過去記事にいただいたコメントです つづき
の記事にもうひとついただいたコメントもアップしました。よかったらのぞいてみてくださいね。
教室で流行中の時速カード。
野球好きの小2のAくんが、すてきなカードを作ってきてくれました。
球速は、時速で表されています。
1秒でどれくらい進むのか知りたい子は、単位を変換してみてください。
の記事にもうひとついただいたコメントもアップしました。よかったらのぞいてみてくださいね。
教室で流行中の時速カード。
野球好きの小2のAくんが、すてきなカードを作ってきてくれました。
球速は、時速で表されています。
1秒でどれくらい進むのか知りたい子は、単位を変換してみてください。
紙を何枚か重ねてドーナツの形に切ります。
(最初に丸く切ってから、切り込みを入れた先で小さい丸を切り取ります。切り取った部分をテープで次の紙とつながるようにつないでいくと、できあがりです。
100の小豆!!
の記事にコメントをいただいて、こちらも残しておきたくて記事にしてアップしておくことにしました。
↑年中のAくんといっしょに作ったジオラマ。
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>「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。」
という息子さんのことばは、現在のEUイギリス離脱やら、アメリカでのトランプ旋風のことを思うと、切実に響いてきますね。(トランプはとうとう大統領になっちゃいましたね。)
わたしもスタインベックの小説は好きですが、ここで引用されているスタインベックの言葉をわたしなりに翻訳すると、「120%自分を生きている誰かが、自分はこう思うと意見をいったとして、それが100人いたら100通りの意見が出るはずだ。」ということではないかとおもいます。
たいした議論をすることもなく多数派でまとまるということがそもそも嘘くさいことであって、多数がまとまっているように見えるのは、実は不安を刺激されて煽動されていたり、商業主義に誘導されていたり、よく考えていなかったりの結果なんじゃないかとおもうのです。
コメント主さんの文章はとても興味深いです。
「魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い」「奥行きを感じる体験」「創造性」これらのことがつながっている感覚はすごくよくわかります。
わたしが自分で感じていることばで表現してみます。
自分の奥に魂の場所があって、そこと仲良くするためには、孤独が必要である。
魂と仲良くなって、自分の奥をどんどん発掘していくと、そこに独自の世界や、新しいアイディアに出会える可能性(創造性)があらわれてくる。それを表現した時、同じように自分の奥を掘っている人たちと、火花がスパークするように、触発しあえることがある。
近回りの人々が関係する日々の生活、生きていくために必要な細々としたことは、生きる上でなくてはならないものである一方、それだけでは「何も考えずに周りに合わせる」など、集団心理の犠牲になったり、近視眼的で間違った判断につながりやすい危険がある。
その2つの視点を合わせ持つ感覚は、確かに奥行きがある感じともいえるし、立体感覚ともいえるかもしれない。
といった感じになるでしょうか。
自分の奥、魂との対話をしないということは、生きる上でしっかりした軸を持たずに生きていくということで、その方が楽なように見えて、実は周りの環境任せのとても不安定な生き方をするということかなとおもいます。
不安定な自分を受け入れて見つめるということができれば、自分の奥との対話が進んでいきますが、不安定な自分を見たくないために、多数派というもの、力強そうなものに頼りたくなる、というのが今のトランプを応援する人たちの気持ちなのかもと想像してみます。
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「誰の力も借りず、独りで堂々と闘う…孤独は真の自由へ導く味方」
こちらの記事4の方にある、カニグズバーグやアインシュタインが「孤独」について語っている文章を興味深く読みました。集団と個について考えさせられました。
私のところに古い新聞の切り抜き記事があったので紹介させて下さい。
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■君たちに伝えたいこと (作家 丸山健二)
※2000年8月 朝日新聞より抜粋
ときとして人が激しい孤独感に苛まれるのは、自身の魂を相手にする時間がいかに大切であるかという何よりの証なのです。
人はあまりにも社会的な生き物でありすぎるがために、集団のなかへ埋没することで安らぎを得るという習性を持っています。
そのせいで独りの立場に追いやられそうになったという予感だけでうろたえます。
