「教え方」で思考停止に陥るケース と 「教え方」が思考力を向上させるケース の違い 1
の続きです。
前回、紹介した『まなびを学ぶ』という著書に、
子どもが「意図」理解をどんな時に「放棄」するのか説明されていました。
つまり、どんな時に、「考えないで」まねるのか、ということです。
前回、1歳2ヶ月を過ぎる頃から、他者の「意図性」に対する感受性が高まり、
「何を得ようとしているのか」
「なぜその行為をするのか」という行為の目的や理解にもとづいた模倣がはじまることを
書きました。
ちょっと驚いたのは、その頃から、まねる行為そのものが関心時になることもあるそうなのです。
実験から人はマニュアルのような「教示的指示」が示されると、対象物の道具的機能特性を
自由に活用するという思考を停止させて、
いわば、「この道具はこのことのために、こう使うもの」
というように、機能的固着を生み出すことがわかっています。
ウィッテンらは、チンパンジーがすぐに「自分で」やり方を工夫して
問題解決できることを、
人間は「教示」されてしまうと、明らかにそれが無意味であることが、
「考えればすぐにわかる」はずのことでも、
「盲目的模倣」をしてしまうことを実験で示しました。
「意味を考えない」模倣、「(とりあえず)言われた通りのことをする」という
模倣は、特定のグループた社会に「仲間入り」したり、特定の共同体の成員性を獲得するための
必須の条件でもあります。
『まなびを学ぶ』には、次のように書かれています。
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日常生活で「意味がわかる」ということは、わかるべきことが、それまでに獲得している自分の知識範囲内で
解釈可能だということであろう。
「ああ、そういうことなんだ」と「わかる」とき、
私たちは自分の過去の経験に照らして、そういえば「似たようなことが」がかつてあった、とか、
自分のこれまでの知識の枠の中にきちんと「納まる」ということであろう。
しかし、そうだとしたら、「意味がわからないこと」はすべて拒否してしまうとしたら、ものごとの意味が
新しく発見されるとか、いままで考えもしなかったことがわかってくるというような、
これまでの自分の知識や経験を「超えた」ことは永遠にわからないままになってしまう。
つまり、私たちは、「ほんとうのこと」というのは、すぐにわかるとはかぎらないということを、
どこかで受け入れていかなければならないはずである。
このことは、意味理解を安易に放棄して、「わからないことはわからないままでいい」ということではないだろう。
「わかっていく」ということは、簡単なことではないということを受け入れた上で、もっと
本当のこと、もっと深い意味、もっと多様な意味を、
「よくわからないまま」探求し続けるということも、重要なことであろう。
あるいは、私たちが安易に「わかっている」と思っていることを、もういちど、
「ほんとうは、わかっていないのかもしれない」という疑いの目で見つめて、
「わかりなおそう」とすることも、必要なことであろう。
『まなびを学ぶ』 (苅宿俊文 佐伯 胖 高木光太郎 編
東京大学出版会 の内容 を短く要約して書いています )
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話が脱線して悪いのですが゛……。
現代を蝕む 自己コミュニケーション障害(ディスチミア)と 感情制御の障害(アレキサイミア) 7
現代を蝕む 自己コミュニケーション障害(ディスチミア)と 感情制御の障害(アレキサイミア) 8
の記事で、(この記事の続きは近いうちに書きますね)
わたしが子ども時代に当時の大人たちの姿に違和感を覚えていたことを書きました。
その違和感というのは、要は
その時代の大人たちが声高に唱えたり、信じたりしていたことのどれにも、
「根拠」という過去の経験と照らせるような地盤がすっぽりと抜けているようなところが
あったことなんだろうと思います。
うちの母はもちろん、近所の大人たちも、
「テレビでこう言ってた」とか「ご近所の誰かがこういってた」というだけで
その考えの是非について自分の内面を通さずに、
「信じるふりをして騒いでるうちにそうとしか思えなくなってきた」とでも言ったらよいような
心理状態で情報に感染していく特徴を持っていました。
子どものわたしがやや批判的に不信感を抱きながら
そうした世界を眺めていた理由には、
幼児の頃から夢中になっていた北欧などの海外の児童文学の影響があります。
わたしはずいぶん幼い頃から、
エンデやファージョンやリンドグレーンやマリア・グリーペやカニグスバーグやネストリンガーといった
児童文学の著者が世界を眺めるのをなぞるように世界を見つめていたし、
児童文学の著者たちが繰り広げる思考の筋道に自分の考えを重ねるようになっていました。
読書好きが高じて、その著者の目や思考を通して、自分の生きている世界と
関わっているようなところがあったのです。
ですから周囲の大人たちが考えたくないがために、どこかでにわかに仕入れてきた考えを声高に
力説する姿に
表面的な嘘っぽさや考えにルーツや根のなさ
を感じていたのです。
考えてみれば、うちの母たちの世代というのは、
戦争の影響で、自分が思考の根拠のようなものを、
過去の経験と照らし合わせることを避けている親に育てられたはずですから、
それも仕方がないのかもしれません。
常に考えをリセットして、思考停止状態で新しい情報を自分の頭にセットすることに
問題を感じていない人々が多かったですから。
わたしが住んでいたような新興住宅地では、
テレビで報道されることや、本に書かれていることを、
無批判に信じ込むことをよしとするような時代の空気がありました。
そうした親たちに育てられた今、成長期の子を育てているような世代は
かつてほど報道や活字を鵜呑みにするような
ことはほとんどないのでしょう。
でもその一方で多すぎる情報のなかで、新しい形の思考停止状態が蔓延しているような
気もしています。
話が脱線しすぎて、子どもの学習の話から逸れてしまいました。
次回は元に戻して続きを書きますね。