虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

衝動性が激しく つい手が出てしまう子との遊び

2012-05-18 09:51:17 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

 

年長さんの◆くんは、衝動性が激しく

何かあるとすぐに手が出てしまうところがあります。

遊んでいる最中も興奮してくると、お友だちにパンチをしたり、

危険な行為を平気でしてみたりするそうです。

厳しく注意をすると、

今度はお友だちが規則を守っていないのを見かけたとたん

「そんなことしたら、だめでしょ!」と、罰するために叩いてしまうことがあるのだとか。

交通マナーなどを大人が違反しているのを見かけたときも、

「こらぁ」と怒鳴りつけるのでヒヤヒヤするそうです。

 

◆くんと遊んでいると、

何かを目にすると同時に身体が動いてしまい

いったん立ち止まって考えてみることがとても苦手なのが

わかります。

また、相手の感情や思いに配慮して動くことが

とても難しいようです。

 

そこで、◆くんと遊ぶときには、

行動を起こすときに人はどのような心の動きを体験しているのかわかるように

いちいち考えていることを声に出して

つぶやくようにしています。

 

たとえば、上の写真は、「目をつむってて」とこちらに指示をだした◆くんが、

「スーパーボールはどこに入っているでしょう?」とたずねているところです。

そこで、わたしは、「うーん、どれかなぁ?

一番右のは、少し浮き上がっているから、中身がないのがわかるからちがうな。

さっき、◆くんは真ん中に入れてたから、今度はきっとちがうところに入れているかな?」

など、衝動的に当てずに、

ゆっくり検討していく様を見せています。

すると、それまでは質問し終わらないうちに、次々中身を見ていた◆くんが

慎重に「これは~だからちがうかな?」と推理力を働かせる間を持つようになりました。

出来事への反応が少しゆっくりになってきたのです。

 

また、「◆くん、どこに入っているか教えてよ」とたずねてやりとりしたり、うそつきのフラミンゴ(教室の人形です)を登場させて、

「ぼくはうそつきフラミンゴだよ。スーパーボールはまんなかに入っているよ」と言わせて

実はまんなかに入っていないことを推理させたりして、

衝動的に動く前に、相手の出方をみたり、相手の気持ちについて考えてみたり、相手と交渉したり

するようなさまざまな体験を増やすようにしました。

 

そうした遊びを通じて、

◆くんは、何かする前に一呼吸置いて、

ちょっと考えてからすることを学びつつあります。

 

 

 


「教え方」で思考停止に陥るケース と 「教え方」が思考力を向上させるケース の違い 1 

2012-05-18 07:19:08 | 教育論 読者の方からのQ&A

『まなびを学ぶ』  (苅宿俊文 佐伯 胖  高木光太郎  編  東京大学出版会)という著書に

こんな興味深い話題が載っています。

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赤ちゃんは生まれて2~3週で、のぞきこむ大人の「舌出し」「口開け」などを模倣する

と言われています。いわゆる「新生児模倣」です。

チンパンジーの赤ちゃんも同じように「舌だし」の模倣をすることが

確かめられています。

しかし、この新生児模倣は生後2か月ほどで自然に消滅するそうです。

 

新生児模倣の時期を過ぎると、しばらく模倣しなくなり、

むしろ、他者の行為から対象物の物理特性に気づいて、あとは「自分で」工夫することで

工夫することで目的行為を達成するという学習がはじまります。

 

対象物について「○○すると△△になる」というような、対象世界の因果関係や

「アフォーダンス特性」(対象がある種の行為を誘発する特性)の把握にもとづいて、

道具や装置の使い方を学ぶ場合のことを、トマセロらは「エミュレーション学習」と呼びました。

 

(アフォーダンスについては、自閉症の子とアフォーダンス ターンテイキングの話

という記事で取り上げたことがあります。よかったらこちらも読んでくださいね)

 

赤ちゃんは自他の区別ができるようになってくると、

他者の行為を見た時、

ミラーニューロン活動を基盤にして、

まるで自分の身体がそれをしているかのように認識します。

 

ミラーニューロンによる他者の意図理解は、ほとんど自動的。

脳内に発生する行為意図をそのまんまコピーしているようなものです。

 

14ヶ月の赤ちゃんは、行為者の周辺状況の違いに応じて、「その状況」における

行為者の独自の「意図」をくみ取った上で、特定の行為を模倣しています。

                    『まなびを学ぶ』  (苅宿俊文 佐伯 胖  高木光太郎  編  東京大学出版会  の内容 を

                     短く要約して書いています   ) 

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先に紹介した内容を整理してみると、「模倣」の進歩は、次のようにあらわせます。

 

新生児模倣 → 

 

エミュレーション学習 →

 

対象に働きかける行為者の意図を自分の行為意図に反映させる

ミラーニューロンによって自分の行為意図で「なぞる」ことで、他者の行為意図を理解する

 

(生後14カ月以降)他者の置かれている周辺状況から「推察」して捉え、

他者の行為を「なぞる」のではなく、自らその行為意図の下に独自の行為を遂行するようになる。

 

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虹色教室のこれまでの記事で、わたしは親御さんの言動が、

2歳代の利発な子どもたちの心をたびたび

葛藤状態に陥らせているのを見かけることを書いています。

 

そこで何をわたしが伝えたかったことを今回の話題のなかで

シンプルに言いなおすことができます。

 

「ただただ他人の行為をなぞる」赤ちゃん段階から、

 

「(生後14カ月以降)他者の置かれている周辺状況から「推察」して捉え、

他者の行為を「なぞる」のではなく、自らその行為意図の下に独自の行為を遂行するようになる」

 

という状況に移行しようとする子たちの知恵にもとづく行為に

たいていの親がダメ出しをして、14ヶ月より前の段階の学習方法に

とどまらせようとしてしまうということなのです。

 

大人の側に、「子どもに教えよう」「習得させよう」という気持ちが強いと、

 

「推察」し、真似できるけどあえて真似ずに、自らその行為意図の下に独自の行為を遂行する

 

なんて高度なワザを習得しはじめている時期の子より、

大人が「○○してごらん」「~~してごらん」と言う言葉と行為のままに、

何も考えずに真似して、「できるようになった」ように見える方が

素直な良い子でかしこい子のように見えますから。

 

もちろん、成長した後も、意味はわからなくても、

大人の行為をそのままコピーするように真似て練習して、

後から意味を理解していくような学び方もあるし大事なのです。

 

でも、まず、発達段階で習得しなくてはならない

 

「(生後14カ月以降)他者の置かれている周辺状況から「推察」して捉え、

他者の行為を「なぞる」のではなく、自らその行為意図の下に独自の行為を遂行するようになる」

 

が、きちんとできるようになった上で、

そうしたいったん思考停止してでも真似から学ぶような学習をするのと、

 

大人の度重なる過度の手出し口出しによって、

自然な発達がゆがめられて

14ヶ月以降の子たちができるようになるはずの課題がしっかりと

身につかないまま成長するのとでは、

「自分の頭」で考えて行動できるようになるかどうかに大きな違いが生じるのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 


わたしの作った童話です。よかったら読んでくださいね♪

2012-05-17 17:39:53 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 

私の書いた童話を紹介させていただきますね。
この童話 私がはじめて書いた童話です。(ずいぶん昔に書いたものなので、読者が楽しめるように書く技術はなくて、自分の中から湧いてくる言葉を素のままに写し取ったような文章ですが、よかったら読んでくださいね。)

実は 未来奈緒美 というペンネームはこの童話からもらいました。
ちなみに 私の通っていた幼稚園は「ナオミ幼稚園」でした。
ピアノを習いたての頃 弾いていた曲が「ナオミの夢」!!
なおみ という名前に 特別な親しみを覚えて 
童話に ペンネームにと使いまわしています.
イラストはこの童話を絵本にするために描いたものです。