そして、まだ何ひとつとして失ってはいないというのに、それどころかありとあらゆる可能性を秘めているというのに、この世は生きるに値しないというせっかちな答えを出す始末です。
どのようにして孤独感に対処すればいいのか。逃げるに逃げられないこの重苦しい問題と真剣に取り組むこそが青春の大半を占める意義であり、ひいては人生の明暗を分ける重大な鍵なのです。
残念なことに多くの人々がこの罠に掛かり、自己の何たるかも、自由の何たるかも知らずじまいのまま、本当は数倍も充実させられたかもしれないたった一度の人生を自ら台無しにして終えてゆくのです。
孤独の奇襲を受けた際、あなたが選ぶ最良の方法は、誰の力も借りず、虚構の世界へも逃げ込まずに、独りで堂々と闘うことです。まずはそれをはったと睨みつけ、次にどんと受けとめることです。ぐっと歯を食いしばって、底無しの虚しさと自力で対決するのです。
この世を生きる意味にしても曖昧です。
ところが、意味があるともないとも言えない点に重大な意味が隠されているのです。
もしこの世にはっきりとした意味やもくてがあらかじめ用意されていたならば、あなたはその意味や目的の奴隷として不自由な生涯を送らなければならないでしょう。
無味乾燥な状態でこの世が存在するのは、あなたの意思の力によってあなた自身を存分に活躍させることが可能な大いなる舞台として用意されているからです。
この世に意味があるかどうかは、あなたが孤独という負荷を逆手にとって精神を鍛えるかどうかにかかっています。
孤独は、どこまでも自分を信頼して生きてみせるという毅然とした心組みで接すれば大した敵ではありません。
敵どころか、実はあなたを真の自由へと導いてくれる唯一の味方であることがわかるでしょう。
真の自由は、独自の判断で、必要に応じて必要な行動を取ることができる、一個の独立した人間にしか根付きません。
孤独の波状攻撃を受けてへばっているあなたが求めてやまない優しさというのは、もしかすると他者から施される優しさのことではないでしょうか。
自分から与える優しさのことを考えたことが一度でもあるのでしょうか。
孤独の試練を積極的にくぐり抜けた者は、むやみに優しさを乞うような真似はしません。
また、優しさに群がってくる者たちをもっと駄目な人間にしてしまうようなこともしません。
そして孤独から逃げつづけ、あるいは、孤独を偏愛することしかできない者たちと比較すると、はるかに生き生きとしています。
それは、長年の孤軍奮闘の結果、遂にこの世を生きる意味と目的と価値を独自に見出しつつあり、情熱を持ってそこへ邁進しているからです。
他人を食い物にして生きようとする連中の魂胆を見抜く眼力を持ち、同時に、尊敬に値する人間が現れた場合には素直に認める広い心を併せ持っているからです。
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2歳後半のAくん、Bくん、Cちゃんと写真のパズル で遊びました。
(子どもが課題通りできない時は、教えてできるようにさせるのではなく、できない状態からどのくらいのレベルのどんな課題なら意欲的に取り組めるのかを察するようにしています。
そうして、本人が積極的にやりたがる課題を環境の中に取り入れるようにします。)
お家でも課題のカードを見ながらパズルで遊べるように、3人とも持っているというデュプロブロックの問題カードを作りました。
「高い高い高いところで、おっとっと……と落ちそうなカバくん」という問題。
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以前書いた、8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」かという記事に、コメントをいただきました。
実はこの記事、教室にいらした親御さん方から、「どういう意味かよくわかりませんでした」という感想を寄せられていたので、「伝わりにくい書き方になっているのかな」と思いつつも、息子との会話をそのままの形で残しておきたかったのでそのまま放置していたものなのです。
そんないわくつきの記事にていねいなコメントをいただいたのがうれしくて、後でまた読み返せるように記事としてアップさせてもらうことにしました。
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私は“責任をもって自分の人生をおくると大切なことが見えてくる”と実感していますが、逆に“責任をもって自分の人生を生きていない”とはどういう状態なのだろうと考えていました。
そして、ここのところ、責任をもって自分の人生を生きていないとは、どこか他人として生きていて、多数派を良とする考え方、集合体の一部であり、場の分割として生きている状態であると考えるようになりました。
