午前、金沢の古本屋から注文しておいた清水幾太郎『社会的人間論』(創元文庫版)がメール便で届く。清水には94冊の著作(訳書や編書は除く)があり、いま「日本の古本屋」等を通じてそのすべてを収集しようとしているのだが、現時点で、64冊が集まった。では、あと残り30冊かというとそうではないのである。実は、94冊の著作の中には『社会的人間論』のように複数のバージョンが存在するものが少なくないのである。『社会的人間論』は昭和15年に河出書房の「学生文庫」という叢書(文庫版サイズではない)の1冊として出たのが最初で、清水礼子が編んだ「清水幾太郎著作目録」では、これに「B11」という番号(モーツァルトの作品におけるケッフェル番号みたいなもの)がついている。そして「B11」には「B11a」から「B11e」までの5冊の再刊バージョンが存在する。
B11a 五元書庫版(昭和23年)
B11b 目黒書店版(昭和26年)
B11c 創元社文庫版(昭和27年)
B11d 角川文庫版(昭和29年)
B11e 日本評論社版(昭和33年)
いま、私の手元にあるのは、「B11」「B11b」「B11c」「B11d」の4冊で、「B11a」と「B11e」は入手できていない。基本的に本論そのものは同じである。では、何が違うのかというと、著者の序文、付録の論文、第三者による「解説」、著者の写真、参考文献、漢字や仮名の表記法等が違うのである。これらは一般の読者であればどうでもいいことであるが、「清水幾太郎研究」という看板を世間に出して仕事をしている人間にはどうでもよくはないのである。たとえば、目黒書店版(B11b)の「まえがき」にはこんなことが書かれている。
「大小とりまぜて何十冊かになる自分の著書の中で、この『社会的人間論』は、最も懐かしいものの一つである。それが「人間叢書」の一冊として新しく刊行されるやうになつたのは、最近では一番嬉しいことである。
(中略)
私がこの本で取り扱つた問題、それを処理した方法は、何時の間にか、私の一部分のようになつた。実際は、幾度かこれを抜け出ようと努力したこともあるのだが、抜け出たと思う途端に、再びそこへ立ち戻つてしまふ。最近の『社会学講義』(昭和二十五年、岩波書店)でも、これを抜け出ようとして、余り成功してゐない。さう考へると、私の思想の原型は、この懐かしい『社会的人間論』のうちにあることになる。」
この記述は、清水の思索の軌跡を理解する上で、重要なヒントを提供してくれている(というのは誰にでもわかりますよね)。というわけで、「B11」だけあればいいというわけにはいかないのである。こう書くといかにもマニアックな感じを与えるかもしれないが、たとえば小説を文庫本で読むとき、巻末に付いている「解説」も読むと思う。あれってけっこう面白いし、作品を理解する上で役にも立つ。私はすでに単行本で読んでいる小説であっても、「解説」を読みたくて文庫版を購入することがあるのだが、清水の著作の再刊バージョンを収集するのもその感覚に近いものがある。そう説明すればわかっていただけるだろうか。やっぱりマニアックだろうか。というわけで、もしこれを読んでいる方で、『社会的人間論』の「B11a」や「B11e」をお持ちの方がいたら、しかるべき価格で譲っていただけないだろうか。最後は『何でも鑑定団』みたいになってしまった。
清水幾太郎の著作のコレクション
昼から、母と鶯谷の菩提寺に墓参りに行く。多くの墓石には花が手向けられていて、住職のお母様が言われるに、今年はいつになく元日の墓参りが多かったとのこと。これはたんに元日の天気がよかったせいではなく、うちもそうだが、去年、檀家で亡くなった方が多かったせいであろう。喪中故、初詣には行けないので、墓参りがその機能を代替しているのであろう。
蒲田に戻って、しかし私は自宅にはすぐに戻らず、有隣堂に寄って、出久根達郎『逢わばや見ばや(完結編)』(講談社)と柴田元幸編訳『紙の空から』(晶文社)を購入してから、カフェ・ド・クリエで持参した藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)を読む。昨日の新聞に載った広告に200万部突破と書いてあったので、これはもう無視できない社会現象と考え、2時間ほどかけて最後まで読む。元々が講演の記録だから文章は読みやすい。なるほどと肯いた箇所と、はたしてそうだろうかと首を傾げた箇所が、半々くらいだった。数学者らしい論理的な説明と武士道の唱道者らしい気合で書いているようなところが、混じり合っている。欧米化(合理化)の限界と危機を煽りつつ、日本の伝統への回帰を熱心に説いている。帯に「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本人論!」とあるが、昨今流行の「いまのままのあなたでいい」という現状肯定的セラピー的語りから一歩踏み出して(あるいは一歩退いて)、「かつてのあなたを思い出しなさい」と熱く語りかけているところがセールスポイントか。推測するに、参考文献などは上がっていないが、著者はきっと『戦後を疑う』などの清水幾太郎の70年代の著作の愛読者だったのではなかろうか。