おひま組のなおみちゃん


なおみちゃんは おひま組の一番うしろの席で
おかっぱ頭をちょっとかしげて
「はて 頭の中には どのくらいいっぱい入るのかしら?」
と考えていました。
なおみちゃんの頭の中には もうすでに
お誕生日のケーキをはじめ 色鉛筆のセット 赤いポスト 雪だるま
お花畑とサーカスの動物たち ゆかいなピエロが一ダース
つまっていました。
さらに プールと 大きなくじら 山が三つ
サンドイッチと果物が入ったバスケット 
象の親子とハムスターの赤ちゃんが加わりましたが
まだまだ入りそうです。

担任の丸めがね先生は 度の強いメガネをかけていましたが
なおみちゃんの頭の中まではのぞけません。
そこでおひま組みの生徒のなおみちゃんが頭をしぼっているのなら
きっと黒板の問題だろうと
思いました。
‥‥‥きっと りんごが二つと三つを合わせていくつかなぁ?
って悩んでいるんだわ。

いかにも 丸メガネ先生の思ったとおり
なおみちゃんだって 白いチョークの色をしたりんごのことなら
考えていましたとも!
ただ あんまりあれこれ思いついたものですから 
ちょうど散らかし放題の部屋で なくし物をするように
算数の問題を一問 頭の中のどこかへやってしまっただけのことです。

一年おひま組の教室は いいにおいの春の光でいっぱいでした。
姿勢はしゃっきり 手はおひざの
行儀の良い一年生たちの口元には
シャボン玉のようなかわいらしいあくびが 浮かんでいました。
半分開いた窓からは 青い青い空が 自由に向かって
どこまでも手を広げていました。

思わず軽いふし回しで なおみちゃんの心に歌が生まれました。

     私はいっぱい いっぱい
     空を食べちゃう
     それから空の上の星と
     星の上の空も
     まだまだまだまだ 食べちゃう


それにしても 授業中はなんとゆっくり過ぎていくのでしょう。
あきれたことに
時間というのは 授業がはじまればいねむりをして
終わりの鐘が鳴ったとたん
まるで耳元でヨーイドンの鉄砲の音をきいたみたいにあわてて動き出すのです。
ですから なおみちゃんは 
授業の合間にちょっと恐い顔を作っては
時計の針が怠けないように見はっていました。

見はっている間 時計の一番細い針は 
まじめにカッチカッチ進んでいましたが 
なおみちゃんの手の方は すっかりおるすでした。
そして なおみちゃんがエンピツの先に気持ちを集中して
2+3とか5+4とか つづる間は
今度は時計の方が
(なおみちゃんは見ていないので はっきりしたことは言えませんが)
ぼんやりしているあんばいです。
なおみちゃんは 3+3とノートにつづってから
アリの行列を眺めるときのように
まじまじとエンピツの線を見つめました。
いったいいつから 3とか4とか5とかいう数字が
エンピツの中に入ったんだろう?
と不思議に思ったのです。

なおみちゃんが 幼稚園のとき
エンピツから出てくるのは
友だちの顔や花 それから動物だけでした。
かいても かいても 一度も数が出てきたことは
なかったのです。

だれがどうやって なおみちゃんのエンピツに数を注ぎ込んだのか
なおみちゃんは先生にたずねたくなりました。
けれどもなおみちゃんは 
学校は 生徒が知りたいことを先生にたずねるところではなくて
先生が知りたいことを生徒に教えてもらうところだと
承知していました。

3たす7はいくつですか?とか
この漢字は何と読みますか?とか
丸メガネ先生が知りたがれば
親切なおひま組の生徒は ていねいに教えてあげました。
でもなおみちゃんが
「ミツバチが花のみつをもらうとき 花はどんななぞなぞをミツバチに出すの?」
とたずねても
「雨の日 空はどんな悲しいことがあったの?」
とたずねても先生は答えてくれません。
「その質問は 後にしましょうね。」とたしなめるだけです。

ですからなおみちゃんは だれにもきこえないくらい小さな声で
自分で自分にたずねて
自分で自分に答えることにしました。

     どうしてエンピツの中に3や5が入っているかといえば
     エンピツも学校に通っているからよ
     学校に来れば
     今日のわたしが 昨日のわたしより
     かしこいように 
     今日のエンピツは 昨日のエンピツより
     おりこうになっているから‥‥‥
     どれくらいたくさん 頭の中に物が入るかといえば‥ね
     わたしの目で見えるものをぜーんぶと
     見えないもののぜーんぶだわ‥わかったでしょ なおみちゃん

そのとき 丸メガネ先生のメガネに
ぼんやり窓の外を眺めているなおみちゃんの姿が映りました。
丸メガネ先生は たいていの先生と同じように
おひま組の生徒がもぞもぞしたり そわそわしたり
ぼんやりよそ見をしたりするのが
好きではありません。

そこで先生は 厳しい声でなおみちゃんを叱ろうとして
すんでのところでやめました。
いたずらな春風が 子どもたちの耳元をくすぐり
先生の教科書をパラリとめくり
チョークの粉を 少しだけ吹き上げていきました。

先生がどうして叱るのをやめたかというと
先生はなおみちゃんたちよりずっと年をとっていたけれど
心の中のそのまた中には
小さな六才の女の子が住んでいたからなのです。
その女の子は 丸メガネ先生の心の中で
「算数の時間に算数の勉強をするのは大事なのは 百も承知。
でも たまには楽しいことをするのも悪くないわ。
こんな気持ちのいい春ですもの。」
とつぶやきました。
丸メガネ先生は ぽんぽんと手を打って
みんなの注意を集めました。
「あと 少し時間がありますが 算数の授業はおしまいです。
さあ みんな目を閉じて 何でも好きなものを想像してみましょう。」
目を閉じると おひま組の生徒たちの心には
どこまでもつづく黄色や赤のお花畑が広がりました。
鳥たちが はばたきながら飛びかい
動物たちが はねまわりました。

キーンコーンカーンコーン

と休み時間をつげる鐘がなり始めたとたん
おひま組みの生徒たちみんなの 夢という夢はすべて
あっという間に 春の光の中に溶けてしまいました。


おしまいです。ここまで読んでくださった方
本当にありがとうございました.

 


自閉症のルーくん と 感覚統合 1

2012-05-17 12:53:18 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉症のルーくん と 自発性 1

自閉症のルーくん と 自発性 2

自閉症のルーくん と 自発性 3

自閉症のルーくん と 自発性 4

 

の記事から1ヶ月ぶりにルーくんが教室に来てくれました。

 

ルーくんは「いっしょに遊ぶ」というイメージがかなりつかめてきているようで

新しい遊び道具にも積極的に関わって

じっくり遊べていました。

教室の子らが「お宝」と呼んでいる星やハートや動物の形をしたプラスチックのおもちゃを

小さなコップに1つ1つ入れていく作業が気に入っていました。

 

その後、下の写真のような穴の空いた箱に「お宝」をポトンと落とす遊びを楽しんでいました。

この穴の空いた箱はとても関心があるようで、

おもちゃを穴から入れて、その後ちゃんと入っているか横から覗きこんだり、

ミニカーを取ってきて、横から入れて遊んだりしました。

 

ルーくんは、「ルーくん!見て!」と声をかけると、

頑なにそちらを見ようとしないか、無視します。

が、声をかけずにそっと提示してみせたことは、

自分の遊びにちゃんと取り入れてもいます。

 

最終的には、こちらの呼びかけによる共同注意が上手にできる状態に導くように配慮しつつも、

ルーくんがコントロールされたり侵入されたりしているような不快感を抱かないで、

お互いに真似っこしたり、いっしょに同じものを見たりするのを

楽しんでいけるように調節しています。

 

