わたしは娘とも息子ともよくしゃべります。
娘とのおしゃべりは、人間関係のことが主なので
相手方のプライバシーの問題もあって記事にできないのが残念ですが、
たくさん話をすることで、娘の生きている世界、世界を眺める視線、葛藤、心の軌跡が
手に取るように伝わってきます。
息子とわたしは、お互い直観のアンテナに引っかかったものを言葉にするのが
好きなので、ちょっと気になるものがあると何にでも首を突っ込んで、
食事の間中、しゃべり通していることがあります(行儀が悪いことこの上ないのですが、
わたしは片手にペンを持って、メモを取りながらしゃべっています)。
娘との会話も息子との会話も、冗談混じりに思いついたことをポンポン言い合っている
だけなんですが、その背景には常に、
「今、この時代を、この社会で、どう生きるのか」というテーマが透けているように
感じます。
おそらく若いふたりには「これからどう生きていくか、社会とどう関わっていくか」が、
わたしにとっては、「中年期の課題を充実したものにしたい」が、
常に旬の話題だからなんでしょうね。
夕食時のこと。
わたしが、「ごくたまにだけど、最近の子ども向けのアニメって
どんなストーリー展開をしているのかなっと思って見ることがあるんだけど、
どうも腑に落ちない……というか、
やたら明るくて安全な世界が描かれているのに、
ちょっと気持ちが暗くなるものが多いのよね。ドラえもんも今風になってたわ。
お母さんの子どもの頃のアニメは、子ども向けとは思えないドロドロしたストーリー
設定や残酷なシーンもあったけど、子どもの心の真実には忠実だった気がするのよ。
その点、最近のアニメは、
大勢でするポケモンを民主主義モードに固定してゴールまで行っちゃおうって方法に
何だか似てるのよ。
大多数の子の思いを体現しようとしているのに、
たったひとりの子の心の真実も、ちゃんと生きさせてあげないって感じがするのよね。
すべて見たわけじゃないから、どのアニメもそうなのかわからないけど」と言うと、
息子が、「何か言えるほど見たわけじゃないけど……」と前置きしてから、
「この間、いくつか見て、同じようなことを感じたよ。
昔のアニメの主人公は、悪いことをするとき、それが社会的に見て悪いことでも、
その子自身にとったら悪くない……というか、つまり、
自分が正しいと信じているものや自分の中の善を真剣に追いかけてるようなところが
あったよね。外に向かって嘘をついている場合も、自分には正直だった。
でも、この頃のアニメは、本人が明らかにそれが悪いことだとわかった上で、
ちょっとくらいいいよねっと
周囲に妥協して許してもらおうと甘えながら、悪いことをしているって感じだったな。
笑いの取り方も、誰かがミスしたときやお決まりのルール違反をしてしまったときで、
それを子どもが面白いと感じているのか、
面白いと感じさせられているのかわかんないな。
だいたい、子どもがストーリーのどこにワクワクするのかといえば、予定調和が崩れて、
これをしたらダメなんじゃないかな、こんなことしてもいいのかな、
と思うようなことに手を染めざるえないような状況になってさ。
それをきっかけに自由や冒険やスリルを味わったり、
罪悪感や起こしたことの責任を取るために苦しんだりしたあとで、
その子としての心の解決にまで行きつくことじゃないかな?」
わたし 「心の解決? そうそう。子ども自身が自分で納得しないと、面白くない
わよね。外の圧力に納得させられるんじゃなくて、自分でする体験で納得したいはず。
それが、アニメの主人公に自分を重ねてするような想像上の体験にしたって」
息子 「どこまでも予定調和でいくストーリー展開を見ていて、イラッとするのは、
最終的に解決さえあれば、議論を放棄してもいい、ってスタイルが当たり前になって
いるからかな?自分の内面での議論も含めてだけど。
その思考に至るまで、主人公が、いったん間違った考えを抱いたとして、
なぜ間違ったのか、その問題と自分なりに折り合いをつけていくプロセスがなくて、
主人公が一般論や偏見に言いくるめられるようにして、
結果オーライになっているところがいい気がしないんだ」
わたし 「子ども向けの短い素朴なアニメにしろ、童話にしろ、
きちんと子どもの心の現実に添ってるものは、子どもが主人公に自分を重ねるうちに、
自分だけの答えを見つけられるように作られているわ。
そう言えば、押入れの中にお母さんがずっと大事にしている本があったはず……。
ちょっと待ってて。」
わたしはそう言って2階から、『おそうじをおぼえたがらないリスのゲルランゲ』
という童話を探し出してくると、
最初の数ページと最後のページを読むように勧めました。
「最後のページのゲルランゲの言葉と行動の変化は、
★(息子)の言う子どもの心の解決をきちんと描いているわよね」と言いながら……。
ゲルランゲの話は、わたしが五つか六つの頃に、繰り返し読んでいた童話です。
こんな話です。
