フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月2日(火) 曇り

2007-01-03 01:09:48 | Weblog
  午後、散歩に出る。今日は上野の国立西洋美術館が無料公開の日なので、行ってみることにする。電車の中で、宮台真司『絶望から出発しよう』(ウェイツ、2003年)を読む。電車の中は一級の読書空間である。そこでの読書(ただし座っての読書)は、移動のための時間を使っての読書であるため、時間の有効活用という意味でかなりの「お得感」があるのだ。

  「システムの「内」に対して「外」がある、近代の「内」に対して「外」がある、と考える単純な図式は、それ自身、システムの「内」が生み出すものです。いわばシステム自体が提供する「救済の神学」です。多くのポストモダニストはそのことをわかっていませんでした。
  ここではない別世界がどこかにあるという物言い、あるいはそれによる癒しの提供は、はっきり言えば、システムの無自覚な補完物に過ぎません。そういう癒しによってリフレッシュ、リセットしたあと、またリエントリー(再参入)して、「頑張るぞ」みたいになるわけです。
  そのような構造に対する無自覚、すなわち、オールタナティブ(もう一つの選択肢)に見えながら単なるコンペンセーション(補完物)にすぎない事物に対する無自覚がまずあり、それを前提として、補完物であるがゆえに存在を許されているにすぎない似非(えせ)オールタナティブによって「近代を越える」ことができるとする勘違いが展開することになりました。
  システム理論の立場から言えば、ポストモダンは「後期近代」だと考えるほかありません。その意味はこういうことです。未来に夢を抱く生き方は、近代の作法そのものです。ところがこの作法は、近代社会が育て上げてきたものであるにもかかわらず、一定の段階に達した後の近代社会と両立しがたくなるということです。
  したがって、ポストモダン=後期近代における、社会システム理論の課題は、両立不可能性のよって来たるゆえんを徹底分析した上で、社会システムと両立可能な多様なビジョンや生き方を模索することだ、ということになります。
  実は、『終わりなき日常を生きろ』とはそういう本なんですね。「まったり革命」の意味を、多くの人はわかってくれると思って書いたんです。ところが、僕が想定していたような素養が、いわゆる知識人を含めて、読者の方々にはなかったということです。」(12-13頁)

  彼は語り口で損をしてきたところがあるが(多くの人が彼の言わんとすることをわかってくれなかったのは、読書の素養のなさのためよりも、むしろそのせいだろう)、インタビュー形式で書かれた本書では、彼の言わんとすることが努めて平易に語られている。宮台真司は対談本でよむべし。
  国立西洋美術館は無料公開日だけあって、ふだんよりは混んでいるものの、入口に行列ができることはなく(妻と息子は、今日、渋谷のBUNKAMURAで開催中のエッシャー展に行ったのだが、大変な混雑で、窓口で入場券の販売制限をしていたという)、気に入った作品の前でずっと立ち止まっていることも、もう一度観たい作品のところに引き返すことも自由にできた。私は竹橋の国立近代美術館とこの国立西洋美術館の常設展が好きである。歴史の順路に従って名作を観て歩くことができるからである。一人一人の芸術家の自由奔放な活動の背後に大きな流れが存在していることがわかるからである。出口のロビーで、今日また届くであろう年賀状の返信用として、ポストカードを10枚購入。一枚一枚違う絵にしたが、年賀状への返信なので、風景画や静物画が多くなる。いくらいい絵ではあっても、宗教画や裸婦を描いた絵はやめておいた方がいいだろう。
  西洋美術館を出ると右手に動物園の入口が見える。ついでに入ってみることにする。動物園の魅力はそこに漂っている「悲しみ」にある。これはけっしてうがった見方なんかではない。子供の頃、遙か故郷を離れて、動物園の檻の中で暮らす動物たちを哀れと思わなかった人はいないはずだ。長じて後は、檻の外側から内側を見ていると思っている己自身も実は檻の中にいるのではないかと、近代人特有の再帰的思考を働かせて、暗澹たる思いに囚われることもあったはずである。子供として、そして子供の親として、さらには孫の祖父母として、人は人生のサイクルに応じて動物園を訪れ、「悲しみ」に出会うのである。

          
        白熊の悲しみ(なんでオレはこんなところにいるんだ)

          
   ゴリラの悲しみ(考えてもしかたのないことは考えないようにしている)

          
             ワシの悲しみ(キミにはわかるまい)

          
             虎の悲しみ(立ち止まったら終わりだ)

          
      ライオンの悲しみ(百獣の王? よそをあたってくれ。人違いだ)

          
      孔雀の悲しみ(かんべんしてくだい。羽根はボロボロなもんで)

          
          出口の悲しみ(日常という檻の入口でもある)

          
       場外篇1:ドラえもんの悲しみ(お客さん少なかったな)

          
      場外篇2:「カレーの市民」の悲しみ(今晩もカレーライスか…)