ルーくんの一人遊びにわたしが介入しようとすると

触らせないようにわたしの手を押し返すそぶりをしながらも、

適度に介入されることを楽しんでもいるように見えます。

無理強いせずに、いつもルーくんの意志の方が通るくらいに加減しながら邪魔に入っていると、

ふざけっこや相互にする遊びの発展につながりそうでもあります。

たとえば、下の写真の玉そろばんを移動している最中などに、

わたしが玉に触ると、手を押し返すのですが、

ルーくんが途中まで移動したところで、邪魔に入りつつも、

「イヤ」という素振りでサッと手を引っ込めて、

ふたたび邪魔に入るということをしていると、

だんだん、そうやってふざけあうことが楽しくなっていくようです。

 

ただこうしたふざけっこに誘う場合、

とてもふざけっことは思えないほど慎重に、「邪魔しようかな、しようかな」と

こちらの次の行動が見えやすいようにして、そっと行うことが

大事だとも感じています。

 

自閉症の子たちが、人と関わりながらする遊びを楽しいと感じ始めるには、

物事が急速に変化しないという

安心感が必要だからです。

 

その時、ルーくんとわたしがしている遊びの意味を

ルーくんのお母さんに正確に伝える難しさも感じました。

 

あるおもちゃを使って

ある遊び方をさせるのが大事なのではなくて、

その遊びを通して、

次第に「(相手と)同じものが見たい」「(相手の)真似したい」「(相手は)次にどんなことをしてくれるのかな?ワクワクする」

「(相手がこうしたら)ぼくはこうやって返すんだ」という気持ちを高めていくことと、

自発的におしゃべりしようとする態度を育んでいくことが

重要だからです。

 

ルーくんのそうした遊びへの反応は良くて、

どの遊びでも次第に遊びの世界に引き込まれて

夢中になっていました。

 

ビー玉がぐるぐる回りながら落ちていきます。

 

ルーくんはかなり長い時間、人といっしょに遊べるようになってきている一方では、

疲れてくると自分の世界に没頭して、

部屋の中を何度も行ったり来たりしながら

常同運動にふける姿もありました。

 

そんな時に、プラスチックの子ども椅子を持ちあげて

自分の胸に押し付けようとしたり、

ひたすらげんこつにした手をペロりとなめたりしていました。

 

少し圧迫するくらいに抱え込んで、下の写真のような金属製の突起がたくさんついている

科学おもちゃに触らせてあげると、

急に落ち着いて、長い間わたしの膝の上でこのおもちゃを触って遊んでいました。

 

またゴム製の突起のあるクッションも気にいって、手や身体を押しつけて

ニコニコしていました。

 

次回に続きます。


2歳児さん、3歳児さんのめちゃくちゃさと いたずらを どう受け止める?

2012-05-17 07:54:51 | 初めてお越しの方

昨日は3歳前後の子どもたちのレッスン日でした。

「あっ、いいこと思いついた!」と本人の心の世界では、何やらすごいことを考えだした様子ですが、

実際することは2歳児さんの延長上にある月齢の子ら。

 

仕組みに興味を抱かせるために紙コップでがちゃぽんを作ってあげたら、

うれしそうに数回遊んだ後で、ちょきちょき切り刻んでいました。

 

「鉄棒みたいね」「あっ、フーッてしたら、クルクルまわるね」と言うと、

それまでで一番うれしそうにニコニコしながら、

自分の作品をフーッと吹いて回していました。

見栄えなんてそっちのけで、とにかく自分が思いついたことが楽しい!

自分がやったことがすばらしい!

自分中心に世界が回っている時期にいる子たちです。

 

その自画自賛ぶりと自分中心の世界の眺め方が、

何ともかわいくておもしろいです。

 

別の子も、作ったがちゃぽんを作っている最中からチョキチョキ。

そこで、紙箱の上に乗せて、「たこさんみたいな足になったから、トントンすると、移動していくよ」と

動かしてみせてあげると、うれしそうでした。

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2歳児って、「それはダメよ」と注意しなくてはならない悪さをたくさんするもの。

どこからどこまで許されて、何がダメなのか学んでいる時期ですから、
ダメなものは「ダメ」と教えていかなくてはいけませんが、

同時に、「それを試してみたかった気持ち」
「自分で考えたんだよという思い」「芽生えつつある知恵」をしっかり受け止めてあげることも
大事だと感じています。


2歳7カ月の★くんのレッスンで、
★くんは、イージーチターというハープの一種が気に入って、
自分で棚から出してきました。

最初は指示通り弦をはじいていましたが、
少しすると、サイコロを取ってきて、イージーチターの弦の上に落しました。

私は、「ダメよ。それは大事な楽器だから、サイコロを落としてはダメ」と言ってから、
「サイコロを落とすとポーンと跳ねるか試してみたかったの?」とたずねました。
★くんは、こっくりして、「ポンポン、はねるのしたい」と言いました。

「★くん、楽器にサイコロを落とすのはダメだけど、
サイコロを持ってきて、いいこと考えたんだね。いいこと思いついたね。」と言うと、
うれしそうでした。


それで、小さなトランポリンを取りだして、サイコロを落として遊ぶことにしました。
サイコロがトランポリンをはねてコロンと転がるたびに、「5!」「3!」と
数字を読んであげていると、
★くんは楽しくてたまらない様子で何十回も繰り返しました。
でたらめですが、自分でも、「4!」「5!」とサイコロの目を読んでいるふりをします。

しまいに、トランポリンの上にそっとサイコロを乗せて、自分の出したい目に調節するように
なってきました。
★くんは、2歳半ばで、数や量の多少、サイズの大小に
興味を持ち始める時期です。

でも、★くんがこのサイコロ遊びにここまで熱心に関わっていたのは、
この時期の子がサイコロを好むからというより、
自分で思いついた「ダメ」と言われることを、
別の形で受け止めてもらって、「自分の思いつき」というものを大事にしてもらえたからでも
あります。

「ダメ」のひとことで終わったり、
大人が良いと思うものを無理やり押し付けられたのでは、
こうした強い好奇心は生まれにくいです。



イージーチターの弦を乱暴に扱うので、
ここでも、「大事な楽器よ。バンバンたたいたら、壊れちゃうわ。それに、指が痛くなるわよ。」と注意して、
その一方で、
「はじくと音が出て面白いね。音が出るのが楽しいのね。
自分で、ポロンポロン音がでる楽器を作ってみる?」とたずねました。
★くんは納得して、楽器を作りたがりました。
紙コップに輪ゴムをかけただけの楽器です。


こんな風に書くと
対応次第で、2歳児はみんな聞き分けが良いように見えますが、
そう簡単ではありません。
子どもの気質も発達の段階も千差万別ですから、
その都度、臨機応変に対応していくことが大事なのです。

また、どの子にも「ダメ」と注意すればいいわけではありません。
「ダメ」という言葉を使うと
火に油を注ぐような騒ぎになっちゃう子もいますから。


★くんにしても、これまで相当なやんちゃさんで、
ようやく前回のレッスンあたりから、大人と交渉しながら、
ダメなことは何で、どんなことなら許されるのか
理解できるようになったばかりなのです。


ドールハウスで遊びたがったかと思うと、「いっぱい、いっぱい」と言って
ハムスターをわんさかつっこみ始めました。
2歳代の子の遊びは、まだこんな風にでたらめですが、
全くでたらめというわけではありません。

「いっぱい」「たくさん」「おおい~」「たかいたかい」といった言葉を使いながら、
量を体感したり、
「多い」と「少ない」などの対になる言葉を理解したりすることへの熱心さが、
こうした遊びの楽しさにつながっているのです。

