマスの絵カードを見ながらそれぞれの名前を読みあげてもらいたがる

1歳7カ月の男の子)

ですから親子の相互交流がしっかりなされて、

さまざまな親子間のバランスが整っていて、

おまけに子どもの側から、カード類を何枚も「見たい、聞きたい、という強い気持ちが

溢れている時は、

そうしたカードを見せることも子どもの能力を飛躍的に伸ばすことに

つながります。

でも、わたしは、「この子にドッツカードを見せようと思っていますが、どのように始めればいいでしょう」

という相談をお受けした方は、まだドッツカードのような早期教育的な働きかけをしない

方がいいように思いました。

そして、そのようにお伝えしました。

 

なぜなら、その方はおんぶしているお子さんをずっと小刻みに揺すっていたのですが、

その揺するすばやくて激しいリズムが

おんぶされている子の弱弱しくておっとりした雰囲気と

あまりに調和していないように感じられたからです。

 

もしおんぶされている子が、背後からお母さんを強くキックしたり、大きな声を上げたり、

キャッキャと笑い転げたりするような

活動的なタイプの子なら、親御さんの揺すり方もそれくらい強くてもいいとは

思ったのです。

 

でも、子どもは、そこにいるのを忘れられてしまうほどおとなしくて、

なん語で「アーアー、ダーダー」と訴える様子もなく、それだけ揺らされていても

されるがままになってぼんやりおぶわれていたのです。

 

その様子を見て、子どもから発しているものが弱いままで、

これ以上親御さん側の子どもに向けられるものの量が増えたら、

子どもの心や知能の成長に

あまりいい影響を与えないように感じられたのです。

 

まず子どもの発信しているものをしっかり受信することを第一にして、

親子で交わされるもののバランスをとるように

努める必要を感じました。

 

親御さんにそうしたことを簡単に説明すると、

何とか理解していただけました。

ただドッツカードのようなものは見せない方がいい、とだけ伝わったかもしれませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 12

2012-02-10 09:43:47 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

「バランスをとる」という方法は、

以前からわたしが子どもと過ごす時には

自然に行っていたことを、親御さんに伝わりやすくなるように

数値で比べて調整できるような形で言いなおしたものです。

 

というのも、「これはまずいな」という親御さんの子どもに対する言動に

アドバイスをしても、

「他の親たちはもっとしている」「わたしの方針を否定された」という受け取られ方をしたり、

自己流に間違って解釈されたり、軽くスルーされてしまうことが

たびたびあったのです。

 

そこで、その子その子の発達段階、能力、意志、性格、特性といったものに合った

接し方を体得していただくために、

「バランスをとる」という言葉を使って

親の取るべき言動の強弱を調整していただくようにすると、

それまでよりずっと、イメージしていただきやすくなり、

正しく実践していただけるようにもなったのです。

 

もちろん「バランスをとる」という言葉だけでは、曖昧でぼんやりとして

何のことやらわからないはずです。

これから、少しずつ具体例を挙げていきますね。

 

たとえば、恥ずかしがり屋でひとり遊びが好きな子がいるとします。

 

親御さんは、幼稚園に入ったら、お友だちができるようになるのか、

学校に入ったら積極的に振舞えるのかと心配でならないとします。

そんな場合、たいていの親御さんは、

少しでも早くから集団生活になじませようとして、

泣いて嫌がる子を保育所や幼稚園に放り込むという方法を選びがちです。

 

でも、こうした荒っぽい対策でうまくいったという話はほとんど聞いたことがありません。

登園拒否を起こしたり、ひとりだけ集団でする活動に参加しなかったり、

適応はしたもののぼんやりと何も考えていないような気力のない態度を身に付けたり、

園で暴力を振るったり、いじめられる対象となったりと、

頭を悩ます問題が多発するのです。

 

それなら、どうすればいいのでしょう。

 