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むかしブナの木に11ぴきのリスのきょうだいがおばあさんリスといっしょに
すんでいました。
いちばん小さな子リスはゲルランゲ。すこしなまけもので、
たいへんごうじょうでしたが、とても元気で、ひょうきんで、すばしこく、おまけに、
かわいい、ぬけめのない顔つきをしていましたから、だれでも、すきにならずには
いられませんでした。
子リスたちは、夕ごはんの後のおさらのかたづけとそうじをするのがきまりでしたが、
ゲルランゲはおさらをかたづけることは気もちよくしたけれど、
おそうじがすきではありませんでした。
ある日、どうしてもおそうじをおぼえたくなかったゲルランデは、ブナの木のいえを
出ていきます。「ぼく、ごはんなんかいらない。野宿したっていい。オオカミにたべられ
たっていい。でも、ぼく、おそうじはおぼえたくないんや」とへりくつをいいながら。
そうして、ゲルランゲはオオカミにたべられそうになったり、キツネやアナグマにあって
こわい目にあったり、フクロウにちえをもらったりしたあとで、
ようやくブナの木に帰ってきます
<ゲルランデがブナの木にもどってきた場面です>
子リスたちは、おとうとがかえってきたので、とてもうれしくなって、十ぴきみんなで
ゲルランゲのまわりをとびまわりました。
「わかっただろ、ゲルランゲ?」と、にいさんたちは、いいました。
「意地っぱりだと、こういうことになるんだよ」
「だけど、ぼくがどうなったっていうの?」ゲルランゲは、木の枝のはしっこで、
ぶらんぶらんしながらこたえました。
「オオカミは、ぼくをたべなかった。ぼく、ごはんにもありついたし、
野宿もしなかった。ぼく、ひとりぼっちでおどりもしなかったし、それにおそうじを
おぼえてもこなかったよ」
けれども、ゲルランゲは、しんは、気だてのよい子リスでしたし、
おばあさんをよろこばせたいともおもいましたので、この冒険のあと、ともかく、
おそうじをおぼえました。
『おそうじを おぼえたがらない リスのゲルランゲ』
J・ロッシュ=マゾン作/山口智子訳 福音館書店
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ゲルランゲがおそうじを覚えた理由は、
大人の言うとおりの恐ろしい体験をして懲りたからではありません。
また、次にも大人の言うことを聞かなかったために、
怖い目に合うのを恐れたからでもありません。
自分の考えは子どもっぽくて間違っていて、大人の言うことが正しいんだと悟った
からでも、自分の言動や性格について反省したからでもありません。
恐ろしい体験をして、言うことを聞かないゲルランゲが優等生のゲルランゲに変わった
わけでもありません。
それなら理由は何かというと、
ゲルランゲは、冒険と体験を通して、ゲルランゲという個性のまんま
成長したからなのでしょう。
強情っ張りのゲルランゲは強情っ張りの性格のまんま、
おそうじごときで意地を張らなくてもいいほど、
そして家族の深い愛情を理解するほど大人になったのでしょうし、
「おばあさんを喜ばせたい」という素直な感情が
ゲルランゲの心の変容の後押しをしたのでしょう。
そうしたゲルランゲの姿は、教室で見る子どもたちの姿と重なります。
子どもが本当の意味で成長するのは、その子の悪いところも含めて
しっかりとその子自身の個性で生きたあとだし、
それは待つことと見守ることを含めた愛情という土壌でだけ成り立つことなのです。
子どもの心は大人が与えたがる道徳教育とは別の筋道を通って
人としての資質を身につけていきますから。
息子は、ゲルランゲの童話を読んでから、面白そうに笑ってこんなことを言いました。
息子 「ゲルランゲは作家っていうすでに大人になっている人とは別の
ひとつの人格を持った子どもとして活躍しているね。
少し話が逸れるけど、
小説が作家の妄想であったとしても、キャラも妄想であっちゃいけない、
空想の世界で作家は主人公になっちゃいけない、って意見をどこかで読んだことが
あるんだ。人間って、100%自分がイメージできるものは、不思議と面白いと思わ
ないもんだよね。
物語のリアリティーは、作者がやりたいことをやるっていう願望充足とは別に
自動的に作りあげられていくところがあるよね。物語自体の持つ意志のようなものがさ。
それに添っているかどうかが、
子どもの心に忠実かどうかに対になっているように思うよ」
わたし 「物語自体が自動的に展開していくって話……同じようなことを、
ゲド戦記の作家のそんな言葉を目にしたことがあるわ。」
息子 「へぇ、そうなんだ。ぼくは、物語は、実験に近いような面があると思うんだ。
試してみてはじめて、何かを見つけたり、何かが生まれたり、次の展開につながったりするよう
な部分があるってことだけど。
お母さんが教室の子たちとティッシュ箱でする工作にしても、
一番初めに、自分の思いを完璧にイメージできてしまったら、
作る意味が半減するんじゃない?