いっしょに「いっぱい、いっぱいね」と言って遊んであげると、
「すごくいっぱい」「少し」「ひとつだけ」などの違いを学んでいきます。

ひとりひとりの人形を椅子に座らせていったり、ひとりにひとつ帽子をかぶせたり、
ひとりひとりに切符を配ったりするのをとても喜びます。




2歳の子は、見立てて遊んだり、
物の作り方を学びながら遊ぶのも喜びます。
簡単なものとはいえ、社会の仕組みにも
関心を寄せ始めます。

写真のように簡単なレジを作ったり、
レシートが出てくる部分を作ったりすると、
想像力を働かせて遊びながら、
自分にも作れそうな物の作り方について学びます。

2歳代の子に作ってあげるおもちゃは、
「偶然、ブロックをはめていくと、それらしいものができちゃった」ということが
起こるような作品がいいと思っています。
こうした工夫は、子どもに自信と作る楽しみを与えてくれます。






同じ屋根の下で(子どもの頃の思い出)

2012-05-17 07:00:04 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

昨日、レッスンに見えた方から、「先生の子ども時代のストの日に線路の上を

歩いて行った話を知り合いにしたら、それうちの近所の子どもの頃の話じゃない!

って返事がかえってきて驚いたんですよ」とお聞きしてびっくり。

その知り合いのお住まいは阪急電鉄の路線上の隣の駅でした。

世の中狭いですね。それと、線路の上でピクニックをしていたのは、

わたしの住んでいた団地の主婦軍だけじゃなかったのかもしれませんね。

 

線路の上でのピクニックの話を書いたのは次の記事です。 ↓ 

『同じ屋根の下で』

このブログでは番外として、私の子ども時代の出来事を
つづっています。
なぜかしらそれを楽しみにブログにいらしてくださっている方もいるようで、
「また子ども時代の話を…!」と熱心におっしゃっていただきます。
それで、また昔のことを思い出しながら記事を書いてみようと思います。ついでに関連する過去記事も紹介しますね。



何度かこのブログでも書いているのですが、
私は大阪の自然がまだたくさん残っている静かな地域の団地で育ちました。
当時、その地区の団地の住人というのは、
地の大阪人というのはほとんどなくて、地方から出てきた人々の寄せ集めでした。
とにかく考え方も生活様式もまったく異なる人々が、
ひとつの団地で、どこか大家族を思わせる「近さ」で暮らしていました。

近さって…わかりづらい表現ですよね。

うまく表現できないのですが、
現代の団地やマンションの住人同士が仲良く暮らしている様子とはずいぶん
ちがう感覚で、お互いがつながりあってたんです。
似た考えの人同士集まったり、似た境遇の人同士親しくするのとは
ちがって、さまざまな雑多な人がごちゃまぜに暮らす中で、

「自分とはちがいすぎる」「正反対」「敵だ!」「あんなの最低最悪の人間だ!」と感じるほど、へだたりがあるもの同士でも、

「同じ屋根の下に暮らすもの」

として、あくまでも「自分の延長線上に存在するもの」としてとらえていた感があるのです。

自分の身内のはみ出し者や自分の性格の中のいや~な部分や
自分の鼻水…

のように、嫌は嫌でも、どこかに自分の一部であるような近さがあったのです。
団地には、変質者と噂される男性もいましたが、
年老いた母親がその男性の世話を焼きに来てせんたくなどしていると、
その母親とはだれも話したこともないのに
「あんなに…腰が曲がってまで苦労して…」と気の毒がる人がいました。

また、こんなこともありました。
団地内に精神を病んで近所中の家に、
夜昼かまわず無言電話をかけ続ける女性がいました。
あるとき、腹にすえかねた私の父が、口論の末、その女性をなぐってしまいました。
するとその女性の夫が、
(なぐられた側なんですが…)迷惑をかけてきたことを詫びて
父にセーターを届けてきたのです。
私の父は…というと、まるでお気に入りの一着みたいに
そのセーターをよく着ていました。


私の母はクリスチャンで「綺麗なこと、正しいこと、真面目なこと、親切なこと」をいつも愛している人でした。
基本的に見た目も中身も「天然」なので、そうした良い人ぶったところが
さほど周囲の鼻につくこともなく、
暮らしていました。

すぐ下の階に住んでいたのは、
ちょっと悪ぶっていて、お酒を飲みながら、
とうてい主婦とは思えぬ
ルーズな暮らしっぷりで、子育てをしている方でした。
よくナイトクラブの話やディーナーショーの話を母にしていましたが、
最近の中学生よりも小さな生真面目な世界でしか暮らしたことのない母には、
想像することすらむずかしく、
何やら怪しげな雰囲気しか伝わっていなかったようです。
母が、おやつも…カルピスやパンまでも(ハードル高いですね
手作りを決め込んでいるのに、
下の奥さんは、「昼食も夕食もインスタントラーメンよ」と言ってはばからない人で、
このふたり…いくら上下の階で生活しているからって、
まず仲良くはできないだろう…と誰の目にも明らかなのに、
なぜか姉妹のような親しさが、
互いに互いがわからないまま…
わかりあおうともしないままに…
十数年という年月に渡って続いていました。

少し話が前後しますが、
父は大型トレーラーの運転手をしていました。
一晩中、トラックの運転をした後で、朝から夕方までの仕事をこなすようなハードな勤務体制で、睡眠不足は命取りでした。
ですから、昼夜問わずかかってくる無言電話は、
他のどんな嫌がらせよりも父を激怒させるものでした。もともと衝動的で、
粗暴な性格ですから、思わず手がでてしまったわけです…。

父が無言電話の相手のご主人からもらった服を
何度も着ていたのは、
セーターをお詫びに届けてもらった時点で、

好きで病気になったわけでなし…と、

相手を犯罪者としてではなく
痛ましい人生に翻弄される家族もあるひとりの人

として、受け入れることができたからではないかな? と思っています。

私の父の物言いや考え方は、「北野たけし」にとてもよく似ています。
冗談だか嫌味だか、ブラックユーモアだかわからない…
本心なんだか、うそなんだか、からかいなんだか、優しさなんだか…
毎日顔を合わしているものにも皆目検討がつかないのです。

その後、父の冗談には、この無言電話のご近所さんの話が登場しましたが、
見下しや憎しみは含まれない…
どこか親しみのこもった口調でした。


ここで、母と下の階の奥さんの話に戻ります。

下の階の奥さんというのは、気づかれている方もいるでしょうが、
ADHD風の人です。
そして母はというと、これも気づかれている人があるでしょうが、
ADD風の人です。
ADHDやADDの人がいる周辺にありがちなことですが、
このふたりのとっぴょうしもないアイデアや行動が、この団地周辺の
流行をリードしているところがありました。

ストライキで電車が止まってしまう日に、下の階の奥さんは
突然、「お弁当を持って線路の上をあるいていきましょうよ」と提案しました。
そこで母ははりきって弁当を作り、私と妹にサスペンダーつきのチェックのスカートという…おそろいの手作り服を着せ、
近所の仲良しに声をかけてまわりました。
団地中の人がこぞって、弁当を手にぞろぞろと、
線路とごつごつした線路のまわりの石を踏んで、
終点の北千里の方向に歩いていきました。
今では考えられないことですが、ストとなると、阪急電車の駅にも周辺にも駅員さんの姿はひとりもなく、とんでもないピクニックの集団をとがめる人は
だれもいませんでした。
ADHD風の人って、どんな感じかというと、
のだめカンタービレののだめちゃんやサザエさんやくれよんしんちゃんのようなタイプです。
ADD風の人ってどんな感じかというと、
やたら頭の中が忙しいちびまる子ちゃんやのんびりまったりのおじゃる丸やおでんくんのようなタイプです。