B11a 五元書庫版(昭和23年)
B11b 目黒書店版(昭和26年)
B11c 創元社文庫版(昭和27年)
B11d 角川文庫版(昭和29年)
B11e 日本評論社版(昭和33年)
いま、私の手元にあるのは、「B11」「B11b」「B11c」「B11d」の4冊で、「B11a」と「B11e」は入手できていない。基本的に本論そのものは同じである。では、何が違うのかというと、著者の序文、付録の論文、第三者による「解説」、著者の写真、参考文献、漢字や仮名の表記法等が違うのである。これらは一般の読者であればどうでもいいことであるが、「清水幾太郎研究」という看板を世間に出して仕事をしている人間にはどうでもよくはないのである。たとえば、目黒書店版(B11b)の「まえがき」にはこんなことが書かれている。
「大小とりまぜて何十冊かになる自分の著書の中で、この『社会的人間論』は、最も懐かしいものの一つである。それが「人間叢書」の一冊として新しく刊行されるやうになつたのは、最近では一番嬉しいことである。
(中略)
私がこの本で取り扱つた問題、それを処理した方法は、何時の間にか、私の一部分のようになつた。実際は、幾度かこれを抜け出ようと努力したこともあるのだが、抜け出たと思う途端に、再びそこへ立ち戻つてしまふ。最近の『社会学講義』(昭和二十五年、岩波書店)でも、これを抜け出ようとして、余り成功してゐない。さう考へると、私の思想の原型は、この懐かしい『社会的人間論』のうちにあることになる。」
この記述は、清水の思索の軌跡を理解する上で、重要なヒントを提供してくれている(というのは誰にでもわかりますよね)。というわけで、「B11」だけあればいいというわけにはいかないのである。こう書くといかにもマニアックな感じを与えるかもしれないが、たとえば小説を文庫本で読むとき、巻末に付いている「解説」も読むと思う。あれってけっこう面白いし、作品を理解する上で役にも立つ。私はすでに単行本で読んでいる小説であっても、「解説」を読みたくて文庫版を購入することがあるのだが、清水の著作の再刊バージョンを収集するのもその感覚に近いものがある。そう説明すればわかっていただけるだろうか。やっぱりマニアックだろうか。というわけで、もしこれを読んでいる方で、『社会的人間論』の「B11a」や「B11e」をお持ちの方がいたら、しかるべき価格で譲っていただけないだろうか。最後は『何でも鑑定団』みたいになってしまった。
清水幾太郎の著作のコレクション
昼から、母と鶯谷の菩提寺に墓参りに行く。多くの墓石には花が手向けられていて、住職のお母様が言われるに、今年はいつになく元日の墓参りが多かったとのこと。これはたんに元日の天気がよかったせいではなく、うちもそうだが、去年、檀家で亡くなった方が多かったせいであろう。喪中故、初詣には行けないので、墓参りがその機能を代替しているのであろう。
蒲田に戻って、しかし私は自宅にはすぐに戻らず、有隣堂に寄って、出久根達郎『逢わばや見ばや(完結編)』(講談社)と柴田元幸編訳『紙の空から』(晶文社)を購入してから、カフェ・ド・クリエで持参した藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)を読む。昨日の新聞に載った広告に200万部突破と書いてあったので、これはもう無視できない社会現象と考え、2時間ほどかけて最後まで読む。元々が講演の記録だから文章は読みやすい。なるほどと肯いた箇所と、はたしてそうだろうかと首を傾げた箇所が、半々くらいだった。数学者らしい論理的な説明と武士道の唱道者らしい気合で書いているようなところが、混じり合っている。欧米化(合理化)の限界と危機を煽りつつ、日本の伝統への回帰を熱心に説いている。帯に「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本人論!」とあるが、昨今流行の「いまのままのあなたでいい」という現状肯定的セラピー的語りから一歩踏み出して(あるいは一歩退いて)、「かつてのあなたを思い出しなさい」と熱く語りかけているところがセールスポイントか。推測するに、参考文献などは上がっていないが、著者はきっと『戦後を疑う』などの清水幾太郎の70年代の著作の愛読者だったのではなかろうか。