少し前に河合先生の本を読んだことをきっかけに、日本はリーダーに力を持たさないで場を大事にするなど、突出したものを良とせず、暗黙の了解で多数派が占める考えを優先し、討論(争い)を嫌う民主主義タイプ、対して欧米はリーダーが全体を牽引するけれども、その過程で突出した個の意見があがってきたら討論する民主主義タイプという構図を意識するようになりました。
欧米での考えは実際のところわからないのですが、少なくとも今の日本の子育ては、子育てをめぐる場の雰囲気に自分の子育ての方向性をゆだねてしまって、自分の考えをないものにしているということに気がつきました。
そんなことを考えていると、以前先生が書かれた、息子さんとポケモンゲームと民主主義についての対話の記事を思い出しました。
「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。
ゲームにしても、投票制にしたとたん、個人個人が自分で思考して進めようとするのではなく、全体の流れに乗って、合わせていくことに慣れてきて、自分の発想で問題を解決したり、別の視点から考えてみようとしたりしなくなるから。
政治でも今のシステム方の中で、個人個人が自分の意見をどう扱うか、どう向き合うか、どう責任を持つか、捉えなおす必要があるんだろうな」
「多数決が暗に力を持ち出すと、創造的ないい意見が埋もれていることもよくある。
でも、本当にそれが問題なのは、自分の意見と自分が同調している多数派の意見との境目が薄れるにつれて、自分の精神が本来持っている可能性とかが、力がないもののように感じられることじゃないかな。
ゼロから何かを作り出すことなんかできない、個人の精神から何か生まれてくるなんてありえない、なんてスタインベックの人間観とは真逆の思考に陥るってことだけど」
つまり、多数派が正解であり、自分の意見には力を感じない現在の社会に身をおくと、“責任をもって自分の人生を生きていない”につながりやすいのだろうなと気がつきました。
気がつくのは簡単でも、抜け出すのが難しい。
子どもの将来の問題、自分自身の仕事、老後の暮らし、経済的なものも含めて将来のことを考えると、先が見えなくて、すっきりしない不安感がある。
どうにかなるよと超越しきれずなにか軸となるものが欲しくて、大多数に合流したり目の前にある強力なメソッドにすがりたくなる。私自身を見つめるとよくわかります。私の中にそういう自分がいますから。
(少し違うかもしれませんが、子どもが難題を目の前にして、くじけそうになるときも、きっと同じようにざわざわしているのでしょうね。)
でも私はそういう自分も抱えつつ、生きていくしかないだろうと考えています。
要所要所でバランスを取りつつ、本当の自分をみつけるしかないと考えています。
それが自分に責任をもった生き方なのだと考えています。
また、個々が創造的な意見を持つようになるよいきっかけはないだろうかと考えました。
先生は「トーク・トーク カニグズバーグ講演集」を引用されていましたが、私の今のところの考えは、“本に限らず、魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い(柳田邦男さん?の言葉)が、
潜在的にもっている個々の考えを解き放ち、創造的な生き方につながるのではないか“というものです。
最近、河合先生や柳田邦男さんの本を読むことがありました。その中で、私自身、心が震えたり、身体の中に奥行きを感じる体験をしました。
すると、本の内容とは直接関係ないことで、私の中の創造性が動き出しているのを感じたのです。
私は本を読むことが創造性につながることが多いのですが、誰もがそのような何かを持っていて、きっと子供の頃夢中になった損得を考えないような一次体験をすることが、個々の創造性を自由にして、自分が求める自分を生きることにつながるのではないかと考えました。
少し話しが変わりますが、「人間は創造力をもった唯一の種である。
(略)
音楽においても、芸術においても、詩においても、数学においても、哲学においても、有効な協力というものはない。ひとたび創造の奇跡が起これば、集団はこれを組織だて、拡大することはできるが、集団が何かを創造することは決してない。
尊いのは個々の人間の独自の精神である」
とスタインベックの引用がありました。
ここでいう創造力とは少し違うかもしれませんが、自分を生きている人たちの集合体の中では、対話がうまれ、集団による創造がおこることもあるのではないでしょうか。
息子さんが “奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値”とおっしゃっていましたが、集団の中で奇跡的な絆がうまれたとき、集団の創造も不可能でないと考えました。
きっと複数で絵本を創作するときや、音楽活動の場では、集団での有効な協力による創造の奇跡が起こっているのではと考えました。
最近私自身言葉を口にしたり、文字にしたりするときに、立体的なものにして伝えようとしていると感じることがあります。