ドラマやマンガの中で、彼ら彼女らは主人公ですが、
実生活の中でも、半ば強引に、このADHD、ADDタイプの人が主人公になっていることはよくあることです。
イベントやらパーティーやら、もめごとやら、競争やら、新しい趣味やら、料理講習会やら、お金儲けやら、旅行やら…

とりあえず平々凡々とした日々に変化をつけてくれるものなら
何でもあり!!
の気ままな思考をする人々が、
まっとうな考え方の人々までも巻き込んで、
いっしょになって何かする…。

私の子ども時代には、そうした繰り返しの上を流れていたように思います。

私の住む団地のベランダ側には、団地の所有する小さな土地がありました。
いくらかお金を払えば、たたみ一畳~三畳ほどの地面を借りることができたようです。
それで、団地の土いじり好き、花好きが、
自分のコーナーに好きなものを植えて、手入れをしていました。

ひとつのコーナーはまるで外国の童話に出てくる庭のようでした。ばらやらゆりやら、豪華な大輪の花が咲き誇るあいだを、見て回ったり世話したりできるように
くねくねした通路が作られていました。
また別のコーナーはパンジーやチューリップなど…花屋の店先で売られているようなよく見かける花が、よく見かける配列で植えられていました。

私の母も、自分のベランダからよく見える位置に土地を借りて、
耕していました。何を植えようか、悩み悩んだ挙句に、
田舎から出てきた人しか思いつかないような発想で、
さつまいもの苗を植えました。
それで、秋には団地の人がこぞって、芋ほりです。

まっとうな考え方をする人というのは、
ひとつ欠点があります。
多数決の状況を見て、多数である考え方には、一も二もなくしっぽを振ってしまうのです。自分のまっとうな勘より多人数の意見を信頼してしまいます。
それで、母と下の階の奥さんが、だれか一人に声をかけて、
「わたしたち~するつもりだけど、あなたは、どうする?」と
たずねれば、2対1で、多数派の意見が通って、3人で次の人を誘いにいくあんばいです。

そんなわけで、みんな何の疑問も抱かずに、
団地の前で芋ほりに興じながら、
だれの家で、スウィートポテトを作るかという相談をしていました。
そのままふかすのがいちばんおいしいという人もいたし、
アメでからめてゴマをふって、大学芋にするのが一番だという人もいました。
それぞれお国自慢の食べ方があって、私たち子どもらは、芋ほりではしゃぎ、土の中から出てくる虫をつかまえては騒ぎ、料理大会でも大暴れでした。


私が団地での人騒がせな悪気のない人々が繰り広げる
どたばたした日常を書いてみようと思ったのは、
単に思い出にひたりたかったからではありません。
子どもの頃、見聞きして疑問に思ったこと、わからずじまいだったことを、
もう一度、大人になった自分の目で確かめて
本当のことをつきとめておきたかったからです。

見えていたこと、信じていたこと、信じ込まされていたことと、
背後にある真実はずいぶんちがうものです。

私の住んでいた団地は、火災などの緊急時にそなえて、
ベランダは片方の隣の住人と鍵のついていないドアひとつで
つながっていました。
うちのとなりは、わたしより2~3歳年上の男の子のいる家庭でした。
母や他の子育て中の団地の人とは、どこかちがう
精神的な余裕を感じさせる子育てをしている人でした。

母が妹の次々しでかす悪さを…
(近所のいじわるっ子の部屋の前の壁に、
友だちとえんぴつで「バカ」と書いたり、
上の階に住んでいる親切な初老の女性のスカートをめくったり)…
愚痴るたびに、「何で、☆ちゃん(妹)ばっかり悪く言うの?
あの子はいい子よ」と諭していました。

お隣さんは、小学生のひとり息子の●くんに、一人前の大人に対するみたいに
接していました。
戦争中の映画で、軍需工場に働きに行くまだ小中学生の息子に、
母親が大人の他人に対するようなていねい語で
「はるひこさん、今日もお国の為にがんばってください」といった言葉をかけるシーンを見ると、私はよくこのお隣さんのことを思い出します。

このお隣さんは親切で温かみがある人で、妹はよく甘えていました。
が、向こうも私に、私も向こうにあまり関心がありませんでした。

そのためか私が、お隣さんについて
残っている鮮明な記憶は、
妙なお隣さんらしからぬ…お隣さんの姿ばかりです。

ひとつは、私が風邪で寝込んでいたときの話です。
熱も下がり退屈していたところに、図書館バス(バスの中に貸し出しする本を
積んで移動しています)の到着を告げるメロディーが(は~るの~うら~ら~に~)流れてきました。

パジャマのままベランダまで飛び出ると、せんたく中だったお隣さんが何ごとかとたずねてきました。
半べそをかきながら、本を借りに行けないのを残念がる私に、
お隣さんは、ちょうど私も本を返しに行くついでがあるから、☆ちゃん(私)の分も借りてきてあげよう」と言いました。
誰かが自分のために本を借りてきてくれる…という初めての事態に、
すっかり舞い上がった私は、クリスマスプレゼントでも待つような心地で
いまかいまかとお隣さんが帰ってくるのを待っていました。

そうして借りてきてくれた本は、

ベーブルース伝記

リンカーン伝記

どうしてわざわざ…小学生の女の子がとうてい好みそうもない本を、
わざわざ出かけて、
わざわざ選んできたのか…。

なみだ目でお礼を言いました。

団地の中では長女のような役柄で、みなから一目置かれていたお隣さんも、
やはり母と似たり寄ったりの部分があったのかもしれません。
もうひとつの記憶はこんな話です。

あるとき、団地の人たちと近くの山までピクニックに
出かけた時も、このお隣さんの意外な一面を見て
びっくりしたことがあります。
私の住む地域は山を切り開いてできた住宅地で、
10分も歩けば、まだ未開発の山々が残っている場所に出でました。
田んぼもまだあちこちにあって、道にはレンゲが一面に咲き誇っていて、紫の輝きで目が痛いほどでした。

そこいらの山というのは、どこも竹がびっしり生えていました。
団地のピクニック集団が、お弁当を食べる場所をさがして、
その竹やぶに入っていったとき、
土の中からは、たけのこの小さな頭が、北国の子の頭巾みたいな愛らしい様子で
のぞいていました。

おそらくだれからというのでなく、自然とそこにいたみんなが、
その小さなたけのこの周りを
落ちていた小枝や素手で掘りはじめました。
誰もが山のどんぐりや落ち葉を集めるような気持ちで、
何の罪悪感もなしに、
たけのこを次々掘っていたように思います。
「ほら、あっちにも…」「がんばって!」子供たちも
大人の指導を受けながら、あちこち掘り返しました。

するとその時、背後から激しく犬のわめき声がしたかと思うと、
巨大な野犬のような犬と、目をぎらぎらと血走らせた初老の男性が、
あらわれました。

竹林をバックに、
そこにいる全員を射抜くほどの眼力で睨みすえたまま、
「なんちゅうことする~このどろぼうらめ~!!こんなちっちゃいのまで、
掘り起こしけつかって!!」と、怒声を浴びせました。

大人も子どもも、凍りついたまま、一言も発することができません。

最初に言葉を口にしたのは、
うちのお隣さんでした。
何を思ったか、小学校高学年くらいだった●くんを、その恐ろしい山の持ち主の男性の前に押し出して、「●、ほら、謝りなさい。」と叱ったのです。

●くんは、急に我に帰ったように、「すいませんでした~」と
深々と頭を下げて謝りました。
それを最初に、大人たちも、子どもも、
涙を流しながらぺこぺこと頭を下げました。

