フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月15日(月) 晴れ

2007-01-16 02:26:05 | Weblog
  本当は今日から試験の採点に取りかかるはずだったのだが、いまひとつ気分が乗らず、明日以降に持ち越しとなる。答案、卒論、修論、これから2月の頭まで、ちょうど半月間、学生の書いた文章を来る日も来る日も読むことになる。ふつうの読書であれば、著者の論理展開についていけなかったり、文体に生理的に馴染めなければ、読むのをやめることができる。しかし、答案、卒論、修論の場合はそれができない。喩えるならば100メートルの潜水競技に挑む前の選手のような気分だ。途中で息が詰まって、水面に顔を出したい衝動に何度も駆られるであろう。それを我慢して、ぐっと我慢して、ひたすら、ただひたすら、読み続けることになる。気合を入れてとりかからねばならないが、まだその覚悟ができていない。
  午後、昼食をとりがてら、散歩に出る。なかなか店が決まらない。気持の迷いがこんなところにもあらわれるか。結局、シャノアールに入り、ミックスサンドイッチと珈琲の昼食となる。いま注文を受けている本の担当編集者からのメールを読み返し、本の構成についてあれこれ考える。学術論文であれば、自分の書きたいことを書きたいように書けばよいわけであるが、注文を受けて書く文章、つまり商品としての文章は、注文主の意向に耳を傾けないわけにはいかない。とはいっても注文住宅の設計士のように顧客の注文に全部応じるというわけにはいかない。住宅の場合は出来上がったものは顧客の住宅であるわけだが、文章の場合はあくまでも私の文章である。おのずと応じられる注文と無理な注文とがある。どこで境界線を引くか、それが問題だ。
  くまざわ書店で新書を4冊購入。速水健朗『タイアップの歌謡史』(洋泉社)、榎本博明『社会人のための「本当の自分」づくり』(講談社α新書)、島内晴美『団塊フリーター計画』(NHK出版)、赤木洋一『「アンアン」1970』(平凡社新書)。隣のレコードショップで、シベリウスとグリークのCDを3枚購入。昨日の夜、「N響アワー」でシベリウスの「フィンランディア」とグリーグの「ペールギュント第2組曲」を聴いたのだが、2人のほかの曲も聴いてみたくなったのである。LPレコードは私が学生の頃で3千円はしたと思うが(それは当時の物価を考えるとかなりの金額といわねばならない)、いまではクラシックの名盤CDが千円で購入できる。新書を購入するような気軽さでCDが購入できる。家に帰ってさっそくCDを聴いてみた。夕べ聴いたのと同じ曲に関しては「N響アワー」の演奏の方がよかったように感じる。これは路上ライブがよかったのでその場でCDを購入して自宅で聴いたらそれほどでもなかったという経験と似ているところがある。映像+音楽とたんに音楽だけの場合との効果の違いであろう。「N響アワー」で聴く音楽は指揮者や奏者の身体的パフォーマンスとワンセットになっている。しかもその映像はコンサートホールの客席から観るのとは違ったアングルから、指揮者や奏者の動作や表情をクローズアップして見せてくれる。CDでは音楽に感動するだけだが、テレビではそこに身体的=視覚的な感動が加味されるのである。それは音楽を鑑賞する上で余計なものだという意見もあるだろうが、私はそうは思わない。