また子ども達を中心とした集団の中で絆がうまれている場では、原因と結果など平面的な伝言とは違う、もっと奥行きのある、私たちそれぞれの生き方考え方や、自覚していないもっと多くのものも乗せて、立体的に伝えることができるのではないかと考えています。
実際に人類の進化の過程、文化の伝承や科学の進歩などの現場では、現世代までの集団における創造の連鎖を次世代の創造につなげているのだと考えています。
ですからある意味私も集合体の中での創造の現場にいるといえるのではないかと考えています。
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<8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か>の記事も下に紹介しておきます。
8万人が同時に「ポケモン」をプレー?配信サイトで大実験……とCNNニュースでも取り上げられているゲーム映像配信サイト『ツウィッチ』の実験が数日前からおこなわれています。
ゲームボーイ用ソフトのポケモンを「社会実験」と称して改造した人がいるらしい。
主人公のレッドをチャット欄にコマンドを書きこむと動かせるようになっています。
レッドは、参加者が増えるにつれ、動きが取れなくなっていました。
その混乱ぶりを見た作成者が、75%の賛同を得たら、現状通りのコマンドが反映される「無政府状態」モードか「民主主義」モードに切り替えることができる、という修正を加えたのだとか。
その話題を耳にして以来、わたしもこの「ポケモン」ゲームの行方が気になりだして、朝、息子と顔を合わせる度に、「ポケモン、どうなってる?クリアできそう?」とたずねるようになっていました。
この実験が始まった当初から、日に数回、このサイトに加えて、この話題で盛り上がっている海外と日本の掲示板の両方をチェックしている息子が、「まだまだ、クリアするのは無理かもな」と答えてから、こんなことをつけ加えました。
息子 「無政府状態が行き詰ってにっちもさっちも行かなくなると、大勢が民主主義に傾くんだけど、少しするとそれが窮屈になってまた無政府状態に戻るのを繰り返しているからね。
これ、海外でプレーしているからこんな流れになっているけど、プレイヤーのほとんどが日本人だったら、「無政府状態」か「民主主義」かモードが選べるようになった時点で、デモクラシー派がずっとゲームを引っぱってくことになって、あっという間にクリアーしてしまうんじゃないかな?
掲示板見ていても、ほんとに、日本人というか、アジア圏の人は真面目だな。
どっちがいいか正しいかってのは抜きにして……
つまり、ぼくは無政府状態がいいとはちっとも思っていないわけだけど……それでも、日本の掲示板で誰もかれもが一致団結して、「民主主義」モードに切り替えて、より短い時間でクリアすることだけを当然視する様子を見て、
多数決の状態で、より早くクリアすることを目指すんだったら、一人でプレイするのとどう違うのか、疑問を感じたよ」
わたし 「そうよね。多数決で進むゲームなんて、少しも面白くないわね。
プレイするにしても、見るにしても」
息子「そうなんだ。より効率的にクリアーすることだけを最高善としてしまうと、何万人もの人がプレイすることの意味が見失われそうでさ。
日本の掲示板では、誰も少数派を安易に切り落とすデメリットを口にしないし、投票制で多数決することに慣れすぎて、デメリットがあることすら忘れているようでもあるよ。
そういえば、中学の時、こんなことがあったんだ。
K先生が体育館クラス全員で一斉に手を打たせてから、初めてみんなの心がひとつになったと言ったんだ。
自分は、初めてこの「パン!」を聞いたときに心の底から感動した……とも。
でも、ぼくは、それは無理矢理に強制されたから指示に従っただけで、みんなの心が一つになったという表現はちょっと違うな、と感じたんだ。
何万ものがプレーしている状態で無政府状態を続けると、大多数が正しく効率的にゲームが進行することを望んでいても、自分勝手に振舞う人や他人の意見を聞かない人がめちゃくちゃにしてしまうのは事実だよ。
でも、この実験が、どんなにひどいことが起きても裁かれないような状況でも、奇跡的にうまくいくことがあるってことも示しているんだ。
結果として同じでも、そんな風に個人個人が自由意志のもとで行動した上で先に進むのと、1人の指示……それが多数決という指示だったとしても、それに従って、先に進むのでは、ずいぶんちがうんじゃないかな」
息子 「実際に完全に多数決派に主導権を譲らない限り、ゲームに決着がつくのかすら怪しいんだから、日本の掲示板の意見は正しいといえば正しいんだろう。
海外のゲームの進行具合は無茶苦茶といえばその通りだしね。
ぼくも、どっちがいいって思ってるわけじゃないんだ。
ただ、今までツウィッチで起こってきたことを見て、絶対絶命のピンチに直面したときの、向こうの人の切りかえの早さというか、柔軟性にはびっくりしたよ。