その後、長い長いお説教をくらった後で、
うなだれたままとぼとぼと帰宅しました。

●くんのお母さんは、●くんが中学、高校へと進む中で、
●くんの友だちが不良っぽい子であろうと、頼りない子であろうと、とても大切に扱っていました。
●くんというのは、まじめでハンサムでしっかりしていて背が高くて、いくつになっても●くんのお母さんの自慢の息子でした。

この日の出来事を思い出すたびに、
当時の大人たちの依存的で弱い一面を垣間見たような気がして、
悲しいのか 面白いのか 懐かしいのか おかしいのかわからない
複雑な気持ちになるのですよ。

長い間おつきあいありがとうございます。次はいつも通りの記事にもどりますね。 

困ったちゃんが、しっかりさんに。 具体的に何を変えると良かったのか

2012-05-16 19:07:57 | 教育論 読者の方からのQ&A

半年ほどで急にしっかりしてきました

という記事に、次のような質問をいただいていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うちの息子も★君の昔の様子に似ている気がします。息子の場合は幼稚園や

パパやおばあちゃんなどといる時は比較的良い子なのに、

ママである私がいると手が付けられないくらい怒ったり、わがままを言ったりして対応に困っています。


★君のママが具体的に何を変えたのか教えてもらえると嬉しいです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それに対して★くんのお母さんから、次のようなお返事をいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お礼が遅くなりました!
レッスンで子どもたちについてたくさんのヒントをいただいて感謝しています。
夜は同い年の男の子と一緒にお泊りしたのですが、先生のところで作った野球ゲーム、「すごいな~!こんなん作れるん!?」と言われ、一所懸命作り方やボールを飛ばすコツを教えてあげていました。
そこから点数を書き入れたりして発展させ、今度は怪獣をボールで倒すゲームを作りたい、と燃えています(笑)

オレンジママさんからご質問があったので・・・
私は昨夏に、ムスコが感情タイプの子であること、自己肯定感が低くなっていることなどを教えてもらいました。
繊細なタイプのムスコは、保育園生活の中でかなりがんばっていたんだな、と分かったので、危険なことと礼儀以外は(なるべく)叱らず大目に見て、スキンシップを心がけました。
それと、玄関の鍵は兄だけが持っていい(妹は持てない)とか、エレベーターのボタンは兄が押す、とか、仕事で使う封筒にシールを貼る、とか・・・ほんのささいなことですが彼だけの役目を持たせて、いてくれて助かる~!ありがとう!とやっているうちに、本当にこんがらがった糸がほぐれるように、すねた態度がなくなり素直になりました。
今、ホントにムスコがかわいいです(^^)
今回のレッスンでもう少しゆったり過ごす時間が必要というヒントをいただいたので、さっそく実践しはじめました。
保育園から帰ってくると、好きなテレビとごはんの時間が重なってしまい、ついつけたまま食べていたのですが、テレビを消しておしゃべりするようにしました。今まで聞けなかった話が飛び出てきて、面白いことを考えているんだなーと、またまた新しい発見です。
ノーと言えない流されやすいムスコに不安を感じていたところでしたが…よく考えたら、はっきりイヤと言いなさい!なんていわれても言えないですよね。
今は少し助けてあげながら、これからたくさん自信をつけて、自然に意志が表現できるようになっていけばいいかな、と思いました。

ちなみに、最後になおみ先生にぶち切れた(笑)3才の妹の方ですが、家族以外にあんなに感情をあらわにしたところを見たことがなかったのでびっくりしました。
「せんせいが片付けなさい!って言ったけどやらなかったの、だってやってあげたのに(兄のレッスンを手伝ったのに…と言う気持ちだったようです)せんせいがダメっていったから!やりたかったのに!!」
と、こちらはこちらで意欲がありあまっていたようです(笑)
帰ってきてから三つ目のめがね?を父に見せながらいろいろ思い出した様子で、「次はちゃんと片付ける。お片付けしなくてごめんね、ってあとでせんせいにお手紙書こうねー(母も連帯責任!?)」と言っていました。

長々と失礼しました!
またお会いできる日を楽しみにしています!

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自閉症のトムくん  爆発的に言葉が出てきそうな予感 17

2012-05-16 12:48:37 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉症のトムくん  爆発的に言葉が出てきそうな予感 16

の続きです。

トムくんはいくつかの童謡を歌うことができます。

妹のジェリーちゃんが歌い始めると、それにあわせてかなり長い歌詞を歌いきることができます。

その一方で、会話できる言葉は極端に少ない現実があります。

もっともしゃべること自体がまったくできない時期が長かったことを

思えば、そこにも大きな成長を感じはするのですが。

 

テンプル・グランディンさんの『自閉症の才能開発  自閉症と天才をつなぐ環』という著書に次のようなことが

書かれています。

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セラピストたちはときたまノンウ゛ァーバル(音声言語のない)児童が、話し言葉の能力を習得する以前に、

歌をうたえるようになることを体験上知っている。

こうした者の脳は話し言葉の能力をつかさどる回路よりも、

歌をうたう回路のほうが正常なのであろう。

歌のリズムが聴覚対応能力を安定させ、じゃまな音を遮断する助けになるのだと思う。

だから、自閉症児の中にはコミュニケートしようとして、CMソングを口にするかもしれない。

絵の動きとCMソングの組み合わせは、聴覚リズムと視覚的イメージを生み出す。

テレーズ・ジョリフェの両親は、彼女が子供のころは、ある種の音楽をかけると言葉が出たことを

話してくれたそうだ。私は耳につく騒音を遮断するためにハミングしたものである。

                 『自閉症の才能開発  自閉症と天才をつなぐ環』テンプル・グランディン 学習研究社

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トムくんも話し言葉の能力をつかさどる回路よりも

歌をうたう回路の方が正しく機能しているのかもしれません。

トムくんが不必要な情報を遮断する方法は、

細部の一点だけに集中することのように見えます。

 

 たとえば写真のような凸凹のあるブロックにストローをさして遊んだところ、

ストローの先端の小さな穴にアイロンビーズを入れていくという作業をわたしと交互にするのを楽しんだり、

初めてする作業にも関わらず

集中力を持続させて取り組んだりできるのです。

トムくんは何を見たらいいか漠然としていたり、

見る範囲が大きかったりすると、注意力が散漫になって

見る能力も聞く能力も落ちるように見えます。

いっしょに隠しっこ遊びをしていた時も、目を向ける対象がはっきりしない間は、

遊びの意味が理解できない様子で、

妹のジェリーちゃんの「どこに隠す?どこに?」といった声に

パニックを起こしかけていました。

それが、目を何に向けたらいいのか、それもわかりやすい1点が示されていて、

次に自分が目を向けるべき対象も示されている時には、

耳で聞いたことに対する反応が

的確になっているのも感じました。

 

そういえばトムくんは、小学生になって文字をいくつか覚えたことをきっかけに、

言葉が少しずつ出はじめたそうなのです。

また最近は、ニュースの字幕の読める文字を拾うのが楽しくなってきているそうで、

文字を見ることに刺激されて、言葉を発することがよくあるそうです。

 

先に紹介した『自閉症の才能開発  自閉症と天才をつなぐ環』には、次のような記述もあります。

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二十年前、自閉症児のセラピーをしていたカール・デルカートは、低機能自閉症者の感覚器官には、

ホワイト・ノイズがはいっているのではないかと推論し、彼の著書『Ultimate Stranger 』 で、

過度、過少、そしてホワイト・ノイズの三つの感覚処理問題について言及している。

過度は過剰反応、過少は低反応、そしてホワイト・ノイズは自己内部妨害を意味する。

多くの自閉症者と話をするうちに、わたしはノンウ゛ァーバルの(音声言語のない)自閉症者の

世界への洞察をもたらす、異常感覚連続体があることがよく分かった。

(略)