わたしがお勧めするのは、

子どもがその時点で抱いている

「他人への関心」や「他人への興味」や「他人に求めているもの」の度合いと、

親御さんがその子に期待する

「社交性」や「積極性」の度合いを

数字で表した時に、子どもの側と同じか、少し子どもの方が勝っているくらいの量に

調整することです。

 

1、2歳の内向的な子を持つ親御さんの話をうかがうと、

 

子どもの側は、

散歩中に近所の猫を見かけては、「いたいた、猫ちゃん今日もいた!こんにちは」と声をかけたり、

年上のおっとりした女の子に遊んでもらうか、年下の物静かな子のそばで自分の世界に浸って遊ぶという程度の

他人との関わりを求めている時期に、

 

親御さんは公園でママ友とおしゃべりする間、子ども同士でわきあいあいと遊び戯れて

欲しいと期待していることがよくあります。

 

子どもと大人の間に

それほど落差があると、

子どもが小さな興味からより大きな興味へ、

薄い関心からより深い関心へ、

狭い視野から、より広くい視野へと

自分の今持っているものを自然に高めていく過程が

大人の気持ちで押しつぶされたり、せかされて、

育つものも育たなくなってしまうのです。

 

そのように親と子の思いに

落差がある時は、落差がなくなるように

努めるということが一番の解決策です。

 

それは子どもの気になる部分を見て見ぬふりをして

放っておくという意味ではありません。

次回に続きます。

 


広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 11

2012-02-09 18:41:25 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

わたしには、対人的な相互交流が苦手な子との関わりで、

コミュニケーションの質を高めていくために

ひとつの指針としているものがあります。

 

それは 広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 5  

     広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 6

     広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 7

で書いた

「子どもが発しているものと、大人の発しているものの

バランスを整える」

という方法です。

 

こんな風に書くと、ほとんど言葉を発しない子の場合、

「子どもが静かにしている時に話しかけるのをやめて放っておいたらいいんだな」

と解釈する方がいるかもしれません。

 

でも、バランスを整えるというのは、

言葉だけではないのです。

 

子どもが身のまわりの何かに向けている注意力とか

しつこいくらいひとつの物事に傾けているこだわりとか

音や光に対する敏感さといった

その子が何かに注いでいるエネルギーがあれば

身近な大人もその子の同じものに同じだけのエネルギーを注ぐように

調整するのです。

 

身近な大人が 

「子どもが発しているものと、大人の発しているものの

バランスを整える」

 

という感じを体感で理解できるようになると

 

たいていの子どもは、それまでは考えられなかったような

劇的な成長を遂げるのを

何度も確認してきています。

 

発達障がいのある子たちだけでなく

ハンディーキャップのない一般的な子どもたちも

語彙の量が増えて、積極性や好奇心や集中力が高まって

他者に対する共感力が身についていきます。

 

↓は、ベビークラスの子どもたちの姿です。

(ハンディーキャップはない一般的な子どもたちです)

 

1歳半くらいの子らも、親御さんに

「子どもが発しているものと、大人の発しているものの

バランスを整える」

ということを学んでいただくと、はっきりと意識が目覚めた状態で

他の子や大人のすることを集中して観察し、

上手に模倣したり、何かするたびに結果をじっくり確認して

次には推理力を働かせて行動するようになっています。

 

 

 

↑  2歳3ヶ月の○ちゃん。

初めて目にするもの、「こうやって、するんでしょ」「~みたいね」と流暢におしゃべりしながら

テキパキこなしていきます。

ごっこ遊びがとても上手で、ハムスターのお人形に会話をさせながら

自分で作ったストーリーをどんどん展開していきます。

 

最近は簡単なゲームの意味がわかるようになってきて、

「こういう風にするの?」と分析するようになってきました。

 

まだ言葉を話しだす前から

大人がその子の持っているリズムに合わせて

子どもとの力のバランスを調整するようにして接していると、子どもは大人の期待をはるかに超えて

目を見張るような成長をするな、と実感しています。

 