日本人が同じ実験をしていたらもっと早くクリアしていたかもしれないけど、ここで行き詰ってしまったら投げ出してしまうだろうなって場面があるんだけどね。
みんなが自由意志で自分勝手にプレイしながらも、そうした緊急事態にやたら強いというか、何とか持ちこたえていくところがすごいと思ってさ。
これまでも、みんなで同時にポケモンゲームをするのと同じようなことを、日本でも真似ようとしたことはよくあったんだけど、いつも盛り上がりに欠けて、失敗していたんだ。
それって、やっていることの根本にあることを理解しないで、形だけを真似ようとしてきたからかな、って感じたよ。
今回の実験で言うなら、ゲームだからより短時間にクリアするという唯一の正解とそれ以外の不正解という捉えではない。
どうして何万人なのか、このゲームにどんな意義があるのかも考えてみるということだけど」
わたし 「何万人もの人が同時にプレイするとなると、もし、最終的にクリアできなかったとしても、クリアできない状態が長引けば長引くほど、ある意味、シュミレーションの結果としては面白いわね。
何万人もの人が、一人ですればすぐにクリアできるようなゲームに多くの時間を浪費するとしたら、その価値は確かに短時間にゲームを終えることではなく、良いことも悪いことも含めた、ゲームのプロセスで起こったことのはず」
息子 「そうだよ。といっても、事件がたくさんあるほどいい、大勢でやるから上手くいかないほうが盛り上がるってことじゃないんだ。
統率が取れたり、取れなかったりして先が見えない状態が続けば、不満が出てくるのは当然だよ。
そうしたストレス下にあるときや、それを奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値といえるのかも。
これがゲームであるからには、多数決状態に固定されたまま心を一つにしていると錯角して意識通り進んでいても、不満はあるはずだしね」
わたし 「民主主義は大事だけど、多数派が必ずしも正しいわけじゃないし、たとえ多数派の意見の方が本当に正しかったとしても、小数派の意見をないもののように切り捨てていいわけじゃないわ。
そういうこと、親子間でもよくあると思うのよ。
特に相手が幼い子の場合には。
大人と子どもは多数派と少数派のような力関係ができてしまうから、そこで優位にある大人側が正しさを振りかざして、まるで子どもに自由な意志などないかのように扱ってしまうこともある」
息子 「ゲームを早くクリアしたい気持ちと同じように、何歳までに何ができて、何歳までに何ができるか、ということだけを正解と思ってしまうと、そうなるのかな」
続きを読んでくださる方はリンク先へどうぞ
前回の記事で、
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親御さんから、
「他人の話を聞きません」
「みんなが集まっているときに、一人だけ自分勝手に振舞っています」という
相談を受けるとき、子どもの様子には何の心配も感じられないけれど、その子を見守る親御さんの言動が気になる、ということは結構あります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と書きました。
子どもが相手の話に熱心に耳を傾けるようになるには、自分の話に、親愛を込めて、熱心に、耳を傾けてもらった経験がたくさん必要です。
という記事でも取り上げたのですが、
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① 世話をする人の情熱的、言語的な反応の仕方
子どもが声を出したときに、反応しないとか、単に動作を真似するという
レベルではなく、親愛を込めて、心のこもった言葉で応えているか。
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が、子どもの脳の発達に大きな影響を与えることが指摘されています。
「他人の話を聞かない」という子とお母さんの関わりを見ていると、お母さんが子どもの話に相槌を打ったり、うれしそうな表情で子どもが興味持っていることに共感を示したり、子どもが始めた話で盛り上がったりする姿が少ないように見えることがよくあります。
その一方で、子どもの振舞いを心配そうに見つめたり、「きちんと聞きなさい」と注意したり、子どもが笑いながら話しかけるのに、さらっとした反応を返したり、大人の説明に飽きて、半分腰を浮かしている子にくどくどと言って聞かせたりすることは多いようです。
性格上、「情熱的」に相手の話を聞くのが苦手な方もいらっしゃるでしょうが、幼い子にとって、親の自分に対する反応の質がいかに大切か、どうか心に留めておいてくださいね。
↑ 大きな数を体感するための手作り教具です。
『よみがえれ思考力』から、子どもが心的パターンを創る過程を援助するためのガイドラインの続きです。
本にある順序は変えてあります。