注意を奪うような風景や音から保護されればされるほど、彼らの未熟な神経組織は、

話し言葉を正確に認識できるようになる。彼らの聞き取りを助けるために、教師は過度の視覚刺激から、

彼らを遠ざけてやらなければならない。

(略)

聞いたことを「おうむ返し」(エコラリア)する子供は、感覚処理連続体の中ほどにあり、おうむ返しするに足る

言語を認知できているのであろう。

アインシュタイン病院のドリス・アレン博士は、言語の発達を阻害しないために、おうむ返しをくじいては

いけないと強調している。

子供は自分が聞いたことを確認するために、おうむ返しするのである。

             『自閉症の才能開発  自閉症と天才をつなぐ環』テンプル・グランディン 学習研究社

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トムくんも視覚の情報処理と聴覚の情報処理に深刻な問題を抱えているようです。

それらを軽減する方法は、トムくんが場所や状況によって

比較的スムーズにそれらを処理できている場合があることに

注目する必要があるのかもしれません。

キッチンでおなべを見つめる時と、家具などがない奥の部屋の隅に腰かけている時のトムくんは、

話をきちんと聞き取ることができるようです。

また自分からわたしの腕に手を乗せて、わたしの意図を読もうとするように

真剣な表情でこちらを見る時には、

話しかけた言葉を了解して次の活動につながっていくことが多いです。

トムくんはお父さんが大好きでひざに乗って

上機嫌で笑いながら過ごすことがよくあるのですが、

その間は完全にリラックスしているようで、見たり聞いたりすることへの注意力は

どこかにいってしまっているように見えます。

 

が、お父さんが台所で調理をする時には、調理の流れを真剣に目で追いながら、

お父さんの言葉かけをよく理解しているようです。

トムくんにとってお父さんの声の音程やリズムはとても心地よいようですが、

お父さんに対して自発的に何か伝えようという思いはあまり抱いていないようです。

 

yohikoさんに対するトムくんは、yohikoさんの求めている意図を正しく読みとろう、

正しい答えをアウトプットできるように期待に応えようとする一生懸命さが先だって、

自分の思いを伝えようとする態度が空回りしてしまうようです。

おそらくトムくんはふたつのことを同時に行うのはとても困難なのでしょう。yohikoさんが

トムくんの気持ちを正しく読み取ってあげようとするほど、トムくんは自分の言動が間違っているのではないかと

不安になって軽くパニックを起こしてしまうようにも見えます。

トムくんが何か言いたそうな時、言葉で「なあに?」「~なの?」と矢継ぎ早に返さずに、

静かに、トムくんの置かれている状況と視線の行方を見て、

何を言いたがっているのか黙ったまま判断して、

言いたかった内容を目で確かめられる状態を作って、見る対象をはっきりさせて安心させてから、

「~なの?」とたずねるといいのかもしれません。

 

いくつもの情報処理を同時にこなして混乱することがないように、

こちら側が「見る」「聞く」のスイッチのどちらかだけで対応できる時間をあえて作ってあげるのです。

 

トムくんが何かを伝えたい、言いたいという気持ちにさせるのは、

妹のジェリーちゃんの言動のようです。

ジェリーちゃんがおかわり用のお椀からおかわりしようとする時や、

トムくんを遊びに誘っておいて全ていいとこ取りしてしまう時、

ジェリーちゃんが予想外の行動に出た時など、

トムくんはあわてた様子で周囲の人々に何か言いたそうな様子で

取り乱しています。

 

またわたしに対しては、さまざまな細かい状況を伝えよう、伝えたい、という気持ちを

はっきり表現するようになっています。

言いたいことがある時は、わたしの手を軽くつかんで、

もう一方の手を影絵の狐を演じる時のようにパクパクさせる素振りをよくします。

その姿から、身近な人が本人の意志を伝えやすい構えを作っておくことで、

複雑なさまざまな思いも表現してみようという

意欲が生まれてくるのだろうと思われます。

 

ただトムくんのそうした意欲は、背後からの視線などで

失われやすいことも感じました。

トムくんは、トムくんよりかなり離れた地点で、隠れてトムくんの様子をうかがっていても、

それにすぐ気づくような過敏さを持っているのです。

そのように妹のジェリーちゃんは気付かないような視覚の情報にまで反応してしまうため、

注意が散漫になったり、非常に疲れやすかったりするのかもしれません。

 

それと関係があるのか、視線を安心して向けていていい一点が定まっている場では

相手の話に耳を傾けたり、指示にしたがったりしやすくなるようです。

 

トムくんは色に対して敏感で、色を取り入れると

急に理解力が高まることがありますから、

そうした注意を向けやすいものを利用して、

不必要な情報を遮断して、見聞きしたり、自分の意思を伝えたりすることが

楽にならないか、いろいろ探ってみるといいようにも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「怒りたくないのに娘にばかり怒りをぶつけてしまいます。どうすればいいでしょうか?」

2012-05-16 07:37:53 | 幼児教育の基本

コメント欄に次のような質問をいただきました。

 

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はじめまして。私は仙台在住の3歳5ヶ月の長女、1歳8ヶ月の長男の2人の子を持つ母親です。
先生のブログは上の子が1歳になる前から読ませていただいています。いつも貴重なお話ありがとうございます。

最近、子育てがとてもしんどいこと(正確には自分はそのイライラを当り散らしてしまっているからすぐ解消するが、娘にとても申し訳ないという気持ちが強い)があり、自分でもどうしたらいいか分かりません。なかなか気軽に周りの人に相談できることでもなく、相談しても解決策はみえない、という状態です。

具体的には上の子(女の子)との関わりについてです。

下の男の子に関してはそんなことは無いのですが、上の女の子には産まれてからずっとささいなことも気になる、口出ししたくなる、すぐイラっとしてしまう、等娘にはとても息苦しい思いをさせてると思います。

私自身、母親との関係はそのような関係でした。幼いころから母親の機嫌をうかがって行動していたり、幼いながらに「何でそんなことでこんなに怒られるの?」とか、「もっと私のこと見て!」と心の中で思っていた気がします。
なので小さいころから「自分が母親になったらぜーったいこうはならない!」っと思っていたのに、今の私は母親と一緒、、、

私の理想は太陽のようなお母さん。穏やかでニコニコやさしく家族を見守るおかあさん。でも最近の私は特にその理想からかけ離れています。娘に対してすぐイラっとして声を荒げてしまう。そんなに大げさに怒ることでもないのにイライラ大声で怒ってしまう。何なのでしょうか?

ひどい怒り方をしたくないのに怒ってしまう。これは自分に甘いだけなのでしょうか?それとも他に何か私の中の問題なのでしょうか?先生の生徒さんの中にこういった親子関係を修復されていった例はありますでしょうか?


教育のこともある程度考えていますが、このままだと娘を破壊してしまうと思うので、まずは親子関係の修復をしたいのですが、どうしたらいいのか分かりません。

娘が憎いとか、可愛いと思えないという気持ちはないのです。とても可愛くて、大好きです。なのにすぐにイライラしてしまう、、、


コメント欄にこのような質問を送ってしまい申し訳ありません。仙台在住なので直接先生にお会いしに行くことも難しく、このような形をとらさせていただきました。先生がもしよろしければお時間あるときでいいので相談に乗っていただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。

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ひどい怒り方をしたくないのに怒ってしまう。これは自分に甘いだけなのでしょうか?

それとも他に何か私の中の問題なのでしょうか?