でもひとことで「バランスをとる」といっても、

実際、こういう風にすればいいんだな、と理解するのはなかなか難しくて、

たいていの親御さんが

マスターするまでに、かなり長い時間を必要としています。

 

具体的にどのように接したらいいのかわかりにくいと思うので、

次の記事でもう少しくわしく説明しようと思っています。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 


芸術と数学の関係 3

2012-02-09 12:28:58 | 教育論 読者の方からのQ&A

ブロック制作が大好きな小2の★くんのレッスンでの出来事。

この日 ★くんお友だちの○くんとブロックの塔を作っていました。

創作後、算数を学ぶ時間に

これまではじめて目にする周期算の問題をふたりに出してみました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ご石を下のようなきまりで並べました。

● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ……

①はじめから24こ目までに、黒と白のご石は

 それぞれいくつありますか。

②はじめから150こ目までに、黒と白のご石は

それぞれいくつありますか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ふたりともまだわり算の筆算もやったことがない子ですから、

ならび方について考えてみるきっかけになればいい、

と考えていたのですが、

★くんがユニークな方法で解ききって、答えも正解していたので

驚いてしまいました。

 

最初にわたしは、「黒、白、白、白の4こで

ひとつのまとまりになったものが、ここにもあって、次にもあって、その次にもあってっと

続いていくわけでしょう?

ほら、こげ茶のチョコと白いチョコ3つ入りのお菓子セットが

いくつも並んでいるのと同じよね。

ご石の数をこのセットで分けてみると、答えがわかるわよ」とヒントを出しました。

 

その説明に納得した★くんは、

「なら4×6で24だから、6つのセットがあるのと同じで、

ひとつひとつの袋にレアなのが1こあるのと

同じだから、黒のご石は6で、白はそれを3倍にして18だ」と即答して、

すぐに答えを書きこんでいました。

 

が、2番目の問題には頭を抱えて、

「150を4ずつに分けるってことでしょう?」とたずねたきり、

考え込んでいました。

わたしが、「ご石が150の場合、わり算の筆算を知らないと

解けないから、また今度にするか、筆算を勉強するか

どっちかにしないと……」と言いかけると、

「解けない」と聞いて、「それなら解いてみせる」と意気込むような様子で

えんぴつを動かしはじめました。

 

★くんの考えた攻略法は、

もう習ったから知っているかけ算を利用して解くものでした。

 

4×10=40 150を40ずつの塊で分けると、

3つ分と30余る。30を4つずつに分けると、

7つ分。

だから、37で、2こあまりが出る。

 

というものです。

びっくりしたのは、★くんが自分から、

「あまりの部分は黒と白でしょ。それを足すんだね」と言ったことです。

 

この★くんの発想は、

ブロック制作をする時に、

思い通りの色で整えたいけど、ブロックが足りなくなって

施行錯誤するという体験を何度も繰り返してきたことから

生じたものだな、と実感しました。

 

そういえば、「外から見た時に見える色を

同じ色で統一するために、

作品の表面以外の

内部は表面とは別の色を使って作品を作るといい」というアイデアは、

★くんが幼稚園の時に編み出した

少ないブロックで満足する作品を創り出すための苦肉の策なのです。

 

ブロック遊びも精通してくると、

頭のなかで自在に周期算のイメージを再現したり、

立体図形を組み合わせたり、回転させたりできるように

なってきます。

 

★くんにしても、

● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ……

の絵を見たとたん、色違いのブロックがひとつひとつならんでいく様子が

頭に浮かんだようです。

 

こんなところでも、芸術と数学はつながっているんだろうな、

と感じました。

 


広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 10

2012-02-08 15:06:05 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

9の続きです。

 

親と子どもの関係は、

シンプルに相互に交流しあう関係です。

気持ちや言葉がお互いに行き交う関係です。

 

と書きました。

 