なぜかというと、親御さんの多くが、「パズルや市販されている教材」とか「何度も繰り返し練習」いったお金で購入できるものや、子どもに強いることができるものを目にすると、それに気を取られるあまり、もっと重要で基本的なことを無視してしまいがちだからです。
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★ 自分で遊ぶ時間を子どもに与えること。
子どもにつきまとう母親は、自分自身で心的パターンを形成するという能力の成長を邪魔している。
★ パズルや市販されている教材が視覚のパターン化に役立つだろう。
寄せ木細工のブロックやドミノ、万華鏡もよいだろう。
「この絵はどこがおかしいんだろう?」といった質問は認知の技能を結びつけることになる。
(『よみがえれ思考力』からの引用)
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一方で、不必要に子どもにつきまといながら、他方で必要とされる教具を用意しても、自ら意欲的にさまざまなものを吸収していこうとする態度につながりません。
とはいえ、「つきまとうのがよくない」と字義通りに解釈して放任しすぎたり、孤独を感じさせるほど一人遊びを強いたりするのも問題です。
子どもが、就学後の学習に核となるような心的パターンを形成するのを援助するには、大人がちょうどよいバランス感覚を身につける必要があります。
↑ ポケモンチップで対戦中
子どもが学習の基盤となる心的なパターンを形成していく上で、 それを援助し高めるのも、邪魔して押さえつけるのも、 身近にいる親の「感じ方」とのつながりを感じています。
春休み向けの算数クラブで、親御さんから、
「他人の話を聞きません」
「みんなが集まっているときに、一人だけ自分勝手に振舞っています」
という相談を受けることが何度かありました。
実際、算数をテーマにした遊びやクイズをするとき、子どもたちを呼び集めても、席に着こうとしない子は何人かいます。
「これやってみたい子!作り方を教えて欲しい子はいる?」とたずねると、「はい!」「はい!」と元気に手があがる中で、一人遊びに興じている子もいます。
お母さんが何かたずねたり、教えたりしているときに、今にもその場を逃げ出しそうな雰囲気で気もそぞろになって、話を聞いている子もいます。
わたしは、そうした姿があるから、即、集団活動が苦手で他人の話を聞くのが苦手な子だとは思いません。
わたしなりに、「この子は気がかりな子」「あまり心配はいらない子」という 判断の基準があるからです。
たとえば、こちらの目を見てよくニコニコ笑う子が照れたり、恥ずかしがったり、少し我を張ったりして、ほかの子らと一緒にする活動に参加しなかったり、こちらの話をきちんと聞かずにうろうろする場合、あまり心配はいらないと思っています。
何度かレッスンに通ってもらえば、みんなでする活動を楽しむようになり、大人の話に集中して耳を傾けるようになるはずですから。
表情、目の合い方、暗黙の了解の理解度、遊び方、おしゃべりする内容、親子の関わり方の様子などから、気になる子もいます。
親御さんから、
「他人の話を聞きません」
「みんなが集まっているときに、一人だけ自分勝手に振舞っています」
という相談を受けるとき、子どもの様子には何の心配も感じられないけれど、その子を見守る親御さんの言動が気になる、ということは結構あります。
次回に続きます。
ハムスターの遊び場を作った2年生のAちゃん。
の記事で、Aちゃんと家族の気持ちが深刻な状態までこじれていた話を書きました。
そんなAちゃんでしたが、今は、180度態度を改めて、「先生?虹色教室で一番いい子って誰?やっぱりわたしかな?」が口癖の落ち着いたがんばりやさんになりました。
学習時間に大騒ぎしないで、きちんとこちらの話を聞けるようになったので、勉強のつまずきもなくなってきました。
シンプルな形からすてきなものが次々生まれてくることに魅了されたAちゃん。
扇形とうずまきでハムスターのらせんのスロープ作り。
お風呂なのだそうです。シャワーもついています。
階段を折る要領でじゃばらに折った紙に切り込みを入れるとさまざまな面白い形ができます。
自分に対して信頼と自信を持ち始めたAちゃんの気持ちをあらわしているかのように明るくさわやかな作品です。
幼児期の子どもが心的なパターンを創造していくには、どんな環境が必要なのか。
レッジョ・エミリアにしても、モンテッソーリにしても、そのほかの幼児の認知の発達をていねいに研究している方々にしても、さまざまな貴重な実践方法を提示しています。
そうした実践のひとつひとつに向き合ってみたら、どうだったのか。
上手くいかない場合、どのような工夫が必要だったのか。
自分の子らや虹色教室の子どもたちと過ごす中で発見したことを順に整理していきたい、と目論んでいます。
とはいえ、あれもこれもと盛り込もうとすると、読んでいる方々に混乱を与えてしまうでしょうから、