なぜ作るのかといえば、そこにある実験的な要素のおかげで、
偶然、新しいものを発見することができるからだよね。
設計図を描くのにしても、
イメージしたものをわざわざ描く理由は、ただ頭の中にあるものを紙に写しだすため
だけじゃなくて、描くうちにイメージした時点では気づいていなかったものを発見する
からだし、描くうちに、自分の見え方そのものが変わっていくからじゃない?
子ども向けのアニメを作る上で、そうした偶発的に作る過程で起こることを
大事にしないで、最初に設定したテーマの中で、作り手の主張したいもののために
キャラクターたちを都合よく動かしてしまったら、
子どもの心から遠いものになるんじゃないかな?」
ゲルランゲがおそうじを覚えた理由は、
大人の言うとおりの恐ろしい体験をして懲りたからではありません。
また、次にも大人の言うことを聞かなかったために怖い目に合うのを
恐れたからでもありません。
自分の考えは子どもっぽくて間違っていて、大人の言うことが正しいんだと悟ったからでも、
自分の言動や性格について反省したからでもありません。
恐ろしい体験をして、言うことを聞かないゲルランゲが優等生のゲルランゲに変わった
わけでもありません。
それなら理由は何かというと、
ゲルランゲは、冒険と体験を通して、ゲルランゲという個性のまんま
成長したからなのでしょう。
強情っ張りのゲルランゲは強情っ張りの性格のまんま、
おそうじごときで意地を張らなくてもいいほど、
そして家族の深い愛情を理解するほど大人になったのでしょうし、
「おばあさんを喜ばせたい」という素直な感情が
ゲルランゲの心の変容の後押しをしたのでしょう。
そうしたゲルランゲの姿は、教室で見る
子どもたちの姿と重なります。
子どもが本当の意味で成長するのは、その子の悪いところも含めて
しっかりとその子自身の個性で生きた後だし、
それは待つことと見守ることを含めた愛情という土壌でだけ
成り立つことなのです。
子どもの心は大人が与えたがる道徳教育とは別の筋道を通って
人としての資質を身につけていきますから。
息子は、ゲルランゲの童話を読んでから、面白そうに笑って
こんなことを言いました。
息子 「ゲルランゲは作家っていうすでに大人になっている人とは別の
ひとつの人格を持った子どもとして活躍しているね。
少し話が逸れるけど、
小説が作家の妄想であったとしても、キャラも妄想であっちゃいけない、
空想の世界で作家は主人公になっちゃいけない、って意見をどこかで読んだことがあるんだ。
人間って、100%自分がイメージできるものは、
不思議と面白いと思わないもんだよね。
物語のリアリティーは、作者がやりたいことをやるっていう願望充足とは別に
自動的に作りあげられていくところがあるよね。
物語自体の持つ意志のようなものがさ。
それに添っているかどうかが、子どもの心に忠実かどうかに対になっているように思うよ。」
わたし 「物語自体が自動的に展開していくって話……同じようなことを、
ゲド戦記の作家のそんな言葉を目にしたことがあるわ。」
息子 「へぇ、そうなんだ。ぼくは、物語は、実験に近いような面があると思うんだ。
試してみてはじめて、何かを見つけたり、何かが生まれたり、次の展開につながったりするような
部分があるってことだけど。
お母さんが教室の子たちとティッシュ箱でする工作にしても、
一番初めに、自分の思いを完璧にイメージできてしまったら、
作る意味が半減するんじゃない?
なぜ作るのかといえば、そこにある実験的な要素のおかげで、
偶然、新しいものを発見することができるからだよね。
設計図を描くのにしても、
イメージしたものをわざわざ描く理由は、ただ頭の中にあるものを
紙に写しだすためだけじゃなくて、
描くうちに
イメージした時点では気づいていなかったものを発見するからだし、
描くうちに、自分の見え方そのものが変わっていくからじゃない?
子ども向けのアニメを作る上で、そうした偶発的に作る過程で起こることを
大事にしないで、
最初に設定したテーマの中で、作り手の主張したいもののために
キャラクターたちを都合よく動かしてしまったら、
子どもの心から遠いものになるんじゃないかな?」