といっても子どもが他人とコミュニケーションを取ることに

ハンディーを持っている子だった場合、

親子の気持ちや言葉のキャッチボールが

自然に行き交うようになるのは難しいです。

 

とはいえ難しいだけで、不可能というわけではない

はずです。

 

問題なのは、コミュニケーションというのは

何の努力も学習もしなくても自然にできるものという気持ちが強すぎて、

 

自閉傾向のある子たちとコミュニケーションが成り立たないなら

コミュニケーションを取っていくための努力自体をあきらめてしまいがちなことです。

 

もっとも、あきらめているのではなく、

コミュニケーションの代わりに、「自閉症」 の子には「○○法」のマニュアルに基づいた

接し方をすべきと思い込んだり、

療育にさえ通っていればそれ以上素人にできることはないと考えて、

子どもとの間に交わされるコミュニケーションの質を高めるのを

忘れてしまうのかもしれません。

 

ABAとかTEACCHといった実践的なテクニックは、

「子どもとの間に人間的な関係を築いていこう!」という気持ちで

コミュニケーションの質を高めることをベースに置いた上で

はじめて活きてくるはずです。

そうした方法を本の通りに行うことが目的になると、

子どもの人と関わる能力の発達を

阻んでしまいかねません。

 

 ずっとずっと全力で努力してきたけれど、

コミュニケーションの質を高めるなんて無理だった、とおっしゃる方がいるかもしれません。

本当にその通りなのかもしれません。

 

でも、「全力で努力する」という力のかけ方が

子どもの側からの親と関わろうとする気持ちと

釣りあっていたか、考えてなおしてみる必要はあります。

 

自閉傾向のある子たちは

とても過敏ですから、

大人の熱意は、その気配だけで逃げ出したくなるような

重圧に感じられていたかもしれないのです。

 

次回に続きます。


息子とおしゃべり  芸術と数学の関係 2

2012-02-08 07:48:24 | 算数

 

母 「そういえば、★(息子)は、京大の現代文のセレクトは、まるで芸術大学の試験みたいで

面白いって笑ってたじゃない。

クリエイターと革命家でも育てたいのかなって。

後から東大の赤本買ってきたら、東大でも芸術について

取り上げている文章が多かったから、意外で驚いたって言ってたでしょ。

大学入試って芸術が好きなのねぇ。学生たちに、これからは創造性を発揮してちょうだいっていうメッセージ?」

 

息子 「そうとも言えるけど……逆説的に言えば、学問がもともとそのように

クリエイティブに作られてきたものであるから

って面もあると思うよ。

学問というのは、もともと数学者のなかの芸術家たちによって

基礎を築かれてきたようなところあるからさ。

人間が何を感受するかというところに根本を置いているようなところが

あるから。

 

さっき芸術と数学が似ているって言ったけど、

芸術の世界も数学の世界ももとをたどると

仏教の教えの世界につながっているなって感じることが

よくあるんだ。ぼくは中学で仏教に触れた程度にしか

宗教についてはよくわからないんだけどね。

数学と言わず、学問とか教育とかもう少し大きなくくりで捉えても、

やっぱりそうした宗教的なものに似たところが

あるんだと思う。

だって、芸術が人生を変えるってことはあるし、学問や教育にしても

たんに能力を鍛錬して、人の役に立つという役割だけでなく、

ひとりの人間の一生を変えられるような

レベルまで高められるものでもあるからね。

親たちにとって商品としてすばらしい教育は、

お菓子といっしょで、おいしいけどなくてもいいし、

たくさんもらっても使い捨てでむなしい部分を含んでいると思うよ。

もちろん使い捨ての学習も必要だし、そうして一貫性を持って、学ぶことで

身に着くものをばかにできないけど。

 

芸術作品のなかにもわざわざみんなが賞賛する必要のない

(それ自体で)本当にいい作品というのは、人の心に残って

人生までも変えていくよね。

 