先生の生徒さんの中にこういった親子関係を修復されていった例はありますでしょうか?」

 

虹色教室には親御さんに虐待された体験を経て、現在、幼稚園児の女の子のお母さんとして

楽しく子育てしておられる方がいます。

レッスンがスタートして半年ほどは、「ひどい怒り方をしたくないのに怒ってしまう」という

悩みを何度もうかがいましたが、現在は子どもととてもよい関係を築いて

いきいきと子育て しておられます。

 

「いいお母さんになろう」「すばらしい親でいよう」と必死になる気持ちを手放して、

子どもに何かしてあげることを考える前に、

まず自分に優しい言葉をかけたり、自分を認めたり、不安が高まった時に自分を大切に扱うための方法を

考えたりすることを優先してはどうか、とアドバイスしました。

また親同士の親しい無理のない人間関係のなかで

受け入れられている感じや

楽しい気持ちをたくさん味わっていただくようにしました。

 

SOSを出せる場や人がいるのも重要ですね。

その方が子育てを楽しめるようになったのは、自分自身のなかの良い資質や長所に光を当てて、

それを自分の言葉でも、周囲の人の言葉でも認めて、尊重していくことと、

「すばらしい親」じゃない部分も、どの親もみんな欠点だらけで失敗をいっぱいしているのだと

知って許容していくことができたからではないかと思っています。

 

山田ズーニーさんの著書でこんな話題を目にしたことがあります。

 

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自分の子を虐待してしまう、あるお母さんの脱却方法を、ドキュメンタリーで

やっていました。

そのお母さんもまた、子ども時代、親から虐待されていました。

「子どもにお菓子をあげたい、子どもを遊園地につれていってあげたい」

と、母親らしい気持ちが起きると、同時に、

「自分は子どものとき、一度もお菓子をもらったことがない」

「遊園地につれていってもらったことがない」

と、子どものときの自分が、自分の子どもに嫉妬してしまい、虐待してしまうのです。

そこを抜け出すためにどうするか?

人の「愛」を借りるのです。

福祉のサポートをしている方がやってきて、そのお母さんに、まるで親のように、手料理を

食べさせたり、愛情をかけたり、「生きなおし」という、子どものときに果たせなかった

想いを果たす、というプログラムをやります。

そうして、お母さんが、愛をチャージすると、自然に、子どもに嫉妬する必要もなくなり、

愛を注げるというわけです。

世の中にはもしかしたら、愛というごはんをまったく与えられなくても、人に愛を注げる人がいる

かもしれません。

しかし、私は、自分がそういうシロモノではないことが経験の中でよくわかりました。

愛するまえに、まず、愛がほしい。

 

( 『理解という名の愛がほしい』  山田ズーニー  河出書房新社 より)

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考える力が伸びる年中さんの時期「少しってどういう意味?」

2012-05-16 07:04:09 | 幼児教育の基本

幼児のうちから「字が書けるように」「時計が読めるように」と

何か教え込んでできるようにさせると、

「将来、勉強ができる子になる」「学校で落ちこぼれずにすむ」と

考えておられる親御さんはたくさんいます。

 

一方で、幼児の内面で自然に育ちつつある知恵を

育むような会話については、あまり気にかける方はいらっしゃらないようです。

子どもがさまざまなことに疑問を持っていても、「なぜ?」「どうして?」という言葉で

問わない限り、疑問だと気づかなかったり、

疑問を持ったとたん、本人に頭を使わせず、

いきなり大人の知識で教えたり、図鑑を見せて終わりとなってしまっているようなのです。

 

幼児も年中さんともなると、自分の頭を使って考えて、

自分の言葉でそれを表現するのを心から楽しむようになってきます。

 

子どもにとって、「自分の頭」と「自分の身体」以上に

使ってみて面白いおもちゃなどないのです。

子どもの頭や身体を存分に使わせながら、

楽しい時間を過ごすには、何かさせようとあせらずに、のんびり相互に交流しながら

遊ぶ時間を持つのが一番です。

 

↓は年中さんたちのレッスンのひとこまです。

ゲラゲラ笑いながら遊びに興じながらも、頭をフル回転させているのが、

子どもたちの返答からよくわかりますね。

 

 

 

◆くん、○ちゃん、◇ちゃん、☆ちゃんの年中さんの子たちのレッスンで、ハムスターのお人形で遊びました。

この時期の子たちは、イメージを膨らませてさまざまなことを考えることが得意になってくるので、

ごっこ遊び上のストーリー展開や会話の進展に

「どんだけ楽しいの?」と不思議に思うほど夢中になります。

 

↑の写真は、ハムスターが神社にお参りにいって、

ちょっぴりずうずうしい願い事を言うストーリーで遊んでいるところです。

チリンチリン~と鈴を鳴らして、

「どうぞ、神様。ひまわりの種と、バナナとお菓子とプリキュアのおもちゃと自転車と

かわいいかばんをください。朝、起きたらベッドの横のところに置いといてください。」と言うと、

子どもたちは大喜び。

自分たちも、ハムスターを手に、神社にお願い事にでかけます。

チリンチリン~「いっぱいお菓子をください。それからジュースもください」などなど。

そこで、私が、「ハムスターったら、そんなにいっぱいお願いばかりして、ずうずうしいねぇ」と言い、

ハムスターを手に、○ちゃんに、「ねぇ、人間さん。ずうずうしいってどういう意味?教えてちょうだい」とたずねました。

すると、○ちゃんは、首をかしげてとまどっていました。

 

わたしはこんな風に説明しました。

「神様、チョコレートを1枚くださいってお願いするのは、ずうずうしくないね。でも、

神様、チョコレートとキャンディーとクッキーをテーブルの上からあふれるくらいと、ベッドの上にお山ができるくらい

ちょうだいってお願いしたら、それはずうずうしいねぇ」

それを聞いた○ちゃんは、「本当に、それはずうずうしいわぁ」とうなずきました。

子どもたちは、ハムスターのために、お家と幼稚園と学校と公園を作っていました。

写真は、トイレ。

最初に、◇ちゃんが、「はい、トイレ」と丸い輪の形の積み木を置いたので、

ハムスターに「プンプン。このトイレ。何だか嫌になっちゃうわ。だって、お外が丸見えなんだもの。

わたしの目から見るとお外が丸見えってことは、ほかのハムスターたちから

わたしはどんな風に見えているの?」と言うと、

「トイレをしているところが丸見えだよ。恥ずかしいじゃんか。」と言いながら◆くんが

あわてて周囲をブロックで囲い、「出れないよ。ドアがないからね」と言って笑いました。

 

子どもたちに、ハムスターで遊びながらいろいろな疑問を投げかけると、

それは面白そうに解決してくれました。

「ねぇ、少しってどういう意味?」とたずねると、

☆ちゃんが、おもちゃのグラスを手に取って、「少しって言うのは、このコップだと、

この底の方にちょっとだけあるってことよ」と説明しました。

そこで、「それなら、☆ちゃんのすいとうだとどれくらいのこと?」と

意地悪な質問をしてみました。

☆ちゃんはすいとうのコップを指して、「わたしが飲むときの少しは、すいとうのコップのこのくらい」と少しの量を示し、

「でも、ハムスターちゃんの少しは、わたしのすいとうのコップだと、ポチっとお茶がひっついているくらいよ」

と答えました。

それを聞いていた○ちゃんも、「少しは、最初にどれくらいだったかってことで、ちがうよ。

ちょっとだけとか、たくさんとかは、そのとき、最初にこれかなーあれかなーっていう

物がちがってたらちがうもん。」と付け加えました。

他の子らも、言葉の概念にとても敏感になる時期らしく

「水の中の生き物 と 魚 というのはどのようにちがうのか、

わにと人間はどこがどのようにちがうのか、

昨日と明日はどこがちがうのか」などを、ハムスターたちと真剣に意見を交わしていました。