フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月11日(木) 晴れ

2007-01-12 03:17:47 | Weblog
  今日は7限の授業(社会・人間系基礎演習4)のみ。昼過ぎまで自宅で3つの科目の教場試験の問題作り。それから大学へ。教員ロビーのコピー室で問題用紙を印刷していると、西洋古典学の宮城先生があたふたと入ってきて、教材の印刷をせかせかと始めた。どうもこれから始まる5限の授業の教材のようである。いや、もう始まっている時間じゃないのか。「いつもながらあわただしいね」と私が言うと、「そうなんだ。でも、言い訳じゃないけど、これ作るの時間がかかるんだ」と教材の原稿を私に見せた。ギリシャ語の文章がワープロで作成されている。なるほど、確かにこれは時間のかかる作業だ。だったらもっと早くから作業にとりかかるべきなのだ。それにしても、ギリシャ・ローマの賢人たちの思想を自家薬籠中のものにしている彼が、どうしてかくも落ち着きのない立ち居振る舞いをするのか、いつも不思議に思う。すると今度は長谷先生があたふたと入ってきて、教材の印刷をせかせかと始めた。その落ち着きのなさから判断して、すでに開始から15分を経過している5限の授業の教材であることは間違いない。上には上がいるものである。
  メルシーで早めの夕食(炒飯)をとり、フェニックスで珈琲を飲む。最近はシャノアールばかり利用していて、文学部から一番近い喫茶店であるフェニックスに来るのは久しぶりである。私が店に入ったとき、男の一人客と女の一人客がいたが、男の客はしばらくして出て行った。店内の人口密度が低い。マスターと客が2人。客は自らの存在感を希薄にすることが困難である。音楽(ジャズ)のセンスも悪くないし、中央の大きなテーブルに座ると本やノートをゆったりと広げることができるのだが、人口密度が低いとちょっと落ち着かない気分になる。そのうちに今度は女の客が出て行った。まずい、客が私一人になってしまった。これで私が出て行ったら客がいなくなってしまう。マスターの身になって考えると(大人というのはついつい他人の身になって考えてしまうのである)、いま私に出て行かれては困るだろう。新しい客が入ってきたとき、店内に先客が一人もいなかったら、気まずいだろう。ここは少なくとも新しい客が一人入ってくるまでは、私は席を立てなくなった。しかしなかなか客が入ってこない。ようやく女の一人客が入ってきたと思ったら、マスターに向かって「ただいま」と言った。マスターが「お帰り」と応えた。なんだ、この店の娘さんか。そのうちにだんだん7限の授業の時間が近づいてきた。申し訳ないが、もう出なくてはならない。珈琲代380円を支払い、私は店を出た。
  ボールペンの替え芯を購入するために生協文学部に寄ったら、晶文社のフェアー(20%引き)をやっていた。以下の3冊を購入。

  『ボブ・ディラン全詩302篇』
  G.オーウェル『戦争とラジオ BBC時代』
  足立紀尚『幸福な定年後』

  7限の基礎演習は「家族」班の発表。時間軸と空間軸をめいっぱい広げた発表(縄文時代から現代までの家族の変動、西洋諸国および韓国の家族と日本の家族との比較)だったが、いささか間口の広げすぎの観があった。もっと絞り込んで、その分、詳しくやった方がよい。発表後の質疑応答は今回も活発で、30分の延長。
  11時帰宅。メールのチェックをしてから、風呂を浴び、ビデオに録っておいた「拝啓、父上様」の初回を観る。さすがに倉本聰。登場人物ひとりひとりに厚味がある。早稲田の隣町の神楽坂がドラマの舞台なのも親近感がもてる。