よい芸術作品には、読者に媚びる必要のない

作品のなかの人間的な真の価値があるように、

いい教育には親という存在を通りぬけて、その子本人の

人生に影響を与えるような力があると思うよ」

 

母 「お母さんは、子どもと学ぶ対象との

一期一会の出会いというのが大事だと思っているのよ。

お母さんにそんないい教育をする力がなくても、

世界に内在している不思議や★が言うような数学の世界にある美しさや、

創作活動自体にある人の心を揺るがすような部分と

出会いの機会を設けることはできるわけ。

教育の世界は、学ぶことを

まるでフランチャイズ店のハンバーガーやポテトみたいに加工

しているわ。

効率を求めるあまりにね。

 

お母さんは学んでいる対象の

素のままの美しさを

子どもたちに自分の目で見て、

手で確かめてほしいと思ってるの。

それが子どもたちと続けている物作りなんだけど。

アメリカで工作のワークショップをした時に、子どもたちが創造的によく考えて物を作る様子に

感激してくださったひとりの日本人のお母さんから、

本当に工作はすばらしいし勉強に役立つと言った上で、

こういうこと(工作みたいな学習)はいくつくらいまでさせるもんでしょう。幼稚園の年長ごろには、

学校向けの勉強に切り替えた方がいいでしょうかという質問を受けて

寂しい気持ちになったことがあるのよ。

学校での勉強を重視するあまり、

物を創造したり、自分で工夫したり、自分の心で感じとったりするのに

年齢制限があるような考え方を持つ方は多いから。」

 

 

    

 

 

 


息子とおしゃべり  芸術と数学の関係 1

2012-02-07 17:59:39 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 

 

「夕食前だけど……」と言いながらポテトチップスをつまみだした息子が、

「レオナルド・ダ・ウ゛ィンチが芸術の世界にも数学の世界にも通じていたのってさ、

芸術と数学は、かなりの部分で重なっているところがあるからじゃないかな?」と言いました。

 

それを耳にしたわたしは、

日頃、教室の子らとブロック制作や工作をしながら

実感していることとピタッと重なって、思わず引き込まれて問い返しました。

 

「芸術の数学が重なっている部分があるって?

そうそう、お母さんもそう思う、思う! 子どもたちとブロックで遺跡を作ってる時とか……

そう言えば、この間も規則性の問題を理解するためにブロックで大きな三角形を作ってたんだけど、

そういうものを作っている時の芸術的な美しさと数学の世界の秩序だった美しさに

子どもたちもわたしも心の底から夢中になってしまうのよね。

芸術も数学も美しさで

人を魅了して、感動させる力を持ってるわ。

子どもはピュアだから、そうした美しさに本当に敏感!

数学的な秩序が持っている美しさに、魂が共鳴するようなところがあるのよね」

 

息子 「そうだな。

ぼくはそういう芸術作品とか数学の世界に感じるきれいさって、

どっちも技術や効率を突き詰めていった先にあるもんじゃなくて、

人間性と関わりが深いきれいさなんだろうと思うよ」

 

母 「どういう意味?」

 

息子 「たとえば絵なら、いくらデッサンを身につけて、現実を写実的に描き出せるように

なったところで、

その画家が世界をどう観ているのか、見たものから何を感じとっているのか

という部分に魅力がなかったら、

その絵が美しいか、すばらしいか、というと

そうじゃないと思うんだ。

美ってものと、数値化できる技能の高低は

必ずしも比例しないってこと。

これは『アートスピリット』って本で目にしたことなんだけど、

人が芸術の美しさに感動するのは、作品のなかにある人間的な部分で、

人がきれいなものを見た時にきれいだと感じるのは、

そういう人間的な部分らしくて、

たとえば画家が人の頬をある赤い色で描いたところで、すばらしいのは絵そのものではなくて

その赤い色のなか若さとか健康さとか喜びといった人間だからこそ感じとれるものを受け取って

表現できるから、それはすばらしいんだってあったよ。

 