まず最初に、赤ちゃん期から青年期までの子どもに必要な働きかけと、発達研究の成果をバランスよく伝えてくれる
『よみがえれ思考力(ジェーン・ハーリー著)』で取り上げられている<就学前の子向けのガイドライン>をベースにして教室で発見したことについて書いていこうと思います。
ここから下の赤い文字で書いている部分は、『よみがえれ思考力』からの引用です。
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★六歳以前の子どもの仕事は、周りの世界を理解する方法を学習することであり、学習に関わる神経構造が関与しない意味のない教材を丸暗記させることではないことに気をつける。
★心的パターンは感覚連合のネットワークの上に作られる。
感覚的な世界のパターンに注意を向かせるように子どもたちに仕向ける。たとえば、「これはどんな味がする?」とか「それは何の形に似てる?」という問いかけをする。
★日常的な出来事の中で、子どもが関係や意味を理解できるように助けること。
たとえば、子どもがくどくど聞き続ける「なぜ」という質問は、出来事のつながりをつけたいニードの表現法の一つである。
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上の3つのことは、幼児との関わりでとても大切なことですが、親子関係でも園などの先生と子どもの間でも軽視されがちなことのように感じます。
幼児は、目で見ること、耳で聞くこと、手触りや匂い、味などに注意を向けて、言葉で大人と共感しあう中で、感覚的な世界のパターンに気づいていきます。
幼児の暮らしが、「とにかく何かをしなくては」「できるようにならなくては」とアウトプットをして周囲に評価されることを中心に回っていることはよくあります。
そんなふうに忙しくしていると、長い時間、何かを覗きこんでみたり、耳をすませたり、砂や粘土の感触と戯れたり、匂いを嗅いだり味わったりしながら、
大人とおしゃべりする時間は、どれも無意味で無駄な時間のようにしか感じられないかもしれません。
でも、それは大きな間違いのようです。
幼児の心的パターンは、感覚連合のネットワークの上に築かれるのですから。
以前、こんな記事を書いたことがあります。具体的な方法を知りたい方は、リンク先に飛んでくださいね。
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 1 <見る>
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 2 <見た後で>
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 3 <聞く>
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 4 <聞いた後で>
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 5<感じる>
子どもが関係や意味を理解できるようになるために、子どもの体験するさまざまな出来事をていねいに解説を添えたり、子どもが自分でやってみれるようにしたり、
子どもにもわかるレベルの間違った推理をして、「ちがうね~」と考えさせる機会を作るようにしています。
ちょっとした工作をするのも、役立ちます。
次のリンク先は、2歳6ヶ月の◆ちゃんのレッスンの様子です。
◆ちゃんの一つひとつの体験に、ゆったりていねいに付き合うことで、◆ちゃんはさまざまなことに疑問を持ち、周囲の物事を関連づけ、
論理的に考えていく力を発展させていきました。この春、年中さんになりますが、観察力、ゲームのルールや物語などの理解力、分析する力、言葉で表現する力、エネルギッシュに物を作り出す力など、どれもしっかりと育っています。
これは、春休みの算数クラブに来た新年長さんたちの工作風景です。
ゴムで飛ばす鉄砲のようなものや弓矢のようなものを作って得点ゲームを作っています。
ゴムが引っかからず、うまくいかないとき、「どうすればいいのかな?」と一緒に作品を眺めていたら、「そうだ、引っかけるところを作ればいいんだよ」と言いながら、ハサミで逆三角形の切り込みを入れていました。
また、お友だちの作品と同じものを作ろうとして、真似してストローを貼り付けたものの、実際、ゴムをかけてみると、ゴムがストローと鉄砲の間に食い込んで飛びませんでした。
「どうしてだろう?」と、うまくいかない部分を観察していると、「わかった、セロテープを真ん中らへんに貼ってるからだ。だから、ゴムが入っちゃうんだ」とうれしそうに言っていました。
「こうよ」と教えるのではなく、「どうすればいいかな?」「どうしてだろう?」と一緒に首をかしげながら、物をさまざまな視点から観察してみる体験は、見る力の質的な変化をうながします。
次回に続きます。