それを読んで、数学の美しさも似たところがあるなって。

数学を数字だと捉えているだけでは

解けないものがあって、

パターンにあてはめて解くのではなくて、

芸術と同じように、感じとって

人の手で創り出すものでもあると思ってさ。

美術で言えば、頬の赤みに含まれるような要素が

数学に関しても問題を取り巻く要素にたくさんあって、

それらは個別に完結しちゃいないんだ。

日頃、数学や算数だと思ってしているのは、芸術の世界では

デッサンみたいなものなんじゃないかな。

絵を描くには絵を描く目的があるように、

数学には数学の目的があって、何か解き明かしたい意志のようなものが存在するのに、

今の教育の世界ではそれをぼやかし過ぎているんじゃないかな。

 

この間、お母さんにトランプで見せたオイラーの定理ってのがあったよね。

あれを見てて思ったんだ。

数学も芸術も人間が創り出したもので……

それは全てが創作というより、感じ取っているって形の創造物でもあるけれど、

そこには機械的なものとちがう人間が自由に扱える人間的なものが

ずいぶん含まれているんだって」

 

母 「数学はすでに体系化されたものを習得していくだけの学問じゃなくて、

芸術のように人間が関わって創造していく面がけっこうあるということね。

数学って、完全に人間の創作物というわけではなくて、

もともと自然のなかに存在している秩序を発見したり見つけ出したりする形での

創作でもあるから、世界と人の共同作業というか、

自然のなかにある創造力と人間の創造力とが混ざり合って創り出す緊張感のようなものによって

生まれてくるものよね。

そういう面で、確かに数学と芸術は似ているところがあるわね」

 

 

 

 

 

 

 

 


広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 9

2012-02-07 11:11:12 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

ゴムでっぽうの話の続きです。

的を目で見ないでよそ見をしたまま

どれだけ珍しい撃ち方のポーズを覚えても

ゴムを的に当てられるようにならないのは、

見ている大人からすると

一目瞭然の事実なのです。

 

でも当の子どもにそれを言えば、

「そんなの知っている!もう聞いた!このてっぽう壊れてるから別のにして!」と

と返ってきます。

 

まるで笑い話のようですが……これはゴムでっぽうで遊ぶ時だけに交わされるやりとりではなくて、

勉強でつまずいている子とわたしの間で交わされるお約束のパターンでもあります。

 

「こんな問題解けない、見たことないから。」

「でも、目が問題を見ていないよ」

「見なくてもわかる。やったことないから」

「でも、読んでみないと、わからないかわかるか決められないんじゃない?」

「読まなくていいよ。だって、見たことないもん」

という具合に。

でも、たいていの子が、問題を解くときは、問題を見るんだな……という事実が身体でわかってくると、

わからないわからないと大騒ぎしていた問題が、1分考えてもわからない……なんてことは、めったにないのです。

 

話がどんどん脇に逸れてきたので元に戻しますね。

 

実は、このゴムでっぽうの話と同じような行き違いが、

子育てや幼児教育の現場ではしょっちゅう起こっているのです。

親と子どもの関係は、

シンプルに相互に交流しあう関係です。

気持ちや言葉がお互いに行き交う関係です。

 

それをボール遊びにたとえるなら、

一方がボールを投げたら、もう一方が投げ返してきて、

最初に投げた側がそれを受け取って投げ返して……という

やりとりが続いていくような関わりです。

 

もし、この遊びをきちんと心得ているなら、一方が、ポーンとボールを投げても、

相手がきちんと受け取れなくて、そのままボールがどこかに行ってしまった場合、

次にはやわらかい風船のようなボールを用意したり、床を転がしてみたりして、

ちゃんとボールが行き来するように調節するでしょう。

 

でも、そこで相手がきちんと受け取れなかった時に、

相手が存在することを忘れてしまって、

「○○戦法で投げてみよう」とか、「1分間に何十回も投げると効果がある(そう本で読んだから)」といった

自分が何をしたらいいかということにばかり気を取られてしまうと、

もうボール遊び自体が成り立たないのです。

 

現在はあらゆるところに情報が溢れていて、

子育て中のお母さんたちの耳に次々と流れ込んでいます。

正しい情報は大事ですし、役に立つものです。

でもどんなに役立つ情報も

自分の身体が今何をしているのかということを

忘れてしまったら、

的を見ずにゴムでっぽうを撃っている子らと同様に

集中力を奪うノイズ以外の何ものでもなくなってしまうのです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 


2年生の子らと規則性

2012-02-07 08:45:39 | 算数

前回の続きは今日中に書く予定です。

小学2年生の女の子たちのレッスンで。

数ヶ月前から算数の力がしっかりついてきた女の子ふたり。

文章題なら最レベの3年生の複雑な問題もスムーズに解けるようです。

ひとりの子が、「でも、これはさーっぱりわからなかった」と言いながら持ってきてくれたのが、

中学入試用の規則性の問題が載っている問題集です。

三角形が積み重ねてあって、「三角形が81枚になるときは、

何段目の時か?」といった問題です。

こうした規則性の問題は確かに難しいけれど、一方では

いくつの子がチャレンジしても、

パズルやゲームに似た解く楽しさを満喫できる問題だとも言えるのです。

足し算さえできたら、後は紙に書きだしていく方法さえ工夫すれば

答えにたどりつけるのですから。

 

そういえば、息子が

「難問を解くということは、

汎用性の高い基礎的な事柄をしっかり身につけることでもあるよ」と

つぶやいていたのを思いだしました。

 

こうも言っていました。

「難しい問題を解いても意味がない、易しい問題をたくさん解くべきだって言う人は多いけどね。

でも東大や京大の数学の問題のように難解だと思われている問題は、

実際には、数の世界の基本中の基本を扱っているというか、

数学のそれぞれの問題の本質的な意味を理解しているかどうかを問うているところが

あるよ。だから、センターの問題は小学生に解かせても意味がないけれど、

東大の問題なら小学生の解かせてみたたら楽しめるんじゃないかって問題がけっこうあるよ。

体系的な知識の積み重ねや訓練で解くのではなく

直観的な洞察力を使って解くものが主だから。

遊びの要素が濃いのかな。

といっても、しっかり解けるようになっておくには、勘だけじゃ無理で

時間はいるな。ある程度の時間、それに関わるのは避けられないけど。もうちょっと時間が欲しいな」

超のんびり屋の息子も、

受験日が近づくとさすがに時間の大切さを実感している模様です。

 

 

話を2年生の子らのレッスンに戻しますね。

規則性の問題を理解するために

ブロックで規則的に大きくなっていく形を作りました。

最初は小さなサイズで作るつもりが、

女の子ふたりとも、どんどん三角を大きくすることが楽しくてたまらなくなって

巨大な三角形をこしらえていました。

表を作って気づいたことやわかったことを話しあうと

どんどん面白い意見が出ました。

ブロックのパーツのひとつひとつに上から

番号をつけていくと、(左から右)

3段目なら、5,6,7,8、9の番号になります。

そのように番号をつけていく時、4段目の一番小さな数はいくつで、

一番大きな数はいくつか、

10段目の一番小さな数はいくつで、一番大きな数はいくつかといった

問題も考えました。

ブロックでさんざん遊んでいた子らは、

ブロックを指さしながら、

「一番小さい数って前の段の最後の数よりひとつ大きくなるだけだから

そんなの簡単だ」と言っていました。

↑自分なりに数のきまりについて

書いて考えいました。

規則性の問題を子どもと楽しみたいという方は

写真のようなブロックの山を作りながら、

「この三角の山に隠れている秘密を探り出そう!」と提案して、

思いつく限りのルールを自由に言い合うといいかもしれません。

規則性の問題の時方を教えるのではなくて、

物をよく観察して、「いくつずつ増えているか」とか「こういう表を作ってみたら面白そう」といった

自由なアイデアを出しあって

紙に書いて検証しあうのです。

計算してみて、面白いルールを見つけたら

それも発表しあいます。

算数の世界がとても好きになりますよ。

 

 

 


広汎性発達障がいと診断されたり、広汎性発達障がいの疑いを指摘されたら 8

2012-02-06 17:03:51 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

(↑こだわりが強くて、遊びの幅が非常に狭かった★くん。最近になって、

こちらの誘いに乗ってゲームや学習ができるようになってきました)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

何人かの方からコメント欄で

発達障がいのあるお子さんにどのような働きかけをしたらよいか

質問をいただいています。

いつも記事に取り上げてお返事をしようかと思いつつ

ためらっています。

というのも、次のような理由があるからなのです。

 

たいていの方が

子どもに良いことなら

すればするほどいい、たくさんするほどいい、いろいろ試してみればいい、と気楽に

考えがちですよね。

もし試してみてうまくいかなければ、別の良さそうな情報を探して試せばいいのだから、

失うものは何もないと思われるかもしれません。

確かに情報はタダで手に入れることができますから、お金の損失はないでしょう。

 

でも、子どもに何か働きかけて、それがうまくいかない場合、

それが子どもにとって失敗体験として残ってしまうことって

多々あるのです。親自身にとっても、あれもこれもと試してみて

どれもうまくいかなかった時には、何をやってもダメなんじゃないか、という

消極的な思考回路に陥りがちです。

 

特に発達障がいのある子は、一度「イヤ!」という嫌悪感を抱いた体験を

何年経っても忘れずにいて、

それをさせようとする度にフラッシュバックを起こして激しく拒絶するような

ことがよくあります。

良かれと思って

誤った態度で接していると、登校拒否や二次障害にもつながります。

 

こんなことを書くのは、失敗したらダメージが残るから

何もしない方がいい、専門家にまかせた方がいいという意味では

ないのです。

 

遠回りでも時間をかけて伝えたいと感じているのは、

子どもに働きかける時には、「量」より「質」というものがとても大切だということなのです。

 

根本的な全ての基本となる部分を飛ばして、

小耳にはさんだ情報をあれもこれもと試せば、

終いには、子どもにも親にも失敗体験ばかり蓄積していくことになるかもしれません。

 

少しの間、話が脱線するのを許してくださいね。

 

子どもたちってゴムでっぽうが大好きです。

教室にはさまざまな種類のゴムでっぽうがあります。子どもたちが自分で手作りすることもあります。

 

画用紙や紙コップで作った的にねらいを定めていざ撃とう……という段になって、

とんでもない場所にゴムを飛ばしまくる子がいるのです。

それも非常に多くの子が。

不器用というより、

的を見ていないのです。

その代わり、「どうやってするの?」「どうやったらいいの?」と

やたら方法を言葉で説明してもらいたがります。

 

「的をねらっているんでしょ。なら的を見なくちゃだめよ」と言うと、「知っている」と答えます。

 

そして、「こうやってするの?」「こうでしょ」と

特殊な撃ち方や、撃つ時のポーズや、撃つまでに何度数を数えるか

といったことをあれこれやってみせては聞きたがるのです。

テレビを見たり、お友だちがする様子を見て、

見聞きしたバラバラの情報はたくさん知っているのです。

 

ところがいつまで経っても

的を見ずによそ見したままで撃っているもんですから

いっこうに上達しないのです。

 

「的」を見るということは知識として知っているのですが、

頭で情報として知っていることと、身体でわかることは別ものだと

いうことを学ばないと、

いくら勉強熱心に、「どうやったらいいの?」「どうしたらいいの?」とたずねて、

ゴムでっぽうの撃ち方のハウツーを聞いて試したところで

うまくいかないのです。

 次回に続きます。